第9話




「マーシャはきっと、楽士だったのですよ!!」

 興奮したように告げるユーフェミアに、可愛いなぁ、と思わず頬を緩めてしまう。

 一頻り演奏会を終えて、改めて自己紹介をした。心苦しかったが誰の世話になっているかは伏せさせたもらった。レグルスに近いと知られれば笑顔が曇るかもしれないし、何より部屋の脇で控えているシャーリーが本格的に排除しようとすることは容易に察せられたからだ。

 “マーシャ様”と鈴が鳴るような声で呼ぶ彼女に居心地が悪いからと懇願して呼び捨てにしてもらうことに無事成功した。本来の名前をあどけなく呼ばれているようで、幼子が必死に名前を呼ぶ様子を思い浮かべてニマニマとしそうになってしまうが口元をギュッと引き締める。

「ユーフェミア様、大袈裟ですよ。私のは手遊てすさびですもの」

「でも、感動しましたわ。思わず身体がリズムに乗って揺れてしまいましたもの」

 確かにピアノを弾いている時に目の端でユーフェミアの身体がユラユラと揺れていたのは捉えていた。

「楽しんでいただけたのならば私も嬉しいです」

 これは本当のことだ。

「マーシャは不思議ですわね。私の知らないことを知っているかと思えば、幼子が知っているようなことを知らなかったり」

 シャーリーという監視付きの世間話でユーフェミアは私の歪さに気付いたらしい。

 些細な事に注意が払えるのはユーフェミアが他者に対しての警戒があるからだろうか。

 部署内で恋愛騒動があった際に、その二人が付き合っていたことを知らず、公にされてから知った立場としては殊更注意を払わなければならない領域と思っている。

 レグルスがユーフェミアを好いているのを知っているからニヤニヤと本を読み進めることが出来たが、実際、事前情報を知らずに側に居たのならばレグルスとユーフェミアを接近させないようにするだろう。

「知識に偏りがあるのは自覚しております」

 高校の文理選択で早々に理系を手放して社会人になってからも必要に駆られず、そのまま放置をしていた。

 どう説明して良いか分からず視線を部屋に彷徨わせる。

 調度品も一級ばかりなのだろう。

 百貨店のガラス細工の店を冷やかしに見ていた時と気分は似ている。

 割ってしまったらどうしようというヒヤヒヤ感が拭えない。

 そんな中視界を掠めたのは黒白の盤と駒だ。

 僅かの間、視線を留めた筈だがユーフェミアは目敏く気付いたらしい。

「チェスに興味があって?」

「いいえ、チェスよりは将棋の方が馴れてます」

 装飾に凝っているから目を奪われただけだが、将棋の方が遊んだ回数は遥かに多い。

「“ショウギ”?」

 拙い発音に、これはないのか、と微かな落胆を抱いてしまう。

 盤を用いた遊戯だが、チェスは六四枡、将棋は八一枡と違う上、将棋は取った駒を自軍の駒として使える。それに、将棋は敵陣に駒が動いた時に“成る”ことが出来る。似たように思えるが、駒の動かし方も少しずつ違う。

(頭のいい人は両方出来るっていうけどね……)

