第2話 日常とピンクが好きな妹

 青いシートで包まれる前。

 

 夕食どきになると、二階にある僕の部屋まで食欲を刺激する匂いが階段を上ってやってくる。母も僕も料理が作れないので消去法で妹が食事の担当をしている。僕が試しに乾麺の蕎麦を作った時もあるけれど、蕎麦を茹でている鍋の中に記憶に無いつゆの作り方を思い出しながら、醤油と酒と最後に砂糖を入れ、つゆも一緒に作るという一石二鳥を成し遂げようと煮込んで食べてみたところ食欲は影も形もなくなった。そんなこともあり、僕は妹の料理をしている。

 今まで出された数々の料理の匂いを胃が記憶しているが、その中でもこの匂いは鮮明に再生される。

「ハヤシライス」思わず口からこぼれた。

 すぐにでも部屋から飛び出して行きたい気持ちを抑えて、自室のドアノブを両手で軋む音に怯えながら擦るようにゆっくりと開けると、薄暗い廊下に食欲で埋もれた頭をねじ込む。闇の中で耳を澄まし、下の階からの話し声や物音の強弱を丹念に探りながらそれを頼りに母の機嫌を窺う。

 しかし、最近の妹は“何が起きても“口を開かなくなり母の喜怒哀楽は探れない。最初の頃は、無言に対して母は怒っていたがそれも次第に落ち着いた。妹がこんなにも反抗的な態度を取るのは珍しい。

 そもそも、登校拒否をしていた妹は母にそれを咎められることなく、学校には行かなかった。母は、月に数回妹と一緒に外出をしていて仲は良好にみえていた。それぞれの家にはそれぞれの家庭の事情あり、その中で幸せかどうかが大事なことだと思う。

 そのため、妹が再び話だすまでそれほど時間は掛からないと考え、そこまで心配をしていなかった。今は、何の手掛かりもなく母の機嫌が良いことを祈りながら、階段を下りて次第に強まる匂と比例するように食欲を増しながらその匂いの元へと向かう日々だ。

 ドアの前で一度深深呼吸をしてから開くと、今日も妹がキッチン立ち、母は四人掛けの木製テーブルから頬杖をして、空いている手で髪を握って毛先を見ていた。髪を弄っている時は、腹を立てている時だった。

 僕は心にわざわざ穴を空け、母の言動を受け止めないよう流れを作る。僕に気づくとこちらに笑顔を向けた。

「サトルだけにおいしいロールキャベツをヒナが作ってくれたから食べてね」母が穏やかな口調で言った。

「あ……ありがとう」

 母の取ってつけたような優しい振る舞いが新鮮で不気味だった。

 母は機嫌が悪いと取り繕うことはしない。僕と妹はよく知っている。

 僕は妹にも礼を言ったが、やはり返事はない。妹がテーブルに食事を運んできた。ハ二色に分かれたヤシライス、小さい器のサラダ、お豆腐の味噌汁。それを静かにテーブルに並べ、キッチンへと戻った。ハヤシライスはテーブルに運ばれただけで、口をつけなくても、おいしかった。

「ロールキャベツは?」母の声は妹の耳には少しも触れないようだった。少しの間を置いて、もう一度、母が言うがやはり妹は黙り込んだままだ。

「だされた料理だけで満足だよ」僕はハヤシライスに夢中で忘れていたが、しかたなく妹が生み出したどんよりした沈黙を埋めるように言った。

「お前に聞いてないんだよ」母が例の如く感情を突き出した。僕は沈黙に隠れた。

 妹はまるで、この一室の状況に興味がないように、何の表情も作ることなくスタスタと歩いて母の隣の席につこうとした。

 その時、急に母が立ち上がり、妹の頭を両手で引っ掴むとテーブルに頭を持っていった。ゴツ、ゴツ、ゴツ、と三度の鈍い音が部屋に響いた。母が頭から手を離すと妹は力が抜けたように膝から崩れ、うつ伏せになり、両手で額を押さえていた。

 追い打ちをかけるように母は言った。

「お前の出来の悪さにどれだけ迷惑してんのかわかる? 何もかもさあ、教えても教えても出来やしない! お前が出来ないから私がやってやったんだろ 恨んでんなら自分出来の悪さを恨めよ!」と大声で言いながら腹を蹴り上げた。

 妹は丸めた背中を小刻みに、不規則に、振るわせている。それでも、声を押し殺しているようで、どうしても殺せず、漏れた声が床を這うような唸り声に変わって途切れ途切れに響く。

 母がキッチンに向かった。

「今ロールキャベツ持っていくからね」

 母はそう言うとあたりに目配りをした。視線はやがて生ごみの中を探っているようだった。

「捨てやがったな!」怒りに満ちた声で母は言った。

 キッチンからまっすぐ、まだ呼吸の整わないうつ伏せの妹の背中を一度、二度と深く突くように踏んだ。それから、席について母は食事を始めた。僕も母に合わせて食事を取ることにした。

 味噌汁が少しこぼれていたので僕はテーブルの隅に妹が用意してくれていた、真新しいピンクの布巾でテーブルを拭いた。

 布巾は瞬く間に汚れていった。

 反抗しないことが家庭円満だと妹は何故忘れてしまったのだろう。

 母は妹のハヤシライスを食べて笑みをこぼしていた。僕はそれをみて嬉しかった。

 日常が戻ってきたようで。

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夕立に眠るお茶会 猫又大統領 @arigatou

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