件の件(くだんのけん)

五天ルーシー

件の件(くだんのけん)

 あれは数年前の六月下旬のことだった。私は週に三・四回、早朝ランニングをしている。しかし、梅雨時ともなると、朝から雨が降っていることも多く、その習慣も不規則なものとなっていた。


 その日、カーテンを開けると、夜中よじゅう降っていた雨は上がり、眩しい朝日がのぞいていた。気温も高すぎず、風もさわやかで、絶好のランニング日和びよりだと思われた。


 水分とプロテインをり、Tシャツにスパッツとシューズを履く。軽く準備運動をして、玄関を気持ちも軽やかに飛び出した。


 私の住んでいる町は、いわゆる都心のベッドタウンで、まだまだ自然が残っている。その中でも我が家の周辺は古い集落で、田畑や竹林をあましているような家も多かった。


 近くには自動車道が通っていて、そこに並行してサイクリングロードがもうけられている。適度な起伏と、真っ直ぐな道、そして自動車が来ないという安心感があり、ランニングコースには最適だ。


 だが、そこにいたるまでには、田園地帯と少し薄暗い竹やぶの間を通らなければならない。数十年前、少年たちの非行が問題になった頃は、こういった暗い茂みでは、不良少年がシンナー遊びをしていただのという噂があったそうだが、今となっては年寄りの昔語りとなっている。


 早朝にこの道で会うと言えば、近所の畑作業に向かう人、犬の散歩をする人、ウォーキングをする人などで、顔を合わせればお互い元気に挨拶をするという、健全な出会いしかない。しかもだいたいが顔見知りだ。


 「お父さん、元気にしとるかね?」と気さくに声をかけてくる白髪の男性や、小さな犬を三匹も連れて、通りすがる人に吠えかかる犬たちをなだめ、「すみません、すみません・・・」と言いながら走り去る若い奥さんなどには、頻繁ひんぱんに行き会う。


 しかし、その朝は違っていた。雨が止んで間もないからだろう、誰とも遭遇せずに竹やぶの細道まで来た。この竹やぶの道は、距離にすれば百メートルほどだろうか、春ともなれば、タケノコを不法に掘る人と、竹やぶの所有者との間で、仁義なき攻防が繰り広げられるのだが、今は夏、竹は青々と生い茂り、うっそうとした道に暗い影を落としていた。


 ちょうどこの頃、竹は落葉の季節を迎える。新しい葉を茂らすのと同時に、古い葉を振り散らすのだ。黄土色おうどいろの葉が、おざなりに舗装ほそうされた道の上に敷き詰められており、雨に濡れて深い森のような匂いを放っていた。緩やかなカーブを描く細い道を、すべらないように気を付けながら下っていく。


 その時、足もとに気を取られていた私は、ギクリとした。前方から四つ足で坂を上って来るものに気が付いたのだ。きらりと光る二つの目、横に垂れた長い耳。

(えっ?!野良犬?でかい・・・)

この辺りで野良犬とは、ついぞ聞いたことがないが、もし飼いならされていない犬ならば、身の危険もあり得る。だが、ここで逆方向に逃げ出しでもしたら、ヤツは追いかけて来るだろう。私は本能的に立ち止まって身構みがまえた。


 けれども、近付いてきたソレは私の予想したものではなかった。


 彼女は、そう、犬だと思ったつんいは、女性だったのだ。年の頃は六十前後、長い耳と見えたのは切り揃えたおかっぱ頭、光る目は丸いメガネで、ピンクの服を着ている。頭には同じ色の帽子を被り、一心不乱に前だけを向いて歩いているのだ。まさに「のっしのっし」という形容が相応しい歩き方だった。


 「お、おはようございます・・・」

私は、動揺しながらも、いつもの儀礼にのっとり、朝の挨拶をした。彼女は応えてはくれなかったが、そんなことは全く気にならなかった。なぜだか私は、背中がゾワゾワとするような恐怖を感じていたのだ。


 振り返る勇気もなく、走りながら私は考えた。

(あれはそう、先日テレビでやっていた、某国で流行っているという四つ足健康法だ。朝日に向かって笑いヨガをしている人や、発声練習をしながらウォーキングをしている女性だっていたじゃないか。うん、きっとそうだ)


