二つの名前(2)

 イズー城で一番いい部屋だったはずのレイラの部屋に重たい空気が漂った。

 ベッドに戻されたラベルは、かつてと変わらない。本当に、あの儀式での出来事は事実なのか? と思うほど、死人のように動かない。

 母のエレナはラベルの手を握りしめ、再び意識が戻らないかと、見つめている。父のセリスは、普段の王らしき態度は影をひそめ、今にも倒れてラベルと共に死人にでもなるのでは? という状態だった。エレナの横に立ち尽くしていた。

 レイラはベッドには近寄れず、子供を抱きしめたまま、一体、何が起きたのだろうと、頭を整理していた。


 声を上げたのは、王妹のフロルだった。

「兄様! 兄様はわかっていたのね? ラベルが……ラベルの思っていたことが。わかっていて……知らないふりをしていたんだわ!」

 セリスは、蒼白な顔をして、震える唇で小さく「……いや」と答えただけだった。

 だが、心話に長けたセリスが、あそこまではっきりと意識を持っていた息子の心の叫びを、受け取れなかったはずがない。

「嘘つき! 兄様はいつも嘘をつくんだわ! エーデムのため、エーデムのためって! それで、自分の息子を犠牲にしてもっ!」

 そこまで叫んだ途端、フロルは言葉に詰まった。

 自分の息子たちが殺し合い、一方が命を落としてしまったことを、止められなかった事実が、急にのしかかってきたのだ。

「フロル様、おやめください。セリス様に嘘はありません。本当に、ラベルの……ラベルの心は読めなかった、私はそう信じております」

 息子の手を握りしめながらも、凛とした声でエレナが言った。

「もしも、ラベルの心が読めていたのなら、たとえ同じことをしたとしても、息子の気持ちに配慮します。それが親として、当然のこと」

 セリスの手がエレナの肩に添えられた。


 しかし、レイラにはわからなかった。

 はたしてそれが真実なのかどうか。

 セリスは、本当にラベルの心を読めなかったのだろうか? 彼の気持ちに気がつかないふりをして、結婚させ、子供を王子として迎え入れるつもりだったのだろうか?

 ラベルの最後の言葉は、セリスに向けられたものだった。

 だとしたら……。

「私も同罪」

 レイラの心にラベルの言葉が棘のようにちくちくと刺さった。


 あなたにとって私は死人しびとでなければならない存在だった……その事実が許せない。


 セリスとレイラの密談は、ラベルが死者と同じとみなして成り立っていた。

 レイラにとって、子供はセラファン・エーデムであり、父であるセラファン・エーデムの名の下に綴られるべき存在だった。ラベルの子ではない。

 そして、かつて見た夢のように、ラベルがたとえ生き返ったとしても……やはり、夫はメルロイで、彼の帰りを待ち続けただろう。

 レイラは、結婚後、献身的にラベルの介護をしてきた。意識が戻らないだろうかと期待を込めて話しかけ、何度も手を握ったりもした。

 でも、その実、彼の回復を少しも望んでいなかったのだ。

 意思もなく、考えることも、見ることもない、死人同然であることが、レイラにとって都合がよかった。

 なんてひどいことをしていたのだろう?

 その復讐に、彼は動けない体を無理やり動かし、命を削って、息子に呪われた名前を与えた。

 なんてひどいことをするのだろう?

 確かに、自分のしたこと、セリスのしたことは、ラベルにとって許し難いことだっただろう、でも、子供には何の咎はない。

 ラベルに対する申し訳なさと同時に、憎しみも湧いてきて、レイラは子供を強く抱きしめ、涙を流した。


「ラベルの心を知ってしまった以上、私は……」


 彼を介護することも、結婚生活を続けることも、もう苦痛以外の何物でもない。

 しかも、子供に呪われた名前をつけられて、許しがたい。

 もうこのような……王族に名を連ねられない。


「あなたにはすまないことをした」

 やっと会話らしい言葉を、セリスが口にした。

 彼は儀式の途中から、すっかり王らしいいつもの威厳を失って、ただただ蒼白な人形のようだった。妹の罵りにも反論することもなかった。

 エレナが心から信じてくれたことで、少し気持ちが楽になったのだろう。改めて、レイラは、セリスが自分でも妹のフロルでもなく、平民であるエレナを伴侶に選んだのか、わかる気がした。

「我々は、これからの対応を考えねばならない。ラベルがあそこまでしてつけた名前だ。王子の名前を変えることは、私にはできない。だが、あの名前を公表すれば、民は驚き、不安になるだろう」

「わ……悪い名前じゃない。確かに不幸があった名前だけど、歴代の王から音をもらっているし……この子が大人になって、この不幸を払拭すればいいんだわ!」

 フロルの声は、明るさがわざとらしかった。

 レイラは何も言えなかった。

 とても意見を言えるような心境ではなかった。だが、フロルの言葉を聞いた時、思わず嗚咽と共に小さな呟きが出てしまった。有角のセリスにははっきりと聞こえただろう。

「……ラベル様のつけた名前は……絶対にありえない」


 たとえ、彼が命がけで訴えた名前でも「ファセラ」はありえない。

 そして、彼が命がけで拒んだ名前でも「セラファン」と名付けたい。


 それがレイラの望みだった。

 でも、声高らかに主張するには……あまりにもレイラは大人で、今の現状が見えてしまっている。もうかつてのわがまま放題言いたい放題の少女ではないのだ。

 ラベルが父親として名前を宣言した時にいた人々は、エーデムの重鎮だし、既に民は子供の名前を心待ちにしている。

 そして、ここでラベルの命がけの主張を無視するならば、やはり、親としてありえないこと、それを、セリスやエレナには要求できない。

 レイラは、自分の願いを聞かれることを、むしろ、恐れた。

 だが、発言の機会はなかった。

 儀式の時はすっかり王妃の顔から母の顔になっていたエレナが、王と王妹に有無を言わさぬ意見をしたからだ。


「この結婚は……なかったことにしましょう」


 エーデム王族の長い歴史の中、誰一人として離婚をしたものはいない。だが、エレナはこの結婚を破棄して、レイラの子供は歌うたいのことして、セラファンを名乗らせよう、と提案してくれたのだ。

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