途絶願い

草森ゆき

途絶願い

 可哀想だから。これが母親の口癖だ。おれが小学生、なんなら幼稚園児の頃から変わらない何度も何度も飽和してもう見えなくなるくらいに聞かされた言葉で、それはだから、完全に溶け出して家の中を延々と漂っていた。

 その空気に耐えられなかった長女である姉は紺色の制服を脱ぎ捨てた瞬間に結婚し家を出た。だから姉は十八で、おれは十三だった。真ん中に位置するもう一人の次女の姉は十五歳で、無関心を装いながらも痛んでいた。

 可哀想爆撃だ。

 おれは田舎の末っ子長男、長女は未成年だがさっさと離脱、板挟みというほどではなくとも残されたように見える、いや見えたらしい次女は、母親の可哀想を一身に受けて十六になる頃に痛み切った。学校に行かなくなったわけではない。飛んだ。普通に飛んだ。比喩ではなく物理で飛んだ。


 十六の姉の飛翔の前に、父親の話をしようと思う。


 結構な田舎の長男として生まれた父親は、勿論未来の大黒柱としての期待を祖父と祖母、特に祖母から受けて育った。しかし別に由緒正しきなんとかとか、長く続いた歴史あるなんとかとか、そういう家柄ではない。

 本当に、ごく一般的な、田舎の家庭だ。でも田舎ってそうなんよって母親はいつか言った。可哀想やねえ。その言葉は多分、父親には大変甘い睦言だった。

 予想だけど、父親は長男なんて嫌だったのだ。

 確定事項だけど、本当は次男である弟に、お前がやれよと押し付けるつもりだったのだ。

 説明が長くなって申し訳ない。脱線に見えるかも知れないけど次男、父親の弟の話をしておく。

 とても明るく、学校でも人気者で、祖父と祖母は弟さんを大変可愛がっていた。祖父母本人から聞き齧った話だし、おれも実際はそこまででもなかったんだろうなと思うけど、思い出って削がれて削がれて綺麗になっていくからほぼ宝石で、祖父母にとって弟さんというのはダイアモンドだったわけで、なぜそんなに研磨されたかというと、ちょっとだけ冒頭に戻る。

 逃げたのだ。高校卒業後のある朝、部屋から忽然と姿を消した。そうおれの姉のように、どこかもわからない場所へと行ってしまっていた。

 この繰り返しっぷりだけ見れば確かに、おれの家は歴史自体はあるかも知れない。次世代にも受け継がれるループ。もしかすると祖父の兄弟も蒸発したやつがいるかも、なんてこれは話が逸れたから戻すけど、弟さんは高校卒業後は家の農業を手伝いながら勤人になるという、その時も現在も父親が行っているダブルワークをこなす、ないし、父親の代わりに受け継ぐ予定だったらしい。

 実際はどこかに消えて何もかもがわからなくなった。父親は家に一生縛られることが決定して、でも、それは、あの男の中で少しは変化した。

 自負とか、責任とか、自分がやらなければいけないという、使命感だ。

 そういうものに突き動かされはしたものの、わりとすぐに躓いた。父親は驚くほどモテなかった。顔は悪くないはずだと息子のおれは思うけど、それ以外の要因なんていくらでも列挙できた。まず死ぬほど口下手だった。やっと喋ったかと思えば驚くほど高圧的だった。冗談の類がとんでもなく下品だった。一時期何故かアフロにしていた。勉強ができなくはなかったが暗記が得意なだけで何かを生み出す力はなかった。背はあまり高くなかったし声も聞き取りにくかった。人望が圧倒的になかった。友達がいなかった。恋人もほぼできたことがなかったし、最長記録が四日だった。もう顔以外全然ダメだった。極め付けには祖父母ががっちりついてくるのだ。祖父はまあなんかおれとしては物静かな好々爺なんだけど祖母がとにかく、典型的な田舎の姑で何かと口うるさかったし陰口の量が半端なくて人にまあ好かれず急に話し出したなと思えば大体ダメ出しで高圧的でご近所に距離を置かれてだから、父親の女バージョンが歳食って凝り固まって根を張ったような人だったから、父親はとにかく不良債権で家の断続がほぼ決定事項だった。

