第3話
「じゃあ、これから宜しく」
不意に声を掛けられて、漸く、彼が側に居たのだと気付いた。
エレイン様にレグルスと顔合わせが済んだ報告をして部屋を出て廊下を暫く歩いて気を緩めた状態では心臓に悪い。
「っ、ええ」
取り繕うような私の声に反応することもなく、ただ空色の目は不躾に私を値踏みしている。
典型的な小心者の日本人である私は、有り体に言って、他者の視線に弱い。
弱いからこそ、回避する為に周囲を警戒し他人に自分を印象づけないよう振る舞う術を身につけた。
「カイル様、何かご用でしょうか?」
主人の害になり得るか見極めに来たのかと見当をつけて砂礫になりかけた心の砦を組み直す。
「他人行儀だな、これから仲良くするのに」
額面通り素直に受け取れないのは、少なくない社会経験の所為だろうか。仲良くしよう、と告げた直後に相手を引きずり下ろそうとする出世レースを当事者ではなく傍観者として見続けた結果、警戒心だけが強くなってしまう。
神経を磨り減らすことになるだろうが警戒をして損はないだろう。
「……ご心配なく。本当に私はエレイン様の為にレグルス様のフォローをしますので」
あまり乗り気ではないが、引き受けた以上少しは進展させなければならない。
これまでは見られなかった実際の小説の本編を間近で見られるかもしれない、と自分に言い聞かせなければ意欲減退してしまう。
「ふーん」
含みのある返答に、改めて目の前の男に目を遣る。
カイル・プリチャード――レグルスの従者であるが、作中での印象は残っていない。殆どと言って良い程、彼は単独では出てこない。本編に姿を現す時は必ずレグルスの傍らである。舞台の裏ではどういう役割を担っていたか、定かではない。四角四面という印象を持っていたが、それは、余所行きの仕草だということが、たったいま、判明した。
「マーシャはレグルス様とユーフェミア嬢をどうやって結ぶつもり?」
「まずは現状を変えなければいけないでしょう」
家格が優位であるとか、昔からの付き合いだからという理由でレグルスが胡座を掻いているのならば、それこそ、手落ちに他ならない。
そんな事をしているから、恋敵が増殖するのだ。
「変えると言っても、レグルス様のあの甚だしい態度をかい」
「知ってます。レグルス様、オドネル家からの好感度も最底辺ですから」
ユーフェミアの兄を筆頭に、末端の使用人に至るまでレグルスへの心象は悪い。
オドネル家の狩場番人もユーフェミアを溺愛しており、ユーフェミアもまた彼に懐いている描写があったが、終ぞ本編には登場することはなかった。
(イケオジっぽいんだよな)
それまで小説に登場した人物とは違う毛色の違うイケメンに胸を躍らせていると不意に視界に陰が差した。
「随分と、詳しいんだね」
何か含むところがある言葉の遣り取りには正直慣れないし、私は向いていない。
特に、貴族社会は現代日本と比べると回りくどく合理的ではない。
「エレイン様の為ですから」
笑みを浮かべればカイルの容に僅かに困惑が滲んだが、笑顔に上書きされる。
「あの夜会は兎も角、王宮での遣り取りは周囲に人はいなかった筈だけど?」
「……情報源はお応えしかねます」
小説で読みました、と馬鹿正直に答えるわけもいかない。
「エレイン様ではないのか」
なるほど、エレイン様にも誰かが報告していたのか。
平仄を合わせるか曖昧にして誤魔化すべきだった、と内心舌打ちをしてしまう。
「私如きの事よりもレグルス様のご心配をするべきでは?」
「レグルス様は君に心配される程弱くはないよ」
主人への敬意かそれとも盲信か、判断は付かないその言葉に私への嘲りが潜まれていることに気付くが、取り合う必要性はない。
「あの方は出来る事をなさっていますが、万能ではありません。自分の理想の為に努力を怠らない方です。しかし、折れないことと傷つかないことは同義ではありませんから」
その立場から弱みなど他人に見せることを良しとしないだろう。
優雅に泳ぐ白鳥の水面下の努力のように知らないふりをするのが礼儀だろうが、そんなものは私の与り知らぬところだ。
「マーシャは不思議だよね」
「は?」
何言ってるんだ、と眼居で問い掛けそうになるのを慌てて我慢して頭を振る。
「こう、言動が一致しないというか」
顎に手を掛けて考えているカイルをいい加減放置して良いかと頭の片隅で考えるが、後々面倒なことになると速やかな処理が必要だと諦める。
「レグルス様も人間ですもの。疲れる日だって、あるでしょう」
「そういう意味じゃないんだけどね」
ひらりと手を振って立ち去ったカイルの背を見送り、気配が消えてから盛大に溜息を吐いた。
「……疲れた」
気を張り続けて正直肩が凝る。
警戒されるよりは侮られる方が良い。
取るに足らない存在とされた方が行動が制限されず、余裕が出来るから便利である。
「あれは、プラスじゃないだろうな……」
向けられた感情は少なくとも表面とは違うはずである。
与えられた小さな自室に戻ると私はクローゼットの奥に隠していたそれを引っ張り出す。
