第1話 変異した日常

 なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ!


 困惑が最骨頂に達した獅子堂ハジメは、無人の街中を全速力で逃走していた。

 今日も今日とて例外なく、いつも通りの平凡な一日だった……はず。


 それが一瞬で変わってしまったのは、午後五時五十分ごろ。部活動を終え、疲労を蓄えた身体をこさえながら、友人たちと帰宅するため校門を通過した、その瞬間だ。


 周囲の人間が、瞬く間に消えてしまったのだ。


 最初は何かの悪戯かと思った。どこかに隠れた友人たちが、機を見計らって驚かしてくるのだろうと。もしくは知らず知らずのうちにはぐれてしまったか。


 だが、そんなレベルでないことは友人たちを捜していた数分で気づいた。

 音が……何も聞こえない。

 人の話し声も、生活音も、車の走る音も、すべて。


 耳に入るのは、六月特有の湿った風が触れる音のみ。まるで某秘密道具で全人類を消し去ってしまったかのように、人の気配という気配がこの世から無くなってしまっていた。


 訳が分からず困惑するも、ハジメはひとまず無人の住宅街を散策してみることにした。


 そこで気づいたことが二つある。


 一つは人間だけでなく、犬や猫などの小動物も見かけなかったこと。それどころか、虫の音すらも聞かなかった。


 もう一つは、ほぼすべての民家が成長しすぎた植物に侵食されていたこと。


 ハジメも健全な男子高校生。現代日本のサブカルチャーにはけっこう詳しい。植物が建物を覆いつくしている様は、人類が滅亡した後の世界を題材とするゲームなどでよく見る光景そのものだった。


 まさか……本当に某スイッチを押してしまったとか?

 いや、相当な時間が経過してるところを見るに、未来へタイムワープしたとか?

 もしかして異世界転移かも!?


 だが最後の可能性だけは否定した。生き物がいないことと民家が廃墟になっていること以外は異変が起こる前とまったく同じであり、通学路を歩いているうちに普通に自宅へと到着してしまったのだ。どう考えても異世界という感じではない。


 自宅もまた例に漏れず荒廃しており、夕時には必ず在宅している母親もいなかった。


 じゃあ何なのだ? 誰もいないこの世界は、いったい何だというのだ?

 秘密道具の影響? 突然のタイムワープ!? いや、これらも異世界転移と同じくらい荒唐無稽な話ではあるが。


 戸惑い半分、好奇心半分で荷物を降ろしたハジメは、こうなった原因を探るべく、制服のまま外へと飛び出した。


 行けども行けども誰もいない。何も聞こえない。あるのは生暖かいそよ風のみ。

 およそ一時間ほど歩いたところで、彼はついに街の方へと散策の足を延ばした。

 閑静な住宅街と比べ、雑居ビルが立ち並ぶオフィス街は廃れ具合が顕著だった。


 植物の浸食は薄いものの、多くのビルは今にも倒壊しそうなほど崩れかけている。また片側三車線の国道は所々地割れが発生し、普通に進むのにも苦労しそうなくらいの高低差すら生まれていた。


 当然のことながら、車は一台も走っていない。それどころかそこら中に廃車が放置されており、そのほとんどが自動車という形を成していなかった。重機で圧し潰されたようにひしゃげていたり、何か巨大な刃物で切られたかのように車体が分断されているのだ。


 一通り街の様子を見回したハジメは、ようやく危機感を覚える。


 人間がいなくなっただけで、果たしてここまで荒廃するものなのか? これではまるで、巨大な怪物が我が物顔で暴れた痕のような……。


「なんだよ。いったい、どうなってるんだよ……」


 茜色に染まる大通りの真ん中で突っ立ったまま、ハジメは途方に暮れていた。

 と、その時である。異変が起きてから初めて風以外の音を耳が拾った。

 足音だ。そう思い、即座に振り返る。

 数十メートル後方で人らしき影が三つ、横一列になって佇んでいた。


「人……?」


 疑問符が付いてしまったのは、一見して断定できなかったからだ。


 二足で直立している姿は、間違いなく人類に分類される生物だろう。だが身なりがおかしかった。


 日本ではあまりお目にかかれない民族衣装を身に纏い、額からは顔を覆いつくすような大きな札が垂れ下がっている。わずかに見える頬や耳は、化粧なのか地肌なのか、病的なほどに真っ白だった。


