ナツのカゲロウ

鈴ノ木 鈴ノ子

なつノかげろう

 

 私の夏は陽炎を見ると訪れる。


 私の四季は四角いベッドのある部屋から見える窓の外の景色だけだった。窓の外は人工建造物のビルばかりで、気持ちの良い自然が見えることなどなく、ビルとそれによって切り取られた空が見えるだけなのだが、そんな空間でも季節で夏だけはよく分かった。

 

 純白の入道雲


 明るく長い日差し


 ビルから立ち昇るゆらめく陽炎


 突然の雷雨


 私の四季の中で最も騒がしく忙しい、まるで猫の目のようにコロコロ変わる風景をベッドで横になりながら、絵本の読み聞かせのように楽しく眺めていた。

 この季節になるとベッド脇にある点滴台から滴り落ちてゆく点滴もどことなくぬるく感じてしまうのもそのせいだろう。

 窓の反対側、室内にもガラスの入った大きな窓がある。部屋はそれで半分で仕切られていて、私が入ることのできない仕切られた空間には白い壁にソファーと机があり、卓上には私とを繋ぐ白い電話があるだけだ。言うなれば部屋全体が殺風景な光景だろう。


 私に会いにくる人は少ない…。いや、ほぼないに等しい…。


 私は難しい病気…いわゆる治療法の確立していない病いに罹患していて、この囲われた清潔以上の潔癖に等しい空間で過ごしていた。


 その病いは夏の陽炎のように揺らぐ…。


 揺らぎは私へ狂おしいほどの痛みを与え、そして意識を混濁させて堕としていく。視界が揺らぎ、身体が揺らぎ、心が揺らぎ、そして限界まで揺らぎきると意識は限界点を超えて奈落の底へと堕ちていく。

 何度か目を覚ますと白い防護衣に身を包んだ父と母がいてくれて安心できたけれど、ながらに年齢を重ねると、それが命の燈明の明るさが失われそうになったから駆けつけていたのだということが理解できた。


 それでも夏の陽炎を恨まなかったのは、その季節になると毎日くる幼馴染がいたからだ。


 生まれてから中学の入学まで普通にお隣さん同士で親しくしていた彼は、私がここに来てから夏になると必ず部活の帰りに寄り道をしてくれた。そして数時間ほどたわいもない話をしたりして過ごしていく。休み以外の学校のある時は土日のいずれかで同じように過ごしていくが、夏休みは欠かすことなく訪れてくれていた。


「友達とも遊んでるし、寄ることぐらい気にしないでいいよ」


 心配して気を使うと彼はそう言って笑う。

 私の貴重な話し相手として、元気だった頃の向かい合わせであった自室の互いの窓からたわいもない話をしていたように穏やかな口調で私を安心させるというより癒してくれていた。

 揺らぎに飲み込まれて、苦しみに耐えきれず、涙も、叫びも、激しく甲高く上げて、みっともなく醜悪に等しい姿を見せ、看護師さんや先生の処置を施されながら、ベッドから青白磁の色をした手を彼に精いっぱい伸ばしてしまった時も、近くまで駆けつけることができなくとも、私にそばにいるよと言っているかのように私の涙目をじっと見据え、ゆっくりと頷きながらソファーに座ってくれていた。

 彼はその拳をぎゅっときつく握り締めて、なにかに耐えるように私を只々励まし続けてくれた。

 彼がいてくれる安心感は年を経るごとに増していき、病魔と耐えるだけしかなく、希望の見えない戦いに対して、挑み続けることができていることの感謝を毎回伝えるのだけれど、彼は笑って恥ずかしそうにして誤魔化していた。

 

 それでも定期的に襲い来る揺らぎを耐え忍びながら過ごしていると、もしかすると永遠とこのまま生きていくのではないかと考えてしまう。この苦しみが彼の存在をも揺らぎさせ始めていた頃、主治医の先生が朗報を携えて病室を訪れた。


「新薬ができたみたいでね。お父さん、お母さんからは是非ともと言って頂いているけど、君はどうしたいかなと思って、説明に来たんだ」


 そう言って真面目な先生が詳しい説明を始めた時も、彼はソファーに座って私と一緒に聞いてくれていた。説明が終盤に差し掛かった頃には、互いの視線は希望に満ち溢れたものとなり、お互いに頷くと私はいわゆる治験と言って、新薬を患者さんに試して頂く試験へと参加をした。

 導入初期は揺らぎは一層激しくやって来てしまい、私は何度みっともない姿を見せただろう。土日になると彼がわがままだからと言って部屋に泊まり込むようになり、それが失った意識が淀みから浮き上がり視界が開けてくると、たとえ隔てるものがあろうとも、その姿が見えるだけで、私にはどれほどの希望になっただろう。

 数ヶ月を経過した頃には身体が薬に適応したようで、安定し始めると揺らぎは次第に力を失っていった。

 カレンダーに彼が書いた揺らぎのない日々の丸印が長く続いてゆくたびに、彼は自分のことのように喜んでくれた。丸が途切れるとその度に励ましてくれて、その言葉に何度涙を流しただろう。

