第26話 聖人エルナ

 今からおよそ二十年前。


 とある霊園にて、一人の老女が祈りを捧げていた。


 彼女の目の前には、規則正しく並んだいくつもの墓標。それらへ敬意を払うように、衣服が汚れるのも厭わず、老女は食事も忘れるほど長く跪いていた。


 墓の下で眠るのは、この国の騎士たちだった。


 数ヶ月前。何の前触れもなく、魔族の侵略が始まった。彼らは侵攻を押し止めるために魔族と戦い、そして戦死していった者たちである。


 だが侵略は今も続いている。争いはまだ終わっていない。


 老女が顔を上げる。青く澄み渡った空へと昇っていく多くの魂を見送りながら、彼女は英雄たちのために、いつまでも祈り続けていた。






 それから二十年。老女は今も変わらず英雄たちに祈りを捧げていた。


 だが、跪くことはできなかった。老いにより膝を悪くしたのだ。移動式の椅子に身を預けながら、それでも彼女は祈ることをやめなかった。


 自身の寿命が残りわずかであることは、老女も理解している。


 願わくば、自分の生きている間に英雄たちが報われてほしい。そんな想いを込めながら、老女は空へ昇っていく魂へと目を向ける。


 ふと、老女の顔が曇った。


 英雄たちの魂に違和感を抱いたのだ。いや、この違和感が確信に変わったのは、ずいぶん前のこと。未だに続く異変の原因が分からず、老女は困惑していた。


「エルナ様」


 名を呼ばれ、老女は祈りをやめて、声のした方へと振り返る。


 少女騎士が二人、こちらへと歩いてきた。


「セブン。それにリーシャも」


 久しぶりに孫にでも会ったかのように、老女の表情が穏やかになった。


 側まで歩み寄ってきた二人は、目の前に広がる墓標に向けて短く黙祷をする。その後、セブンは訝しげな面持ちで老女に問いかけた。


「エルナ様。浮かない顔をしていましたが、どうかされましたか?」


「いえね。何となくだけど、魂の数が年々少なくなっているような気がするの」


「魂の数が?」


 セブンとリーシャが空を見上げるも、彼女たちの目には魂など映らない。


 しかし聖人である老女の瞳は、しっかりと捉えていた。


 墓に眠る遺体の数と、見送った魂の数が合わない。


 もちろん、遺体がこの霊園に運び込まれる前に昇天してしまう魂もある。老女が知る限り、遺体と魂の数が同数になったことは一度もない。


 ただ、聖人として長く勤めてきた老女は気づいていた。


 二十年前。魔族の侵攻が始まった辺りから、消失した魂の数が徐々に増えている、と。


 それが何を意味するのか、老女にも分からない。


 かといって調べることもできなければ、そもそも証明することも叶わない。


 魂を目視できる聖人は、それなりに存在する。しかし二十年前と比較することができ、なおかつ違和感を抱けるほど熱心に祈りを捧げていたのは、今では老女だけとなっていた。


 聖人ではない二人に話しても無駄だろうと判断した老女は、早々に話題を変えた。


「セブン。リーシャ。いよいよ魔王を討つための旅に出るのですね」


「はい。彼らが決死の覚悟で、魔王の元へ通じる道を切り開いてくれましたから」


 声を落としたセブンは、再び墓に向けて一礼した。


 侵攻から二十年も経っているため、魔族側も疲弊しているのか、ここ数年の侵略の頻度が格段に落ちていた。そこへ聖剣を扱える騎士が二人も現れたのだ。希望を得た人間側は最後のチャンスだと言わんばかりに、一気に反撃に転じたのである。


 セブンとリーシャの存在は、世界に平和をもたらすための最後の一手だった。


「志半ばで死した同胞たちのためにも、必ずや魔王を討ってください。頼みましたよ、騎士セブン。騎士リーシャ。私はここで、貴方たちの無事を祈っています」


「「はい!」」


 少女二人に未来を託した老女は、満足げに頷く。


 そしてセブンたちが魔王討伐の旅に出てから一ヶ月後、老女――聖人エルナは、老衰により静かに息を引き取った。






「『そのまま天へ還ることもできました。ですが私は、消失した魂の行方がどうしても気になってしまったのです。そのため本来死者が逝くべき流れに背き、魂のまま当てもなく彷徨っていたのですが……気づけば世界の境界を越え、アリスさんの魂と融和していました』」


