全編

明かりを待つ (一括全編バージョン)

灯りを待つ


空を見上げると、桜の花びらがあたかも白き雪のように、幻想的に舞い降りて来る。

大作は毎日のように木の下で大の字になったまま、小説の構想を練っていた。しかし、全くイメージがわかない大作をあざ笑うように、花びらは大作の顔に降り積もっていく。閉じた目を開くと、淡い薄紅色の桜の花びらではなくて白い紙が僕の大作を覆いかぶさっていった。すると、同時に優しくて柔らかい女性の声が少しずつ足音をたてながら聞こえてきた。

「すみません、私の書類がそちらに飛んでいったのですが見当たりませんか。」

大作はとっさに紙を取るとそれは書類であった。

「君の書類はいたずらなのかな、僕の顔を覆っていたみたいだよ。」

大作は立ち上がり、書類に目を通した。どうやら書類には数字が羅列してあり、その下に署名がしてあった。山下すみれと書いてある。

「この書類かな。」

「はい、申し訳ありません。」

「山下すみれと署名してあるけど君がすみれさんかな。」

「はい、そうです、ごめんなさい急いでいますので返してください。」

大作は書類を返すとすみれは北の方向へ急いで走っていった。大作の目には薄紅色の桜の花びらと異なり白く透き通る肌のすみれの恥ずかしそうな表情が残像となって、大作の脳裏から離れなかった。恥ずかしかったが、大作はこっそり彼女の後を小走りで気づかれないように走って追いかけた。すみれのことが気になって仕方がなかったからだ。しばらくすると二階建ての古い木造の大きな建物が見えてきた。すみれが建物の玄関ドアを開けると一人の男性が現れた。

「申し訳ありません、書類の完成が遅くなりまして。」

「構わないよ、君はきれいだから許してあげるよ。」

一見強面の男性の表情が優しくなった急に優しくなった、どうやらここは銀行のようだった。男性は書類の細かい確認作業を行い確認が終えると、古い木造の建物の中へ帰っていった。そして、すみれは振り返り大作に気づき声をかけた。

「先ほどの方ではありませんか。」

「ごめんね、こっそり君の後をつけてしまって。」

「僕は北村大作と言います、今から職場へ帰るところですか。」

大作はとても恥ずかしい想いで話しかけた。本当はこっそり彼女の姿をみたかったのだけだったのだが、このような展開になるとは思ってもいなかったのだ。

「すみません、急いで銀行に帰らないと班長から叱られてしまいますのでここで失礼します。」

すみれは申し訳なさそうに足早に帰って行った。それからだった。大作はすみれのことで恥ずかしながら頭がいっぱいになったのだった。時は大正という時代が終わりを告げ昭和の時代に入ったばかりだった。大作はすみれの姿を見たい気持ちでいっぱいだった。翌日も相変わらず桜の木の下で横になっていた。でも小説の構想どころではなく、すみれの走る後姿ばかりが思い浮かんでしまう。桜は相変わらず、大作の顔に積もっていくばかりであった。それは、翌日のことである。大作は小説のイメージがわかず、イライラしていると背後から女性の声が聞こえたのだ。それは聞き覚えのある間違いなくすみれの声だった。すみれの声が僕を優しくしてくれたのだ。

「昨日は申し訳ありません、今日も木の下にいらっしゃるのですね。」

「確かすみれさんだったね、今日はどうしたの。」

「昨日はろくにお礼も言わず銀行に行って慌てて帰って来たものですから、もしかしてここにいらっしゃらないかと思いまして来たところです。」

「大作さんはここでいつも何をされていらっしゃるのですか。」

「僕は将来、小説家になりたくてここで小説の構想を練っていました。」

「ところで、構想はできたのでしょうか。」

「いえ、昨日は途中までできていたのですが、突然思い浮かばなくなったのですよ。」

「どうしてでしょうか。」

大作は恥ずかしさのあまり会話を彼女の話に切り替えたのだ。

「えっと、すみれさんはどこかの銀行で働いているのですか。」

「沢村銀行です。今、ちょうどお昼時間だったものですからここに寄ることができました。」

「銀行の仕事は忙しいのですか。」

「僕は毎朝、新聞配達をしているだけで、配達が終わると何もすることがないのです。」

それに対してすみれは少し早口でまくし立てるように大作に話したのだった。

「はい、とても忙しいです。」

「でも、小説を書くということは国語力があるということですね。」

「羨ましいです。」

「私は仕事での文章を書くのが苦手で良く班長から叱られています。」

「大作さんをとても尊敬できます。」

「そんなことはないですよ。」

「僕の家は母と二人きりで、生活が苦しくて大学に進学もできないのです。」

「私も実は母と二人での生活なのです。」

「母は体が弱くて私の仕事の収入だけで生活しています。」

大作は幼少の頃から人見知りで友達も少なかった。二十歳になるまでろくに女性とも話をしたこともなかったので、これ以上に彼女に話しかけることは困難であった。彼女もそうなのだろうか、急に黙り込み銀行へ帰っていった。桜の花が散るのと同じように、僕の心も社交性という言葉があるならばそれが散っていくように思えた。大作には上手く話せない自分に腹立たしさを感じたのだ。自己嫌悪とはこのように思いながら、このような自分の性格を変えたいという想いにかられた。恋愛もしたこともないのに、恋愛小説を書こうとしている自分が嫌になったのだったからだ。しかし、それも春になって野原の花達が咲き始めるのと同様なことが訪れようとしているとは、この時は思わなかったのだ。

翌日も相変わらず木の下で構想を練っていた。やはり、イメージがわかない。それよりも、すみれがまた訪れるのを期待していたからかもしれなかった。しかし、それは僕にとって杞憂であった。優しい春の風が訪れたのだった。

「大作さん、今日も小説ですか。」

すみれの優しい笑顔が僕を包んでくれた。

「そうだよ。」

大作はそう答えるのが精一杯だった。

「大作さんはどのような小説を書こうとされているのですか。」

恋愛小説を書いていると答えるはずだったけれども、自信も経験すらない僕は推理小説を書いていると答えてしまったのだ。しかし、彼女は僕の消極的な心を見透かしたように積極的に話しかけてきた。困ったことに小説の内容まで聞いてきたので、僕はしどろもどろに答えるのが精一杯だった。動揺する僕に対して彼女は優しく微笑んでくれた。大作は恥ずかしい気持ちでいっぱいだったが、すみれのそばにいるとまるで子供の頃に帰れたような気がしたのだ。春の音は静かに訪れた。


(サブストーリー)*メインストーリーと関連しています。

カタカタカタ・・・・室内に冷たいキーボードの音が沢村WBG銀行に響き渡たり、室内から男性の声が冷たく届いた。

「清美さん、例の書類はできたかね。」

「支店長、申し訳ありません、もうしばらくかかりそうです。」

「早く処理してもらわないと融資先の企業から苦情があるじゃないか。」

「申し訳ありません。」

清美は懸命にキーボードを打つも気持ちは焦るばかりだった。しかし、想う心は清美を待つ子供達の笑顔だった。清美は障害者施設のボランティア活動を行っていた。清美は子供が好きだった。子供とふれあうと、まるで本当の自分が見えてくるように思えたからだ。銀行から電車で一駅通り越すと清美が活動している施設があった。そこには咲き始めの美しい蕾達が清美を待っていた。

「清美お姉ちゃん、今日は遅いね。」

小学生の低学年と思われる少年がぽつりと呟いた。

「きっと仕事で忙しいから、今日のボランティアはお休みだと思うよ。」

そのように園長が答えると、少年は園長に元気な声で話しかけた。

「園長先生、僕の薬指が今日は少し動いたような気がするんだ。」

「そう、雄太君、それはきっと清美さんも喜んでくれますよ。」

「うん。」

少年の目は輝きに満ちていた。園長は白髪交じりの髪に白いあご髭をたくわており、複雑な表情で雄太に話しかけた。一方で銀行の窓からは町のネオンが静かに輝き始めており、清美の前の机の先の男性の瞳も優しく輝き始めながら話しかけた。清美には直哉という恋人がいたのだ。

「清美さん、支店長も帰社したし、後の書類は僕に任せてよ。」

「それは申し訳ないです、直哉さんも仕事で疲れているでしょ。」

「いや、僕はまだまだ頑張れる。」

「それに、清美さんを待っている子供達がいるじゃないか。」

「いいのですか。」

「ああ、早く行ってあげて。」

辺りには優しさの風がゆらいでいた。

「ありがとうございます。」

施設には温かい灯りの灯が光を少しずつ放ちつつあった。清美が施設に到着すると、一人の少年が清美に声をかけた。

「わあ、清美お姉ちゃん、おかえり。」

「僕ね、今日は右手の薬指が少し動いたような気がするんだ」

「本当、すごわね、良かったね、雄太君。」

「うん、お姉ちゃんは仕事で疲れているから、もうアパートでゆっくりして。」

「いいのよ、雄太君、もう少しお話しようか。」

「うん。」

小さな幸せの中にも実は不安があったのだった。



桜の花が大作の心の動きをあらわすようにゆらゆらと舞い降りていた。

「今日もすみれさんが来るかな。」

大作は一人呟くも小説の構想といえば相変わらず、全く無かったのだ。そして、すみれの優しい笑顔しか脳裏には映らなかった。そこに、大作が心待ちにしていたすみれが突然に現れた。優しい笑顔となびく黒い髪とともに。大作は嬉しくてたまらなかった。

「大作さん、今日も木の下ですか?そうじゃないかと思って、お弁当を二つ作ってきました。聞いてください、今日は班長から、すみれ君はソロバンを打つのが遅いと怒られて、私はどうしてこんなに能力がないのかなと落ち込んでいます。」

すみれの癖なのだろうか。やや早口でまくし立てるように大作に訴えたのだった。

「それは僕も同じだよ。小説家になりたいけど、全然イメージがわかなくてね。落ちて来る桜の花を見ているだけだよ。それより、すみれさんが作って来てくれたお弁当を一緒に食べていいのかな?」

「もちろんです。でも、朝と夜の料理は毎日母が作ってくれて、お昼のお弁当はいつも私がつくるので、忙しかったり貧しかったりで、梅干しが乗っているばかりなのです。」

「でも、今日は久しぶりに、おむすびを作って来ました。なかなかきれいな三角形の形にならなくて……しかも塩加減もよくわからず、大作さんが美味しいと思っていただけるかとても不安です。」

そう言うと小さなお弁当箱を二つ風呂敷から取り出した。すみれは恥ずかしくも、とても幸せな気持ちでいっぱいだった。

「大丈夫だよ、僕なんかさ、家に帰って白ご飯にたくあんの漬物しか食べていないから、おむすびなんて久しぶりに食べるよ。」

大作は表情を輝かせてそう答えた。なにしろ、初めて女性からお弁当というものを作って貰えたので、嬉しくてたまらなかったのだった。作って貰えるだけでも十分に幸せだった。

「本当ですか、作ってきてよかったです、一緒に食べましょう。」

「そうしよう。」

「すみれさん、美味しいよ、これは卵焼きかな。」

「はい、卵が二個しかなかったので多くは作ることができませんでした。」

「すごいなあ、卵焼きなんて久しぶりに食べるような気がする、早速、食べてみるね。」

「はい」

大作は母親と二人での貧しい生活を送っていた。それはすみれも同じことであったのだ。特にすみれは亡くなった父親の借金などの返済があるなど、母親とともに苦しい生活を送っていた。二人は貧しくも精一杯に生きていたのだった。

