第16話
門扉を潜り最初に見たのはエレイン様の蒼白な顔とレグルスの眉間の深い皺だった。
気遣ってくれるのは分かるが、大事にして欲しくないというのは本音だ。
脇に控えていた医者は、何故自分が此処に居るのかと不服そうな顔をしていた。
エレイン様曰く、一次情報をきちんと把握していたかった、とのことらしい。
客間に連行された私は、二度目となる医師の診察を受け、医師は二回目の説明をする羽目になった。
この出来事がオドネル家に伝わらないように帰る間際の医師にレグルスが強く言い聞かせていたのが印象的だ。
「エレイン様、何故このようなことを?あちらに情報が筒抜けになる可能性もありますよ」
「そうね。でも、マーシャの為だもの。違う医師ならば違う方針を差し出されることもあるでしょう?あのお医者様は大丈夫よ。妄りに口を挟むこともないし、腕も確かですもの」
エレイン様の決定に異を唱えるつもりはないが、余計な接触は疑念を生むだろう。
「マーシャ、私、これでも怒っているのよ。貴方がユーフェミア嬢を気に入っているのは分かっているわ。為した事も感謝こそすれ咎めることでは無いわ。でも、自分の事をもっと大事にしなければならないわ」
「咄嗟のことでしたので自分の安全を怠ったのは否めませんが、ユーフェミア嬢が怪我するよりは余程良いと思います」
素直な気持ちを告げればエレイン様の眉が跳ねた。
「マーシャ、私の小間使いならば、それだけの価値があると言うことを覚えておきなさい。貴方の価値を損なうような行為は慎まなければならないわ」
正論を投げつけられればぐうの音も出ない。
理屈では分かっていても、身体が動かないということがあるのだ。
「承知しました」
降参した私の声色に気付いたのかエレイン様の表情が少しだけ和らいだ。
カウチに座らせられているから視線の高さが同じだが、慣れない為、居心地が悪い。
「マーシャ」
レグルスの声に顔を向ければ神妙な顔をしている。
「どうかなさいましたか?」
「ユーフェミアを助けてくれてありがとう」
レグルスに感謝される謂われがあるのか若干の疑問が生じるが、案じているのは確かだ。
受け取った、と頷けば愁眉を開いた。
「身体のことは全力でバックアップする。話しは大丈夫か?今日のことを聞いておきたい」
「構いません。私も伝えたかったことがありますので」
動きが読まれていたのは分かったが、内実まで把握しているかは不明だ。
すりあわせておくのが無難だろう。
「ユーフェミア嬢に件の彼と引き合わせられました。ルディと名乗りましたが、恐らく本名ではないでしょう」
部屋の隅に居るカイルが目の端を掠めると先程の失態を思い出す。
喚きたくなるのを押し留めて話しを続ける。
「伯爵領内の話しをしただけで核心に触れたわけではありません。ただ、二重帳簿の可能性を指摘したぐらいです」
「二重帳簿か……確かにないほうが不自然だし、不便だ」
「その後、オドネル家に向かう為教会を出たところで馬車に接触させられました。粗雑な作りというのが一瞬見えた私の印象です」
「カイル」
レグルスの呼び掛けにカイルは小さく頷くと少し距離を縮めて私とエレイン様に話すように口を開いた。
「馬車は貸し馬車でした。新市街の外れにあるのを発見しました。借りた人間の特定には至らず、証拠もありません。馬車屋は身元不明の男に多額の金で貸したとだけ証言しました」
ウェルベイア王国の首都であるヒルブリガは所謂、城塞都市である。
人口が膨らむにつれて、元々の城塞の外に街を切り開いて幾重の城塞を創り上げている。
新市街とは王宮のある中核から離れた新しく作られた区画のことだ。王宮から遠ざかれば遠ざかるほど猥雑な街の側面が色濃く出ている。
「今、俺達が掴んでいるのはこれぐらいか」
レグルスがカイルに問い掛ければ、カイルは渋い顔で頷いた。
