第8話




「まぁ、それでは思い出を忘れているのですね」

 向かい側から惻隠の情を湛えた眼差しが身体を撫でる。

 不躾なそれに憤るよりも、現状に心が根を上げそうだ。

 カタンと揺れるのは馬車の車輪が石畳を駆けているからだろうかなんて、現実逃避をしたくなるが、どんなに念じたところで、私が侯爵家の馬車に押し込められたのが現実だ。

 公爵家のそれよりも凝られていない馬車の内部は華美な装飾不を削ぎ落とした簡素なものであったが、座り心地は悪くはないのだから機能面を優先しているのだろう。

「普段の生活に支障はないと先程仰っていましたが、それでも楽ではありませんよね」

 嘘を吐き続けるには一種の才能が必要となる。

 一つの嘘を覆い隠すための虚構を積み上げれば何れ崩落して自分の身を押し潰すものだ。一分の隙の無いロジックを組み上げることなど私には出来ない。

 沈黙は銀を貫こうとすると、ユーフェミアの傍らから突き刺さるような強い視線が向けられる。

「…………」

 視線の意味を当世風に解釈すれば、お嬢様の質問に黙っているとは余程死にたいらしいな、といった具合だろうか。

 命は惜しい。

「周囲の方に支えられているので恵まれていると思います」

 ユーフェミアの言葉に反応をしてもメイドに擬態している彼は不服そうな表情を隠しもしない。

 隣に座るユーフェミアには表情が見えないのだから殊更、質が悪い。

(いや、不満ならあの段階でもっと粘れよ!!)

 身元不明の人物を屋敷に連れて行くなんて危険だ、とシャーリーは礼拝堂でユーフェミアの申し出に反発した。

 シャーリーの考えは尤もだ。

 記憶喪失の怪しい女を近付けるなんて危険を遠ざけたい人間とすれば当たり前の考えだろう。

 その当たり前を、怪しむなんて酷い、とユーフェミアは呆気なく退けた。

 常識的に考えてシャーリーの方が真っ当だ、と疑われているはずの私は思わず同情の眼差しを向けてしまった。

 更に私を排除しようと言い募るシャーリーに、どうしても駄目かしら、と潤んだ瞳で見上げたユーフェミアに、彼は呆気なく折れた。恐らく、何か起きた際に私一人を制圧する手間とユーフェミアの願いを叶えないで傷付けることを天秤に掛けた結果だ。

(そんなんだから、ルドルフに詰めの甘い男って言われるのよ)

 ユーフェミアの希望を通すあまり警備が手薄になり、襲撃された時にルドルフが彼を詰った場面を思い出す。

 誰か一人だけを護るという覚悟が不足しているとルドルフはその際に言葉を重ねたが、俯瞰的な情報を知っている立場としてはそれには同意しかねた。

 シャーリーの世界には“お嬢様”と“お嬢様の大事なもの”と“それ以外”に綺麗に分かれている。恩が有り、尚かつユーフェミアの実家であるオドネル家は彼にとっては数少ない守る対象だ。それ以外への対応は温度を感じるようなものではないし、手酷く排除することもあった。特にユーフェミアを害そうとする人間は完膚なきまで叩きのめしていた。だからこそ、彼が甘いのではなくユーフェミアに怖がられることを恐れているのは察することが出来た。自分の薄暗い部分を、特別だと思っている人間に晒すのは酷く恐ろしいだろう。

「先程の曲、素晴らしいものでした。どなたの作曲なのでしょうか」

 ユーフェミアの問い掛けに、あの民謡に作曲者などいただろうかと内心首を捻った。

 歌詞に関してはヘンリー八世の名前が挙げられていたが、作曲者は不明だった筈である。

「記憶の奥底にあった異国の民謡です」

「民謡……あの素敵な旋律は多くの民が紡いだものなのですね。民が音楽に親しんでいるのですね。感服いたしますわ」

 ほぅ、と小さく息を漏らしたユーフェミアはあの曲がお気に入りのようだ。

 あの曲が無条件に寂寥感が漂うのは何故なのだろうか。

 電話の保留音にもよく使われており、仕事で電話をする際にもよく聞いたものだ。

 病院に勤務している友人に話をした際には病棟での呼び出し音だと言われた時は、随分と日本の中でも周知されているのだと驚いたものだ。

「気に入っていただけて恐縮ですが、私、あまり多くは弾けないのですが……」

 謙遜では無く素直に告げれば長い睫はパシパシと音を立てるように宙をはたく。

 驚きを収束させたユーフェミアは、ふうわり、と笑った。

「緊張なさらないで下さいまし。あの曲をもう一度聞きたいだけですの。可能ならば他の曲も聴いてみたいですわ」

 ユーフェミアに聞かせても問題のない曲、とまともに弾ける曲を頭の中で探す。

 クラシックでも楽譜が手元に無い状態で最初から最後までと考えると数曲しか思い当たらない。激しくないアニソン、と考えたところでふと思い当たる。国民的アニメの曲ならば、と脳内で音を鳴らしてみると不都合はなさそうだ。

「何か気がかりなことでもありますか?」

「えっ?」

「眉根が寄っていましたので」

 白く細い指で自身の額を、とん、と叩いたユーフェミアは苦笑する。

「済みません。聞かせられるレベルのものがあったか考えていました」

 額を思わず左手で覆ってしまう。

 考え込むと眉根が寄るのは私の癖の一つだ。

 目付きが悪くなるので周囲からよく注意を受けているが、癖というのは簡単に直せない。

「先程の曲、題名はありますの?」

「……いえ、覚えていません」

 名前を口にしようとしたところで、この世界でどんな意味があるか分からず口を噤んでしまう。

 複数の解釈があった筈である。

 思えば私がユーフェミアにあの曲を聴かせる、なんて皮肉なものだ。

 苦笑いが漏れればユーフェミアから気遣わしげな眼差しを向けられる。

「気を強く持って下さいね」

 思い出せない事への自嘲の笑みと受け取られたらしいが特段否定する必要も無いと受け止める。

「詳しくは覚えていないのですが、あの曲には歌詞もあった筈です。ある高貴な殿方が自分を顧みてくれない女性へ向けた愛の告白めいたものだったので、不敬かとも思っただけです」

 レグルスにこそ相応しいのでは無いのか、と思い至れば少しだけ愉快になってくる。

「告白、ですか」

 頬を紅潮させたユーフェミアは夢見がちなところがある為かロマンチックなことを思い描いているのだろう。




 門扉を潜り、ピアノを弾くためだけの部屋に連れて来られた。

 使用人達が屋敷にとっての異物である私に警戒を滲ませたのは最初だけで、あのユーフェミアが望んで連れてきた人物ということで驚きの眼差しを向けられた。

 即座に感情を押し込めるように仕事に戻る姿は流石の、侯爵家の使用人というところだろうか。

「では、ユーフェミア様、先程の曲をもう一度弾きますね」

「ええ」

 シャーリーの用意した椅子に腰掛けたユーフェミアは小さく拍手をする。

 仕方なくレグルスの代わりにユーフェミアへの愛を奏でる。

 私にとっての慣れ親しんだ黒白に少しだけ緊張が解れる。

 手が小さい為、親指と小指で一オクターブ弾くのが苦だが初心者用の楽譜は難しくはない。

 覚えていて良かった、と心底思える。

 長い間、ピアノから遠ざかっていても脳が覚えていなくとも指が動きを覚えていた。

 思わず口ずさみそうになるのを押し止める。

「やはり素敵ですわ」

 ユーフェミアから拍手を送られる。

 目を潤ませたユーフェミアは刺繍が施されたハンカチで目尻を拭う仕草をする。

「ありがとうございます。私がもっと上手ければ上級者用のものを弾けたのでしょうけれど喜んでいただけたら幸いです」

「そんなことないわ。素敵な演奏ですもの」

「恐れ入ります。拙い演奏で申し訳ありませんが、私が覚えている短い曲の幾つかを弾かせていただきますね」

 激しいゲーム音楽、ではなく日本国民に広く周知されたアニメの曲を思い出しながら弾き始めた。




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