 アリスの口から語られる真実を、全員が固唾を飲んで聞き入っていた。


 否。アリスの声だが、そこにアリスの意思はない。聖人エルナの思考が本の中に現れ、アリスがそれを読み上げているのだ。


 魔王とセブンを討ってから丸一日が経過した本日の《黄昏時》、彼女たちの拠点である河野古書店の座敷にて、アリスの朗読会が行われていた。


 参加者はいつものメンバーだ。


 葉月、ハジメ、ユノ、グレイシス、それに加え、セブンの代わりにスカルマークとなったリーシャである。各々が一番くつろげる姿勢で座る中、ユノだけは撮影のために自分のスマホを構えていた。


「『ここが別世界という以外、最初は何一つ状況が分かりませんでした。新しい肉体を得たわけでもなければ、生まれ変わったわけでもない。ただ、ひどく困惑するアリスさんの感情が伝わってきたことで、何となく察しはつきました。見知らぬ世界の、見知らぬ誰かの中に入ってしまったのだと』」


 当時を思い出しているのか、音読するアリスの声も震えているようだった。


「『運が良かったのは、融和している私の意思でも《解放》が行えたこと。それに発現したのが意思疎通を可能とする本だったことでしょう。私は、もし貴方が状況を把握できていないようなら、ひとまず物陰に身を隠してください。と、アリスさんに指示をしました』」


 幼いアリスが生き残れた要因だ。


 リーシャも言っていた通り、《逢魔》の姿を見る前に身を隠すという判断が下せるのは、知識と経験が段違いだからなんだろうな。と、葉月は思った。


「『それから毎日のように、アリスさんと情報交換をしながら《黄昏時》を過ごしました。そして地球のことを知っていくうちに、この世界が何なのか、おおよその見当がついたのです。もちろん、みなさんにとっては既知の事実だと思うので、詳しい話は割愛しますが……私の暮らしていた世界が病に侵されており、《黄昏時の世界》はそれを治そうとする魔王の手段だったことには衝撃を受けました』」


 魔王が口を滑らせなければ、永遠に判明しなかった事実だろう。


 いや、これもアリス、もといエルナの功績と言っても過言ではない。アリスが勇気を見せなければ、事実を伝えられる人間は全員死んでいたのだから。


「『そして《逢魔》の目から逃れ続けて三ヶ月が経過した頃、私たちは葉月さんと出会いました』」


 顔を上げたアリスと眼が合ったので、葉月は静かに頷いた。


 ここからは葉月も知っている通りである。だが、隠された事実があるはずだ。魂が視えるという聖人エルナならではの真実が。


「『葉月さんを見た瞬間、リーシャの魂が融和した女性であることはすぐに判りました。ただ知り合いに出会えたことは嬉しくありましたが、同時に悲しくもありました。このタイミングでこちら側の世界に来たということは、魔王に敗北したことに他なりませんから』」


 世界平和を託して送り出した騎士の敗北。元の世界との縁はすでに絶たれているとはいえ、エルナの落胆は大きかったに違いない。


「自分の素性を明かすつもりはなかったんですか?」


「『もちろん、すぐに声を掛けようとしました。ですが、おぞましい光景を目の当たりにして躊躇ってしまったのです。葉月さんの左目に寄生しているセブンの魂が、リーシャの魂を無理やり縛り付けている光景を』」


 自分が裏切ったことを他言されないために施した、セブンの呪いだ。


「『セブンの意図は何一つ理解できませんでした。リーシャを縛っていることはもちろん、自らをスカルマークと名乗り、何も覚えていないと嘘を付いていたことも。葉月さんの夢からしても、彼女たちが魔王と相打ちになったのは確実。決戦の後、二人の間に何か良くないことが起こったと疑った私は、しばらく様子を見ることにしたのですが……結局、今まで言い出すことができませんでした』」


