イラストレーター殺し
煤
イラストレーター殺し
ああ、僕は死ぬ。
コンクリートブロックで、頭をガツンとやられたんだ。
死の間際、動かなくなった右手をジッと見つめた。もうペンを握ることさえできない。額を伝う温い雫を左手で押さえる。息は荒く、鼓動は全身を揺らすようだった。
せめて──僕は歯を食いしばる。目の前に置かれた真っ新な用紙に手を伸ばす。せめて、名前だけでも、遺さなければ──。
◆
「やあ、どうも。お困りのようで」
僕は手元のタブレットをゆっくりと伏せた。視線はそのまま、スタイラスペンを鞄にしまう。鼻頭で淀んでいた溜息を無理矢理吐きだしてから、トールサイズのカップを手に取った。
温くなったコーヒーは舌の上に苦みを残すばかりだった。
スターバックスの一角、こんな開けた席だというのに、一体僕に何の用だろう。深呼吸を、一度、二度、三度……。すぐ傍の気配は立ち去る様子を見せない。観念して目を開けた。
「お若いのに随分のんびりとした方ですね」
周りの席に客は入っていなかった。平日昼過ぎの店内は客もまばらで、ずっと向こうにレジカウンターが見える。バイトだろう店員がこちらには目もくれず三人で談笑していた。レジまでは十メートル程距離があったので話の内容までは聞き取れない。
椅子に深く腰かけた僕に一筋の影がさしていた。先ほどの声の主らしい。
老人だ。知らない顔。服は、いつの時代だよってくらいのボロキレ。
そいつは背負っていた馬鹿でかいカゴ(ほら、ゴミ拾いのボランティアが持っているようなやつだ)を重そうに床に置く。老人は袖口で汗を拭いながら快活に笑う。
「いやなに、行商人ってとこです」
言うと、僕の了承も無いのに、机を差し挟むようにして椅子に腰を下ろした。
「…………」
宗教の勧誘か何かか? 最近何かと話題になっている宗教団体の名前が頭に浮かぶ。あれこれ取り入るマニュアルがあるっていうけど……『行商人』ときたね。こんなの、ネットで聞いたことないぞ。
とはいえ、ポイントさえ押えておけばどうということはない。こういう場合は大抵──
一、何か困りごとがある。
二、それを親身に聞いてくれる信者達。
三、教祖様ならば解決してくださるだろう、アーメン。
てな具合と相場が決まっているんだ。二十世紀少年によれば。失恋だの、恋人への不満だの、誰でも持ってるような悩みを大問題に仕立て上げるのがこいつらの常套手段なんだ。
まあ、しかし──実際、僕は困っていたのだった。スタバの片隅で一人、アイパッド片手にうなり声を上げていたのを、まさか聞かれてやしないだろうけれど。
「あたしが隣にやって来ても気付きやしない。うんうんうんってね。こりゃあ、真剣な証拠です」
バッチリ聞かれていた。
老人は机に体を乗りだすと、歯を剥いて笑った。途端、すえたような匂いが鼻を突いた。僕は思わず顔を背ける。
臭え、なんだよこれ。口臭か?
きっと虫歯やらなにやらでさぞ荒れ放題に違いない──細目を向けた老人の歯は、しかし僕の予想に反して驚くほど綺麗なものだった。
……いや。
綺麗というか、なんだ……?
目を擦る。すえた悪臭にしばたたかせて、もう一度その歯を見る。
見えなかった。
あ、いや、だから、つまり──僕の目の前に座って、歯をむき出しにして笑っている老人の、その、当の歯というのが、僕の目には見えなかったのだ。
「なん、」
僕が不定形の声を上げる間に老人は笑顔をひっこめる。僕はまるでその悪臭が名残惜しいかのように(そんなわけはないのに!)手を挙げかけて、すんでのところで止めた。
いけない。こんなことで動揺しては。それこそ悪徳宗教の思うつぼだ。
僕は気を逸らそうと、老人が床に下ろしたカゴの中身をちらと盗み見る。その中には灰色の石のようなものがギュウギュウに詰まっていた。
「コンクリートブロックです」
にまりと笑顔を作る老人。見えない歯並び。
「…………なんだって?」
「コンクリートブロック」
「ああ、コンクリートブロックね……」
なんの面白みもなく、僕はそう返す。
……くそっ。僕は結局好奇心に負けて問い返してしまった。
しかたない。作戦変更だ。『ではこの口座に云十万円振り込んでください』なんて文句が飛び出るまでは付きあってやろうじゃないか。どうせ作業の方も行き詰まっていたところだったし。
視界の端にレジカウンターが映る。バイトの一人、高校生くらいの女の子が僕の方を見て心配そうに眉をひそめていた。平日の昼間に、小汚い老人とやぼたい男。ゴミ拾いみたいなカゴまで持ってくりゃ、不審者にも見えるだろう。詐欺師が出るか借金取りが出るか。どちらにしろ店内には持ちこみたくないはずだ。
僕は謝罪の意味をこめて片手を軽く挙げる。