「お味はどうですか、しょっぱくないですか。」

「ううん、美味しい、こんなに美味しい料理を食べたのは初めてのような気がするよ。」

「気がするのですか?」

「いや、ごめん、初めてだよ。」

「ふふふ」

「また、明日もここで待っていていいかな?」

「はい、私も明日が楽しみです。」

ここにも小さな灯りがあったのだった。

清美が銀行に出勤すると支店長は清美に優しく話しかけたのだった。

「清美さん、この間の書類を融資先の会社に届けてくれただろう。実はね、あそこの社長からお礼を言われたのだよ。私もびっくりしてね、提出が遅いのに不思議だったからね。なぜだと思う?」

普段、厳しい支店長も今日ばかりは上機嫌のようだった。

「いえ、私にはわかりません。」

不思議そうに清美が答えると、支店長はさらに話しかけた。

「社長が君のことを気にいったみたいでね。君は優しいし可愛らしいからね、社長も笑いながら言っていたよ。誤字、脱字などがあるけど、書類に添付していた遅くなっていた理由などのお詫び状が可愛らしいってさ。あそこの、会社は勢いがあるから、今後も君が対応してくれたまえ。」

「はい、わかりました。どうも、社長も精神的に疲れているみたいだよ。君の優しい言動が良かったではないかな。」

「ありがとうございます。」

「お礼を言うのは私の方だよ。」

「あの会社とは良好な関係でいたいからね。」

数日前から取り組んでいた事務処理が終わり、清美も蓄積された疲れが吹き飛んでいったようだった。支店長とのやり取りを聞いていた直哉は清美に優しく話しかけた。

「よかったね、清美さん。」

「ありがとうございます、直哉さん。」

「清美さん、今日の夕食を共にしないかな?でも、ボランティアが大事だね。」

「いえ、たまにはお休みをして直哉さんと食事に行きたいです。それに、相談したいことがあって。」

「それは何かな。」

思いつめた清美の表情に直哉はいてもたってもいられなかった。直哉は清美より二つ上であり、清美と同期の新入銀行行員だった。遠い北海道の大学を卒業して東京で単身生活をしており、清美も東京で生まれ育ったが直哉と同様にアパートで単身生活していた。直哉が連れて行った小さなレストランに到着し、ボックス席に相対してすわると、直哉は清美の瞳に僅かな雫が浮いているのを直哉はすぐさまに気づいた。直哉はいてもたってもいられなかったのだ。

「清美さん、どうしたの。」

「いえ、やっぱり直哉さんとの久しぶりの食事ですから楽しい話をしましょう。」

「いいのだよ、僕に何でも話して欲しい、清美さんに少しでもいいから力になりたいな。」

清美はうっすらと涙が頬を伝いながら話しかけた。

「実は雄太君が……」

「雄太君がどうしたの、清美さん。」

雄太は生まれつき右腕に障がいがあり特に手首から先に麻痺が残っていた。先月に手術をしたばかりのことだった。

「手術が成功しなかったみたいなの。」

「そんな・・・」

「でも、雄太君は指が動いたような気がしたと先日、私に話して。その時は良かったねと言ったけれど、今後、なんと声をかけてあげればいいかわからなくて……」

「もう、雄太君の指は動かないのかな。」

「もう一度手術をするかもしれないとお母様がおっしゃっていました。でも、雄太君は動けるようになると信じていて。」

「ご両親は雄太君には手術が失敗したという説明はなかったのかな?」

「それが、辛くて言い出せないみたいで……」

「そうだよね、言えないよね。」

「ごめんなさい、せっかくの食事なのに暗い話になってしまって。」

「こちらこそ、ごめんね、何と言えばいいかわからないな。」

「そうですよね。」

直哉はなんとかその場の雰囲気を変えようと話しかけてきた。

「奇跡は起きるよ。いや奇跡ではなく明るい現実が訪れるから気を落とさないで。」

優しく声をかけた。清美は辛かったが奇跡を信じるばかりだった。


春の音は確かに聞こえたのだが大作には不安の音も聞こえていた。

「今日も来なかった。昨日も来なかった。一昨日も来なかった。僕は木の下で待ち続けているけれど、どうしてすみれさんは来なくなったのだろうか?僕が一人前に働いていないから愛想をつくしたのかな?」

そう、呟いていたところにすみれの明るい声が響いた。

「大作さん、お久しぶりです。昨日まで銀行の書類を大阪まで届けにいっていました。初めて、出張というものを経験してきました。銀行から急な命令で大作さんに告げることができませんでした。でも、不思議なのです。大阪まで遠いのに一番年少の私が班長から突然命令を受けてびっくりしました。」

大作はすみれが来なくなったので不安に思っていただけに声をかけられた途端に表情が明るくなった。

「これは、ちょっとしたお土産と思ってください。」

すみれは荷物入れの中から着物を着た可愛らしい人形を取り出した。人形の大きさは20㎝くらいで花柄模様の入った着物を着ていた。衣装は花嫁衣裳である。もしかしたら、すみれは自分が大作と結婚したいという願いが込められていたのかもしれなかった。

「着物の花がとてもきれいで買ってきました。ぜんまいを巻くと歩く仕掛けになっているのですが、汽車の中で壊れたのか前に進まなくなったのです。それがとても残念なのですけどよろしければ受け取ってもらえませんか。」

すみれは少し悲しげな表情を浮かべたが、きれいな花柄の着物を来た花嫁人形は大作の心を捉えて仕方がなかった。

「本当に僕が貰ってもいいのかな、本当にきれいな花柄だね。」

「そうでしょう、喜んでいただいて嬉しいです。」

「僕もうれしいよ、でも何よりすみれさんが僕の目の前にいることが一番かな。ありがとう、すみれさん。この人形はすみれさんだと思って大事にするよ。」

「本当ですか?そう言っていただいて下さってうれしいです。」

「実はもう、すみれさんは僕のことが嫌いになったのかなと思っていたから、余計に嬉しいよ。」

「大作さんはおつき合いされていらっしゃる女性の人はいらっしゃるのですか。」

「もし、いたら、すみれさんとこうやって話すことはないだろう。この花嫁人形はすみれさんだと思って大事にするよ。すみれさんこそ、おつき合いされている男性はいるのですか。」

「大作さんも意地悪ですね。」

大作は恥ずかしさのあまり言葉に出すことができなかった。それを察したのかすみれは大作の手を優しく握りしめた。大作はすみれの優しい手のひらを強く握りしめることができずに、何もいう事もなく家路へと向かったのだった。そこには繊細に舞い降りた桜の花びらが芝生の生えた地面を優しく覆っていた。



施設は特に手足の不自由である障がい児が多く新設されて1年ほど経過しており、男女別の棟に分かれて、広く清潔感に溢れていた。両親が働いて介護が困難であったり、なかには両親がいないために入所しているケースが多かった。それぞれの児童の家庭には色々な事情があったのだ。しかし、子供達は親と離れてさびしい想いをしていてもおかしくはないが、明るい声が施設の中に常にこだましていたのだった。

清美は毎日といってもいいくらい、明るく元気にボランティアに参加していた。銀行の仕事が終わって疲れているにもかかわらず頑張っていた。ボランティアの内容は介護のお手伝いや子供達の遊び相手になることが主だった。それが子供達の心を捉えていたのだった。清美にとって子供達の笑顔はまるで自分の小さな幸せを象徴するようなものであった。はたから見れば慈善事業にしか見えなかったかもしれないが、清美の生きがいであり笑顔の原動力だったのであろう。施設は白い壁であったが清美の優しい色で染まっていたのかもしれない。施設に到着すると、早速、子供達が清美に甘えてきたのだった。

「清美お姉ちゃん、風船を膨らませてちょうだい。」

「いいわよ。」

そう清美は答えると、目が風船と共に開いていった。ピンク色の風船はどんどん大きくなっていったが、清美は破裂するのが怖くて途中で止めた。

「和美ちゃん、これでいい。」

「わあ、大きい、風船投げっこしよう。」

その後、周囲の子供達が集まりみんなで投げっこが始まった。風船は右に飛んだり左に飛んだり、後ろに飛んだりした。そこには笑顔が舞い、楽しそうな声が施設内に響いた。キャキャと喜ぶ子供達に対して清美は一抹の不安を感じ始めた。

風船が破裂するだけでなく、今ある幸せも破裂しそうに思えたのだ。清美にとってはどうかこのままの幸せが続くことができるよう願うばかりだった。

「あ、清美姉ちゃん、風船が飛んでいった。」

外の強風により風船は北の方角へ飛んで行き、一人の少年が追いかけていったが消えていった。



すみれと大作の季節は幸せな秋を迎えた

「大作さん、ここから1キロくらい行ったら山があって、そこのコスモスがきれいだそうです。今度、一緒に行きませんか?私は今まで大作さんにお弁当らしいお弁当を作ったことがなかったので、一度、お重に入れて作って食べたいと思いまして……」

すみれは明るい表情を浮かべながら話しかけた。この頃から、大作はすみれに対する恥ずかしさも薄らいで親しくなっていた。

「そんなことはないよ。お弁当は時々作ってくれるじゃない。」

そう、大作が言うも確かにすみれが言うように、お弁当というには寂しいものだった。それだけ、二人の生活は苦しかったのである。

「いいね、行こうか。すみれさんの本格的なお弁当も食べたいな。」

「もちろん、作ってきますよ。でも、私は料理が下手ですがよろしいですか。」

大作は嬉しくて、嬉しくてたまらなかった。すみれは、この時のために豪華なお弁当を作ろうと以前から計画していた。そのために一生懸命にお金を貯めていたのだった。

「とっておきのものを準備しますから、それまで何も食べずに我慢していてください。」

すみれはおどけて、そう大作に伝えた。二人の笑い声が澄み渡る透明な秋空に響き渡っていた。

時は訪れ、すみれと大作は山を登り始めた。山道の脇には美しいコスモスが並び爽やかな秋風がすみれの黒髪をなびかせていた。美しい野草も多くあり、二人はひとつ、ひとつ見ながら、楽しく話をして登っていった。すみれは登り疲れたのか、途中から、よいしょ、よいしょ、と言い始めて登っていた。

「すみれさん、大丈夫ですか。よければ、僕がおんぶしますよ。」

「いえ、いいです、恥ずかしいです。」

そう、すみれは言ったが大作はすみれをおんぶした。しかし、10メートルも歩くと途中で降ろしたのだ。大作はあまり体力がなかったのである。

「私が重たかったのではないですか。」

「ああ、重かったよ。」

大作はそう意地悪そうな表情で答えると

「もう、失礼です。」

すみれはそう言いながらも楽しそうな笑顔を浮かべていたのだった。

「大作さん、コスモスも薄紅色から白い色までいろいろあるのですね。」

「そうだね、すみれさんはどっちの色の花が好きかな。」

「そうですね、どちらも好きです。可哀そうだけど持って帰って銀行の机に飾ろうかな。」

「それはいいね、すみれさんは花が好きなのだね。僕が貰った花嫁人形の着物の花もきれいだしね。」

「私は花がこの世界で二番目に好きです。」

「一番目は何なの。」

「もう、そんなことを言ったらお弁当は食べさせてあげませんよ。」

「さあて、なんだろうな。」

「大作さんの意地悪。」

さらに大作の意地悪な風が吹いたのだった。

「すみれさんの今日のおむすびはちゃんと三角形になっているのかな。」

「もう、本当に食べさせてあげません。」

すみれは少し不器用で、たまにうまく三角形になっていない時もあったのだ。他愛ものない優しく瑞々しい会話が続き、周囲には笑い声が響き渡った。そして、頂上近辺の野原に着いたのだった。お弁当はすみれの頑張りが光っていた。そして、色とりどりの見るからに美味しそうな食材がお重に三段に分かれて入っていた。すみれの作ったお弁当を美味しそうに食べる大作とすみれであった。お結びはきれいな三角形だった。幸せだった。幸せ過ぎたのだった。あたかも時は永遠に続くようにも思えた。