「せめて実行犯ぐらいには辿り着きたかったのですが、申し訳ありません」
実行犯なんて得てして組織の末端だ。
捕らえたところで核心に迫ることは出来ないだろう。
誰が指示しているか大本は分かっていても、証拠がない。
これが犯罪の立証や裁判であれば、証拠が無いことが致命傷になるだろうが、この場合証拠があろうがなかろうが問題にはならないだろう。
「ユーフェミアを危険に晒したのだ。誰であれ代償は払って貰う」
レグルスの本気が垣間見られる。
ユーフェミアを愛おしく思っているのが嫌と言うほど伝わってくる。
本気だから茶化すわけにはいかないし、否定するのも違う気がする。
「あまり怯えていらっしゃらなかったのがせめてもの救いでしょうか」
こちらの怪我を慮るばかりで自分の事が疎かになっているような印象を受けたが、ユーフェミアが不安がるよりは余程良いだろう。
「落ち着いて、恐怖が漸く心に追い着くこともあるだろう」
夜の帳が降りる頃、気持ちが鎮まったその時に、恐れが零れることもあるだろう。
シャーリーとウィリアムが居るのだから、ユーフェミアの憂いを見過ごすとは到底考えられないから杞憂に過ぎない。
「マーシャ、貴方の事だけれど、カータレット家の小間仕えとしての身分を用意しましたわ」
「カータレット……?」
「私の遠縁の伯爵家になりますわ。この度の口裏合わせに協力して貰いました。オドネル家にはカータレットの名前でコンタクトを取ります。マクファーデンの名を出すよりは良いでしょう?」
縁戚関係があるカータレットの名前を出すのもオドネル家に警戒をされそうだが、マクファーデンよりは余程マシである。
流石エレイン様、気遣いが細かい。
「分かりました。では、そのように名乗ります」
「疲れたでしょう、マーシャ。今日はもう休みなさい。レグルス、もうマーシャは下がって大丈夫かしら?」
「ええ、聞きたいことは聞けたので大丈夫です」
退室の許可が出たことで私は静かに立ち上がった。
「では、部屋に戻ります」
エスコートをするように手を差し伸べてきたカイルに驚きながら素直に手を借りる。
「ああ、マーシャ、今回の詫びと感謝を込めてプレゼントを部屋に用意してあるので受け取ってくれ」
レグルスの言葉にエレイン様は同意するようにコクコクと頷いた。
真横に居るカイルも知っているのか小さく笑みを漏らしていた。
疲れてはいる。
眠りたい。
だが、眠れない。
枕が変わったら寝られないなどと繊細なことを言うつもりはない。
だが、ベッドが豪奢なそれになっていたとなれば話しは別だろう。
寝付けなくて、厨房で夜食でパンケーキを作ったのも疲れによるものだ。
今日ぐらいの不摂生許されるだろう。
自室に戻って落ち着こうと思えば、ある部屋から細い明かりが漏れていたのを見付ける。
殊更足音に注意して近付いて中を覗き込めばカイルが部屋の中で仕事をしているようだ。
夜も更けたというのに未だ仕事をしている。
今迄ならば積極的に接触しないよう回避していただろう。
だが、色々と借りがある。
立ち去ろうとした私を引き止めたのは心に生じた何かだ。
好奇心と失態の挽回と労りとが綯い交ぜる。
今日はそういう気分なのだろう、自分に言い訳を一つするとノックをしてドアをそのまま開けた。
「失礼いたします」
「っ!!驚いた、こんな時間に何をしているんだい」
「落ち着かなくて、厨房を借りていました」
カイルの視線が私の持っている皿の上に注がれた。
「甘い物が苦手で無ければどうぞ」
「いいのかい?」
「流石に一人でこの量は欲張りすぎました」
いけなくもないが、胃もたれしそうな量だ。
私の言葉をどう受け取ったのか分からないが、カイルは小さく頷いた。
「そうか、ありがたい」
