第5話




 スカートの中ほどを両の手で掴み駆け足で裏庭へと向かう。

 耳障りな声を頼りに正しい道順ではないであろう低木の隙間を無理矢理押し通る。

 鮮やかな緑と、ベンチ、そして向かい合う二人を見付けてその場にしゃがみ込んだ。

「っ……周囲に甘やかされて慈しまれてきた君に何が分かる。正しき訴えは退けられ、民が搾取され続ける。誰も取り合ってはくれなかった。生きるには金が必要だった。それを、奪われたとて何の痛痒も感じない連中から奴らの言う正しい手順で預かっただけだ」

 昂ぶりを押さえつけたような声の主は、先程私が見付けたルドルフに他ならなかった。

 彼の眼差しはただ一人、ユーフェミアに向けられている。

 蒼白に染められた容に白魚のような手は小刻みに震えていた。

「……それでは何も変わらないではないですか。ハリウェル伯爵は愚かな方ではありません。領地で横行している不正を看過することはございません。いつか――」

「いつか、気付くと。数多の骸を見付けて、漸く」

 ユーフェミアの言葉を嘲嗤で受け流したルドルフは深い息を吐き出した。

 物を知らぬ令嬢の言葉を取り合う必要は無いと言いたげな眼差しは迷いの揺らぎはない。

「これは――」

「っ!!」

 真横から唐突に聞こえた声に私は思わず息を呑んだ。

「カイル様」

 傍らで私と同じように屈んでいるカイルは元々長身だからか、その窮屈そうな格好が少しばかり滑稽であった。

「ユーフェミア嬢とあちらは?」

「何故、ここに?」

 小声でそう問い掛ければ、カイルは渋い顔をする。

「レグルス様がついて行けと。それより、先程の質問の答えは?」

 苛立ったような口調に私は小さく息を漏らした。

 原作では次期伯爵になるルドルフだが、この時間軸では隠された出生に苦しみ、市井で隠れるように暮らしている筈である。しかしながら、伯爵領内の不正で困窮する領民の為に奔走している時期だ。

「後ほど」

 端的に告げるとカイルは納得したのか分からないがそれ以上言葉を重ねなかった。

「あの乾いた土では満足に作物はならない。僅かな蓄えも代官に奪われていく。その日の食べ物に困る者にこれ以上、待てと君は言うのか」

「私は、そんな……」

「それとも、侯爵令嬢様がお父上にでも取り成してくださるのか?」

 ルドルフの言葉にユーフェミアの顔はどんどん俯いていく。

 他領のことに干渉するなんてユーフェミアはおろか彼女の父である侯爵にも不可能な話である。それこそ、国王ですら簡単に触れることは出来ないだろう。領内の治安維持と裁判権は領主に委ねられている。“保護と命令”に対して“忠誠と軍事力の提供”――それが正常な封建制度の形である。この微妙なバランスは時を経るに従い歪な形になるのを歴史は証明しているがウェルベイアでは未だその片鱗は見受けられない。

「君の理想論には反吐が出る。そんな空論で誰が救えるものかっ!!」

 荒げられたルドルフの声に立ち上がりかけたカイルの服を掴んで無理矢理腰を下ろさせる。

 騎士然とした彼にはルドルフがユーフェミアの甘さを面罵する様は見ていて苦痛だったのだろう。

 だが、ルドルフの剥き出しの感情はユーフェミアにとって後々財産になるものだ。

「私は貴方のやり方は間違っていると思います。他者を欺き、己を欺き、対処することは最善とは思えません。正しいことはとても強い、ことの筈です」

「違う。正しいから強いのではなく、強いから正しくなるんだ」

 ルドルフの正鵠を射た言葉に私は思わず首肯しゅこうしたが、ユーフェミアには理解出来ないのか、困惑の表情を浮かべた。

 歴史を作るのはいつだって勝者の権利である。例えば戦端の事由など全てが終わった後に創り上げれば良い。戦うに足る理由があったとうそぶけば評価は後生の人間に託されている。