 ここに現れたのが母親だ。ただただ可哀想という理由だけで結婚を承諾した戦犯は、可哀想を自ら生み出し続けてまだ可哀想と言っている。


 中学生にして姉の一人を見失ったおれは母親に聞いてみたことがある。姉さんが一人いなくなってしまって悲しくないのか、もしかして今、可哀想だと言われるべきはあなたではないのか。もしくは父親ではないのかと。

 母親の答えは短かった。親の援助がなくなる姉は可哀想。たったこれだけだった。


 おれの中の可哀想はどんどん肥大化していく。意味は辞書で引いてみると憐憫や同情を誘う様子、哀れな様子、不憫な様子と叩き出されて、そうだよなそのはずだなと思うんだけど、姉の話に戻る。

 二番目の姉。次女。

 彼女が物理的に飛んだのは田舎にも一応ある寂れたアパートの寂れたベランダからだった。おれたちの家は一応一軒家なので他人の家で、後から知ったがその時次女が付き合っていた男の部屋のベランダだった。

 憐憫や同情を誘うように話したいと思う。まずは名前を覚えてほしい。次女の名前はいのり。おれはのり姉って呼んでいた。

 のり姉は長女がいなくなった分、すなわち「田舎の家庭の長女に求められている古き良き佇まい」を求められていた。田舎っていうのは何かと集まるんだけど、町内会で集まったり親戚で集まったり意味はないけど同級生で集まったりなんだりと、その宴会の席での正しい立ち振る舞いをかなり求められていた。十五歳だけど、求められていた。後一年で結婚できたから。花嫁修行だなんだって。どいつか忘れたけどうちの長男なんてどうだとか、腰やら肩やらを触られながら聞かれていたのり姉の姿をおれは覚えている。その時のなんとも言えない顔を思い出すと眉間が痛くなる。板挟みだった。祖父母はひ孫が見たかった。父親は孫が見たかった。でもこの、ちょっとした違いっていうか、息子がよその女に産ませた子供よりも実の娘が産んだよその男の子供だったら、後者の方が可愛いと、父親と祖父母は思っていたようだった。

 もしかしたら、十六とは言わなかったとしても、おれの知らないところで話はどんどん進んでいたのかも知れない。高校卒業後とか。どいつか忘れた親戚か近所かのおっさんの息子のところに嫁に行くっていう選択肢だけがのり姉の前には現れていて、他を選ぼうとすると強制的にキャンセルされてしまっているくらいの段階で、息継ぎなどはする間もなくクリックして次のシーンに、誰かわからない男のところで農家の嫁になるっていうシーンに、接続されるまで後少しの段階まで話はいってしまったのかも知れない。

 のり姉の誕生日は冬だ。雪が降っていたと思う。でも雪が深いって地域でもないからのり姉の体重は薄い薄い積雪をあっさり貫いた。その時付き合っていたらしい男は、おれがいうのもなんだけどうだつの上がらないヒモって風情の男だったけど、ちょっと引くぐらい号泣していたから少し目を離した隙の話だったみたいだ。

 ベランダから飛んだ姉は真下の植え込みへと一直線に落下した。そこには盗難防止の柵があり、盗難防止だから柵の上は酷く鋭利で、のり姉は綺麗にそこに刺さった。スポーツだったなら芸術点がついていた。おれは見たから知っている。動転した第一発見者の彼氏さんがおれに真っ先に連絡してきたので、知っている。

 雪の日、あたりが静かでなんとなく薄暗くて、人の気配がふっと消える瞬間があるだろう。雪なんて降るぐらいだからとにかく寒くて、おれは上着もろくに着ずに家を出たから余計に体が拒否して寒い寒いって訴え始めた。でも全力で走っているうちに慣れた。のり姉が入り浸っているヒモ男(っていってるけど仕事はしてたし見た目の話だ)のアパートはそう遠くもなくて、近付くともう何が起こってどうなったかは明瞭だった。のり姉はいた。仰向けで、柵に足を貫かれて、逆さまにぶら下がっていた。静かな死に顔だった。半開きの目は穏やかで、ろくに見たことはないのに菩薩とか如来とかってこんな顔だよなって、寒さとか衝撃とかで痺れる頭の片隅で考えた。おれは警察とか病院とかに電話をかけた。真横に号泣するやつがいるからかずっと麻痺しているからか異様に冷静で、案外粛々と作業を済ませた。