施設には悠太の母親が面会に来ていた。悠太は早くから父を亡くしており、母親は生活のため小さな体で仕事をしていた。そのため、やむなく施設に入っていた。仕事は毎日忙しかったので久しぶりの面会であった。悠太は面会に来た母親に甘えたい気持ちをこらえるように話し始めたのだ。そして、瞳を輝かせながら母親に話しかけた。

「お母さん、僕ね、薬指が少し動いたような気がするんだ。」

清美に話した事と全く同じことを母親にも伝えていた。よっぽどうれしかったのだろう。悠太の満面の笑みを見て、母親は頬から流れ落ちるものがあった。どれほど辛かっただろうか。それでも、優しい笑みを演じながら悠太に合図地を打っていた。悠太は薬指が動いたのを再現しようと母親に見せようとしていたのを、園長が上手く遮ったのだ。母親の涙を悠太に気づかせないためにそうしたのだ。

「雄太君、さっきね、お母さんが雄太君をおんぶがしたいと言っていたけどどうする。」

悠太の母親は表情を何とか引き締めて悠太をおんぶした。悠太は母親の首元に顔を寝かせていたが、母親の目元からは雫が流れ落ちる音が聞こえんばかりだった。

「お母さん、きっと右手は動くようになるよね。」

そう言った瞬間に悠太に清美は悠太を抱き上げた。母親は足早に廊下に出ていった。涙があまりにも溢れて隠す必要性があったからだ。抱きあげた清美も涙が止まらなかった。それを悠太が見て不思議そうにしていた。それがあまりに不憫で園長も廊下に出て行ったのだったのだ。清美は悲しみをぐっとこらえて子守歌を歌い始めた。しかし、その声は震えて歌にならない。清美が歌い始めたが悠太にはわからなかったのだった。わかるはずがなかったのだった。清美はボランティア活動を通じて生きがいと共に悲しみも涙が流れ落ちるように実感していた。清美のそばにいた直哉も何もできない自分が腹立たしかった。現実という壁に苦しむ清美達であった。

「清美さん、一緒に帰ろう。」

直哉は結局のところはそれだけしか言えなかったのだった。施設の夜は悲しく静かに過ぎていった。優しい灯りがつく日が訪れるのであろうか。



すみれと大作の優しい秋風はある所に向かうことになった。

「大作さん、銀行の近くにデパートというものができたのですが、一緒に行ってみませんか。なんでも、いろんな物が売っているみたいなのです。」

すみれの輝く笑顔に大作は断る理由の欠片すらなかった。

「じゃあ、行ってみよう、どんなものがあるのかな。楽しみだね」

デパートに着くとすみれは大きな木造の建物の階数を数え始めた。

「大作さん、5階建てみたいです。初めてこんな高い建物を見ました。」

「本当だね、僕も初めて見るよ。」

そう言いながら喜ぶすみれに大作は幸せを感じていた。1階は多くの食料品が売ってあり、すみれは今まで見たことのない食材を興味深げに一つ一つ見て回っていたのだ。各階にそれぞれ色々な物があり、二人が見たことがないようなものが置いてあった。大作は子供の様に、はしゃぐすみれの姿を見ていた。

一番上の5階には舶来品が多く置いてあった。二人ともここが本当に日本という国なのかわからないくらいだった。いろいろ見て回るうちに二人の目の前に飛び込んできたものがあった。花をデザインした指輪だった。指輪は高額な商品のためか大きなガラスで繊細に作られていた箱に入っており、透明であるため外から見ることができるようになっていた。さらに、触れることを禁ずると書いた紙がわかるように貼ってあった。大作は瞬時に思った。あることを、そして迷うことはなかったのだった。花の好きなすみれはあまりに美しかったためか、指輪をじっと見ていたが、あまりの高額な商品に驚きを隠せなかったのだった。それを見て大作はますます決意したのだった。すみれは、指輪から目線を外すまでにかなりの時間を要した。各階を長い時間をかけて見物してまわった。購入するものは一切なかったが、二人は楽しい気持ちでデパートを後にした。しかし、花柄模様の指輪は二人にとって新鮮で手が届かない存在のようだったが、大作にとってはかけがえのないものとなった。



施設の子供達にとって清美の優しくて明るい性格は心の支えでもあった。しかし、その清美を支えているのは直哉だった。清美は不器用で銀行での仕事ぶりはあまり評価されておらず、不足するものを常に直哉が助けてくれていた。清美がお姉さんの役割であり、それに対して直哉はお兄さんの役割を果たして直哉も子供達の支えでもあったのだ。直哉は体こそ大きくはなかったが、優しさとたくましさを持った性格であった。園の行事では、特に男性にしかできないことなどを率先して活動していた。クリスマスのシーズンを迎え清美と直哉は準備に追われていた。もみの木のクリマスツリーにイルミネーション、部屋の飾り、クリスマスソング、何より、直哉には大きな仕事が待っていた。それは、サンタクロースを演じる役割だった。サンタクロースの衣装に白く長い髭を準備もすませ、園のクリスマス会が開かれる時を迎えていた。

外は雪が静かに僅かながら舞い降りて冷たかったが、園の中は優しさがほのかに包まれていた。そして、クリスマス会は始まったのだった。子供達は障がいを持ちながらも、イルミネーションの柔らかい灯りの中で歌を歌ったり、話をしたりして楽しく始まった。

「それは、僕のケーキだよ。」

「私のケーキよ。」

「ほら、みんなにケーキはあるから。」

「私はチョコレートの飾りがほしい。」

「いや、僕が先に取ったから僕のものだよ。」

「ほらほら、ケンカをしたら駄目だよ。」

そこに、突然、サンタクロースに扮する直哉が現れた。子供達は大騒ぎになり、一人一人プレゼントを貰い喜びの表情が消えることはなかった。楽しく笑い声の中でクリスマス会は終わったのだった。

清美と直哉にも二人だけのクリスマスが待っていた。クリスマス会も9時には終わり、二人はイルミネーションに囲まれた街頭を歩いていた。静かに雪が舞い降りる中でイルミネーションは幻想に包まれている。普段は多くの車が通る道にも、周囲からは恋人達の甘く優しい声が静かに漂っていた。直哉は言い出したいことがあったが言えなかった。同様に清美もそうだった。言い出したい事というのはいずれ結婚したかった。そのことだったのだ。クリスマスプレゼントを交換するも、二人だけでいることだけが、二人への一番のクリスマスプレゼントだったかもしれない。

静かな夜が深けて、二人の邪魔をするものは何もなく、積もった雪を踏みしめる音とともに、それ以外の静けさは神からの二人への贈り物だった。



想いが大作を夢の世界へ連れて行ってくれた。大作は小説家を諦めたわけではなかったが、新聞配達以外に新たに仕事を始めた。小説とは程遠く大工の見習いになったのだった。想像以上に大工の仕事の世界は厳しく肉体労働だけでなかった。特に職人同士の上下関係にも苦しんだ。辛く厳しい世界へと行ったが大作は幸せでいっぱいだった。

すみれは、相変わらず銀行で遅いソロバンをはじいていた。班長に怒られながらも一生懸命頑張っていた。しかし、すみれの持前である優しさと明るさに銀行内では人気者であった。しかし、大阪への出張が多くなってきた。それがはじまりだったのだ。それは、すみれと大作の距離であった。出張の内容といえば、大阪の会社の事務手伝いであった。いわば派遣のような形であったのだ。そのため、大作と会う機会が次第に減っていった。しかし、会う機会が減れば減る以上にすみれに会いた気持ちが強くなるばかりだった。それは、すみれも同様であり大作への想いが脳裏から離れることはなかった。そのため、手紙でのやり取りが増えていった。

大阪の会社は老舗であり、大規模で従業員も多かったのだが、どうやら社長はすみれの銀行を訪問した際にすみれに一目惚れしたのだった。社長は妻に先立たれていた。すみれはいわば秘書のような仕事もしていた。ある日のことだった。

「山下さん、今日は食事に付き合ってくれないか。」

「はい、わかりました。」

遂にすみれにとって恐れていたことが起こった。すみれは社長の好意は十分過ぎるほど感じていた。すみれが社長の誘いを断れるはずがなかった。仕方なく言われるがまま食事に行くことになった。社長が連れて行ったのは当時では珍しい大阪でも有名なフランス料理店だった。すみれは初めて見る料理だったのだ。普段は白ご飯に味噌汁とせいぜい魚を食べるだけの生活であったため、すみれにとって初めて見るものばかり。従業員がひとつひとつ丁寧に料理の説明をするも、まるで外国語を聞くようだった。しかし、すみれは悲しい想いに襲われた。そして大作を思い出しては頬に伝わるものがあった。それに気づいた社長は声をかけた。

「どうして、泣いているの。」

「いえ……」

すみれは満足に答えることができなかった。すみれにとって、貧富の差というものをこれだけ感じた初めての日だった。大作とのお弁当を初めて食べた時のことが思い出された。すみれは料理の味より感じたのは、自らの涙の塩の味のみだったのかもしれない。

あまりに泣き出しはじめるすみれに社長は驚きを隠せず、慌てて料理店を出たのだったのだ。

「すみれさん、どうして泣くの。すみれさんが過去に悲しい想いをしたとしか思えなかったけど……ごめんね、今日は帰ろう。」

「せっかく、誘っていただいたのに申し訳ありません。」

社長の優しい言葉かけにすみれは複雑な気持ちになったのだ。



ある日、清美が施設に行った時のことだった。園長先生から来月に悠太の再手術が行われるとの話を聞き清美は今度ばかりこそと清美は期待を胸に膨らませた。同時に悠太の母親からも電話があり不安であることを聞いたのだった。

清美は今度こそ必ず成功するということを信じるように伝え励ました。園の中では悠太が元気な声で清美に話しかける。

「清美お姉ちゃん、僕は今度ね、手術をすることになったんだ。今度の手術はもっと腕が良くなるようにするみたい。」

「本当、それは良かったね、今度の手術でもっともっと良くなるよ。」

清美はそう答えたが、もし成功できなかった時のことを想像し不安にかられた。悠太の笑顔が悲しみに変わらないことを祈るばかりだった。

その後、清美は直哉とそのことについて相談した。直哉も同様の気持ちであり、互いに支え合うしかなかった。手術は来月に行われる予定であり、園長の話によれば難しい手術のようだった。清美は来月まで不安な日々を過ごすこととなったのだ。悠太の笑顔を想像する度に清美は胸が締め付けられるような想いで一杯だった。想えば想うに涙で溢れてきては止まることを知らなかった。

