アイコンタクト 🎷

上月くるを

アイコンタクト 🎷





 I left my heart

 in San Francisco

 High on a hill, it calls to me

 To be where little cable cars

 Climb halfway to the stars!

 The morning fog may chill the air

 I don't care!



 メンバー全員でそこまで歌ったとき、横のドアが開いて白髪の男性が入って来た。

 顔をたしかめなくてもだれだか分かる、遅れて来るのは、決まってこの人だから。


 元国立大学の物理だか応用化学だかの教授だったという紳士は、時間にやさしい。

 講師のチサコには「おかしくって定時になんか」と言っているように映るが……。


 カルチャーセンターで講座を持つようになってからさまざまな生徒が出入りする。

 多くは女性で、こちらは和気藹々と楽しんでいるが、問題は数少ない男性だった。


 みなさん、現役時代の役職意識が抜けきらないので、挨拶ひとつにも気をつかう。

 すぐに「なにゆえに、このオレさまが……」ということになるので、厄介だった。




      🎹




 最前列の椅子に座った元大学教授に微笑みかけながら、チサコは声をかけてみる。

 「これから発表するところでしたので、先生、トップバッターでいかがですか?」


 いきなりの指名に臆しもせず舞台に立った元教授は、ピアノ伴奏者にひと言ふた言耳打ちすると、朗々とアカペラで、しかも難しいとされている前振りから歌い出す。



 The loveliness of Paris

 It seems somehow sadly gay

 The glory that was Rome

 is of another day

 I've been terribly alone and forgotten in Manhattan

 I'm going home

 To my city by the Bay..



 最後まで無伴奏で歌い上げると、割れんばかりの拍手喝采を浴び至って満足げ。

 国際学会で渡米したときジャズバーで覚えたエピソード、全員が承知している。


 いつもながらお見事!……口のなかで言っておいてチサコは平常の授業にもどる。

 毎度やれやれではあるが、ひと癖もふた癖もある大人が生徒のカルチャーの宿命。




      ****




 まさかプロのジャズヴォーカリストになろうとは、チサコ自身考えていなかった。


 ひとり息子が志望の高校に合格したのを機に東京のコンクールに申し込んだのは、いわば子育てを一段落した自分へのご褒美のつもりだったのだが、どういう番狂わせか合格してしまった。しかも副賞が一年間のアメリカ留学付きという超豪華版……。


 おそらく一生に一度のチャンスと思えば簡単に諦めきれず、夫に相談すると意外にも「せっかくだから行って来いよ」と言ってくれた、家のことは両親がいるし、と。


 で、本場のジャズをみっちり仕込んでもらって帰国すると、周囲が放っておかず、あれよあれよと言う間にプロになって、夜ごとにライブやバーで歌うようになった。




      ****




 そのことをひとり息子がどう思っているか気になっていたが、あるとき判明した。

 それも考えても見なかった方向からいきなり放たれたショッキングな矢によって。



 ――おふくろ、いやらしい真似すんなよな。🙄

   アイコンタクトなんかとっちゃってさ。🎸



 ぽいと吐き捨てられたのが、バンド仲間とのセッションを指していることを知って二重の衝撃を受けた。息子が音楽を毛ぎらいしていることもそのとき初めて知った。



 ――それに何だよ、その露出の多いドレス!👗

   友だちに恥ずかしいだろ、いい歳して。😴



 それから息子は、いっさい口を利いてくれなくなった。

 用事は父親を、結婚してからは嫁を通して伝えられた。


 家庭を放り出してジャズ界に飛びこんだのだから無理もない、母親失格だと思う。

 すべて自分がわるいことを承知……それでも、さびしくて虚しくてならなかった。




      🚠




 だが、美しいピアノ伴奏にのってフルメンバーで『思い出のサンフランシスコ』を歌いながら、チサコのなかに積乱雲の間の稲光のようにカチッと閃くものがあった。



 ――ないものを数えて嘆くより、あるものに感謝しよう。🕊️🕊️🕊️🕊️



 禅問答みたいで、らしくもないが(笑)夫は理解してくれているし、なにより息子のパートナーが「お義母さま、応援しています」と励ましてくれるのがありがたい。


 感情より理性の勝ったリケジョで「血のつながりって面倒ですよね。わたしも両親には冷たくしちゃいますしね~」とサバサバしているので、年下の友人という間柄。


 いつかは息子も許してくれるのか、それともすれ違ったままなのか分からないが、何事にもあるシオドキがこの場合もあるのだとしたら、それを待つしかないだろう。




      👀




 気づくと、ピアノ伴奏の女性がリーダーのチサコにアイコンタクトを求めている。

 ひとまわり下の彼女ともかれこれ二十年……阿吽あうんの呼吸が通じ合うパートナー。



 My love waits there

 in San Francisco

 Above the blue and windy sea

 When I come home to you,

 San Francisco,

 Your golden sun will shine for me!



 一瞬の物思いから醒めたチサコは、最後の旋律に思いの丈をこめて指揮棒を振う。

 小さなケーブルカーが走る坂の多い都市は、チサコにとっても思い出の街である。




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