 彼の言う通りに、揺らぎはぱたりとまるで姿を消したかのように止むと、やがて体内の免疫が回復してきて部屋を隔てる結界のような窓仕切りが取り払われ、私は何年かぶりに彼と直に接する機会を得ることができた。


 日頃から顔を合わせていたのに、互いに近くでまじまじと顔を合わせると恥じらいを通り越して、出会った頃のような気恥ずかしい感覚に襲われる。彼は固まって何を言っていいのか分からないという雰囲気であるように見えるけれど、それでも柔和な顔には穏やかで爽やかな笑みがあった。

 私も精いっぱいの笑顔で彼に微笑んで、長いこと点滴のチューブに繋がれて自由に動かすことの許されなかった右腕を伸ばし右手を恐る恐る彼へと差し出すと、彼の手が割れ物を触るかのように両手で私の手を包んで、やがて指と指を互いに時間をかけて絡ませていく。


「手を握るのは凄く久しぶりだね」


 絡み合う指がしっかりと結び合うと彼がそう恥ずかしく嬉しそうに呟いた。


「うん」


 私も彼の温もりを味わうかのように指先に力を込めた。青白磁の色をした血色の良くない皮膚の手を、数分握っていただけなのに、彼が帰った後もその温かさは何時間も指先を温め続けてくれた。


 回復は進んで順調そのものとなってくると、身を起こし衣服を自分で着れるようにまで回復したことに、彼はさらに自分のことのように喜んでくれた。


ナツ、もう少ししたら退院みたいだよ」


 彼が嬉しそうに私の名を呼んでそう言う。

 

「うん、そうみたい」


 主治医の先生は私に先週の診察でそう言ってくれていた。骨と皮になりかけた身体は成長を取り戻すかのように女性らしくなっていったけれど、青白磁の皮膚の色は染み付いたように変わらなかった。身体の体力までもしっかりとは戻ってはいないけれど、自宅療養にてゆっくりと回復させていく方向が決まっていた。


陽炎カゲロウは来年から大学生だね。もう少ししたら一人暮らしをするの?」


 私が正式に退院する日が数ヶ月後と決まった頃には時がそこまで迫って来ていた。彼は猛勉強の末に合格した医大へ進学することを数日前にそっと教えてくれた。その距離は到底通学で済まされないから、そうするだろうと思っていたのに彼からの返事に耳を疑った。


「しないよ。自宅から通うことにした」


「自宅からって…2時間近くかかるでしょ…。」


「その方がきっと楽しいと思うんだよ」


 彼は嬉しそうに笑顔を浮かべて私の手をしっかりと握ってくれる。私もその言葉と彼がいてくれる嬉しさのあまり力を込めてその手を握り返した。

 無事に退院を迎えたのちにあの頃の幼さの残る懐かしの自室へと帰宅した私は荷物運びを手伝いに来てくれた彼が、おかえり、と言ってくれたことに安堵のあまり涙を流しながら抱きつくと、優しい抱擁が私を包んでくれた。

 

そしてしばらくすると毎朝の日課ができた。

 

自室の窓を開けて、彼の部屋の窓を何回か叩くと閉じられていたカーテンがゆっくりと開いて彼の顔が現れる。


「おはよう…」


「おはよ」

 

 眠たそうな目を擦る彼に、昨日は夜遅くまで部屋に電気がついていたから勉強をしていたのだろうと察した。そしてその予想が当たったことに安堵もする。


「昨日は遅くまで頑張ってたよね…。これ、今日のお弁当」


「サンキュ…。いつもありがと」


 リハビリになるからと母に勧められて、私は毎朝、父と母、そして彼をお弁当を作っている。慣れてくるとそれぞれの体調を観察しながらお弁当を作るようになった。

 彼用の大きめの弁当箱をバンダナに包んだものを窓から差し出すと、彼が両手で受け取ってくれた。


「授業、頑張ってね」


「うん。そっちも頑張れよ」


 私も通信制の高校で学び始め、毎日、部屋で授業を受けていた。しばらくして図書館ボランティアの活動にも参加するようになり、交遊関係も広くなったけれど、彼との日課は毎日欠かすことなく続けていて、あの頃の失った一日一日を取り戻すように過ごしている。授業が休みの日、たまに市街へ出かけて買い物を終えると、連絡を取り合って駅前で彼を待つ楽しみもできた。


 夏の遅い夕暮れが訪れた駅前で合流して、彼の隣を歩いている時、昼間の暑さの残滓のような陽炎が道路をゆらゆらと揺れているのが見えた。


「夏の陽炎だね」


 彼が笑いながらそう言った。

 小学校に入学した頃から、ずっと彼はこの季節になると私の前でそれを見かける度にそう言う。


「うん」


 ゆらめくさまを見ながら、ふと、あの揺らぎを思い出しそうになった私に彼が耳元でこう囁いた。


「意味、そろそろ、気がついてほしいな」


「へ?」


 間抜けな声を出して返事をした私は暫く考えこむと、やがて全身を血が駆け巡り青白磁の皮膚を真っ赤に染めた。彼へと熱った顔を向けると、同じように顔を熱らせた彼が恥ずかしそうに頬を指でかいていた。



 


 

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