どうか、悠太の手術が成功してほしいと藁をつかみたくなるようでもあったのだ。

そして、手術の日が訪れた。当日、悠太は清美と互いに成功の確認をしあっていた。手術直前の悠太は子供だからこそかもしれないが清美達とは裏腹に元気一杯だった。そして、清美と母親の手を触れて手術室へ入っていった。

不安で一杯だった、母親、清美、園長に直哉、手術の時が流れる長さが苦痛であった。特に清美は時の流れる遅さに憎しみを感じるほどであり。手術が終わってからの医者がどのような表情で説明するのか、気になってたまらなかった。しかし、憎しみの時は意外に早かった。執刀医が手術室から看護師とともに清美と母親たちの前に現れた。そして、こう告げた。

「手術は成功です。」

清美をはじめ皆がうれしさのあまりに泣き崩れた。悠太は麻酔が聞いているのかピクリともしていない。しかし、手術は成功だったのだ、その後に執刀医からの説明があり、次第に右手は動くようになるとのことだった。翌日はやってきた、手術は終わった。悠太の右腕は痛々しいほど包帯等の処置が行われていたが悠太には満面の笑みがあった。清美達もまるで生きた心地がしなかった時を乗り越え疲れ切って休んだが、手術の成功という幸せを迎えていた。施設内では手術を控えている子供やリハビリで頑張っている子供達もいたので明るいニュースで盛り上がった。施設に優しい灯りが灯ったのだった。



大作はもともと体も大きくなく体力はある方ではなかった。毎日、早朝からの新配達の仕事をすませて、疲れが残っていながらも毎日といってもいいほど、大工の見習いを一生懸命にしていた。笑顔で頑張っていたのだ。それは、いつもすみれの笑顔が心の中にあったからだった。大工仕事の現場では棟梁をはじめ職人の活気の良い声が飛び交っていた。

「大作、何をやっているんだ、昨日もちゃんと教えただろう。」

「申し訳ありません。」

「馬鹿野郎。」

「気をつけます。」

「もう少ししたら、賃金がでるぞ。それまでだ、大作、新聞配達も大変だけど頑張れ。わかったか。」

「はい。」

体力的にも強くない大作は、それでも幸せでいっぱいだった。すみれの笑顔が待っているということとある目標があったからだ。それは、大作の密かな想いであった。それがあるからこそ、いくら棟梁から怒られようとも決してくじけることはなかった。

ある日、大作は仕事現場で住宅の二階の柱に釘を打っていた。その日は雨がぱらついていたせいもあったのだろう。悲しい出来事が起きてしまった。大作が二階から落ちてしまったのだった。現場は騒然となり、職人達はどうすればいいのかよくわからず、右に左に走り回るばかりだった。大作は気を失い、棟梁の判断で病院に職人達から支えられて病院に運ばれた。幸いに頭を強く打ったわけではなかったが右腕を骨折してしまった。日常の生活は困難であった。食事は母親に手伝ってもらい何とかできたが不自由な辛い日々が続いたのだった。しかし、それ以上に悲しいことは、すみれに手紙を書く事が出来なくなったのだったのだ。大作にとって、手紙を書けない事が何よりも辛かった。新聞配達も大工の見習いも当然ながら休むことになり、頭が空白になる事が多く届かない想いが大作を支配したのだった。さらに追い打ちがかかるようにすみれからの手紙は次から次へ届くのである。返事が書けない腹立たしさと悲しみが大作を襲う。母親に返事を書いてもらえばいいものの大作は恥ずかしくて頼むことができなかったのである。悲しくも運命の歯車が狂ってきた瞬間だった。

一方ですみれは、大作からの手紙が来なくなったことに胸を痛めていた。しかも、会社の社長からは時どき食事に誘われていた。そして、仕事上や普段の生活における出来事の相談をするくらいまで信頼関係ができたのだ。すみれの会社の社長は優しかった。すみれがいくら仕事で失敗しようともかばってくれていたのだった。しかし、すみれは悲しくて、悲しくてたまらなかった。大作と会えなくなったからだ。大作とどれだけ会いたかったことだろうか。もしかして、東京で大作が新しい恋人ができたのではないかとも思ったりすることもあったのだった。不安な日々が長く続いたのだった。二人の距離が近くなる日が果たして訪れるのだろうか。



悠太の手術は成功した。施設の職員達も大喜びであり再び明るい灯が輝いた。しかし、手術に成功した悠太には試練が待っていた。それは右腕のリハビリが継続的に必要だった。リハビリを継続するためにはリハビリによる痛みに耐える力と根気が必要であった。しかし、悠太は辛い表情を見せなかった。いくら、辛かろうとそのような表情をみせることはなかった。ただ、ただ、右腕が動くようになるという夢が持ちながら頑張り続けた。ある日のこと、清美と悠太の母親と病院へ行った時のことだった。その日は雨が降っていた。二人は傘を差しながら、病院を渡る横断歩道で二人は手術の成功の話などをしていたのだ。

「お母さん、よかったですね。」

「はい、清美さん、ありがとうございます。」

「もう少しで病院に着きますね。」

「ああ、危ないい。」

キー バン

「お母さん、お母さん、しっかりして。」

悠太の母親は信号無視をした車にはねられたのだった。すぐさま、目の前の病院に運ばれたが重傷を負った。そのため、母親は仕事ができず、生活費や医療費の自己負担分の支払いが困難になったのである。ある程度回復するまで約1年かかるとのことを医師から清美と直哉に告げられた。悠太の母親は医療費など支出が増えて生活が困窮していった。悠太の悲しい顔を見たくなかったために清美と直哉の決心は早かった。二人は母親を援助していくことにしたのだ。しかし、二人とも就職して間もなかったので厳しい生活を与儀なくされた。しかし、本当の苦しみはこれだけではなかった。

二人が銀行に内緒で夜のアルバイトを始めた。車の駐車場内において誘導や受付などの仕事である。清美は仕事とアルバイトで心身の疲労が積み重なっていった。さらに不幸な出来事は続いた。清美が倒れたのである。直哉は慌てて、すぐさま救急車の手配をした。仕事は代理の人を読んでもらい救急車に一緒に病院まで搬送したのだった。原因は過労ではとのことだったが、直哉はいてもたってもいられなかった。

最初はしばらく自宅で安静にしていれば回復するとの医師の説明であった。しかし、1週間経過しても、清美は体全体に激痛が走り立ち上がることでさえ困難になっていった。直哉はただの過労とは思えず、いろいろ情報を集めてなんとか清美の元気な姿を早く見ることができるよう祈ったのだった。



すみれの元に母親からの手紙が届いた。


すみれへ


元気にしていますか。私は相変わらずですが、実は悲しいことが起こってしまいました。家が火事になってしまったのです。そのため、住むところがなくなり、今は親戚の家に仮に住まわせていただいています。家にあった家財道具や僅かばかりのお金も燃えてしまいました。すみれは大阪で頑張っているのに申し訳ないですが一度家に帰って来てくれないですか。こんな馬鹿なお母さんを許してください。


母より


どうして、家が火事に……ただでさえ、貧しかったのに……、社長に相談しないといけないと思い、すぐさま、社長の元へ行った。

「社長、突然で申し訳ありませんが、一度、東京に帰らせていただけないでしょうか。」

「何かあったのかね。」

すみれは、社長に母からの手紙を渡して読んでもらったのだ。

「そうか、大丈夫だよ。しばらく、東京に帰りなさい。なに、仕事のことは心配することはないから。」

「はい、ありがとうございます。」

社長は優しくすみれの願いを受け入れてくれたのだった。すみれは悲しい気持ちでいっぱいだった。火事で僅かながらの財産と家を失ったことは、母を大事に思うすみれにとっては辛い現実だった。しかし、気持ちは複雑なもので、久しぶりに大作に会えるという期待も心を占めていたのだ。あるべきはずの家にいくと、やはり、空き地になっていた。親戚の家に行ってみると母の気持ちが伝わってきた。親戚といっても、そう近い関係ではなかったので母は肩身の狭い想いをしているということがすぐに理解できた。そして、母を慰めるすみれであった。

今後の母の自宅のない生活を考えると不安で、不安でたまらなかった。しかし、すみれの心の中にはいつも大作がいたのだった。迷うことはなかった。すぐさま、桜の木の下に行った。もしかしたら、そこにいるのではないかと思いながら。そこには大作がいた。しかし、表情は悲しげに見えたのだった。そして、すみれは大作に背後から声をかけた。

「大作さん、お久しぶりです。」

大作の顔の表情は誰が見てもわかるように一瞬だけ明るく輝いた。そして、すみれに答えた。

「すみれさん、ごめんなさい。大工仕事で作業現場の家の二階から落ちて、右腕を骨折したのです。それで、返事を書くことが出来ませんでした。」

そう、申し訳なさそうにすみれに伝えた。すみれは自分が嫌われてしまっていたり、新しい恋人ができていなかったことがわかり安堵の表情を浮かべていた。二人は互いに近況を話して励まし合った。僅かながらの幸せな時が流れたのだった。大作は今のすみれの家が火事になった事情を知ると、いてもたってもいられなく何とかしてあげたいと思った。しかし、大作は今の生活でさえ一杯であったので何もできない自分に腹立たしさを感じた。しばしの時を過ごし、二人は次にまた必ず会うという約束をして別れたのだった。



直哉は銀行の同僚から都内の有名な医師を紹介してもらえることができ、異なる病院へ連れて行った。その分野の病気を専門にされているようであり、病院も決して新しくはなかったが、さまざまな設備がある大きな病院であり診察の時を迎えたのだった。

診断の結果は残酷だった。数万人に一人しか発症しない程度の全身の難病であった。医師からは完治するためには本人の努力と国内では販売されていない保険外の薬が有効であるとの説明を受けた。しかし、医師から聞いた薬はかなりの高額のものであった。しかも病院では処方できなかったのだ。清美も直哉も地獄の底に突き落とされたような気持ちでいっぱいであった。ある程度回復したら安静を保ちつつ、少しずつリハビリをする必要もあったのだった。直哉は薬を購入するために、いろいろ入手先を調べたがやはり入手は困難を極めた。ようやく入手できたがやはり高額であった。直哉は借金をして購入したのだ。しかし、このことは清美には言わなかった。言えば優しい清美は当然に反対するのがわかっていたからだった。直哉が病院へ行くと、普段はベッドでぐったりしている清美も必死で元気につくろった表情をして直哉に話しかけた。

「直哉さん、私は必ず治りますから、でも直哉さんは……」

途中までしか言葉が続かなくて笑顔からは涙が浮かんでいた。清美は自分のために必死で支えてくれる直哉に申し訳なく思っていた。それは日に日に高まっていったからだった。直哉はそれに対して優しい笑顔で答えた。

「大丈夫だよ、清美さん。僕は清美さんを愛している、だから何でもできるよ。必ず良くなるから僕と幸せになろう。」

そう、清美に告げると、清美は涙が溢れて止まらなかった。それを見た直哉は優しく清美を抱きしめるのだった。しかし、清美は直哉の温もりを感じつつ、申し訳ない気持ちで胸が一杯になった。二人へ吹く風は冷たくそれは二人の心に残酷に突き刺さった。