 ヒモ男は葬式に来なかった。後から聞いたが、おれの父親が門前払いしたらしい。大事な娘を死なせたクソ男だと父親は認定していて、おれからすればいやそれブーメラン、なんだけど更におれに対してもブーメランで、だって、おれは、おれはさあ。

 眉間の痛みを思い出す。いわゆるセクハラを受けている、よく知らない男に嫁がされそうなのり姉と、そののり姉の体を偉そうに馴れ馴れしく触るどこかの誰か。おれは十三歳だった。結局子供だった。されど子供で、気持ち悪かったから気持ち悪いと口に出した。

 気持ち悪い。田舎のねばつきとか、横行する常識とか、家の中にある可哀想の連打とか、酒の席の異様に湿った匂いとか、世間とか近所とか家柄とか農家とか全部気持ち悪い。厨二だもんな、言うよなそりゃ。おれは今でもおれを擁護する。

 湿って臭くて生ぬるい酒の席は瞬時に静まり返った。気持ち悪いの筆頭だった、のり姉にベタベタしていたおっさんはブチギレて、おれは気がついた時には転がっていた。眉間が驚くほど熱かった。突き飛ばされて机か柱か、硬いところにぶつかったのだとは遅れて理解した。

 のり姉に肩を貸されて、おれは居間へと引きずっていかれた。宴会の間は隣だったから、徐々にまた話し声とか笑い声とかが響き始めて、そこにはおれへの文句も含まれていたんだろうけど聞こえなかった。聞かなかった。おれの隣に残ったのり姉が、聞かなくていいと静かに言った。

 手当を受けて、おれは自室に引っ込んだ。居間を出る瞬間にのり姉はおれを呼び止めた。なんだか泣きそうな顔だったけど笑っていた。彼女はやっぱり痛んでいて、痛み切る寸前で、今になっちゃあもうどうしようもないしその時掬い上げられなかったんだから無意味だけど、おれははじめて母親の、可哀想という言葉の中の、気持ち悪いぐらいの気持ちよさを目の当たりにした。

「ごめんな、あきら

 のり姉がおれにだけへと向けた言葉はそれが最後だったと思う。そのごめんなと、晃、の響きをおれは、雪の降る中で遺体を見る最中にも、啜り泣きのわざとらしさや蛇みたいな読経を聞く最中にも、繰り返し繰り返し思い出していた。ごめんな晃。ごめんな。晃。たった一人の子供になるおれ。ごめんな。可哀想にな。

 可哀想なんだよな。


 父親と話したことはあまりない。でも祖父母とはよく話した。話したというか、あちらから寄ってきた。おれは全然知らなかったけど、父親がなんとなくおれを避ける理由と祖父母がなんとなくおれに寄ってくる理由は接続していたらしい。

 それを知ったのは祖父が倒れて、危篤になり、もう助からないと、病院で医師に言われた時だった。一応処置はします、と医者は言った。手術室に運ぶ余裕がないらしく、処置はベッドの上で行われておれはそれを覗き込んだ。久しぶりだった。赤い血が医者の手元に溢れていた。のり姉。おれは呟いた。その声を拾ったのかどうか、祖父の目がぐるりとおれを見た。呼吸のかぶせられた口元が動き、確実に晃ではなかったけどなにか言葉は呟いてた。四文字だった。医者がおれに気づくがもうダメだった、注意をかき消す長い長い電子音が響いた。抑揚のない一本筋の音。0の数値。清々しいほど真っ直ぐの心電図。祖父は死に、医者は時間を読み、命は去って、おれは病院でしてはいけない大きな足音を耳にした。見たことのないおっさんが走ってきて、誰だこいつって思うけど妙な親近感に心臓の裏あたりがざわついて、おっさんが親父ってつぶやいた瞬間に色々なピースをはめてしまって名前を聞いた。おっさんは彰彦あきひこと名乗った。家を出て行方知れずと思われていた父親の弟で、そいつはおれによく似ていた。