 正しさだけで生きることが出来たのならば、人生に悔いは多くないだろう。自分は間違ってはいなかった、と心を慰め、正しくはあった、と為したことを誇ることが出来る。

(正しさを貫くには立場とか権力とかそういうものがないとね……)

 やりたくはなかった仕事に着手した時の苦みが胸に広がる。

 己の信条に背いたそれを、大人しく進めたのは波風を立てることが嫌だったとか説得することが面倒だったとか様々な言い訳をしたが、結局は楽に生きる為だ。人はそれを処世術と呼ぶのかもしれないが、看過してきた己の良心が何れ悲鳴をあげるものだ。

 迫り上がってきた苦みを振り払うように私は頭を振った。

「不正の証拠さえ見付ければ、家令へ、引いてはハリウェル伯爵へ言葉が届くはずです」

「誰だって我が身が可愛いさ。なんの保証もなしに誰が証言をする。貴族ではないものの言葉を誰が重く受け止める。他人の手による救済を願うだけなど、自我のない傀儡と変わらないではないか」

「っ!!」

 ユーフェミアが小さく悲鳴をあげた声が耳朶じだに触れた。

 他人の手によって人生が決まる貴族の令嬢には鋭利な刃物のような言葉だっただろう。少なくともユーフェミアはルドルフの言葉を正しく読み解き重く受け止めた。

 ユーフェミアの唇が震えている。

 今すぐ駆け寄って慰めたいが、彼女にとって必要なこと、と自分に言い聞かせる。

「……済まない。君の生き方を軽んじるつもりはない。そういう役割をしなければならない誰かがいるのも事実だろう。ただ、僕は自分でこの先を選び取りたい。例え、その果てがどれほど惨めな最期であろうとも、誰の所為にするわけでもなく、僕が、そうしたのだと満たされて終わりたい」

 結婚する前は父親に、結婚後は夫に従うことが令嬢の常だ。

 自由恋愛と女性の権利がある程度保障されていた環境に居た私には酷く窮屈な生き方だ。ルドルフの言葉はこの時代から考えれば革新的だが、今を生きている女性達はそれ以外を知らないし、それ以外のやり方を知りようがないのだ。

 意気阻喪そそうとしているユーフェミアにそれ以上の言葉を投げかける気概が萎えたのかルドルフは顔を背け、礼拝堂の奥へと足を向けた。

 去り際にもう一度ユーフェミアへと視線を向けたルドルフが何か告げようと唇を動かしたが、キュッと上唇を噛んで言葉を飲み込んだことに気付いてしまう。


「“人は二度生まれる。一度目は在るために。もう一度は生きるために”」


 不意に浮かんだ言葉は誰のものだったか。

 ああ、ルソーの言葉だ。

 倫理か、それとも興味本位で受講した教職課程だったか定かではないが妙に心に張り付いた言葉だった。

 思春期の教育についてで触れた文言は漠然と生きてきた私の脳を激しく殴打するものだった。

 解釈違いをしているのは分かっているが、何故か時代の最先端の人間なのにもかかわらず自律的人間になれていないのではないか、と咎められたような気分に陥ったのだ。誰かの導きを嫌悪することなく受け入れ、自分で物を考えようとしていなかった。社会に対する自分の向き合い方が正しいのかすら不安になった。

 ルドルフを羨ましく思ってしまう。

 彼は、自分の足で生きようとしている。

「行きましょう」

 見届けたと私は満足して横にいるカイルに目を遣れば、カイルは不可解そうな表情を隠しもしなかった。

「……ユーフェミア嬢をあのままにして?」

 ルドルフが立ち去った安堵からかユーフェミアの双眸に滲んだ雫が頬を零れ落ちる。

「ああ、大丈夫よ。守り手が直ぐに来るわ」

 慰める役はいつだって、彼の役回りだ。

 思わず笑みを漏らせば、カイルの不可解そうな顔が深みを増した。


 彼女の皮を被る彼が駆け込むまで、後数秒。





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