第8話
「これを持って行きなさい。」
出された紅茶を飲み干して、さあ戻ろうかという時になって、ハルの祖父が奥から古い本を持ち出してハルに手渡した。分厚い本は持ってみるとその見た目以上にずっしりと重い。
「何?これ。魔導書?」
「いや、呪文教書だ。」
「教書?こんなに分厚いのが?」
ハルはパラリとページをめくる。呪文教書は日常生活で使うのとはまた違った独特の文字と文体で構成されていることが多い。古い教書ならなおさら読みづらく、覚える前にそもそも内容を解読するだけで骨が折れる。最近になって書かれたような基礎呪文教書ならば多少その辺りが改善されているのだが、その本はとびきり古い本だったようで。
「・・・全然わからない。」
「お前の母さんも最初はそんなことを言っていた。」
え?とハルが祖父を見上げる。祖父はとても優しい目で、ハルの頭にポンと手を置いた。
「お前の母さんが得意としていた魔法だ。最初は今のお前と同じように、最初のページを読むだけで何日もかかっていたっけな。だが、きっとお前にも使いこなせるようになるさ。なんたって、あの子の息子で、俺の孫だ。」
ハルは再び教書の1ページに目を落とす。相変わらず読みづらく、言葉がわかっても遠回しな書き振りで意味が全くわからない。
「・・・頑張って読めるようになるよ。」
「まあ、お前はこの本よりも先に、基礎呪文教書を覚えることの方が先決だろう。呪文を一つしか覚えていないって・・・だから散々自分の属性呪文くらい覚えろって言ったのにな・・・。」
「今になって身に染みてます・・・。」
いつになく素直にしょんぼり落ち込んだハルを見て、祖父はふんと鼻を鳴らした。
「お前らしくない。さっきの威勢はどこ行ったんだ。」
「・・・ちぇ。魔物と戦ったことのないじいちゃんには俺の気持ちなんかわかんないよ。」
「だったら、さっさと特訓でもなんでもするんだな。お前は、頭を使ってどうこうという性質じゃないだろう。」
「・・・わかってるよ。」
「頑張れよ、ハル。」
「え。」
「気をつけるんだぞ。きっといつか、本当に立派な神官になって、帰ってこい。待ってるから。」
いつもガミガミうるさいくせに。
こういう時ばっかり優しい言葉をかけてくるなんて、ずるいじゃないか。
涙が滲みそうになったのをグッと歯を噛み締めて堪える。
もう決意は固い。覚悟も十分だ。いつかまた、この森に帰ってくる頃には、胸を張って「神官だ」と言えるように。
「今生の別れを告げていらっしゃるところ恐れ入りますが・・・。」
申し訳なさそうにカンタベリーが口を挟む。
「ハル様はアルカディアの森に頻繁に通われることになるでしょうから、お二人ともまたすぐに会えますよ。」
え???
ハルはポカンと口を開けて固まった。
「ハル様の職務というのは、このアルカディアの森の管理人“見習い”でございます。」
「管理人見習い?」
「この森には、帝都やその他都市では栽培することができない希少な植物が多く繁っています。そのどれもが薬草や魔法薬、杖や魔力石など多くの魔法具で不可欠なものなのです。このアルカディアの森を管理し、守り、そして必要な時に帝都へ供出することはとても大事な職務なのですよ。」
「・・・それを、ずっとじいちゃんが?」
「真面目に手伝いもせんからそんな基本的なことも知らんのだ。全く。」
「管理するには知識が要ります。守るには力が必要です。そして帝都へ運ぶには信頼が伴います。本来であれば、優れた魔道士か、あるいは神官にしか成し得ない仕事なのですよ。」
「わしの跡は、お前の母さんが継ぐはずだった。それがあんなことになってしまったからな・・・。」
「それを、俺が・・・」
「いかがでしょうか。ハル様にとってこれ以上ないほどピッタリなお仕事だと思うのですが。」
「カンタベリーさん。ありがとうございます。」
今度こそ、と立ち上がって、ハルとカンタベリーは管理小屋を出る。
「そうだ。ここへなら遠慮なくテレポートが使えますから、ハル様ご自身で魔法陣を描けるようになった方がよろしいですね。」
カンタベリーは、出した杖をすぐにしまって言った。確かに、帝都からアルカディア保護特区までは歩いて行くと半日はかかる。馬に乗ったとしても頻繁に通うには気が滅入るような距離だ。魔法で飛んで来れるのならばそれに越したことはない。
「でも、俺魔法陣の描き方わからないですよ。」
「仕組みさえわかってしまえば簡単ですよ。」
ハルは杖を出して、カンタベリーの言う通りに魔力を込めながら地面をなぞる。
「中心円には、まずご自身のサインを書きます。決まったものがなければ、時計回りにお名前を書いてくだされば結構です。その外周を円で閉じてから、行き先をできるだけ詳細に描写していきます。今回は神官執務室・ハル様の自室・ベッドのそば直径1メートル以内に障害物のない床の上、としておきましょう。もし行き先の詳細がわからないときは、最後のように障害物のない地面の上、床の上、など安全に降りられるだろう内容で保険をかければ大丈夫です。人を目印にすることもできますが、条件がございますからそれはおいおいと言うことで。」