 アリスにも自分の存在を完全秘匿させていた徹底ぶりは、よほどセブンのことを信用していなかったに違いない。


 だが、それも無理のないこと。エルナの口からおぞましい光景とまで言わせたセブンの行為は、それだけ彼女の目に異常事態として映っていたのだろうから。


 と、疑問を抱いたらしいハジメが唐突に声を上げた。


「ちょっと待った。魂で個人が特定できるって言うんなら、初対面の時から俺が魔王だって気づいてたのか?」


「『いえ。私は魔王を直に見たことはありませんし、必ずしも意思疎通ができるわけではありません。ただ獅子堂さんは、かつて見たことのないほど禍々しい魂を有していたので、個人的に警戒はしておりました』」


「お、おう……」


 禍々しいのは魔王の魂が融和してたからだよな? でも魔王に選ばれたんだから、元々自分の魂も似たようなものだったんだろうか? と心配になったハジメだったが、知るのは怖かったので、それ以上は追及しないでおいた。


「『それに加えて、グレイシス姫がこちらの世界に来てしまったことが気がかりでした。昨日はアリスさんにお願いをして、陰ながら見守っていたのです。まさか、あんなことになるとは思いもよりませんでしたが……』」


 最適解とはほど遠いエルナの機転。あの場にアリスがいなかったらと思うとゾッとする。


 少し空気が重くなったところで、今度は撮影係のユノが手を上げた。


「はいは~い、質問です! エルナさんは未来が視えるってわけじゃないんなら、どうしてアリスちゃんにスキルを覚えさせないようにしていたんですか?」


「『それは貴方がいたからですよ。ユノさん』」


「わ、私?」


「『どんな怪我でも一瞬で治せるという奇跡。もしかしたらスキルとは自然の法則を捻じ曲げるほどの力を持ち、我が世界でも未だ成し得ていない禁忌をも実現できるのではないかと考えたのです』」


「それが死者蘇生だったんですか?」


「『はい。元よりアリスさんを戦わせるつもりはなかったので、別のスキルを開花させないことは簡単でした。ただ死者を蘇生させると一言で言っても、練習らしい練習はできません。それこそ、目の前で誰かが亡くなったりしない限りは。そのため昨日はぶっつけ本番のようなものでした』」


「…………」


 昨日はいくつもの幸運が重なったからこそ生き延びれたのだと改めて実感し、この場にいる誰もが身を引き締めた。


「『そうそう。生き返る手段があるからといって、安易に死んではいけません。肉体を失った魂がどのように動くのかは、私ですら予測ができないのです。早々に天へと昇ってしまう場合もあれば、認知できないほど遠くへ行ってしまう可能性もあります。もちろん《黄昏時》以外で亡くなった場合も、蘇生はまず不可能だと思ってください』」


「分かりました」


 ハジメとユノがセブンに敗れていたり、魔王を討った後に葉月が息を吹き返さなければ危なかったというわけだ。あの時はスキルが開花したばかりだったので、アリスも能力が及ぶ範囲を把握できていなかったのだろう。


「『私が語れることは、これくらいでしょう。申し訳ありませんが、《黄昏時の世界》については何一つ知識がありません。それはリーシャもですよね?』」


 話を振られ、スカルマークがダミ声で答えた。


『はい。私とセブンは魔王と戦っただけ。病を移す装置とやらは見ていません』


「『そうですか。消えた魔王の遺体も気になりますし……』」


 実は《黄昏時》を迎えてすぐ、昨日戦闘があった場所へと足を運んでいたのだ。


 しかしドラゴンの頭部と魔王の死体は発見できず。それはつまりドラゴンの《魔核》は砕かれ、魔王の死体もあの場から移動したということになる。その理由は不明だ。


「『ひとまず元凶である魔王は倒しました。ですが、まだ《黄昏時の世界》の停止という大きな課題が残っています。グレイシス姫を元の世界へ帰すためにも、我々は情報提供を惜しみません。解決までの道のりは長いかと思いますが、力を合わせてがんばりましょう』」