 


大作は右腕が完治すると、今まで以上に頑張って働き始めた。もう少しで、あのデパートで売っている舶来品の花の指輪が買えるそう思うと手に取る金槌で叩く釘が柱を打つ音は元気に響いていた。そこに、棟梁が現れた。棟梁は大柄であたかも大工の棟梁であるような雰囲気を|醸し出していた。

「大作、明日が楽しみだな、今月は頑張ったから懐も温かくなるぞ。」

「ありがとうございます、棟梁。」

大柄でいつもは厳しい棟梁が優しく話しかけた。大作は明日が待ち遠しくてたまらなかった。翌日になり賃金をもらった大作は大きなガラスケースに入った優しい花模様の指輪を眺めた。これで、買えることを実感して喜ぶすみれの姿を想像した。購入できるだけのお金は準備していたが、ガラスケースの中の花模様の指輪を眺め続ける時間は長かった。そして、念願の指輪を購入できたのだった。後はすみれが大阪から帰って来て突然、求婚して渡すつもりだったのだ。大作はすみれのよろこぶ笑顔が頭から離れられず家路へと向かった。

一方で大阪ではすみれが、仕事のスケジュールを管理していた。正式に社長の秘書として採用されていた。働いて貯めたお金は全て母に仕送りをしていたのだった。沢村銀行も大阪の老舗の会社とはつき合いも長く大きな融資などもあったために、実質、すみれは大阪の会社に移籍したような形だった。社長はやや大柄で年は50代くらいの年齢であった。社内でも社長の優しい性格は評価されており女性従業員の憧れの的であった。しかし、社長はすみれの優しさと美しさに夢中だった。相変わらず、毎日のように食事をともにするが、社長もあまりにもすみれが愛おしかったのか交際を申し込むことはなかった。娘のようなすみれに対して申し訳ないという気持ちがあったのかもしれない。すみれにとっても社長は父親の様にも思えて社長に対する信頼は大きかった。ただ、実家が火事になったことは恥ずかしくて言い出せなかったのである。大作に話してしまったことすら後悔していたので当然のことであった。

「すみれさん、今日も夕食に行こうか。」

「はい。」

すでに、すみれには高級な食事が慣れてすっかり社長とは親しくなっていたのだった。それでも、大作のことを忘れる日は一日もなかったが、東京に帰る機会もほとんどなかった。大作が恋しくて、恋しくてたまらない日々が続いた。大作も同様だった。

はたして、大作とすみれが幸せになれる日が来るのだろうか。



清美は直哉が購入した薬の効果も表れ始め、ある程度回復していった。そして、寝たきりと病から来る動かなくなった手足のリハビリが本格的に開始されることになったのだ。直哉は日中が仕事のため、清美のそばにいることはできなかった。さらに、薬代を稼ぐために引き続き駐車場のアルバイトで二人が会う機会が減っていったのだった。

リハビリは辛く清美は投げやりになりそうになることもあった。なかなか、直哉に会えず寂しい想いはあったが頑張っていかなければならないという気持ちが強かった。

そのため、徐々に回復していった。何より直哉の頑張りが回復への道のりを短くさせていたのかもしれない。しかし、直哉は深刻だった。借金が膨らんでいき働いても、働いても、薬代を買うだけの収入はなかった。もしも、薬が入手できなくなったら清美の状態は悪化するのが心配でならなかった。やっとのことで回復してきただけに、直哉はどうすることもなく自分の力のなさを責めるばかりだった。

ある日、もう限界だと思った直哉は普段は一切飲まない酒を多量に飲んでしまった。自分を見失ってしまい、海にでも飛び込もうと思ってしまったのだ。そして、タクシーに乗り込み東京湾まで行った。直哉の目の前には海が広がっていた。すでに意識もうろうとしていた直哉は海に飛び込もうとしたところ、一人の老人が遮った。

「待ちなさい、君。」

直哉は少し我に返り老人を見つめた。そして、自分が何もできない辛さに男泣きしてしまったのだ。途方にくれている直哉を見て老人は優しく話しかけた。

「どうしたのかね。」

直哉はすっかり酔っていたが今までの事情を老人に話したのだった。すると、老人は呟いた。

「私が助けてあげるから大丈夫だよ。」

そう言いながら、直哉の住所と仕送りをするための直哉の銀行口座番号を聞いたのだった。直哉は正常な状態ではなかったので、つい、教えてしまったのだった。そして、老人は名前も告げず感慨深げにその場を離れてタクシーを呼び、直哉を送り届けたのだった。直哉は老人の名前すら聞くのを忘れるほど酔っていたのだ。翌日になり、直哉は給料日だったので銀行で出勤した際に記帳された通帳には多額のお金が振り込まれていた。直哉は昨日のことはほとんど忘れており驚愕した。そして、神様ともいえる老人を思い出し感謝するのだった。奇跡は起きたのだ。



幸せな風が大作に吹いていた。大作は花模様の指輪を買い求婚するだけだった。しかし、すみれは東京に帰って来ることはほとんどなく帰って来ても、恥ずかしがり屋の大作はなかなか求婚できなかったのだった。

すみれの母は、今は親戚の家を出て近隣で最も安いアパートに住んだのだ。しかも、体がもともと弱かったため生活費だけでなく医療費など支出も多く貧しさを極めた。すみれは、母の生活の再建のために仕送りをしていたが銀行の給料だけでは足らなかった。そこで、すみれは社長に内緒でカフェの女給の副業を始めたのだった。手紙ですみれの実家が火事になり事情を知っていた大作も指輪を購入した後は毎月、賃金の余りを可能な限りすみれに送金していたのだった。しかし、送金と言ってもほんの僅かであった。大作の家庭も貧しかったからだ。すみれとは手紙の中で苦労しているのが手をとるようにわかり、助けてあげられない自分に腹立たしさを感じており、悲しくてたまらなかったのである。それでも、すみれは大作の優しさに惹かれずにはいられなかったのだ。しかし、すみれの仕送りでは母の生活は成り立たず、母は借金を遂にし始めたのだった。すみれと大作だけの仕送りでは働く事のできない母親にとって仕方のないことだった。すみれはいてもたってもいられなかった。

すみれと大作の中で春先に帰って来ることが手紙のやり取りでわかり、大作は自分がすみれを助けなければと決心したのだ。季節は巡り巡って遂に時はやってきたのであった。そして、いつもの桜の木の下にすみれが来たのだ。大作はありったけの勇気を出してすみれに告げた。桜の木の花が優しく舞い落ちる時だった。

「すみれさん、僕と結婚してくれませんか。」

すみれは涙に溢れた。嬉しくて、嬉しくてたまらなかったのだ。そして、小さな声で答えた。

「私でよろしければよろしくお願いします。」

すみれも突然で恥ずかしかったのだ。しかし断る理由などなかった。すみれは一日たりとも大作のことを忘れる日はなかったからだ。それから、すみれはこう告げた。

「大作さん、来年の春にここでふたりだけの結婚式をあげるのはどうでしょうか。」

理由は仕事のことと母親の借金を返せるのがそのくらいの時期だったからだ。大作は持ってきた指輪を出せずに残念ではあった。しかし、婚約ができて幸せでいっぱいだったのだった。花模様の指輪は結婚式の時に渡そうと決めたのだ。そして、すみれに大作はこう伝えた。

「すみれさん、明日までここで過ごしませんか、婚約の記念として。」

「はい。」

そう、恥ずかし気にすみれは答えた。毎月、大作が仕送りしてくれることに対して感謝の気持ちを伝え二人は幸せな時間をすごした。桜が舞落ちる中で二人の時は溶け合い過ぎ去るのはあっという間であったが二人は幸せに包まれた。それでも十分に二人は幸せだった。幸せ過ぎるほどだったのだ。翌日になって、すみれは大阪に行くことに、そして、さびしく花模様の指輪は光っていた。



清美の闘病生活は苦しかった。リハビリに明け暮れる日々が続いた。リハビリの時はトレーナーも出来るだけのことはしていたが、どうしても痛みがあったのだ。時には厳しく時には優しくトレーナーは一生懸命に清美にリハビリを行ってくれた。清美は痛みの辛さに耐えるのに必死だった。辛いに時には雄太の顔が思い浮かんだ。そして、清美の持前の頑張りが光るのだったのだ。そのため、少しずつではあったが手足は動くようになっていった。清美は希望の灯りが少しずつ見えてきたのだ。

ある日、直哉が薬代を負担するために通帳を記帳した。気にはなっていたが、やはり毎月のように知らない名前の人から多額のお金が入金されている。東京湾で助けてくれた人には違いはなかったが、直哉は誰なのかわからなかった。そのため、借金は完済して終わったのだ。余裕すら出てくる状況になり一層、清美への闘病生活を支えることができるようになった。そして、毎日のように清美に寄り添う日々が続いた。直哉は完治したら、もしくは完全に出来ずともある程度よくなった時にプロポーズする予定だった。清美も密かに待っていたが、施設の子供達のことも気になっていた。悠太君、頑張っているかな。みんな元気にすごしているのかな。私の病は治るのかな。直哉さんと幸せになれるのかな。さまざまな不安が清美を襲っていた。そう思うと涙が取り留めなく溢れてベッドで横たわる清美の肩まで流れた。もしかしたら、清美が寝ている枕まで雫でびっしょりなっていたかもしれない。しかし、それが、清美にとって一番の幸せであり、闘病に対する薬だったのかもしれなかった。

ある日、施設の子供達が車椅子に乗って、施設の職員たちに支えられて見舞いに来たのだった。清美は一人一人の手を取って互いに励まし合った。子供達は一人一人が明るく元気であった。今度は清美があたかもボランティアをして頂いているような気持ちになった。そして、嬉しくて、嬉しくてたまらなかった。清美も一人一人の子供達の笑顔を見て元気に過ごしているのだと安心できた。そして、一日も早く良くなり子供達の元へ行きたい気持ちでいっぱいだった。最後は子供達が清美に繰り返し励ましの言葉を送って帰ったのだった。