 ハジメの知識の中では、ゾンビ、またはキョンシーが該当する風体である。


 そして何より異様なのが、三体が三体とも同じ格好であり、ハジメが舐めるように観察を始めてからすでに十秒は経過しているのに、完全な直立不動を保っているところだった。


 だからこそ、奴らの些細な動きには即座に視線が移る。

 指先も見えないゆったりとした袖から、草刈り鎌のような刃物が覗いた。


「――ッ!?」


 頭の中の警鐘が真っ赤に鳴り響く。声を掛けるという選択肢は、その時点ですでに失っていた。


 いや、そもそも奴らに言葉が通じるのか? 人の言葉を話すのか?

 ……本当に人なのか?

 生き残りたいという本能に従い、ハジメは無意識のうちに一歩引いていた。

 刹那――キョンシーの一体が、一気に間合いを詰める。


「えっ?」


 人間として普通の域を出ない速度。しかし上下運動を一切しない走り方に驚き、距離感を見誤る。気づけば、キョンシーはすでにハジメの目の前にいた。


「くっ」


 自分と相手の間に壁を作るように、反射的に腕を前に出す。


 それは正しい判断だったのか。それとも悪手だったのか。この時点で正確に判断できる者はいなかった。


 キョンシーが鎌を薙ぎ払うのとともに、ハジメの右手首が飛んだ。


「なっ……」


 切断面から飛び散る鮮血が、糸を引くように綺麗な弧を描く。


 自分の手首が宙を舞う光景を眺めながらも、ハジメはいつの間にかキョンシーたちから距離を取るように駆け出していた。


「なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ!」


 切断された右手首が熱を持つ。夢なんかじゃない。痛みは本物だ。

 今すぐにでも蹲りたい衝動を抑え、ハジメは一心不乱に逃走する。


 脳が溶けてしまいそうな激痛が奔るも、足は止められない。だってここで立ち止まったら、間違いなく……死ぬ。


 振り返らずとも分かる。三体のキョンシーは追ってきている。


 部活による日ごろの鍛錬のおかげか、キョンシーたちの足音は狭まりも離れもしない。だが当然のことながら、いつまでもこのスピードを保っていられるわけではない。全速力の短距離走なんて、もって二百メートルが限度。それ以上は体力が尽きて追い付かれるだろう。


 それでも必死で逃げる。見えないゴールテープを切った後に、一縷の望みを掛けながら。

 だが幸運にも、二百メートルも走る必要はなかった。

 ハジメの背後で甲高い断末魔が上がった。


「キィィィィイイイイイイィィ!!!」

「――ッ!?」


 驚き、走りながらも振り返ってしまう。


 背後では、ゴスロリ衣装を纏った少女がキョンシーを日本刀で斬り刻むという、異様で異常な光景が繰り広げられていた。


「なんだっつーんだよ!?」


 涙混じりに叫ぶ。あんな珍妙な恰好をしている奴が味方なわけない。キョンシーを殺しつくしたら、次の狙いがこちらに向くに決まっている。


 しかし奴らが争っている今がチャンスだ。

 ハジメは最後の力を振り絞り、幅の狭い路地へと駆け込んだ。


 壁に背を預け、荒れる息を必死で整えようとする。それと同時に頭の中を過るのは、ほぼ走馬灯のような状況整理だった。


 いつものように学校から帰宅しようとしたら、人が消え街が様変わりしていた。

 原因を探ろうと散策していたら、キョンシーみたいな変な奴に襲われた。

 逃げたら逃げたで、謎のゴスロリ少女がキョンシーたちを日本刀で屠っていた。

 まったくもって意味が分からない。微塵も理解できない。


 それなりに異世界転移もののラノベやアニメに詳しいハジメですらも、自分にも特殊な能力があるんじゃないかという考えは浮かばなかった。だって現実と似た世界だし、今のところそういう予兆もなければチートを与えてくれる神様とも出会っていない。


