濁流
多田いづみ
濁流
トイレには長い行列ができていた。
なんでもないただのオフィスビルの一角が、そこだけイベント会場かなにかのように
並んでいるのは、見たことのない顔ばかりだった。が、その階にはわたしの勤めている会社以外にもう一社べつの会社も入っているので、見知った顔がなくても別段おかしなことではなかった。
列の最後に並んでいたのは会社の同僚だった。いっしょに仕事をしたこともある顔なじみの男だ。
「おい、これどうなってるんだ」
とその男に問いかけると、
「さあ、なんだろうな。来たときからこんなふうだ」
と他人事のように言ったきり、ズボンのポケットに手を入れたまま興味がなさそうにぼうっとしている。心ここにあらずという感じだった。あるいは尿意をじっと我慢しているだけなのかもしれないが……。
わたしが男の後ろに並んでしばらくすると、男はとつぜんなにかを思い出したように破顔して言った。
「そういえば君、もうすぐ結婚するらしいね。おめでとう」
わたしは礼をかえしたが、なにもこんなところで言わなくてもいいじゃないかとも思った。振り返る人こそいなかったが、周りがざわついたような気がしてなんとも居心地が悪い。
別に秘密にしているつもりはなかったけれど、結婚のことを知っているのは社内でも限られた人だけのはずだ。それがどうめぐりめぐってこの男に伝わったのやら。自分で考えているよりもずっと多くの人が知っているのだろう。
わたしはなんとなく、はだかでこの場に放り出されたような気分になった。
しかしこの人の
「あっちの会社はずいぶん景気がいいらしいな」
と思わずひとりごちた。それは小さな声だったけれど、男の耳には伝わっているはずだった。が、男には何の反応もなかった。
行列はまったく進まなかった。このまま並んでいても、どれだけ待たされるかわかったものではない。つぎの打ち合わせの時間も迫っている。
「ほかを探すよ」
わたしは男にそう言って、列を離れた。この建物の一階にはコンビニエンス・ストアが入っている。そこでトイレを借りようと思った。
*
エレベーターはなかなかやってこなかった。
エレベーターの現在位置を示すパネルは、ひととこに止まったきりまったく動かなかった。たまに動いたかと思うと、次の階でもまた長いこと停止した。
そして長い時間をかけて、ようやくエレベーターの扉が開いた。と思ったら、中は人でいっぱいだった。無理に押し入ろうとすれば入れなくもなかったけれど、おそらく重量超過のブザーが鳴るだろう。中に乗った人たちの目がそう告げている。
わたしはそのエレベーターをやりすごし、次を待った。が、次のエレベーターも同じように満員だった。
昼休みの時間帯でもないのにいったいどういうわけだ? 建物には三基のエレベーターがあったが、どうせ残りのもう一基も同じようにいっぱいだろう。わたしはあきらめて階段で行くことにした。
階段室は、外とは別世界のようにひっそりとしていた。降り始めると、くぐもった金属音が頭の中にこだました。階段を踏む音がふくざつに反射して、頭の中で鳴っているように聞こえるのだ。蛍光灯の青白い光が、荒々しいむき出しのコンクリート壁をぼんやりと照らしている。
コンビニエンス・ストアの入口は建物とは別にあるので、いったん外に出なければならない。
扉が開くと、ぶわっと熱風が吹きこんできてわたしの体をつつんだ。外に踏みだすと、強い陽射しが肌を刺した。どこから飛んできたのか、このコンクリートだらけの街のまん真ん中でセミが鳴いている。時刻は午後二時をまわったところだった。
*
コンビニエンス・ストアには行列ができていた。
いったい何をどうしたらコンビニエンス・ストアに行列ができるんだろう。半額セールをやったって無理なんじゃないか? わたしの記憶では、以前起きた大地震のときだって行列なんてできなかったはずだ。しかし現に、店のまえを取り囲むように長い人の帯ができている。