「清美お姉ちゃん、早く良くなって風船をふくらませてね。また、一緒に遊んでね。」

「ありがとう、みんな、早く良くなって会いに行くからね。」

「清美お姉ちゃん、元気で病気に負けないで。」

「ありがとう。頑張るからね。」

そう、精一杯の声で子供達に別れを告げた。

奇跡は起きたのだった。時は思いのほか早く流れ、清美も完治して近く退院することになったのだ。それから、直哉は静かに清美に告げた。

「僕と結婚してください。」

「はい、こんな私でよろしいのでしょうか。」

「僕が必ず幸せにします。」

二人は幸せの絶頂を迎えた。



すみれは、ある日、やや古い建物の入り口に立っていた。すると、あご髭をたくわせた貫禄のある男性がやってきて、すみれに話しかけた。

「君かね、今日、うちのカフェで女給として働きたいと申し出があったのは。」

「はい。」

「そうか、君は上品で美しいな。これなら君目当てで来る客も多いだろう。あとはどれだけ君が接客を出来るかだな。今から、面接をするから来なさい。」

「はい。」

「どうか、よろしくお願いします。」

そう、すみれと男性は話をすると建物の中に入って行った。すみれは婚約という幸せを得たが母親の仕送りの生活に苦悩を感じていた。それは、仕事が終わるとカフェでの給仕の仕事が待っていたからだ。来年の春までに母親の借金が返せるか心配だった。カフェと言っても昭和の初期当時、スタッフは女給と呼ばれている場合が多く中には男性客に接客する店もあったのだった。今でいうナイトクラブのようなものだったかもしれない。すみれはそういう店で女給として働き始めた。カフェは東京都内ではさほど有名ではないところを選んだ。理由は社長に内緒にしていたからだ。そのせいか、建物は古く、決して清潔感のあるカフェとはいえないような雰囲気であった。しかし、そこですみれは頑張ることにした。当時において、他の仕事よりも稼ぎが良かったからだった。店のオーナーは親切であったが仕事に対してはとても厳しかった。初めて行う男性客への接客業はなかなか、すみれにとっては慣れないものだった。すみれは優しく器量も良かったため、すみれを目当てに来る客が多かった。しかし、客にも品のいい客から下品な客までおり、すみれにとっては辛い想いをすることもあった。すみれは明るい性格であったが話し上手ではなかった。そして特に下品な話には全く対応できなかったのだ。中には体に触れようとする客もいたりした。丁重に断りもいれるも繰り返しそのような行為をするのでありその場合は男性従業員が止めてくれたが、他の女給達はうまくかわしているのを、すみれは羨ましく思えた。そのため、辛くて、辛くて涙が溢れることもしばしばあった。それでも、大作の笑顔を思い出し頑張るのだった。しかし、女給で働く生活も終わりを告げようとした。 

すみれの会社の社長が突然に訪れたのである。すみれは、とっさにお手洗いに隠れたがそういう訳にもいかないことにすぐ気づき仕方なく店内で働き始めた。社長が気づくのはあっという間だった。そして、驚きを隠せなかった。すぐさま、店の代表者を呼び出し、すみれと会う機会を設けた。すみれは、とても恥ずかしかった。それだけでなく、仕事を掛け持ちしていることを申し訳なく思ったのだった。しかし、社長はすみれに優しく話しかけた。

「すみれさん、どうしたの、何か事情でもあるのだね。」

「それが……」

すみれは言い出すことができなかった。それを社長は見抜き優しく声をかけた。

「早く気づいて、僕が相談に乗ってあげたのに申し訳なかったね。」

「いえ、社長申し訳ありません、実は……」

すみれは今までのいきさつを全て話した。しかし、大作のことは恥ずかしくて言えなかった。社長の好意も感じていたこともあった。社長はそれからあることに悩み始めたがすぐに決断した。それはすみれを妻として迎えることだった。そして、カフェの代表者に多額のお金を渡して辞めさせたのだった。社長にとってすみれの母の借金の全額は何ら苦労もなく援助できる額に過ぎなかった。しかも、全額援助して母の家を建ててあげることを伝えたのだ。社長はすみれを愛していたので当然のことをするだけだったのだ。しばらくして、会社で、すみれを呼び出し話し始めた。

「すみれさん、すみれさんは私のことをどう思っていますか。正直でいいですから、話して下さい。」

「とても優しくて信頼しています。」

そう、すみれが答えると社長は決意して伝えた。

「私と結婚していただけませんか。」

すみれは何と言っていいか分からなかったがやっとの想いで答えた。その時は母親の借金は社長が全額払い。社長から家を建てもらい、毎月仕送りまでして頂いてもらっていたので、すみれにとっては言葉を選んで答えるのが精一杯だった。

「少々、お時間をいただけないでしょうか。一度、東京に帰ってきてもよろしいでしょうか。話が突然なものですから……」

社長も突然の求婚だったので理解して静かに待つことにした。すみれにとって、優しく信頼できるのは大作と社長だけであったので、簡単に断ることはできなかったのである。



清美は完治して、病院のスタッフに温かく見守られての退院の日を迎えた。特にトレーナーからはお祝いの花束を頂いて清美も感謝の意を表した。清美は嬉しくて、嬉しくてたまらなかった。また仕事とボランティアが出来るかと思うと夢のようであった。しかし、直哉はどうしても気がかりなことがあった。その後も毎月決まって銀行口座に多額のお金が振り込まれていったからだ。それが逆に怖くなったのである。清美にも事情を話した、いわば清美の恩人でもある訳だからだ。講座名義人は黒沢利宗と書かれてあった。二人はいざという時に返済できるように、その後は振り込まれたお金には手をつけずに別の口座に積み立てていったのだった。その後も老人と会うことは一切なかった。結婚資金に使おうとも考えたが二人はその選択は取らなかった。謎だったのだ。

清美には母親がいた。直哉は母親に婚約の報告したのだったが、初めて清美の母親を見て直哉はびっくりした。瓜二つのように似ていた、親子とはこんなにそっくりに似るものだと思ったのだった。母親は清美と同様に優しくて結婚に対してすぐに賛成してくれたのだった。しかし、直哉はどうしても毎月多額のお金を振り込んでくれる人にもう一度会いたかった。そして、お礼を言うとともに余ったお金を返したいと思っていた。申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。



ある日、大作にすみれからの手紙が届いた。


大作さんへ


お久しぶりです、お元気にされていらっしゃいますか。私は元気に頑張っています。

いろいろ、事情があって母の借金の問題は無くなりました。そして、母の家も建つことになりました。これも、大作さんのおかげです。ありがとうございました。私は大阪の会社で秘書の仕事をしています。最近はだいぶ慣れました。大作さんは大工の仕事はどうでしょうか。上手くできているでしょうか。大作さんは慌て者ですからね。もう、二度と怪我をしないように気をつけてくださいね。それから、私には今、悩んでいることがあります。でも、それはここでは書くことができません。それならば書かなければいいのになぜか書いてしまいました。ごめんなさい。大作さんのことばかり考えて毎日を過ごしています。早く東京に帰って大作さんに会いたいです。

でも、それはなかなか難しくなりそうです。私も辛いです。大作さんに会いたいです。


すみれ


大作はとても気になった。言えなかったこととは何なのか気になって仕方がなかったのである。そして何を悩んでいるのか心配だった。しかし、すみれの母親の問題が解決したことについては不思議ではあったが安心したのだった。そして、大作は大工の仕事を辞めて小説の道に進みたいと思い、熱心に小説に取り組み始めた。すでに桜は散ってはいるけれど桜の木の下へ小説の構想を練るために向かった。

小説は時代劇のジャンルのものを書いており、最後の仕上げに入るところだった。桜の木の下に行くとそこには、どう見ても日本人ではない人が座っていた。その人は大作を見て話しかけた。

「コレガサクラノキデスネ、モウハナガチッテシマッタノデ、ザンネンデス。」

そう流暢な日本語で大作に話しかけてきたのだった。どうやら、日本の文化に興味を持った外国の人のようだった。そして、いつの間にかその人と仲良くなっていた。その人は大柄な男性で日本人と異なり肌の色が白く、神は金色であった。そして、自分のことをトーマスと名乗った大作は小説を書いているということを話しをすると、是非読んでみたいと言いながら小説を大作の前で読み始めた。読み終わると突然立ち上がり大作に話しかけた。

「アナタハ、サイノウニ、アフレテイマス、ゼヒ、アメリカニ、キナサイ。」

その人は驚いた様子であった。大作はこの時は冗談で言ったのだろうと思ったのであった。そして、次に会う約束までして別れたのだった。これが、大作とトーマスとの出会いだった。すみれは苦しんでいた。すみれは優しすぎたのだった。悩みに悩む日々が続いた、そして決断したのだった。

決断した結果は大作と社長と二人とも別れることだった。二人とも自分が結婚することで傷つけたくなかったからだった。すみれは一生独身を貫くことを決意した。しかし、愛している大作を裏切ることに対して強い罪悪感を抱いていた。しかも、実際に大作に会って別れ話を切り出せるだろうかと思い悩んでいたのだ。それほど、社長に信頼を寄せて恩を感じていたのだった。辛い選択肢であった。



毎月の振り込みに相変わらず直哉は悩んでいた。しかし、それも終わりがきたのだった。振り込みの代わりに手紙が届いた。


上田直哉様


突然で申し訳ありません。振り込み金額は足りたでしょうか。もし、余ったならば今後の幸せな生活に役立てて下さい。そうしていただけると私はうれしいです。私は病気でもう長くありません。困っているあなたを見て過去の自分を見ているようでした。他人事ではなかったのです。私も昔、同じような体験をして結局私は大事な人を助けることが出来ませんでした。他人事とは思えないというより以前、私が果たせなかったことを私が解決したかったに過ぎません。結局は私の自己満足だったのです。直哉さんの愛する方が助かったことを聞いて手紙を書きました。愛する人と幸せになってください。私の果たせなかった夢を代わりに叶えてください。恩返しが必要と思うならば、愛する人と一緒になってください。それが私の願いです。どうか、幸せになってください。


黒沢宗三


直哉はすぐさま清美にこの手紙を渡した。清美も全く誰なのか心当たりがなかった。なぜか不思議な気持ちにかられて二人は互いに励まし合うのだった。しかし、清美は間違いなくこの黒沢という人から助けられたのだ。いわば命の恩人だったのだ。

二人は結婚式の打ち合わせをしていた。そして、悩みに悩んだ結果、手紙の内容を信じて余り過ぎるほどのお金を使わせてもらう事にした。その方への感謝でいっぱいだった。幸せな時が流れた。清美は直哉と結婚できるかと思うと夢のようだった。これまでの出来事は清美の優しさが幸せを呼んだのかもしれなかった。

 


すみれは、別れ話を切り出そうと次に会う日程を手紙で知らせた。とても、辛くて、辛くてたまらなかった。それは、社長から最初に仕事を教えていただいた事、社長の自分への想いや今までの恩を考えたうえでの苦渋の決断だった。

大作はまた、会えるのかと思いながら喜びに満ちていた。桜の花が散る寸前の季節だった。そして、遂に時を迎えたのだった。大作は桜の木の下でいつものように待っていた。そこにすみれが現れた。

「大作さん……」

「すみれさん、会いたかったよ。」

「実は……」

すみれは重い口を開こうとしたが、途中でとまってしまった。大作はすみれの表情が悲しみを帯びているのが手を取るように理解できた。

「どうしたの。何かあったの。」

「いえ……」

すみれは何も言うことができなかった。大作は何が起こったのか全くわからなかった。まさか、この時はすみれが別れ話を切り出そうとすることは、夢にも思っていなかったのである。すみれはなかなか別れ話を切り出すことができなかった。大作は桜の花が散りそうなので結婚式をあげるつもりだったのだ。しかし、互いの想いは異なった。大作はすみれの元気のなさが気がかりで結婚式をあげようと言えなかった。

「すみれさん、元気が無いけど疲れたのかな。今日も温かいし朝まで一緒にいよう。」

そう言う他に大作は何もすることができなかった。しかし、すみれは口を開こうとはしなかった。

「どうしたの、すみれさん。」

「いえ、そうしましょう……」

すみれはそれだけしか言えなかった。それが精一杯の答えだった。すみれは最後の夜にしようと決心したのであった。悲しかった。ただ、ただ悲しかった。すみれは悲しかったのだ。大作はなんとかすみれの笑顔を見たいと思いいろいろ冗談を言ったりするがすみれのいつもの笑顔を見ることができなかった。大作は必死に探していた。すみれが喜ぶものを探していたのだった。しかし、すみれの表情は暗かった。

