件の件(くだんのけん)
五天ルーシー
件の件(くだんのけん)
あれは数年前の六月下旬のことだった。私は週に三・四回、早朝ランニングをしている。しかし、梅雨時ともなると、朝から雨が降っていることも多く、その習慣も不規則なものとなっていた。
その日、カーテンを開けると、
水分とプロテインを
私の住んでいる町は、いわゆる都心のベッドタウンで、まだまだ自然が残っている。その中でも我が家の周辺は古い集落で、田畑や竹林を
近くには自動車道が通っていて、そこに並行してサイクリングロードが
だが、そこに
早朝にこの道で会うと言えば、近所の畑作業に向かう人、犬の散歩をする人、ウォーキングをする人などで、顔を合わせればお互い元気に挨拶をするという、健全な出会いしかない。しかもだいたいが顔見知りだ。
「お父さん、元気にしとるかね?」と気さくに声をかけてくる白髪の男性や、小さな犬を三匹も連れて、通りすがる人に吠えかかる犬たちをなだめ、「すみません、すみません・・・」と言いながら走り去る若い奥さんなどには、
しかし、その朝は違っていた。雨が止んで間もないからだろう、誰とも遭遇せずに竹やぶの細道まで来た。この竹やぶの道は、距離にすれば百メートルほどだろうか、春ともなれば、タケノコを不法に掘る人と、竹やぶの所有者との間で、仁義なき攻防が繰り広げられるのだが、今は夏、竹は青々と生い茂り、うっそうとした道に暗い影を落としていた。
ちょうどこの頃、竹は落葉の季節を迎える。新しい葉を茂らすのと同時に、古い葉を振り散らすのだ。
その時、足もとに気を取られていた私は、ギクリとした。前方から四つ足で坂を上って来るものに気が付いたのだ。きらりと光る二つの目、横に垂れた長い耳。
(えっ?!野良犬?でかい・・・)
この辺りで野良犬とは、ついぞ聞いたことがないが、もし飼いならされていない犬ならば、身の危険もあり得る。だが、ここで逆方向に逃げ出しでもしたら、ヤツは追いかけて来るだろう。私は本能的に立ち止まって
けれども、近付いてきたソレは私の予想したものではなかった。
彼女は、そう、犬だと思った
「お、おはようございます・・・」
私は、動揺しながらも、いつもの儀礼に
振り返る勇気もなく、走りながら私は考えた。
(あれはそう、先日テレビでやっていた、某国で流行っているという四つ足健康法だ。朝日に向かって笑いヨガをしている人や、発声練習をしながらウォーキングをしている女性だっていたじゃないか。うん、きっとそうだ)
一時間ほどのランを終え、自宅に帰ってきた頃にはすっかり平常心を取り戻していた。その後は、家族や友人に、四つ足健康法をやってる人見たよー、と話せるくらいには、あの日感じた得体の知れない恐怖のことも忘れてしまっていた。
ある晩、私は缶ビールを片手に一人、部屋で健康番組を見ていた。テーマは「腰痛」だった。今や国民病と言われるだけあって、私も軽い腰痛持ちであった。ランニングを始めたのも、腰痛改善を期待してのことだった。そこである医師が、いくつかのストレッチを紹介した後に、「四つん這いで歩くといい」と
私はあの朝のことを思い出した。そして確信した。やはり彼女は健康のために、ああして歩いていたのだ、と。心に小さく引っかかっていたことが解決し、気分もよくなった私は、アルコールも手伝ってか、自分も四つん這いで歩いてみようという気になった。
広くもない部屋で、床に手を付き前に進んでみる。最初はもたついたが、慣れてくるとなかなか面白い。自分が獣や昆虫にでもなった気分だ。
しかし、
あの女性はどうだったろうか。私など目に入らぬかのように前だけを見ていたが、少なくとも、体力のある若い盛りではなかった。そして、足元はどうだったか。降り積もった落ち葉は水と泥を含み滑りやすく、何より女性が
そう思い返して、私は再び言いようのない寒気に襲われた。アルコールが回り始めていた頭も、一気に血の気が下がる。では、彼女は、いや、私があの日見たモノは一体何だったのか・・・。
急に外の暗闇が恐ろしく感じられた。私は少しテレビの音量を大きくし、その晩は明かりを灯したまま就寝した。
しばらくたって、SNSで「
なるほど、私が見たモノは、頭は確かに女性であったが、体が牛だったかと問われれば、答えは否だ。手には
あれから随分、時も経ち、わたしの記憶もかなり
「件」が現れるのは、予言をするためなのだと物の本には書かれていた。しかし、今の
ただ、今でも時折考える。あの時、もしも逆方向に逃げていたら、もし挨拶をしなかったら、もし振り返っていたら、どうなっていたのだろう、と。
今も、私の周りは変わらず平和で穏やかだ。しかし、そんな何ということもない日常の隣に、「非日常」は
そんな「非日常」に、このさき出会わないことを祈るばかりだ。
件の件(くだんのけん) 五天ルーシー @lucy3mai
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