「うわっ、埃かぶってる」
私と一緒にこの世界に落ちてきた鞄は長らく使っていないからか草臥れた色を増し、張りも失っているようだ。
鞄のチャックをゆっくりと開いて、小さな机の上に荷物を一つずつおいていく。
ボールペンはおろかカッターやステープラーまで収納しているペンケース。
パソコン作業をする時に使っていた眼鏡。
社員証に括り付けられた緊急用のホイッスルやカラビナ。
業務に必要だった複数のノート。
持ち帰って見直そうとしていた大量の印刷された紙資料。
化粧品やソーイングセットが詰め込まれたポーチ。
圏外を表示するスマートフォンとソーラー式充電器。
パンプスが壊れた時に使った接着剤。
微熱の時に保険として購入した解熱剤。
怪我をした時の為の絆創膏やガーゼ。
未使用のストッキング。
通勤時に何が起きると想定しているんだ、と同僚には笑われていたが備えていて損はなかった。
重い荷物を肩に提げながら通勤した自分を改めて褒めたくなった。
違う世界から紛れ込んだ、と告白をした私の持ち物に興味を持ったエレイン様の前で
道具を検めるように出した時、エレイン様は子供のように目を輝かせた。
不格好な帳面はこの世界で私が作ったものだ。
急いでいたため、資料を両面印刷していなかった事が功を奏した。
持っていたカッターナイフでA3サイズの紙を適当に切って、一辺を刺繍糸で綴れば簡単に製作できた。
当時は、どこでこの技術使うんだと友人と笑い飛ばした書道の授業で習った和綴じの手法は簡単に綴ることができる為重宝している。
思えば、学生時代に苦戦した家庭科で割烹着、パジャマや浴衣まで縫ったからこそ、多少の洋服の直しならば可能であった。
裾上げなどの単純な作業は出来なくもないレベルだったが、流石にエレイン様の洋服のお古を貰った際は、腰回りと腕回りと胸が入らなくてお手上げ状態であった。
エレイン様は自分の身体の華奢さを自覚していただきたい。
クローゼットにかけられた真っ黒なパンツスーツと、パンプスに目を遣り、私は座り心地のよくない椅子に腰掛けた。
いつしか帳面に今の自分の状況を書き出すのが日課になっていった。
そしてもう一つ、この世界の理も自分に言い聞かすように書き連ねた。
“オドネル家の繭”
舞台は、近世ヨーロッパの雰囲気のマグヴィクス大陸のウェルベイア王国。
封建制国家であり、ここ数十年は戦争をせず、比較的豊かな国土のため周辺諸国に比べ高い生活水準を保っている。
メリトクラシー社会ではなく先天的に決定された属性による階級の差がある。
貴族と一般自由民、非自由民に大きく分かれているが、非自由民――奴隷と呼ばれる存在は現在は殆ど居ない。
貴族の名字は大半が所領の地名に依るが、例外として複数の爵位を持つ者はその限りではない。
リベンッオ山脈を挟み北方に、ロルグラート王国を、西方にはディーモイン王国、東方にはアメロニ等の諸王国が点在している。
本編にて言及されていないが、他の大陸の存在は交易などによって存在が確認されている。
魔法の類は一般的には喪失された存在とされるも、なんらかの呪いの類は伝承されており宗教家の発言力を補強する材料となっているのが現状である。
国教として定められているものはないが、ウェルベイア王国では大半の国民が、多神教――ウァテス教に心を寄せている。
自分で確認出来たことを羅列した帳面に目を遣る。
大学受験で日本史を選択したのはどうしても世界史に馴染めず不得手としていたためである。
五賢帝の名前で何度舌を噛みそうになっただろうか。
当時を思い出せば、舌が、怯えるように震えた。
世界史の授業など、時代の趨勢に強く影響を受けることが往々にしてある。
記憶の中の世界史は中東情勢が大半を占めていたのは仕方が無いことだろう。
要は、私の持っている知識レベルは西洋史の一般教養レベルに過ぎないのだ。
ペンケースから取り出した鉛筆を指先で回して、人間関係の図に追記をする。
レグルスの近くに、カイルと言う名前を書くが結んだ線の上に“主従”と書いてみるが、それ以上の言葉が出てこない。
エレイン様に仕えている私がカイルとまともに話をしたのは今日が初めてである。屋敷のメイドからの覚えも良いのは同じ空間で生活しているから嫌でも耳に入ってくる。
取り敢えず、とカイルの名前の脇に違う色のボールペンで“要注意”と記しておく。
この間使った時に比べて、心なしか、インクの量が減っているように思われる。
元の世界から持ち込んだものが徐々に使えなくなるのは酷く物寂しい。最初は壊れることを危惧して使うことを躊躇っていたのだが、そのままにしていても壊れることもあると腹を決めて最後まで大事に扱うことに決めたのだ。
この世界に馴れる度、元の世界の記憶が一つずつ、欠けていく。
人の抱えられる記憶の量というものに、私は打ちのめされていくのだ。
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