「サイン・・・えーと、神官執務室の俺の部屋、ベットのそばの床の上、直径1メートルに障害物がないところ・・・と。」
「では、最後に呪文を外周に描きます。」
時の流れ、自然の摂理に背く我は全能なる神の申し子なり。テレポート。
「・・・随分と大口を叩く呪文ですね。」
「何せ、この世で生まれた最初の呪文と言われていますから。この魔法を生み出した人は、当時さぞもてはやされたのでしょう。」
呪文をなんとか魔術文字で書き連ね、最後に再び円で囲む。
不格好ながらもキチンと魔法陣として成立したようだ。にわかに銀色の光が溢れ出し、その円の中だけ魔力で満たされている。
「じゃあな、ハル。次来るときは新人管理人としてシゴいてやるからな!」
祖父に見送られ、ハルとカンタベリーはそっと魔法陣に足を乗せた。
神官塔に二人が戻ると、執務室にはリアトリスとホタルにプリムラ、そして学校から帰ったばかりなのか、まだカバンを下げたままのイブニングが立っていた。
「…おや、プリムラ。珍しく早いですね。仕事は良いのですか?」
「はい。議会はあすに延期されました。」
「延期?」
「ハミル様が遠征からお戻りになられたそうで。」
「…そうですか。」
「そんで、全員集合なんだってサ。」
「大賢者様がお呼びです。大講堂に来るようにと。カンタベリーも。」
プリムラに先導される形で、神官塔からいくつも渡り廊下を歩いていく。城の中心部に程近い議会塔に辿り着くと、上階へと続く螺旋階段があった。高い吹き抜けとなったその階段にはところどころに採光用の穴が空いていて、日が差し込んでいる。
その階段を最上階まで登ると、重厚な扉が一つ。プリムラが迷わず向かうと扉は触れることなく、ゆっくりと開いた。
「ベケット様。お連れしました。」
「うむ。入ってくれるか。」
スタスタ進んでいくプリムラと対照的に、ハルたちは恐る恐るといった様子で扉の奥に歩を進める。そこはハルが首飾りのテレポートによって飛ばされてきた、あの広い広い講堂だった。
「いや、わざわざ呼び出したりしてすまなかった。ようやく、神官が揃ったのだ。せっかくだから、皆の顔ぶれをこの目に焼き付けておこうと思ってな。」
ははは、と笑う大賢者は相変わらず威厳たっぷりな様子で玉座に腰掛けている。
しかし、その声にはどことなく元気がないようにも思えた。
「あの、大賢者様?どこか具合でも悪いんですか?ちょうどさっき、俺のじいちゃんのところで、疲れが取れる良い薬をもらってきたので、よければどうぞ。」
「・・・薬か。ありがとうな、ホーリー。」
大賢者はハルに微笑むと、咳払いを一つ。
「ふむ。どうやらさっさと、本題に入らねばなるまい。」
「本題?」
「皆をここに呼び出したのはな、あるお願いがあってのことなのだ。」
200年前、この国を襲った悪神。
その強大な力に、いかなる屈強な兵士も、才ある魔道士たちも敵わず、大勢の命が散っていった。
その時、どこともなく現れたのが、アレス。
5つの属性魔法全てを操る類まれなる魔法センス。呪文をいかほどに唱えようとも尽きない魔力。そして、おぞましい悪神を前にしても動じない強い心。
神と対峙できるアレスもまた、まごうことなき神だった。
アレスは悪神に対して強力な封印魔法をかけた。自身の命と引き換えに。
悪神は神聖なる現・アレスティナの大地に封じられ、アレスも同じく永遠の眠りについた。悪神の封印を守るように、その大地の上に建てられたのが現在のアレスティナ教会。再び悪神が目覚めることがないように、日がな国民の祈りが捧げられているというわけだ。
アレスが持つ5つの属性を備えた力は水晶へと姿を変え、選ばれし5人の手に渡った。神聖なる神の力を受け継ぐものとして、彼らは神官と呼ばれるようになった。そうして、アレスに代わって悪神を呼び起こす争いが起きぬよう、この国の平穏を守っている。
「これが、アレスの伝説。そして、アレスティナが神の棲まう国と呼ばれる由縁じゃ。」
「…ようは、神官がこの国の平和を守ります、っていう話なんじゃないの?」
「うむ。その通りだ、リアトリス。だが、この伝説にはたった一つ、隠された事実がある。」
「隠された事実?」
「悪神が封じられているのは、教会の下などではない。人間の体なのだ。」
200年前、アレスが悪神を封印したのは、生まれたばかりの小さな赤子だったという。5人の神官にのみその事実が伝えられ、神官は国の平穏を守りながら、封印の依代となった子供の命を守り抜いた。しかし、どれほど大事に守ろうとも、人間はいずれ死ぬ。永遠の命を持つ悪神を封じ続けることは出来ない。
「神官に与えられた職務というのはつまり、悪神の封印を次の世代へと引き継ぐことなのだ。」