『すみません。変な人に絡まれちゃって。終わったらすぐ出ますんで』
そういう表情を作る。
バイトの少女は相変わらず不審げな視線をこちらに向けていたが、他のバイト仲間から声をかけられてようやく顔を背けた。
なんで僕が宗教勧誘の尻拭いをしなくちゃいけないんだ。
僕は苦々しげな表情を隠すつもりもなく口を開いた。
「そんで……おじいちゃん、あんたはこんな重そうなカゴ担いでどうしようっての。行商人って言ってたっけ。まさかとは思うけど」
「察しがよくて助かります」
老人はカゴからレンガほどの大きさのコンクリートブロックを取りだして机の上に置いた。ブロックの欠片が砂のように卓上にざらざらと散る。
「あたし、このコンクリートブロックを売って歩いてるんです」
どうです、欲しいでしょう。とでも言いたげだ。老人の笑顔にぎゅっとシワが寄る。
さあ、早速来たな。
最近のこういう輩は壺とか絵じゃなくてコンクリートブロックを売り歩いているらしい。……自分でもそんな馬鹿なとは思うが、現に目の前で起きているのだから信じるしかない。
僕は流れに呑まれないように──こういう宗教相手には流れっていうのが一番怖いんだ──毅然として当然の疑問を投げかけてやる。
「売って歩くもなにもね。おじいちゃん。こんなコンクリートの塊持ってきて『はい、いくらです』なんて買うヤツはいないよ。こういうのが欲しけりゃホームセンターにでも行くし……そっちの方がよっぽど安い」
僕は実際値段を聞いたわけでもないのに決め打ちでかぶりを振った。
老人は僕の振る舞いに気分を害したのか、それまで見せていた笑顔をすいとひそめると、「何おっしゃいます。あなたにこそ必要だったから、こうして売りに来たんじゃないですか」
「必要? 僕にですか? まさかそんな」
「まさかもなにも、ご自分の胸に手を当ててみればわかることでしょう」
やけに自信ありげに鼻を鳴らす老人。僕は財布の紐を握りしめながら『コンクリートブロック』の使い方を模索してみた。
コンクリートブロック…………工事、建築か。庭仕事……、ガーデニング? あるいは、何かの重り? ミステリとかなら凶器になるかもしれない。しかし生憎、今の僕に殺したいほど憎んでいる相手はいなかった。
首を振る。視線を上げて息を吸うとコンクリートブロックの砂っぽい香りが鼻をついた。
「いや、わからないな。力仕事とか土仕事はやってないもんで」
老人は子供を諭すような顔(憎々しい表情だ。くそッ)をして、僕の手元のアイパッドを指さした。
「では、それはなんです」
「……アイパッド」
「違いますよ。それであなたは何してたんですって」
「何を、って…………あんたには関係ないだろう。おじいちゃん」
「いや、関係大ありですね。こいつはそれのために持ってきたんだ」
老人はまたカゴからコンクリートブロックを取りだして机の上に置いた。さらにもう一つ。さらにもう一つ。さらに。
「ちょっと、店員に怒られるよ」
老人の手首をぐいと掴む。
僕の心配をよそに、老人はイタズラっぽく笑う。僕の手を振りほどいてまたカゴに手を突っ込んだ。
「いやなに、というかですね。こうでもしなけりゃ……」
「あんたがどんなノルマ課されてるのかは知らないけどね、僕は忙しいんだよ。あんたの勧誘に付きあってる時間はないんだ。わかったらさっさと──」
地響きのような振動が、僕たちの座る机の一帯を揺らした。
さらなるコンクリートブロックが机の上に置かれた音だった。スーパーコンピュータくらいはあろうかという馬鹿でかいコンクリートブロックの脇から(ていうか、こんなサイズじゃカゴに入らねえだろ)老人が顔を覗かせる。
「どうです? 店員さんがたは」
いよいよおかしくなってきたぞと、僕は慌ててコンクリートブロックから視線を離す。席を立って店員に見えるように手を挙げた。
「す、すみません! 僕もなんだかわからなくって! このおじいさん、ちょっと変なんです! 警察を!」
震える声を抑えながらそう叫ぶ。お仲間だと思われて二人仲良く通報されるってのは勘弁だった。しかし当の老人は驚いた風もなく、にやにやと、見えない歯並びを見せびらかすように笑う。気味が悪い。早く警察を呼んでくれ。
僕は念を押すようにもう一度声を上げた。
「すみませえん! 警察を!」
店員の一人と目が合った。件の彼女だ。こちらを見ながら数枚のレシートをまとめると店の奥に引っ込んでしまう。固定電話があるのだろう。カウンターでのんべんだらりと注文を待つ残りの男店員二人組が場違いな笑い声を上げた。
僕はレジカウンターと老人を交互に見ながら、さりげなくアイパッドを鞄にしまう。取っ組み合いになって商売道具をぶっ壊されるのは勘弁だ。負けやしないだろうが──それでも、これだけの大きさのコンクリートブロックを持ち上げたんだ。力自慢ではあるんだろう。