「こんな時間まで仕事ですか?レグルス様を支えるのも大切ですがご自身の体調管理もお忘れ無く」
カイルの腰掛けていた椅子の側にあった椅子に腰を下ろして、パンケーキが数枚乗った皿を差し出す。
「寝台は気に入らなかったかい?」
からかうような声色が耳を撫でる。
「気に入りましたよ。あんなふかふかで大きいベッド。ただ、今日はあんなことがあったからか少し気分が高揚しているんです」
自分自身の制御が緩くなっている気がする。
思考が纏まらないのも、その所為だろう。
「怖い目に遭ったね」
「……そう、ですね」
改めて言われると、自分の身に起きた事が命の危機だったのではないかと思ってしまう。
馬車だから侮ったのだろうか。
昔、車に接近された時、腰を抜かしたのを思い出す。
「未だ実感がないみたいです、多分」
強い痛みで漸く、私は気付くのだろう。
危険が側にあったのだと。
「今日の君は、いつもと違うね」
いつも、と言われても、慣れ親しむほどカイルの側にいた記憶は無い。
仕事場の同僚だが、細かく言えば部署違いというイメージが強い。
「素の顔が見られたようだ」
「割と何を考えているか分からないと言われることはありましたね。実際、本当に何も考えていないんですけど」
以前の職場でも、軋轢を生まないよう人に対して丁寧に振る舞ってきたつもりだ。
特別に誰かに肩入れすることも無ければ、誰かを批判することもない、無色透明な存在だと印象づけてきた。
だから、特別に仲が良い誰かなんて出来る事も無かった。
「……君は、人を遠ざけようとする癖があるからね」
「そんなつもりありませんよ?」
「困ったことがあっても誰かを頼ることもない、自分一人で何でも済ませてしまう」
「自分で出来る事は自分でやるでしょう?」
自力でやるのと人を遠ざけることが並列に扱われるのが得心いかない。
「この屋敷の使用人達、君は隙が無いから完璧超人だと思われてるよ」
「はぁ?何故ですか?」
「他人のことは容易く助けるくせに見返りを求めないだろう」
見返り、と言われても放っておけないから手を出しているのが大半だ。
人に金を貸す時に戻ってこないことを覚悟するのと同じだろう。
感謝されたくて手助けしたわけじゃない。
私自身が、そうしたいと判断したから行動しただけだ。
「見返り求めていないわけでは無いです。少しでも好感度上がったらラッキー、って具合ですけど」
純粋な厚意なんて、ありえない。
打算があっての、私の為の行動だ。
「じゃあ、それが弱いのかな。君自身がいつも見えない」
だから理解出来ない、とでも言いたげなカイルにどうすれば自分が欲深く浅ましい人間だと分からせられるのだろうか。
「今日の君はやはり昨日と違う。昨日の君なら、俺の質問をまともに取り合わなかっただろう」
「それは簡単なことです。今日、貴方に助けられましたから」
単純なことだろうと視線で訴えれば、カイルは怪訝な顔をする。
「怪我をした私を労ってくれました。自分に優しくしてくれた人間に対して優しくしたいと思うのは普通でしょう?」
借りを返したい、という気持ちでもある。
「優しくって、怪我人には普通だろう」
「私にとっては十分ですよ。ありがとうございます」
(是非、借りを返したい)
一方的に施されているだけでは居心地が悪い。
一緒に居て気負うなんて、堅苦しいこと御免被る。
「君は俺に感謝しているわけ?」
「ええ」
「じゃあ、君の事を少し教えてよ」
カイルの言葉に驚いてしまう。
身元を探りたいわけではないのは分かるからこそ理解に苦しむ。
「――話せる範囲で良いから」
記憶喪失なんて言葉額面通り信じてはいないのだろう。
付け加えられたカイルの言葉に私は頷くしか無かった。
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