 一時間ほどのランを終え、自宅に帰ってきた頃にはすっかり平常心を取り戻していた。その後は、家族や友人に、四つ足健康法をやってる人見たよー、と話せるくらいには、あの日感じた得体の知れない恐怖のことも忘れてしまっていた。


 ある晩、私は缶ビールを片手に一人、部屋で健康番組を見ていた。テーマは「腰痛」だった。今や国民病と言われるだけあって、私も軽い腰痛持ちであった。ランニングを始めたのも、腰痛改善を期待してのことだった。そこである医師が、いくつかのストレッチを紹介した後に、「四つん這いで歩くといい」と提唱ていしょうしていた。


 私はあの朝のことを思い出した。そして確信した。やはり彼女は健康のために、ああして歩いていたのだ、と。心に小さく引っかかっていたことが解決し、気分もよくなった私は、アルコールも手伝ってか、自分も四つん這いで歩いてみようという気になった。


 広くもない部屋で、床に手を付き前に進んでみる。最初はもたついたが、慣れてくるとなかなか面白い。自分が獣や昆虫にでもなった気分だ。


 しかし、壁際かべぎわまで来て方向転換をしようと顔を上げた時、私は気が付いてしまった。人間は、おそらく構造的に、まっすぐ顔を前に向けたままでは、四つ足で長いこと歩けない。歩けたとしても、首や肩にかかる負担は相当なものだろう。


 あの女性はどうだったろうか。私など目に入らぬかのように前だけを見ていたが、少なくとも、体力のある若い盛りではなかった。そして、足元はどうだったか。降り積もった落ち葉は水と泥を含み滑りやすく、何より女性が素手すでで触ろうと思える状態だっただろうか・・・。


 そう思い返して、私は再び言いようのない寒気に襲われた。アルコールが回り始めていた頭も、一気に血の気が下がる。では、彼女は、いや、私があの日見たモノは一体何だったのか・・・。


 急に外の暗闇が恐ろしく感じられた。私は少しテレビの音量を大きくし、その晩は明かりを灯したまま就寝した。


 しばらくたって、SNSで「くだん」という妖怪の目撃情報が話題になっていると友人が教えてくれた。体が牛で顔が女性という妖怪で、世の中の情勢が不安になると出現するそうだ。あなたが見たのはもしかしてこれじゃないの?と彼女は冗談交じりにスマホを差し出した。


 なるほど、私が見たモノは、頭は確かに女性であったが、体が牛だったかと問われれば、答えは否だ。手には五指ごしがあったように見えたし、そもそも衣服を身に着けていた。頭にはつのもなかった。


 あれから随分、時も経ち、わたしの記憶もかなり曖昧あいまいとなってきた。今でも時々あの細い道を通ることがあるが、行き交うのは相変わらず見知った顔だ。もっともあれ以来、雨上がりの朝は、なんとなく足が遠のいてはいるのだが。


 「件」が現れるのは、予言をするためなのだと物の本には書かれていた。しかし、今の世情せじょうは何かとかしましく、多くの人が災害や戦争で苦しんでいる。アレが「件」だったとして、どの不運のきざしとして現れたのだろうか。


 ただ、今でも時折考える。あの時、もしも逆方向に逃げていたら、もし挨拶をしなかったら、もし振り返っていたら、どうなっていたのだろう、と。


 今も、私の周りは変わらず平和で穏やかだ。しかし、そんな何ということもない日常の隣に、「非日常」はひそんでいるのかもしれない。私たちの心のすきをついて、ひょこりと顔を出すのだ。昔の人はそんな「非日常」を「怪異」と呼んだのだろうか。もしかして一つでも選択を違えてしまったら、この日常が「怪異」に飲み込まれてしまうのではないか。本当はそうやって平穏な暮らしを失ってしまった人がいるのではないか。

 

 そんな「非日常」に、このさき出会わないことを祈るばかりだ。

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件の件(くだんのけん) 五天ルーシー @lucy3mai

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