夫の面影
夫の面影(1)
雪を理由に旅立ちを伸ばそうと思っていたのに、天はレイラに味方しなかった。
数日で雪は跡形もなく消えうせ、気持ち良い秋の日が戻ってきてしまったのである。
壁に掛かったリュタンを、ポロンと弾いてみる。
心の奥底に共鳴する低い音が響いたが、レイラの答えは見つからなかった。
夫は、ひたすら微笑みばかりを見せる男で、今、レイラの頭に浮かぶものも、エーデム族らしい笑顔だけだった。
「私はいったいどうしたらいいのよ」
やけくそ気味に、物言わぬ楽器に話しかけたが、返事はもちろんない。
レイラは、久しぶりに砦の頂上に上がってみた。
ガラル川の中州にある砦は村よりも寒く、頂上は凍えるほどだったが、レイラはウールのストールをかぶって耐えていた。
ガラルの山はすでに真っ白で、吹き降ろす風も冷たかった。
「私はいったいどうしたらいいのよ」
風に聞いても答えはなかった。
ガラルに住んでいた頃の夫は、よくここや白亜門の向こうでリュタンを弾き、歌を歌った。
それは、人のためではない。ガラルの山の向こう、エーデムリングに眠る者たちへの捧げ物であった。
王という身分に縛られなくても、夫は夫なりにエーデムの力になっている……と、レイラは思おうとしていた。しかし、当の夫といえばお気楽なもので、それほど深い気持ちではなさそうだった。
貴族という地位に縛られていて、世界を狭めていたレイラにとって、メルロイは衝撃的な存在でもあった。が、時にその気ままさが、どうしても不安を呼んだことも事実である。
――王族としての責任――
彼はいったい、それをどう思っていたのだろう?
レイラには想像もつかない。
そんなお気楽な夫が、突然ふさぎこむようになったのは、この春のことである。
ガラルの巫女姫と恋に落ちたアルヴィラントは、彼女のためにガラルに住み着いた。後々叶わぬこととなったが、彼はウーレンの王位も何もかも捨て、一農民として生きる決心をしたのであった。
同行していたムテの少年も、すっかり夫とアルヴィラントが気に入ったのか、故郷へ帰るそぶりも見せず、似合わぬ鍬に翻弄されながらも、レイラの畑作を手伝ってくれた。
春の陽気が一気に開花したような、幸せな日々。
旅は、すべてが終着地に着いたかに思われた。
しかし……。
夫には、何か思うところがあったらしい。
誰もが幸せと自由を謳歌している中で、夫だけが沈んでいた。今までのお気楽さを、たまには腹立たしく感じたこともあるレイラだが、さすがに心配でたまらなかった。
何度もさりげなくどうしたのか聞こうとしたが、常にはぐらかされていた。
そしてある夜、ついにレイラは爆発してしまった。
「あなたはどうして私には何も相談してくださらないのです? 私は、そんなにくだらなくてつまらない存在ですか? 私はあなたの妻なのに! どうしてです? どうして!」
ベッドの中で、そう叫さけんだ。うつ伏せになって、うわっと大きな声を上げて泣いた。
たまり溜まったものが、一気にはじけたようだった。
結婚したときも、彼は何か大きな悩みを持っていたようだった。
しかし、レイラはそのことについて、相談を受けたことも、打ち明けられたこともない。
旅に出る理由もそうだった。
ただ、お気楽なままに出かけているようにみせて、実は何かがあるような気もしたが、彼は常に笑ってはぐらかすのだった。
「私はいったい、あなたの何なのです? 辛いことがあるならば、どうして一緒に分かち合ってくれないのですか!」
シーツの端をかみ締めて、レイラは泣いた。メルロイは困ったように少しうろたえたが、やがてレイラの肩を抱いて身を返させた。
指先をレイラの口の中に差し込んで、噛んでいるシーツを外すと、代わりに唇を重ねてきた。
「……そんなことで、私を黙らせようとしたって……」
唇が少し離れた瞬間に、レイラは言葉をつむいだ。しかし再びすぐに唇はふさがれた。
「う……ん…」
言葉がすべて唇で絡み取られて、意味のない吐息に変わってしまう。
それが夫のずるいやり方なのだ。だから、シーツをかみ締めていたのに。
どうにか、夫を振り切って再び怒鳴る。
「……そんな手には乗りませんから、今夜という今夜は……!」
優しく注がれる視線も無視して、銀の髪を撫でようとする手を払って、レイラはさらに怒鳴り続けようとした。
しかし、夫のほうが力も強く、しかも抵抗できないほどに優しかった。
レイラの平手も笑顔で受け流し、何の苦もなく、再度唇を奪ってしまう。
「……絶対にあなたの悩みを聞いて……」
頭の芯がしびれてしまい、言葉が途切れる。すっかり敵わなくて、涙が出てきてしまう。
「レイラ、わかったから……」
耳元に響く熱いささやきとともに、優しい愛撫。
「わかってなんか、いないくせに……」
やっと出した声はすっかり大人しくなってしまった。
また……うまく逃げられてしまった。
ぼんやり夫の銀の角を撫でながら、レイラは天井を眺めていた。
低くて抜けそうな天井だなぁ……と、わけのわからないことを考えてしまう。
愛されてしまったあとは、もう夫を問い詰める気持ちも萎えていた。この調子で、いつも逃げられてしまうことを、天井の心配をしながら、許してしまうレイラだった。
しかし、その夜だけは少し違った。
「レイラは……ふるさとだ」
突然、夫がぽつりと言った。
「いつか帰るところがある……と思ったら、行き先がどんなに闇で見えないところでも、怖くはないんだよ」
半身になって、夫はレイラの髪を撫でた。
瞳は森を映した深い泉のようであり、底なしの闇にも見えた。
「あなたがいなくなったら……私はきっと泣いて暮らすわ」
困ったような微笑が、夫の顔に浮かんだ。
「だめ。レイラはいつも明るくて元気でなければ……。そのために私は」
そこで夫は言葉を切り、再び口づけしてきた。
続きの言葉は、二度と囁かれることはなかった。
夫は、微笑みを残して旅立った。
レイラに形見のリュタンと……お腹に小さな命を残して。
結婚して長い年月、欲しかったのに子供はできなかった。
とすれば、あの夜。
聞きそびれた夫の答えは、子供にあるのかもしれない。
子供とレイラの幸せこそが、彼の望むことだとしたら……。
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