すみれも悩んでいたのだ。いくら社長に恩があろうとも婚約したのならそうすべきだと。すみれは優し過ぎたのだった。ただ、それは大作にはあまりにも冷た過ぎた。

すみれは、それもわかっていた。すみれは、どうすればいい、どうすればいい、そう思うばかりだった。すみれはすみれなりに奇跡を願っていた。自分の心の変化だ。

大作と結ばれれば何も問題はないのだ。何も問題なかったのだった。それをすみれは簡単にはできなかったのだった。残酷に夜は静まり返り始めた。繊細な大作はやっと気づいた。いつも持ってくる、お弁当がないことを。次第に状況を理解し始めた。悲しい状況を、しかし、理由は分からなかった、思いつきもしなかった。

すみれも別れ話を切り出すことができなかった。結婚したかったからだ。大作と結ばれたかったからだ幸せになりたかった。素直に結婚すればいいのに、それができなかった。しかし、すみれは強かった。遂に決心したのだ、今日の夜だけ幸せに過ごして明日お別れしようと。それから、大阪での出来事を話し始めた。次第に雰囲気は明るくなっていったがすみれにとっては偽りにしかすぎなかった。大作は必死だった。すみれは精一杯の気持ちをふりしぼるしかなかった。すると桜の花が散り始めた。ゆらり、ゆらりと……そして二人は互いの本当の気持ちをだすことができたのだ。それは優しく溶け合った。儚い瞬間は永遠だった。朝と夜の区別はなかった。周りが明るくなり始めるとすみれは言いかけた。

「大作さん・・・」

すかさず、すみれの気持ちに気づいていた大作は最後の賭けに出たのだった。

必死の想いでつたえた。悲しい最後の賭けであった。

「結婚式をあげよう。」

「ごめんなさい……」

それ以上、すみれは言えずそう、大作に伝えると、すみれは走った、裸足のままで走った。すみれは頭が真っ白になるくらい必死で走った。追いかける大作。

「どうしたの。すみれさん。待って下さい。」

すみれは、泣きじゃくりながら言った。

「ごめんなさい……」

「どうして、すみれさん……待って下さい……」

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

すみれは、その言葉を繰り返すしかなかった。できなかったのである。そして、追いついた大作はすみれを後ろから抱きしめた。それから、こう言い放った。

「すみれさんと結婚式のためにすみれさんの好きな花模様の指輪を買ったんだよ。すみれさんは花が好きだったじゃない……」

大作も顔は涙でいっぱいだった。すみれは呆然としていた。しかし、大作はそれ以上言えなかった。すみれの溢れる涙を見ると言えなかったのだ。あまりにも悲し過ぎたのだ。二人の出来事はあまりに悲し過ぎたのだ。すみれが買ってきた花嫁人形と同じようにすみれは大作の元へ歩いていくことができなかったのだ。大作は抱きしめていた手を振りほどいた。最後に大作はこう呟いた。いつか、花模様の指輪を受け取ってください。その言葉を聞き、すみれは必死で走り去っていったのだった。大作は追いかける気力はもうなかったのだった。次第に遠くなっていくすみれを見続けることしか大作にはできなかった。

大作は次第に意識が遠のいていくような感じで、いつの間にか大作はその足で海へ向かっていた。もう生きていく自信がないというより壊れていた人形のようだった。次第に白い砂浜から海の奥の方へ向かって行った。大作には昇る朝日すら見えなかった。ただ、ただ、歩いて海の中の方へいくだけだった。

次第に海の中に入って、足元からの水音の冷たささえ感じなかった。海水が腰元まで行った時に誰かの声が強く響いた。

「ナニヲシテイル、ヤメルンダ。」

声をかけたのは以前に会ったトーマスだった。トーマスは海水の中に入り大介を抱きしめた。

「ダイジョウブ。ダイジョウブ。」

それを繰り返すだけだった。しかし、大介を強く抱きしめて助けたのだった。トーマスとの再会だった。海水は冷たかったけれどもトーマスの体は温かった。トーマスは大柄であったので大作をおんぶして大作の家まで連れて帰っていった。



清美は完治すると気が気でならないことがあった。それは仕事だけではなく、ボランティア活動のこともあったからだ。子供達が元気に過ごしているだろうかと闘病生活の中においてもそう思っていたからだ。仕事が終わるやすぐに施設にボランティアに向かった。そして、園長をはじめ、悠太や他の子供達が待っていた。子供達は皆が花束を持ってまるでお母さんが帰って来たように清美を迎えた。そして、再び施設においてのボランティア活動が始まった。清美も子供の頃に戻ったようにはしゃぎ、子供達とふれあっていた。やっと、この日が来たと思うと清美はうれしくて、うれしくてたまらなかった。そして、いつか、直哉との子供が出来た時のことも想像していたのだった。雄太は右腕がかなり回復しており、施設を退居して母親と一緒に暮らすことになった。今日は雄太のお別れ会だった。あれほど、辛いリハビリもなく今は健常者と同様に生活ができるようになったのだ。明るくて優しい悠太は、不安はあったものの普通学級に行って何も問題なさそうだった。さらに、母親と離れている寂しさもなくなるのだ。雄太は施設の友達と別れるのは辛かったがその先には明るい幸せが待っていた。すみれは雄太と別れる寂しさはあったが雄太の幸せを祈るばかりだった。施設の友達達は雄太を祝福して賑やかではあったが名残惜しくお別れを迎えるのだったのだ。今度は清美と直哉の幸せの時が来るばかりだった。季節は廻り時期がやってきたのだった。



すみれは走った、走った、頭の中が真っ白になろうとも走った。涙が溢れ止まることはなかった。悲しくて、悲しくてたまらなかったのだった。そして、翌日、大阪へ向かったのだ。大阪には会社の社長が待っていた。すみれは、大作のことをどれほど強く思ったのだろうか。涙に溢れる清美の異変に社長はすぐさま気づき声をかけたのだ。

「すみれさん、どうしたの。東京で何かあったのかな。」

「いえ……」

そう答えるのが精一杯だった。しかし、今度は社長に別れを告げなければいけない

そう思うとすみれは呆然になった。社長はさらに話しかける。

「どうしたのだ、私に話してごらん。何でも相談に乗るから。」

すみれは何も言うことができなかったのだ。社長はすみれの様子を見て優しく静かに伝えた。

「今日はもう仕事はいいから、アパートでゆっくりしなさい。」

「はい……」

本来ならば別れを告げるはずだったのに、そう答えてしまったのだった。翌日は出勤した、今日こそは別れを告げなければとおもったからだ。辛かった、すみれの精神状態は限界だったのだ。しかし、社長はすみれの想いを悟ったのだった。すみれが何を言わんとすることを悟ったのだ。そして、こう告げた。

「すみれさん、私は君を愛している。でも君は私のことをそうは思っていない。ごめんね、私が気づくのが遅かった。すみれさんのお母様の借金も家を建てたことも気にすることはないよ。返す必要もない。ただ、愛する人の元へ行きなさい。その代わり、最後に抱きしめさせてください。」

そう静かに伝えると、社長はすみれを優しく抱きしめたのだ。そして、最後のメッセージだった。

「すみれさん、今までありがとう。私のために一生懸命働いてくれて。もう、アパートに帰りなさい。何より自分を大事にして幸せになりなさい。時が必ず、すみれさんを癒してくれるよ。」

そう、社長が伝えると、すみれは泣き崩れた。社長が優しく再度抱きしめてアパートまで帰れるようタクシーを呼んだのだった。結局、すみれは何も言えず。タクシーに乗り込んだ。精神状態は既に限界を通り越していた。運転手もあまりにも呆然としているすみれを見てアパートの部屋の入口まで送り届けたのだった。社長との別れは幸いにも社長が解決してくれたのだ。そして、もう再び会うことはなかった。外は悲しみの秋風が吹き静かにすみれとの時の幕を下ろしたのだった。


清美と直哉は幸せの絶頂の時を迎えた。今日は結婚式のウエディングドレスを選びに二人で専門店に行った。清楚なものからきらびやかなドレスが清美の目に写って心が舞っていた。清美は清楚な感じの白く美しいウエディングドレスを購入した。しかし、今までの苦労なども考えると将来にそなえて高価なものは控えたのである。結婚式は来月だった。時が来るのを指折り数えるほど待っていた。施設の子供達も車椅子に乗って参加することになっていた。子供達も普段から可愛がってくれている清美達の幸せを幼くとも祈っていたのだ。ただ、直哉はどうしても援助してくれた老人のことが気になって仕方なかった。それは清美も同様だった。果たして老人が元気にすごしているのだろうかなどと二人で話したりするのだった。恩人でもある老人をどうしても招待したかったが、何処の誰であるかわからなかったので諦めるしかなかった。準備は着々と進み遂に結婚式の日がやってきた。結婚式は小さな教会で行われた、施設の子供達は車椅子のために教会内の両サイドに陣取られた。小さい子供達なりにきちんと正装をしていた。沢村WBG銀行からも支店長をはじめ同僚が祝福に来てくれたのだ。そして、直哉は清美に話しかけた。

「やっと僕達はここまで来ることが出来たね、僕は清美さんを必ず幸せにするからね。」

「ありがとうございます。」

そして、式が行われた。柔らかなオルガンの音と賛美歌が静かに優しく響いていた。

清美と直哉は幸せそうに神父の元へ歩んでいき、愛を誓い合った。そして結婚指輪の交換も行われた。二人の幸せの門出だった。支店長をはじめ施設の子供達から花束を受け取り幸せな中で式はささやかではあったが、参加者から祝福されて行われたのだった。新婚旅行は沖縄に行った。当初は海外に行く予定であったがかねてから、清美は沖縄の美しい海をはじめとする自然に憧れていた。幼い頃から苦労していた清美は今後の新婚生活の貯えが必要と思ったのだ。海が好きだった清美の要望でのことだった。沖縄の海はどこまでも青く透き通り白い砂浜も印象的だった。そして、二人を歓迎しているようだった。今までの二人の苦労が走馬灯のように二人には写し出されたが海の広さと同様にどこまでも幸せが続くように思われた。二人は永遠の愛を誓ったのだった。深い悲しみの中にもどこまでも広がる幸せもあった。


大作はトーマスに助けてもらい。我に返った大作にトーマスはアメリカに来るように強く勧めたのだ。トーマスはアメリカの大手出版会社の日本支店長であり大作の才能を見出したのだった。大作は悲しみの中にも喜びはあったがアメリカに行くかどうか悩んだ。もしかしたら、すみれが帰って来るのではないかと思ったからだ。トーマスは大作を様々な面で支援してくれた。大作は半年ほどすみれを待ち続けたが帰ってこなかったので諦めてアメリカへの道へ進んだのだった。アメリカ行きを決断させたのもトーマスの強い説得によるものだった。そして、すみれを忘れさせるためだったのだ。大作は傷心が癒えぬまま、トーマスとアメリカに渡った。英語も最初は喋ることは出来なかったが少しずつ覚えていき日本と文化が全く異なったことに戸惑ったが次第に慣れていった。しかし、大作はすみれのことをいつまでも忘れる事が出来なかった。すみれの優しい声がいつも大作から消えることはなかった。時々、アメリカの木々を見るとすみれの顔を思い出しては涙が止まらないこともあった。いつか、会えそうな気がしたのである大作は部屋にすみれから貰った花嫁人形と花柄模様の指輪を大事にしまった。いつも手をのばせばすみれがそこにいそうな気がしてたまらなかった。大作の作品は日本の文化を深く美しく描写しており、アメリカで高く評価されはじめた。次第に世界的にも知名度が高まって成功を収めることができたのだった。