「ありがとうございます、エルナさん。みんな、今日のところは外出は無しにして、日没を迎えたら、いの一番に河野さんへ報告しましょう」


「はい!」


 元気に返事をしたユノが撮影を止めた。


 死闘を終えて命からがら河野古書店へ帰還した昨日の夜も、一連の出来事をできるだけ詳細に報告した。もちろん河野は信じてくれたが、他の《黄昏ヒーローズ》と共有するには根拠が乏しいらしく、こうやってエルナに正体を明かしてもらったのである。


 ただ結局のところアリスが本を見て喋っているだけなので、信じてもらえるかは難しいところではあるが。


 日没まで残り数十分。戦闘も行わないため、すでに解散の空気が漂い始める。


 そんな緩んだ雰囲気を、ハジメの冷たい声が刺した。


「なあ。一ついいか?」


 鋭い目つきで睨まれ、アリスは「ひっ」と短く悲鳴を上げた。


 あわや殺されかけた魔王と同じ顔なので、彼女が怯えるのも無理もない。だがそんなことはお構いなしにと、ハジメは続けた。


「グレイシスを元の世界に帰すってのは俺も賛成だ。けど、《黄昏時の世界》を停止させるってのはどうなんだ? あんたたちが暮らしていた世界を滅亡に追いやるような行為だぞ。協力するってのも、本当に信じていいのか?」


 自分の世界を救いたいハジメにとっては大切なことだ。


 いくら協力を惜しまないと言ったところで、エルナもリーシャも所詮は別世界の人間。地球か自分たちの世界か選べと言われたら、後者を取るのが当然だろう。その可能性が残っている限り、手放しでは信用できない。


 少し間があった後、アリスは慌てて紙面上に目を走らせた。


「『獅子堂さんが疑念を抱くのは理解できます。しかし我々はすでに死した人間。たとえ祖国の存続が危ぶまれようとも、今を生きる人たちの意見に口を挟むつもりはありません』」


『右に同じ』


「『とはいえ獅子堂さんの信頼を勝ち取るための材料が無いのも、また事実。そこで一つ提案です。我々は、何においてもグレイシス姫を優先することにします。彼女がどのような選択をしようとも、我々はそれを尊重します。たとえ貴方がたと意見を違えようとも』」


「…………」


 妥当な判断だな。と、ハジメは思った。


 エルナやリーシャとは違い、グレイシスは生きている人間だ。そのグレイシスにすべてを託すと言うのであれば、彼女たちを信じる信じないの問題ではなくなる。二人がグレイシスを慕い身を案じているのは、誰が見ても明らかだろうし。


 納得するやいなや、ハジメの視線が今度はグレイシスへと向いた。


 急に矛先を向けられ、アリスと同じように怯むグレイシス。が、それも一瞬のこと。すぐに姿勢を正したグレイシスは、毅然とした態度で答えた。


「私の考えは昨日と変わりません。自分の世界を救いたいからといって、他の世界を犠牲にするなんて絶対に間違っています。病に関しては、《黄昏時の世界》を止めて、元の状態に戻してから、自分たちの世界の中だけで解決するべきだと思っています」


 嘘偽りのないグレイシスの言葉。


 ただ端々から漏れ聞こえる震えからしても、彼女が無理をしているのは明白だ。アリスよりかは年上といえど、まだまだ子供の域を出ない。三つ四つも年上の男から詰め寄られては、尻込みしてしまうのも当然というもの。


 しかしハジメは知っていた。グレイシスの芯は、思ったよりも強いことを。


「そういや昨日、セブンと魔王の前でめっちゃ啖呵を切ってたもんな。俺もちゃんと聞いてたし、信用するよ、その言葉」


 ハジメの表情が緩む。


 大方の方針が決まったところで、本日の《黄昏時》は終わりを迎えた。

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