店の中の様子は暗すぎて――というよりも、外の陽射しがあまりに明るすぎてよくわからなかった。列の先頭を通り越して入口から中をうかがうと、薄暗い店内には蜂の巣箱のようにぎっしりと人がうごめいている。
「おい! あんた」
うしろから鋭い声がして振り向くと、列の先頭の男がすごい形相でわたしをにらんでいた。銀ぶちのメガネをかけた弱そうなやつだ。若そうにみえるが髪が薄く、それがさらに貧相な印象をあたえている。どうやら男は、わたしがズルして列に割り込んだと思っているようだった。
「違う。わたしは買い物客じゃない。ただトイレを借りたいだけなんだ」
わたしはそう言おうとしたが、やめた。トイレを借りたら、けっきょくなにか物を買わなければならないからだ。
こんな弱そうなやつは無視して押し入るという手もある。が、メガネの男の目には、何をしでかすかわからない狂気の色が滲んでいる。そして、そうした目でわたしをにらんでいるのは、その男だけではなかった。後ろの者も、そのまた後ろの者も、列に並んでいる者たちがみな同じ目でわたしをにらんでいる。太陽の光が、夏の熱気が、そこに並ぶ者たちを狂気に導いているようだった。
わたしは逃げるようにその場を離れた。
通りを渡って何分か歩いた先に、別のコンビニエンス・ストアがある。そこは表通りから一本奥まったところにあっていつも空いているから、問題なくトイレを借りられるはずだ。
*
信号は赤だった。
わたしは横断歩道の前にできた信号待ちの
しかし暑い。こうしてひなたに立っていると、熱気が重いかたまりとなって肩や背中にずっしりとのしかかってくる。だがこの通りさえ越せば、静かなコンビニエンス・ストアの清潔なトイレで用を済まし、空調の効いた涼しい店内でキンキンに冷えたアイスコーヒーをのどに流し込む時間がやってくる。
セミの鳴き声は、依然うるさかった。しかしいつもとおなじであれば、激しく行き交う車の騒音と振動でセミの鳴き声など掻き消されてしまうはずだ。が、今日にかぎってはそうではなかった。
道路を走るすべての車が――バスも、トラックも、タクシーも、その他のいろいろな車両も、すべてが静止している。三車線もあるこの広い通りは、はるか先まで渋滞していた。通りには低いアイドリングの音と甲高いセミの鳴き声だけの、奇妙な静けさが充満している。
運転手たちは一様に焦点の定まらないとろんとした目つきで、道の先をぼんやりとながめていた。高速道路をずっと走っているとそういうことが起きるのと同様に、渋滞待ちのあまりの単調さが、ある種の催眠現象を誘発しているようだった。あるいはぎらぎらとひかるボンネットの照り返しが、催眠術にさらなる効果を加えているのかもしれない。
*
信号が青にかわった。
わたしは前の人に続いて、いそいで横断歩道を渡りはじめた。歩行者用の信号は短く、道幅は広い。ゆっくり歩いていると渡りきれないこともある。
ところが道を半ば渡ったあたりでおかしなことになった。向こうからやってくる人たちがどんどん目の前に押し寄せてきて、わたしの行く手を阻んだのだ。幾重にもなって押し寄せてくる人の波は、古代ギリシア歩兵のファランクスさながらに頑丈で、熟練したラグビーチームのスクラムのように連携しているかのようだったので、通りぬけるわずかな隙間さえ見つからなかった。
それでもなんとか通りぬけようと、体を横にしたりかがんだりしているうちに、わたしは濁流に飲まれた一片の落葉のように、人の波に流され、揉まれ、回転したあげく方向感覚を失い、気がついたときには元いた場所に押し戻されていた。
その後も信号が変わるたびに何度も通りを渡ろうとするのだが、道の半ばをすぎるとどこからか人の波が現れて押し戻されるので、どうしてもその通りを渡ることができなかった。
濁流 多田いづみ @tadaidumi
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