 何より、斬り落とされた右手が小便をちびりそうなほど痛かった。


「痛いいいいいいいいぃぃぃぃ!!!」


 思い出してしまった。あまりの激痛に額から滝のような汗が浮かび、その場に尻もちをついてしまう。体験したことのない激痛は、ハジメの全身から力という力を奪っていた。


 とその時、蹲っているハジメの上に影が載る。

 茜色に染まる路地の入口で、人が立っていた。


「ひいぃ!」


 尻もちをついたまま後ずさる。すると距離を詰めるように人影が路地へと踏み入ってきた。


 夕日が届かない位置に立ち入ることで、ようやく少女の容貌を見て取れた。


 遠目からでも把握できたように、フリル増し増しなゴスロリ衣装。左目にはドクロの刺繍が施された眼帯。手には抜き身の日本刀。アクセントの強いアイテムを好き勝手詰め込んだだけなのか、衣装のコンセプトに一切の統一性が無かった。


 ただ……どこか違和感があった。

 いや違和感だらけなのだが、根本的にどこかズレている。


 そう。ゴスロリなんて趣味以外では絶対に着用しそうにない衣装にもかかわらず、彼女自身は役を演じようとしている気配が皆無なのだ。


 髪は日本人特有の真っ黒なストレート。ハジメと同い年くらいの顔には、まったく化粧っ気がない。まるで日本人形にビスクドールのドレスを着せたくらいに、ちぐはぐなのだ。


 そして顔は飾っていないからこそ、ハジメは既視感を覚える。

 この顔、どこかで……。


「あっ」


 不意に、記憶にあるクラスメイトの顔が頭を過った。

 特に、その眼帯のせいで。


「お前……竜宮葉月、か?」

「げっ」


 名前を口にした途端、少女は苦々しげな表情を浮かべた。


「その制服からまさかとは思ったけど……知り合いだったのね」


 すでに手遅れだが、少女は自分の顔を隠すように頭を抱えた。

 そして今一度、途方に暮れているハジメの身体を観察する。


「《逢魔》に遭遇しても《解放リリース》しない。傷を負っても止血すらしないってことは、完全な《新参者》ね」

「へ? へ?」

「私が近くにいて運が良かったわね。日没まで逃げ切れたとは思えないから、あのままだったら命を落としてたわよ。とはいっても、どのみち早く治療しないと時間切れか」


 腕時計を確認しながら独り言ちた少女が、刀とは反対の手に持っていたハジメの右手を放り投げた。咄嗟に腹でキャッチして「ひぃ!」と情けない声を上げている間にも、彼女はポケットからスマホを取り出してどこかへ連絡を始める。