一方ですみれは深い精神的な落ち込みによりしばらくは仕事もできない状態だった。深い悲しみがすみれを襲っていた。生活は退職時に社長から通常より多額の退職金を貰っていたので、それで生活ができていたのだった。次第に精神的な悲しみが回復されていくと、無性に自分が腹立たしく思えた。なぜ、婚約したのに別れてしまったのかと思うと悲しみが改めて増してきた。涙に溢れる日々が続いたのだった。自分を責める日々が続いた。そして、東京に帰ることにしたのだった。東京に帰ると真っ先に桜の木の下へ向かった。もしかしたら、大作がいるのではないかという想いだからだ。しかし、そこには大作はいなかった。それはあまりにも悲しかった。その頃、大作はアメリカで生活を始めたばかりだったのだ。すみれは毎日のように桜の木の下へ向かったしかし、そこには大作はやはりいないのだ。悲しい二人のすれ違いであった。大作は桜の木の下で構想を練っていた成果がでたのだ。そして、その頃のすみれとの幸せな体験が後の小説にも影響したのだった。すみれは後悔が終了することはなかった、いつまでも自分を責めてばかりだった。婚約までしたのにと思う気持ちがさらに強くなるばかりだった。あれほど信頼していた社長のことは忘れることは早かったが、大作のことを忘れる日はなかったのだ。

すみれは星が美しく輝く時はいつも空にでて、二人で過ごした夜のことを思い出していた。あの時の美しい星空を思い出すと涙が止まらなかった。二人はもう会うことはできないのだろうか。そして愛を語り合うことはないのだろうか。運命の歯車が再度回ることはないのだろうか。運命の女神は微笑んでくれないのだろうか。



新婚旅行から帰ると休んでいた期間の仕事がたまっていたので取り戻すために仕事に追われていた。しかし、式を挙げてからは同居していたので幸せが仕事の疲れを吹き飛ばしてくれていた。本来であれば正式に結婚届を提出するのが先であったが、二人はあまり形式的なことにはこだわっていなかったので式や新婚旅行と届けの順番は逆になっていたのであった。ようやく、仕事も一段落して心の余裕もでてきたために結婚の届をすることになった。二人で区役所に届けを出しにいくも、証人が必要であったのでその日は届けをすることはできず。証人を探すことになったのだった。二人はかねてからお世話になっており、厳しくも可愛がってもらっていた銀行の支店長になってもらうことにした。しかし、清美は疲れていたことと、正式に結婚という儀式が完了すると思ったのだがようやくここまでたどり着いたという安堵もあったのかもしれない。婚姻届けを引出しにきちんと鍵で保管したにもかかわらず忘れて帰ってしまったのだった。しかし、それは神様の悪戯だったのかもしれない。



大作はペンネームとして、名前を沢村幸太郎としアメリカを中心に海外で活躍していた。繊細で日本文化を美しく描いた作品は高く評価されておりアメリカで豊かに生活していた。しかし、大作は高齢になり癌が緩やかに進行して長くない命だった。最後の出版依頼を受けて執筆中だったのだ。大作は一人あの頃に戻りたくなって、アメリカから帰国した。そして、若き日の思い出の場所である所へ向かった。それは、すみれと出会った桜の木の下であった。桜の木はまだあるのだろうか。そう思いながら、桜の木に向かったら、やはりあの頃と全く同じだ。桜の木から、ゆらゆらと花が舞っている。そうだ、私の最後の出版依頼のある小説の構想をここで練ってみるか。

あの頃のように木の下で寝てみては構想を練っていた。あの頃と同じだった。結局、あの人形のように僕達は前に進むことができなかったね。でも、幸せだったよ、すみれさん、すみれさん。また、会いたいよ。そう思う大作であった。

今日は清美と直哉が役所に結婚の届けをすることになっていた。しかし、朝から清美は少し機嫌が悪かった。それは、今日の朝になって母親から電話があり一緒に婚約届を提出したいと言い出したのだ。通常は二人で提出するものだと思っていたからだ。せっかくの儀式的な雰囲気を楽しみたかったので、残念な気持ちでいっぱいだった。しかし、母の苦労を想うと簡単に断ることはできなかったのだ。

「もう、どうして、お母さんまで届け出に付き合うの。」

「大丈夫よ、遠くから眺めているだけだから。」

「仕方ないな、せっかく二人で届け出をするつもりだったのに。」

早速、直哉が迎えに来て3人で区役所にむかうことになったのだった。

「あ、しまった。昨日、わざわざ支店長に証人になってもらって婚姻届出書を机の中に入れっぱなしだ。」

出発前になって清美はようやく気がついたのであった。

「あら、清美も相変わらずそそかっしいのね。」

「直哉さん、ごめんなさい、途中で銀行に寄りますね。」

「ああ、ゆっくりでいいのだよ。」

銀行に到着して、清美は急いで届出書を封筒にも入れずに持って外に出た瞬間だった。突然、強風が吹き届出書が飛んで行ったのだった。

「あ、どうしよう、走らないと。」

銀行のすぐ近くに一本の桜の木がありそこに飛んで行ったのだ。

風は優しかった、届出書はなんと大作の顔を覆ったのだ。木の下に誰か寝そべっているわ。そこに落ちたみたい。そう思い、清美は大作のもとへ駆け寄った。

「すみません、私の書類がそちらに飛んでいったのですが見当たりませんか。」

「すみれさん……どうしてここに。」

まぎれもなくすみれと初めて出会った時が再現されたようだった。

「すみれとは私のことですか。」

「もちろんだよ、約束を守ってくれたのだね。」

「何のことでしょうか……」

「そうか、そうだよね、時はもうすでに何十年も経つからね。」

「それに、君は若い、すみれさんではないのか……」

大作はやっと気づいた。それほど、すみれと清美は似ていたのだった。清美は、一人呟く高齢者のことが気になり声をかけた。

「どうか、されたのでしょうか。」

「ああ、まさに君は私の大事な人にそっくりだよ。実はね、私は君に似た女性と初めてここで知り合って、ここでお別れしたのだ。何、話せば長くなる、申し訳なかった。あの時の様に書類を返すよ。」

清美は気になったので大作に理由を聞いたのである。大作は当時の頃を振り返り清美に話していた。タクシーの中で待っていた直哉と母は清美が帰ってこないのが気になり銀行に向かった。近くの桜の木にすみれがいたのに気がつきすみれの元まで歩いていった。そして、清美と大作の話を聞いて気づいたのだった。

「もしかしてお父様……。」

そう、母親は言い。

「あの時の方ではないですか。」

そう、直哉は言った。大作こそが仕送りをしていた人物であった。二人は互いに再会を果たしたのだ。

「どういうことかね。」

「これを見てください。母の形見の写真です。私はすみれの娘です。この子は清美といいまして、私の一人娘です。ほら、あなたの祖父になる方よ。」

そう、すみれの母親は言って写真を大作に渡した。

「この写真に写っているのはすみれさん。それにあの頃のお土産の花嫁人形を持っているじゃないか。」

そこには、花嫁人形を持ち幸せそうに笑っていたすみれが写っていたのである。

「お父様……お父様だったのですね。私の母は昨年、他界しました。私には今まで父親がいませんでした。ずっと母が一人で育ててくれて。何かある度にお父様のことばかり幸せそうに私に話すのです。」

「お父様との思い出話をよく聞かされていました。」

「ああ、そうだったのですね、実はあの当時書いていた小説が海外で評価されて。あれから、私はアメリカで生活することになりました。私は今まですみれさんのことは一度も忘れたことはありません。私のバックの中にありますが、すみれさんから頂いた人形を大事にしまっています。これです。」

「お母様……」

「そうだったのですね、すみれさんは、私のことを探していたのですね。」

「はい。」

大作は不思議な気持ちでいっぱいだった。清美がすみれにしか見えなかったのだったのだ。そして、清美に懇願したのだ。

「清美さんと言ったね。」

「はい。」

「お願いがあります。一度だけで構いません。一度だけ薬指を私の前にだしてもらえませんか。」

「わかりました。」

すみれは薬指を差し出すと大作は花柄の指輪を清美の薬指につけたのだった。そして感慨深げにしばらく見つめては指輪を清美から外して清美に話しかけた。

「ありがとうございます。これで夢が叶ったような気がします。ようやく願いが叶ったような気がします。私も病気で、そう長くありません。最後にすみれさんと過ごした桜の木の下に来たところでした。本当に、ありがとうございました。」

「すみれさん、僕の願いは叶ったよ・・・ごめんね、一緒になれずに・・・」

大作は涙に溢れていた。

「きれいな、花模様の指輪ですね、この指輪を頂けませんか。他界した祖母のそばに置いておきたいのですが。」

「ああ、もちろん、そうしてもらえるとうれしいよ。今度は空の上ですみれに直接渡すからね……すみれさん……」

清美の母は感謝の気持ちを伝えてこう話し始めた。

「最後まで大作さんのことを話していました。最後は桜の木の下に行きますと言って亡くなりました。きっと、その想いが叶ったのでしょう。」

「すみれさんは元気にされていましたか?」

「はい、元気でした、いろいろな方から求婚されましたが全て断りました。お父様との約束を守らないといけないと常々申しておりました。」

「でも、やっと会えたよ、清美さんはすみれさん、そのものだ。久しぶりに人形のぜんまいを巻いてみるかな。あ、動いたではないか、どうして・・・」

「そうか、そうか・・・私に会いにきてくれたのだね、すみれさん。」

「待っていたよ。でももう会えないと思っていたけれど会うことができた。」

「私もさほど長くはない。空の上でまたあの、お結びを食べさせてくれるかな。また、二人で食べよう。」

「おじい様……人形が微笑んでいるように見えます。」

「本当だね。すみれさん、やっと会えたよ、私ももうじき君のそばに行くから待っていてくれ。」

そこで、直哉が大作に再び話かけた、大作も直哉に話しかけた。

「あなたは、僕を助けてくれた人。どうして、僕を助けてくれたのですか。」

「そして、毎月のように口座に振り込んでくれたのですか。ああ、あれは手紙に書いたとおりなのだが、私も救うべき人が救えなくてね。その罪滅ぼしをしたくてね」

まさに、救えなかった人とはすみれのことだったのだ。

「そうだったのですね。おかげ様で僕達は結婚することができました。そして、結婚資金に余ったお金は使わせて頂きました。」

そう、直哉が言うと静かに大作は呟いた。

「ああ、そうか、そうか、それは良かった。私の願いが叶ったのだよ。ありがとう。」


決して動くことのなかった人形がカタカタと音をたてながら。桜の木の下で優しく微笑みながら歩いていた。幸せの音とともに。桜の花がそこには美しくゆらゆらと舞っていたのだった。




作 ペンネーム 虹のゆきに咲く

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灯りを待つ 虹のゆきに咲く @kakukamisamaniinori

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