ファセラの呪い(3)
新緑が萌える爽やかな朝、レイラは無事に子を産んだ。
エーデム族にしては珍しいほどの安産で、王宮医師であるムテ人たちを驚かせたほどだった。
最初にお見舞いに来たのが王妹のフロル、それから王妃エレナ、最後に王セリス。皆それぞれに祝福の言葉を述べた。
そして、無事に王子が生まれたことは、イズー中に伝わり、子のお披露目はなかったものの、街は華やかに飾られ、民は大いに祝ったのだった。
厳しい世の中に、やっと訪れた明るい希望。
何もかもが順調……レイラは、可愛い我が子を抱きながら、幸せな将来しか思い浮かべることが出来なかった。
そして、ついに命名の儀を迎えることとなった。
謁見の間にて、厳かに行われる。
これは、エーデム王族が代々行う儀式で、祖先を前に父親が子供に名を授け、それを王家・分家の貴族も交えた一族が揃った中、家系図に書き込むのである。
その神聖な名前は、生涯変えることなく、かつ、偽名を名乗ることは恥とされる。
その点で、実に仰々しい儀式でもあった。
ラベルは相変わらず死人のようで、ただ眠っているだけだった。
なので、レイラが名付けた名前「セラファン・エーデム」の名を、祖父にあたる王セリスが与えることとなる。そして、彼が大勢の前で、家系図にその名を刻むのだ。
ラベルの子として、その下に連ねる。
子供を抱きながら、レイラは壁一面に貼られたエーデム王族の家系図を見た。
エーデム王ファウルの下に「セラファン」の名がある。これは、我が子の名前ではなく、夫のメルロイの捨ててしまった本名だ。
本来は、捨てられない名前を、彼はほとんど名乗らなかった。遠い人間の島で育った彼は、もともと育ての親にメルロイという名前を与えられ、自分の本名を知らなかった。
それでも、エーデムに戻ってきた際は、セラファンという名を使うことも厭わなかった。
今から思えば、メルロイは自分の名前を捨てたのではなく、生き方を選んだのだ。民が、エーデム王族としてのセラファンを期待しようが、歌うたいとして望もうが関係ない。彼は彼だから、彼はどちらの名を呼ぶことも許したのだ。
だから、レイラも結婚するまでは、彼をセラファンと呼んでいた。
エーデムでは、メルロイにエーデム王族であることを望む人が多く、セラファンの名前の方が一般的だったからだ。
エーデム王子とではなく、一介の歌うたいと共に人生を歩むのだ、と決意してから、レイラは彼をセラファンと呼ぶのをやめた。ずっとメルロイと呼んでいた。
でも……確かに「セラファン」は夫の本名なのだ。
子供にこの名前を与えてしまうことは、もう夫は帰ってこないのだ、と認めることでもあり、一抹の寂しさも感じていた。
そして、本来であれば、ラベルの名の下ではなく、セラファンの名の下に、もう一つセラファンという名が重なるはずだった。
セリスが持ったペンが、壁のラベルの名の下に添えられた時、思わずレイラは息を呑んだ。
が。
それよりも別の声が……。
「お待ちください」
弱々しい声が、広い謁見の間に響いた。
あたりがざわつき始めた。
逆光にさらされて、よろよろと老人が……いや、老人のような若者が壁に伝わりながら、謁見の間に入ってきた。
石の回廊に足音すらなかったのは、彼が裸足だったからだ。そこまで来るのに何度か倒れたのか、足は血だらけ、白い寝衣は膝下あたりの長さしかなく、ところどころに青いあざを作っていた。
血の気のない蒼白な顔に乱れた銀の髪、しかし、その髪の間からは銀色の角が見えていた。
その姿を見て、真っ先に声を上げたのは、王の横にいた王妃であった。
「ラベル!」
死人のようであった王子は、ベッドから這い出してきたそのままの姿で、正装した人々の間をよろけつつ、時に人にぶつかり、支えられながらも、ゆっくりと王の前まで自分の足で歩いてきた。
立っているのがやっとだろう、骨だけのような足で。
レイラの手の中で、赤子が大きな声で泣き出した。何か異様な空気を感じたのかも知れない。
信じられない出来事にレイラは動けずにいたが、赤子の声で我にかえり、よしよしと必死にあやした。が、ドクンドクンと強く打つ心臓の音を抑えられず、赤子の泣き声も抑えることが出来なかった。
「お待ちください。父上。……その子の名前は、私がもうすでに決めています」
蚊の鳴くような声、だが、広い部屋には十分に響き渡った。
「ラベル、ラベル、ラベル……」
王子の名を呼んでいるのは母のエレナだけだった。駆け寄ろうとしたその腕を、横にいたフロルが押さえた。
王であり、ラベルの父親でもあるセリスの顔が蒼白になっていたからだ。
長い間、意識がなく、寝たきりで、まるで死人だった王子が起き上がり、自らの足で歩き、言葉を交わす。
これは、実にめでたいことのはずだった。
だが、この場でこの状況を素直に喜んでいるのは、おそらく母のエレナだけだっただろう。
多くの者は、ラベルが病だと知ってはいたが、これほどまでに骨と皮だけになっているとは思っておらず、その姿に衝撃を受けていた。
そして、王セリスは……無言のまま、壁に向けていたペン先が揺れていた。
レイラにとっても、夫が目覚めたことは、喜ばしいことに違いない。が、夢に見ていたような幸せな展開にはなりそうになかった。
頭の中が真っ白になり、何も考えられず、動くことすら出来なかった。
ラベルは、王の元まで行くと、その手からペンを奪いとった。
一瞬親子は目を合わせたが、おどおどと目を伏せたのは、父の方だった。
その様子を見て、ラベルはふと微笑んだように見えた。そして、家系図に子供の名前を書き込んだ。
ファセラ
それは、ファイガ王の王子であり、角ありでありながら、エーデムリングに選ばれざる者、そして、王位継承者となりながら、自分の能力を証明するため、エーデムリングの迷宮へと入り、迷い、命を落とした者の名である。
彼は、長い間、彷徨った挙句、地底湖に落ち、冷たい水で心臓を止めてしまった。そして、ガラルにある瑠璃門から水と共に流れ落ちて、戻ってきた。
蒼白な死骸と成り果てて。
実力以上のものを求め、虚勢を張ることを、エーデムの民は良しとしない。
この教訓は、エーデムの民には有名で、親は子供に語るのだ。
「だから、身のほどをわきまえるのだよ」と。
当然ながら、そのような不業の死を遂げた王子の名前をつける親はいない。
周りが一瞬固まって、そしてザワザワとざわめいた。
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