「ユノ? 怪我人を見つけたから、こっちに来てくれる? 場所は……麺吉っちゃんってラーメン屋の向かい側。分かる?」

『えっ……先輩、怪我したんですか!?』

「いや、私じゃなくて……」

『今すぐ飛んで向かいますです!』


 どうやら一方的に切られてしまったようだ。


 通話を終えた少女は、眉尻を下げながら真っ暗になった画面を見つめる。そして深くため息を吐いた後、ハジメの前へと屈んだ。


 わざとらしくハジメと視線を合わせないようにしたまま。


「ま、いいわ。あの子なら日没までには間に合うでしょう。それより先に応急処置だけでもしておくから、さっさと右手出して」

「え、あ、はい」


 言われるがまま、切断された右手と手首を彼女の前に出す。


 刀を置いた少女が切断面を両手で包む。すると突然、傷口が白い光で覆われ始めた。やがて自動的に血肉や骨が繋がり、痛みが和らいでいく。

 奇跡を目の当たりにしたハジメは、驚きを隠せずにはいられなかった。


「まさか……魔法!?」

「私はあまり治療魔法が得意じゃないから、腕の組織を繋いで固定するだけよ。ユノが来れば完璧に治るから」


 微妙にズレた解答。その言い方はまるで、魔法が使えること自体はさも当然であると言っているようだった。


 失礼とは思いつつも、ハジメは治療中の少女の顔をまじまじと見てしまう。


「やっぱり竜宮葉月だよな? いったい、何が起こってるんだ? 何で誰もいないんだ? あの化け物どもは何なんだよ。お前が倒したのか? なあ、頼むから答えてくれよ」

「…………」


 思いもよらないクラスメイトに遭遇し、ハジメの口から今までの疑問が一気に漏れる。


 だがゴスロリ少女は答えない。治療に専念したいのか、それともただ単に会話したくないだけなのか、治療魔法を施す手元に視線を落としたまま。


 無言を貫く少女に少なからず腹が立ち、ハジメは奥歯を噛みしめる。


 ひとまず今は待つのみだ。この治療が終わってから質問攻めしてやろう。さて、何から訊くべきか……。


 などと心の中で尋問の計画を立てていた、その時だった。

 耳を劈くダミ声が路地の中に轟いた。


『葉月! 《逢魔》の気配だ!』

「――ッ!?」


 それは最初からそこにいたのか、それとも気配を殺して近づいてきたのか。

 いつの間にか、ハジメの背後で一体のキョンシーが鎌を振り上げていた。


「まさか四体目!? どいて!」


 瞬時に治療を止めた少女が、刀を拾ってハジメの頭越しに睨む。


 どけと言われても、咄嗟に動けるはずもなかった。治療されるため完全に地べたへと腰を下ろしていたのだし、緊急事態を察して反射的に振り向いてしまっていたのだから。


 キョンシーの凶撃がすでにハジメの頭上に迫っている。身の危険を自分の目で確認し、避けるという判断を下すには圧倒的に遅かった。


「くっ」


 葉月が携えている長物では、この狭い路地では自由に振るうことができない。

 突くか、縦に割るか。


 とはいえ迷っていられる暇はない。ゴスロリ少女はハジメを守るべく、無我夢中で刀を振るったのだが……突破口は思わぬところからやって来た。


 路地の真上から、分厚い鉄の板が降ってきたのだ。


 落下地点はキョンシーの頭上。座ったまま振り返るハジメの目と鼻の先。今まさに彼の首を刎ねようとしていたキョンシーは、何十トンもありそうな衝撃の下敷きになってしまった。


「は?」「へ?」


 そして呆気に取られた二人が次に目にしたのは、青と白の縞々パンツだった。


 キョンシーを圧し潰した鉄板の上には、なんと人間が乗っていたのである。しかもそんじょそこらのアイドルも顔負けの美少女だった。


 まさにアイドルがステージで歌って踊りそうなキャッチーな衣装。飾り気は少ないものの、色は明るく、ゴスロリ少女とは対照的なコントラストを演出している。さらに生足が伸びるスカートは膝上十数センチと短く、少し前屈みになっただけでも中身が見えそうだった。というか、座り込んでいるハジメには常に見えている状態だった。


 キョンシーを圧し潰した鉄の板をステージと勘違いしたアイドルは、ぶりっ子じみた決めポーズを披露した。


「葉月せぇんぱ~い! あなたの忠実なる後輩、三日月ユノ! ここに参上致しました!」


 場違いなテンションに、二人はただただ唖然とするほかなかった。


 先に我に返ったのは、アイドルの知り合いらしきゴスロリ少女の方である。彼女は助けてもらったことに対してお礼を言うでもなく、声を張り上げて叱りつけた。


「バカッ! 日没五分前は無茶しちゃいけないって言われてるでしょ!」

「大丈夫ですよぉ。ちゃんと時間は確認してますからぁ」

「これだって、どこまで正確か分からないじゃない!」


 ゴスロリ少女は自分の腕時計を一瞥した。

 咎められてもどこ吹く風のアイドル少女は、飄々と話題を変える。


「それで先輩、怪我なさってるんですよね? 早く治しますぅ」

「だから私じゃないってば。怪我してるのはコイツ」


 いつの間にかコイツ呼ばわりになり、しかも煩わしそうな顔で指をさされてしまった。


 ただ二つの意味で頭越しに会話されているためか、非常に気まずい思いをしているハジメからは特に反論は無かった。決してアイドル少女のパンツを意識して居たたまれなくなっているわけではない。


「はえ~、そうだったんですか。見ない顔ですね。《新参者》ですか?」

「そうみたいよ」


 言葉を交わしながらも、アイドル少女は自分が乗っていた板からぴょんと飛び降りる。


 そして驚くべきことに、彼女はなんと数百キロはあろうかという鉄の板を軽々と持ち上げたのだ。いや、全貌を目の当たりにして初めて気づいたのだが、それは単なる板ではなかった。