取っ組み合い……。
僕は半袖の先に覗く自分の腕をちらりと見て溜息を吐いた。
負けるかも。
店員の加勢に期待を込めてもう一度レジに顔を回すと、丁度さっきの女の子が店の奥から戻ってきたところだった。きっと警察に電話してくれたに違いない。これで一人か二人でもこの老人を止めに来てくれれば……。
僕のそんな淡い期待は、ものの数秒で打ち砕かれた。男店員二人は相変わらず机に突っ伏すようにして談笑を続けていたし、女子高生と思しき彼女はと言えば、今度は僕の方を見もせずにその二人の会話に混じってしまったのだ。
ちょ──っと。
「すみません!」
「聞こえてないんですよ。彼ら」
僕は耳を貸さない。
「すみません! ねえ、お願いしますよ!」
「ですから」
「すみません! ……おい!」
喉がちりちりと痛んだ。
老人はもう何も言わなかった。
僕は数分間、無言で立ちつくした後、最後には観念してまた席に座った。なぜだか逃げ出す気にはなれなかった。
卓上を埋めるコンクリートブロックのせいで片身狭そうにしている自分のカップを引っつかんで、その中身を喉に流し込む。思えば、これほど声を上げたのは久しぶりだった。きりきりと引き延ばされたように軋む喉にコーヒーが浮いていく。
痰のように絡んだ苦みに顔をしかめる。鼻を抜けていく沈黙の香り。そうして、やっと僕は口を開いた。
「どうなってる」
「人の目を覆うのですよ、このブロックは」
これ見よがしに笑う老人。歯はやっぱり見えなかった。僕は喉にこびりついた唾液溜まりを飲みこんで目を細めた。
「イラスト一枚につき一つ」
頭が霧のように痛んだ。吐く空気は重く、重く。
「表情か、衣装か、腕に脚に翼に尻尾、隠したいものなんでもござれ」
──それだけは。
アイパッドをしまった鞄を強く胸に引き寄せる。
──それだけは、決してしまいと心に決めていたことだった。金をもらって仕事をしている以上。
「どうして、わかった」
絞り出した僕の声は出涸らしのように渋く唇に尾を引いた。唇を舐めて湿らせる。たまらず出た咳はひどく乾いていた。咄嗟に手を挙げかけて、誰も来やしないということに気付いてそのまま頭を掻く。
「どうしてもなにも、横から立ち見させてもらいましたよ。失礼ながらね。どうやら今回はドレスの装飾についてお悩みのようで」
「……わかってるなら、最初からそう言え」
わかった、いいだろう。白状しようじゃないか。
僕はイラストレーター、今日は納品日。『亡国の姫君』、プラスその他云々という依頼だったが、細やかなドレスの装飾が思うようにいかず、今日は朝からこうやってスタバで絵を描いていたってわけだ。
……くそッ。僕は視線を落として首を振った。
自分で言っていて嫌になる。仮にもプロのイラストレーターが、こんなことに頭を悩ませているとは。顔も知らない匿名コメントが脳裏にちらついた。
「で、あれば。このコンクリートブロックがお役に立てると思いますよ。万事ね」
「……帰ってくれ」
噛み締めた奥歯のそのまた奥からどうにか声を絞り出す。膝に置いた拳がふるふると震えた。
「皆さん必ずそう言うんだ。『そんなことをしても自分のためにならない』、なんてね。まあま、一度試してごらんなさいよ」
「あのねえ──! っえ……」
顔を上げたとき、もうそこに老人はいなかった。床に置かれていたカゴも消えている。卓上に置き放しになったコンクリートブロックだけがジッと僕の指示を待っていた。それまでのやりとりを唯一その内に閉じこめる。
そういえば──残されたコンクリートブロックを検めながら、僕はあることに気付いた。
あの老人は、ついに振込先を伝えることなしに消えてしまったのだった。
◆
依頼主からのメールに目を通して、僕はベッドに潜りこんだ。ここ数日まともに眠れていなかった。
横たえた体で作業机をぼんやりと眺める。デスクライトに照らされた机上のアイパッド、デッサン人形、コピックやらスタイラスペンに混じって、灰色の直方体がやはり異様な雰囲気を伴って、そこにあった。
大丈夫。
今回は少し、時間が足りなかっただけ。
僕は右手で布団を軽く撫でてやる。ひんやりとした触感が心地よかった。
依頼主も満足してた。
うん。
細かな装飾なんて、実は気にされてないって証拠さ。
大丈夫。
いつだって、辞められる。こんなこと。
だから次は、ちょっとだ、ちょっと顔でも隠してみようか。
イラストレーター殺し 煤 @North240
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます