第7話




 ユーフェミアとルドルフの遣り取りを目撃してから数日が経った。

 レグルスはカイルや他の側近にハリウェル伯領の調査を極秘に申しつけ、マクファーデン公としての政務に取り組みユーフェミアを見守ることもない――つまり、私は暇であった。

 エレイン様のお世話に戻ろうとも思ったのだが、貴族の淑女としての振る舞いから逸脱する楽しみを見出したのかあり得ないことを口に出した。


 『私は自分の事は自分で出来るわ』


 『それより、レグルスのことをお願い』


 懇願するようなその口調に折れてしまった私も私だが、暇を申しつけられたわけではないのは、エレイン様が私の居場所を誰にも与えていないことから理解している。還る場所を保証されているが、申し訳なく感じるのだ。

 そして、私は情報収集がてらあの教会の前に来ている。

 貴賤に関係なく人を受け入れる、門戸は常に開けられている。弱者の救済を謳うも歴史的には腐敗することも多い閉鎖的な場所だ。宗教戦争、と考えると口の中が苦くなって頭が痛くなる。信仰を理由に侵略と殺戮が行われることだって少なくない。日本にだって“僧兵”なんて存在もあったし、加賀の一向一揆なんてものもある。

 西洋では宗教と文化、文明は密接に関係しているし、知っていて損はないことだ。

 小説では、ウェルベイア王国ではウァテス教が民の心を慰めるとされている。それ以上の言及がないのだから、実際に接してみなければ実情は分からないだろう。

 通りから見える建物に嵌め込まれているのはステンドグラスだろう。

 それだけで、偶像崇拝が認められていると判断出来る。宗教絵画や彫刻の発展は識字率という問題という副産物によるものが大きいとされる。文字を読むことが出来ないということは、宗教における聖書の類を読めないと言うことである。口伝では信仰を伝播させるには弱い。文字を知らない庶民への奇蹟を知らしめるには平易に説くのが正しいのだ。

 近付けば建造物の大きさに圧倒される。

 複数の尖塔と聖堂だろうか元の世界でテレビ越しに見たそれと遜色ない。

 抑も、歴史を重ねたことに価値がある建築物だ。修復も時代の最先端に改修するのではなく元を活かしていくことも多いのだから当然だろう。

「何か御用でしょうか?」

「えっ」

 茂みから投げかけられた声に思わず背筋を正してしまう。

「いえ、ずっと教会を熱心に見られていたので。お祈りでしょうか?」

 年嵩の男性が顔を覗かせた。

 ゆっくりとした足取りは歳によるものではなく、威厳を知らしめる為のものだろう。

 慣れ親しんだ動きのように見えた。

「司祭様でしょうか、それとも司教様でしょうか?」

 清貧だと印象づける黒い服に関係者だと見当を付ける。

「司教様など滅相もありません。この教会の司祭を任されておりますキーツと申します」

「それは失礼いたしました、キーツ司祭様。私はマーシャと申します。確かに、私、お祈りをしたいと思っていましたが……」

 事情がありますと言葉を濁せば、人の良さそうな司祭は心配そうな眼差しを向けてくる。

「何か問題でも?」

「実は、私、記憶を無くして行き倒れていたところを大層親切な或る貴婦人に助けていただきました。このような僥倖、神の導きとしか思えません。この国の神様に感謝をお伝えしたいと思っていたのですが、私のような素性の分からない者が足を踏み入れて良いか……」

 顔を俯かせ視線を地面に彷徨わせ、困惑を滲ませる。

「何を仰るのですか!!教会は貴賤関係なく万人のために門を開いております。記憶が無くとも、その祈りの想いがあれば神は受け入れて下さるでしょう」

 一歩、距離を詰めた司祭は目を潤ませて強い語気を飛ばす。

 可哀想な境遇を思い浮かべて同情してくれる司祭に心苦しくはあるが、弱者の方が疑われないのは古今東西間違っていないだろう。

「さぞ、ご苦労されたでしょう」

 曖昧な笑みを漏らせば、司祭の憐憫の眼差しは一層強くなる。

 生憎、実際はエレイン様の手厚い保護で身体的苦痛を感じることはさしてない。

「ですが、教会での作法も覚えていなくて……」

「宜しければ、教会の内部もご案内しますよ。さ、どうぞ」

 正攻法で教会を堂々と闊歩する権利を獲得することに成功し、思わず口元を緩めてしまう。




「原初、この世界は闇に包まれていましたが、光が生まれ、この二神により大地が生まれ空と海も生まれました」

 キーツ司祭の言葉に頷きながら、自分の記憶にある宗教学の知識を引っ張り出す。

 学生時代のそれがどれだけ役に立つかは分からないが無いよりはマシだろう。

「その後、産み落とされた神々をウァテス教では信仰しています」

 一神教ではなく、多神教。

 ギリシャ神話の体系に似ているか、とある程度の見当を付ける。

 学生時代、国文学科だったが教養として宗教学は幾つか受講していたことが良い方に働いたようだ。

 印象深い言葉を教授から投げかけられたことがある。

 “人は誰しも平等”なのではなく“人は神の下誰しも平等”なのだと。

 西洋から流入したその言葉が変質したのはそれが理由であると教授は語っていた。

「マーシャさん、どうかされましたか?」

 思考に没頭しかけたところに声を掛けられ、慌てて表情を作る。

「いえ、精緻な細工に驚いていただけです」

 荘厳な雰囲気に気圧されているのは事実だ。

 凛と張り詰めた空気、嘘偽りを暴くような正しさの極致は隠し事を多く持つ人間には据わりの悪い場所だ。

「この教会は多くの方の支えによって運営されていますので」

「そうなんですね」

 記憶の中にある朧気な教会内部とは大差ないように思えるが、頻繁に足を運んでいたわけではないから自分の感じたことが正しいとは判断出来ずにいる。

 パイプオルガンだろうか、馴染みのある鍵盤に思わず足を止めてしまう。

「おや、興味がおありで?」

 私の動きに気付いた司祭は振り返ると柔らかな笑みを浮かべ、鍵盤に触れる。

 ピアノを幼少の頃習ってはいたが、パイプオルガンのペダルや音栓は未知のものだ。更に、白鍵と黒鍵がピアノとは反転しているのが特徴的だった。

「良かったら、弾いてみますか?」

「えっ?」

「何か思い出すかもしれませんよ」

 勧められるまま椅子に腰掛けてしまう。

 白鍵をひとつ、指先で押してみる。

 音は抑えられているのか、それでも、教会内部に響き渡っている。

 両手を鍵盤の上において、どうするかと考え込む。

 弾きたいものを弾いてきたからか、人前で弾けるような腕前ではない。

 まさか、この雰囲気でアニソンを弾くわけにはいかず、かといって“猫踏んじゃった”では申し訳ない。

 所謂クラシックでも触りしか弾けない曲もある。

 司祭の見守るような温かな眼差しを裏切るわけにもいかない。

 腹を決めると、鍵盤に指を滑らせる。

 手鍵盤とペダルを少しだけ使う程度だが、それでも響き渡る音に頬は緩む。

 物寂しい音階は郷愁の念を煽り、琴線に触れる。

 このイギリス民謡の出典は不明、諸説あるが謎に包まれている。

(緑の袖、ね)

 思い人への嘆きとも乱れた性とも言われているが、この旋律は心を穏やかにしてくれる。

 指が覚えていてくれて良かった、と最後の音を鳴らした。


 ――パチパチ


「えっ?」

 拍手に思わず顔を上げる。

 司祭の手からではない方向からの音に思わず顔を動かしてしまう。

「素敵な曲でした。楽士の方でしょうか?」

 マカロン色の緩くうねる髪、天空の青を想起させる鮮やかな色を湛えた瞳、薄紅色のまろい頬、高く整った鼻梁、誰もが傅きたくなる美貌を持った令嬢がそこに居た。

(なぁぁぁぁっぁ!!)

 思わず心の中で絶叫したが、頬が引き攣ってしまう。

「これは、ユーフェミア様、お約束の日取りは本日ではないと覚えておりますが、如何されましたか?」

 司祭の口から零れた名前に、目の前の人物が確定してしまう。

 本日の来訪は予定されていない。だからこそ、レグルスは教会に入るユーフェミアをこっそりと見詰める予定をいれていなかった。

「司祭様、唐突で申し訳ありません。わたくしの罪を聞いていただきたく参じたのですが、素晴らしい音楽に心が慰められましたわ」

 キラキラと目を輝かせてこちらを見詰めるユーフェミアに居心地が悪くなってしまう。

 逃げたくても、既に認識された後だ。

「私も驚きました。記憶が無いのに、ここまで弾けるとは……音楽に関わっておいでだったのかもしれませんね」

「記憶が!?そのような不幸なことがあったのですね……」

 司祭とユーフェミアが心から憐れんでくれているのが分かるからこそ罪悪感がチクチクと刺激される。

「そうですわ。これも何かの縁です。私の家で他の曲を弾いていただけませんか?」

 良いことを思いついた、と言いたげな様子のユーフェミアに私は頭を振ることも出来ず曖昧な笑みを浮かべるだけだ。

「あの……」

「何か思い出すかもしれませんし」

 ニコニコと笑うユーフェミアは可愛い。

 だが、その背後に控えるメイドの眼差しに、私は血の気が引き身体を硬直させた。


 

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