 チェスで駒の動かし方を間違えるのは私は割とやってしまうことだ。

「チェスに似ている室内遊戯ですが、少し違う駒の動きをするものです。古くは駒の数も多く大きかったのですが、簡素化されているものが一般的ですね」

「面白そうね。やってみたいわ」

 目を輝かせているユーフェミアに笑顔が固まってしまう。

「駒も盤もありませんし、それに教えるのは不得手ですので。どうぞご容赦願えますか?」

「うぅ、分かりましたわ。今日は諦めますわ」

 不穏な言葉が聞こえた気がするが気にしたら負けである。

「ねぇ、マーシャ」

 不意に、ユーフェミアの声のトーンが一つ下がる。

 両の掌で包み込むように持っていたカップをソーサーに戻す。

「なんでしょうか」

 笑みを収束させて、微かに緊張しているのか顔が少し強ばっている。

「今日会って、こんなこと尋ねるのは不躾だと分かっていますが、マーシャは私とは違う視座を持っていることだけは確信しています。だから、話を聞いて欲しいの」

「……ユーフェミア様、私は物を知らない女です。お役に立てるとは到底思えません」

 ユーフェミアの話は、ルドルフのことではないかと何故か強く思ってしまう。

「私は、役に立つと思いますわ」

 部屋の入口から強い視線が突き刺さる。

 顔を俯かせ、さり気なく盗み見れば、確認するまでも無かったがシャーリーであった。

 人の感情には疎い方だからあれがなんだか判別がつかない。

 嫉妬か、不満か、苛立ちか、或いは全てが入り交じっているのかもしれない。

「ユーフェミア様には心強い方がお側に居りますでしょう?」

「貴方が良いの」

 間髪いれずに零れたユーフェミアの言葉にシャーリーからの視線の圧が一層強くなる。

 なんで私に拘る。

 初めて会った人間に割と重いことを告げようとしていないだろうか。

「……分かりました。聞くだけですよ、ユーフェミア様の為になるかは保証出来ませんがそれで宜しければ」

 私の言葉に愁眉を開いたユーフェミアは小さな声で事情を話し始める。




 ユーフェミア曰く、正しいことを行おうとするならば、正しい手順を踏まなければ、正しさが損なわれるのではないか、ということだった。

 正しさの形が千差万別だと恐らく、実感していないのだろう。

 正しいものは強く、瑕疵の無い、美しいもの――そんな理想を抱えている。

「その志は尊いはずなのに、どうして自分自身を貶めるようなやり方をするのでしょうか」

 詳細は伏せられていたが友人と言い争いになったこと、その原因は弱者の救済という正しき行いだと言うことをユーフェミアは言葉少なだが語ってくれた。

 故意に削ぎ落とされた情報の裏にある、ルドルフと仲良くしたい、仲良く出来るという考えは容易く汲み取ることが出来た。

 事情をオブラートに包み、法に抵触していることなども伏せて告げたことから慮っていることは明白だ。

「すべきことは間違っていないのに、その手段が誤りのように思えてならないのです」

「正しさを貫くことが出来るのは一部の人間だけですよ。それは、傷を負うことのない場所にいて余裕がある人間の発言ですね」

 ユーフェミアが小さく息を呑んだ音が部屋に妙に響いた。

 追撃したいわけではない。

 それでも、そこに至る為に数多の道があることを伝えなければならない。

 シャーリーの顔が怒りで朱に染まるのを目の端で捉えるが、言葉を慎むことは出来ない。

 ユーフェミアは上辺だけの慰めの言葉を求めているわけではない。

「ユーフェミア様のご友人にとって、それが最善なのでしょう。それ以外を識らない、出来ない事なのです。多くを救い、傷も浅ければそれに越したことは無いでしょう。けれど、無理だと分かった時、何を優先すべきか、何が譲れないのか、きっと分かっているのです。何に重きを置くかは人によって変化します。他人の不幸こそが幸福だと思う人間だっているのです」

 そんなことがあるのか、と信じられないものを見たかのようにユーフェミアは目を瞠る。

「そんなっ!!神は他人の幸福を祈りこそすれ、不幸を願うなど赦しはしません」

「ええ、綺麗に正しく生きられる人間がどれ程いるでしょう。真っ当に生きるのならば、あれ程に罪の告白は多くないでしょう」

 教会の中で見かけた小さな小部屋。

 あれは、告解室だ。

「極端な例を申し上げましたが、ユーフェミア様の正しさはユーフェミア様だけのもので万人のそれではない可能性があるということです」

「私だけの……正しさ」

 自分自身に言い聞かせるかのように、緩やかにユーフェミアは言葉を漏らした。

「ユーフェミア様は、ユーフェミア様の正しさと相容れないその方をお嫌いになりますか?」

「いいえ。いいえ、そんなことありませんわ!!」

 力強く頭を振ったユーフェミアは咄嗟に、といった具合だ。

 ルドルフを思う気持ちに嘘は見受けられない。

「だって、それだけが彼の全てではありませんもの。彼の優しさを私、知っていますもの」

 全ての感情を分かち合うことは出来なくとも構わない、とユーフェミアは胸に手を当てて目を伏せた。

「彼の言葉は、とても強く、私の胸に突き刺さりますの。私が目を逸らしていたことを、的確に、鋭く、えぐってきます」

 何か思い至ったかのように目蓋をあげたユーフェミアはゆるり、と笑った。

「……私、彼に愚かだと言われたのが悔しいのではなく、話すに値しないと突き放されたのが悔しかったのですね」

 自分の中にある朧気な輪郭だった答えに触れたのかユーフェミアは曖昧な表情ではなく笑った。

「もっと言って欲しかった。その手段しか無いなんて、決めつけないで欲しかった。微力でも、私は彼に寄り添いたかった」

 聞きようによっては恋い慕う相手への想いの吐露と受け止められかねないが、恋情など欠片も見受けられない。

 好きな相手というよりは、親しい友への愚痴だ。


「彼と対等でありたかった」


 心の奥底にあった目を逸らし続けた感情をユーフェミアは掬い上げた。

 何の気負いも衒いも無い関係。

 裏切られる心配も、傷付けられる憂慮も無い、貴族では難しい関係だろう。

「だって、彼は、私を真っ直ぐに見詰めて下さったもの」

 令嬢だからと侮り事情を伏せたわけでもなく、出世する為の手段として優しさを与えたわけでもなく、剥き出しの感情を投げつけてきたルドルフは大凡貴族の振るまいとは掛け離れているだろう。

 それが、ユーフェミアには新鮮で嬉しかったのだろう。

 実際、小説でもユーフェミアはルドルフを“稀有けうな人”として扱っていた。

「大切な方なんですね」

「ええ。私に初めてをくださったの」

 誤解を招く表現だが初めての“感情”を引き起こした相手という意味だろう。

 シャーリーの蟀谷こめかみがヒクリと動き血管が浮き出ているのは見なかったことにしたい。

「これからどうされるのですか?」

 介入するなと遠ざけたルドルフにユーフェミアはどうするのだろうか。

 既に、彼女の中で答えは出ていても口に出して欲しくて尋ねてしまう。

「食らいつきますわ。馬鹿にされたままで終わるなんてオドネルの名折れですもの」

 口元に貴族らしい歪みの無い笑みを浮かべたユーフェミアの瞳には力強い意志が宿っていた。




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