「じゃあなにサ?俺ら5人で、その依代とかいう人間のお守りをしろってこと?」
「そのはずだったのだが…」
大賢者は、どうにも歯切れが悪い。焦れったい間に、リアトリスもカリカリし出した。
「はずだったが、なにさ?まさか、誰がその依代なんだか分からなくなっちゃったとか言わないよネ?」
「……。」
「……え、まさか、そのまさか、…ってこと?」
「情けないことに、そのまさかなのだ。」
20年前に始まった戦争。その混乱の中で、あろうことか依代も、神官も、そして、大賢者までもが姿を消したという。
「姿を消したって・・・死んだわけじゃないの?」
「誰一人、遺体が見つかっておらぬのだ。ただ、あの戦争は凄惨なものだった。骨の一欠片も残らぬ犠牲者が数多く出たのだ。遺体が見つからないというのも無理もないことかもしれぬ。」
ハルは確かにな、と顔をしかめた。両親も、確かほんの小さな骨のかけらや衣服の布きれ、刀剣の刃のかけら、そんなものだけが遺品として届けられ、死を確認したことにさせられたのだった。
「仕方なく、すでに賢者の席を明け渡し隠居していた私が再びこの任に就くこととなったのだ。あの戦争を経ても悪神が蘇らぬところを見ると、どうやら無事、次の人間に引き継がれたらしいことは分かるのだが…。だれがその封印を成しえたのか、どの人間に引き継がれたのか、皆目見当がつかぬ。挙句、次の世代に引き継がれぬまま、神官は命を落としてしまった。十数年もの間、その席は空いたままになってしまったのだ。」
「聞けばいいじゃねえか。依代の人、守ってあげるんで来てください、って。」
「そうしたいのはやまやまなのだがな、ホタル。依代は、自身に神が封印されていることなど知らぬだろう。」
「なんの手がかりもないんですか?」
「一つだけ。依代となるには条件がある。」
「条件?」
「清く、穢れなき魂の持ち主であること。」
「………なんじゃそりゃ!!エ?たったそれだけの手がかりしかないってこと?」
「目にも見えないようなことが条件なのか…」
「…無理を言っているのは重々承知の上だ。だが、時間がない。そなたたちには、一刻も早く依代となった人間を探し出し、その者を守る術を身につけてほしい。」
「そんなこと言われてもネ…。」
神官らは、中でもハルは途方に暮れた。
国を守り、生活を守り、さらには悪神が封印された人を守る。先代の教えもなく、戦いの経験にも乏しい15〜6の少年だけでこれらをやってのけろというのはあまりにも荷が重かった。
「明日にも神官の就任式を執り行うつもりだ。ただの少年の言葉に、全ての国民が耳を傾けてくれるとは思えぬ。しかし、君達が神官なのだと知らしめたあとなら、あるいは…。」
「信頼こそ、全ての道に通ずる第一歩です。皆さま、"神官"の名を存分に利用して下さい。」
カンタベリーの「にこり」と効果音がつきそうな笑顔も、この時ばかりは気が晴れるような効果は期待できなかった。話を理解するので精一杯で、絶句するしかなかった。
「…本当に、騙された気分だよ…。」
リアトリスはがっくしと肩を落とした。
「神官になってくれたらこの国のマーケットの元締めをやらせてやるっていうから応じたっていうのに…。こんなの聞いてない。」
「騙された気分、ではない。騙したのだ。大賢者とも呼ばれた死に損ないが、15の少年を。」
「…そこまで言ってないデショ。」
リアトリスは不満げに口を尖らせる。
「しゃーねえ。やるか。」
やる気のなさそうな、脱力した声でホタルが言った。その割には、面倒とか、嫌そうな雰囲気ではなかった。やれと言われたからやる。ただそれだけのようで。
「このまま放置して悪神とやらに蘇られる方がよっぽど厄介だしね。伝説が事実だっていうのは興味深いし。過去の文献とかがあるのなら他にも手がかりがつかめるかもしれないんだけど・・・。」
イブニングにいたっては、どちらかといえばやる気に満ちていた。それが正義感からではなく、自身の探究心からくるものであるのが何とも独特だが。
リアトリスはそんな二人の様子に心底呆れた様子だったが、結局肩をすくめて受け入れた。
「騙される方が悪い。そんなの商人にとっちゃ当たり前だからネ。報酬をもらう分働かなきゃいけないのは常識だ。」
「ホーリー。来たばかりの君にこんな話をしても困らせるだけなのは分かっているが…」
「えっと、…俺に何か、出来るんなら…やります。」
ハルも、自信なさげにそう答えた。そう答えるしかないようにも思えた。
「プリムラ。」
「……私は、命じてくだされば、全て仰せのままに。」
賢者はその返事に小さく頷くと、玉座から立ち上がる。
「あす、就任式を執り行う。国を守り、鍛錬に励む中ではあろうが、依代の捜索をどうか、頼む。」
5人は大賢者の言葉に「了解」の意を込めて頭を下げた。
神の棲まう国 とねり @10neri
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