 一見すると盾のようである。


 成人男性一人くらいなら丸々覆ってしまうほど巨大な盾を、彼女はまるで傘のようにハジメの頭上へと展開させた。


「うっわ~。右手、ばっさりと逝っちゃってたみたいですね。痛そぉ~」


 ありきたりな感想を述べて顔を顰めたアイドル少女が、何やら呪文を唱え始めた。


 どうして彼女にこれほどの怪力があるのか、また影も形も無くなってしまったキョンシーの死体はどこに行ったのかなど疑問に思っているうちにも、ハジメの全身が柔らかな感触に包まれる。先ほどゴスロリ少女から治療を施された時と似たような感覚だが、それよりもさらに強力な力が伝わってくるのが分かった。


 気づけば、さっきまで分断されていたのが夢だったかのように右手がくっついていた。


「嘘だろ……?」


 血も痛みも消え、呆気に取られるハジメ。当然、自分の意思で自由に動く。

 それを見ていたゴスロリ少女が、安堵のため息を漏らした。


「どうやら間に合ったようね」

『おう! 良かったなぁ、坊主!』

「えっ?」


 どこからともなく聞こえてきたダミ声にビクッと背中を震わせたハジメは、慌てて周囲を見回した。しかし声の主らしき姿は見当たらない。


「い、今の声は?」

「気にしなくてもいいわ。ただの雑音だと思って」

『おいおい、ひっでーな! 相棒を雑音扱いかよ』

「もう説明する時間もないでしょ? それに彼の理解度もキャパオーバーになっちゃうから、あなたの紹介はまた後日にするわ」

『そういやそうか。もうすぐ日没だもんな。んじゃ、またな』

「ええ、また明日」


 見えない誰かとの会話はちゃんと成立しているらしい。だがすでに別れの時間なのか、彼と彼女は短い挨拶を交わしてお喋りを終えた。


 そしてそれが合図だったかのように、世界が一瞬にして変化した。


 まず辺りが急に暗くなった。ただ、これは太陽が完全に沈んだからだと推測できる。ゴスロリ少女たちも日没の時間を気にしていたようだし。


 次に、彼女たちの獲物が消失していた。具体的に言えば、盾と刀だ。あれほど巨大な盾を収納するスペースなど、この場にないはずなのに。


 またゴスロリ少女自身にも一つ。ドクロの刺繍が施されていた眼帯が、眼科で施術されるような普通の白い物へと変わっていたのだ。いったい、いつの間に取り替えたのだろう。


 そして何より大きな変化といえば、音が蘇ったことだ。


 路地の外の大通りでは何台もの自動車が通過していき、通行人の足音や話し声も届いてくる。さらに上空では旅客機が通過していった。


 変化というよりは帰還だ。やっと元の世界に戻ってきたのだと、ハジメは確信する。

 しかし未だ気を緩めることはできなかった。


 自分を挟むようにして立っているゴスロリ少女とアイドル少女は、変わらずそこに佇んでいるのだから。


 彼女たちが何かアクションを起こさないか身構えていると、ゴスロリ少女が肩を落とした。


「はぁ……。結局、今日もこの衣装のまま帰らないといけないのね」

「えー、いいじゃないですかぁ。その恰好の先輩、チョーキュートですしぃ」

「あのね、私はあなたと違って羞恥心ってものがあるの。知らない人にじろじろ見られるのは普通に恥ずかしいのよ」

「先輩、言い方ひっどーい」


 ぶー垂れながらも、アイドル少女は人をおちょくるような笑みを浮かべていた。

 とそこで、ようやくゴスロリ少女の視線がハジメへと向く。


「ともあれ、獅子堂君」

「あ、あれ? 俺の名前……」

「知ってるに決まってるでしょ? クラスメイトなんだから」


 やっぱりそうだよな。と、小さな疑問が一つだけ解消したハジメは安堵の息を吐いた。


「いろいろ訊きたいことはあるでしょうけど、場所を変えてちゃんと話すわ。その前に……」


 ゴスロリ少女――竜宮葉月が、ハジメの方へと手を差し伸べる。


「《黄昏時の世界》へようこそ。これからあなたを迎えるのは……ただの地獄よ」


 喜びも歓迎もない。ハジメを見つめる葉月の目は、ただただ彼を憐れんでいるよう。

 地獄とは何なのか。何故そんな哀しい目をするのか。


 現状を理解するにはあまりにも情報が足らず、ハジメは呆けてしまう。だがひとまず立ち上がるため、彼は葉月の手を強く握りしめたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る