 あきひこ。多分これが祖父の遺言だった。ついでに言えば、祖父にはおれがそう見えての発言だった。これは美談だろうか、可哀想ではないだろうか。今際の際に現れた、蒸発した息子の姿は祖父に、穏やかな死をもたらしただろうか? どっちでもいい。可愛がられたおれは代替で、使命感とか責任感で邁進してきたらしい父親も代替で、本命は間に合いすらしない消えた男ただ一人だったわけだ。


 彰彦おじさんは家に留まっている。現在進行形だ。祖母は手放しで喜んで、父親はわからない。母親はニコニコしている。可哀想ではないからだろうか、でも可哀想が好きなんじゃないのかと、おれは不思議に思っていたがもう全然的外れの大外れで、可哀想モンスターの母親は留まるところを知らずに言い放った。

 お義母さん、可哀想やなあ。

 ゾッとした。可哀想への嗅覚が半端じゃなかったからだ。彰彦おじさんは結論だけ言えば金が欲しくて戻ってきた。祖父の危篤をなぜ知ったのか不思議だったが、実は父親が連絡をしたらしく、じゃあ連絡先だけは知っていたのかと思ったけどダンマリを決め込んでいた理由はおれにもわかる。別に戻ってきて欲しくはない。憐憫だ。自己憐憫。父親は自分を一番可哀想だと思っている。思わされている。自分の嫁がそう言って嫁いでくれたからだ。自分は可哀想であるから価値がある、可哀想でも努力して家を守っているから認められる、老いた両親を養いながら嫁と子供を守っている。可哀想な自分を何があっても大切にする。

 間違っているとも合っているともおれには言えない。祖父の危篤を一大事と捉え、彰彦おじさんに連絡をした父親の気持ちは、まあ、否定できない、と思う。

 でも現状は可哀想だ。可哀想なんて尻の軽いもんであちこちで花開いてくれるのだ。

 彰彦おじさんは祖母が生涯かけて貯めていたお金を食い始めている。家まで通い、一人になった祖母が心配だという名目で、甲斐甲斐しく世話を焼いているように見えるが目の中は真っ黒だ。祖母は喜んでいる。父親は苦しんでいる。母親は相変わらず笑っている。

 この女はなんで笑っているんだよ。おれは唐突に一番上の姉が恋しくなり、でも父親と違って連絡先をこっそり聞いているなんてことはない。姉はおれごとこの家をぶっちぎってどこかで暮らしている筈だし何事もなければいい。細々とした可哀想が起きたとしてもお気に入りのペン落としちゃったぐらいだといい。傘持ってないけど雨降ってきたぐらいだといい。うっかり風邪をひいて一日だけ寝込んでしまったぐらいだといい。おれは長女の顔と声を思い出そうとするが思い出せない。紺色の制服だけアイコンのように目に浮かぶ。真ん中にある赤いスカーフは別のものを連れてくる。次女の最期。柵からぶら下がる姿はいつまでも覚えている。剥き出しの腿をゆっくりと流れる、少し乾いた赤黒い血。ごめんな、晃。ごめんな。眉間が痛くなっておれは額に手を当てかけたけど抑えたのは口元で、気付けば視界が滲んでぼやけて何も見えなくなっている。その中で父親の声が聞こえる。こんなはずやなかった。彰彦になんで連絡してもうたんや。どうすればええやろう、どうしよう母さん。

 母さんと呼ばれた母親は悠然と返す。可哀想に、こっちにおいで、泣いてもええよ。

 父親は母親に縋り付いて泣く。おれは部屋を出て、家を出る決心をつけながらも多分一生出られない。飽和した可哀想の中で哀れな憐憫を誘う田舎の長男でいる限りは何もかも楽で、楽で、でも同時に願う。

 おれはおれの途絶を願う。

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