第2話 悪の妖精
ささやき山の色は白から緑、そして春色へと移り変わってゆきました。春を待ちわびた植物たちは色とりどりの花をつけ、ささやき山はまるで虹色の綿菓子につつまれたように鮮やかです。
その様子を遠く街の中心部から眺めながら、カドデは新天地で必死に働いていました。同じ市内の中学校とは言え、学校が変われば勝手も変わります。自然に囲まれた前の学校とは違って機械仕掛けの街の中で無機質に広い校舎、新しい同僚や新たに出会う生徒たち……慣れないことだらけで一日いちにちが目まぐるしく過ぎ去っていきます。次から次へとしなければいけないことが押し寄せてきてほとんど感傷に浸る時間もないことは、カドデにとっては幸いでした。ふとした瞬間我に返ると、第二中学校の生徒たちが開いてくれたお別れ会の情景が思い浮かんできて目頭が熱くなってしまうからです。
「私はもう第一中学校の教員なんだ。いつまでも前の学校のことを引きずっていてはいけない」
そう念じてここに来たつもりでした。つもりでしたが、まだ自分の中で第二中学校の思い出が色濃く残っていることを実感せずにはいられませんでした。カドデはその度に、
「前の学校のことばかり思い出すなんて、今の生徒たちに失礼だ」
と、自分自身を叱咤するのでした。
それでも四月は忙しさにかまけて学校生活を何とか乗り切ることができました。授業のリズムも体に染みついてきて、生徒たちとの関わりも楽しくなってきた頃のことです。
ヨシナリから久しぶりに連絡がありました。「久々にいつものメンツで飲もう」との用件にカドデは浮き足立ちました。新しい同僚たちはみな気さくで優しいとは言え、気の置けない仲間との雑談に飢えていたのです。土曜日の星が明るい夜、メルヘン駅前のいつもの居酒屋で仲良しの先生たちが集まりました。どの先生も、時期は違えど第二中学校で一緒に勤めたことのある先生ばかりです。
「カドデちゃん元気にしてた?」
「はい、何とかやってます」
めろめろ酒で乾杯をしたら次々と話題が湧いてきます。今の職場のこと、生徒のこと、プライベートのこと……。それぞれ袂を分かってからそんなに年数は経っていないのに、話題は尽きることがありません。
「そう言えば……」
卓上のつまみが大方食べ尽くされた頃、ヨシナリが話の口火を切りました。周りをはばかるように声のトーンを落として、カドデに話しかけてきます。
「お前の異動のことでわかったことがあるんだけど」
「何ですか」
「第一中学校が魔法学の教員をほしがってたのは確かだ。だけど、人事担当の本意はそこじゃない」
「……」
「お前も知ってると思うけど、教育委員会の裏山の祠に悪の妖精が封印されてるって噂があっただろ。あれ、本当の話だったんだ」
「それが私の異動と何の関係があるんですか」
「まあ、聞けって。悪の妖精は強大な魔力と横暴な性格、傲慢な指導で畏れられていた教員だったらしいが、そのあまりの理不尽さ故に三十年前、当時の教育長の力で祠に封印されたらしいんだ」
「その教育長って……」
「そう、去年の暮れに亡くなったオオサカ元教育長、第二中学校のオオサカ校長のお父さんだ。彼が亡くなったことで封印が解けて、悪の妖精が復活してしまったんだ。今の教育委員会には再び悪の妖精を封印する力はない。復活してしまった以上は、どこかの中学校に配属しなければいけなかった」
「ちょっと待ってください。その悪の妖精、辞めさせられないんですか。そんな奴、教員をする資格なんてないでしょう」
「懲戒免職にするには強い魔力で存在ごと消し去らなければいけないからな。それなりの理由も必要だ。当時の教育委員会には封印するのが精一杯だったんだろう」
「それで……?」
「今のメルヘン市内の中学校で悪の妖精を制御できるのは第二中学校のオオサカ校長くらいだ。自然、悪の妖精の配属先は第二中学校になる」
「まさか」
「そう、そのまさかだ。悪の妖精は魔法学の教員。魔法学の教員は第二中学校のような小さい学校には一人しかいらない。だから悪の妖精を第二中学校に配属するために、お前が第一中学校に異動させられたんだ」
「そんな!第一中学校の生徒のために転任したのならわかります。それなのに、ヨシナリ先生の話だと完全に教育委員会の都合、大人の都合じゃないですか」
「おい、声が大きいぞ」
ヨシナリにたしなめられたカドデでしたが、憤りを隠せません。本来、教員の人事は生徒の教育に最適な配置であるべきであり、そうでなければいけないとカドデは信じておりました。もちろん、初任者研修など教員自身の都合による配置もあって然りですが、今回の異動はそんな真っ当な理由とはとても思えませんでした。
「人事なんて、そんなもんなんだよ」
ヨシナリはすんすん煙草を吹かしながら嘲笑しました。すんすん煙草のどす黒い灰が灰皿の中で積もっていきます。灰を見ながら黙りこくってしまったカドデの中では、タールのような毒々しく粘着質な澱が心の底に溜まっていくのでした。
決定打となったのは、六月の出来事でした。
雨が少ないメルヘン市には珍しく一週間以上雨続きで、校舎の壁もじっとりと湿っていました。日が長いというのに空は薄暗く、どんよりとした雲がささやき山の頂上まで垂れ込めています。週の中日。放課後の校舎は試験前で部活動が休みのため、がらんとしています。
ぷるるるる
カドデが携帯電話を見てみるとアゲハのお母さんからの着信でした。懐かしい名前に胸がポッと温まるのと同時に、何の用事だろうと一抹の不安が胸を過ぎります。
「はい、もしもしカドデです」
「カドデ先生、ご無沙汰しております。アゲハの母でございます」
「お久しぶりです。その後お変わりございませんか。はい……え、アゲハが!」
アゲハが亡くなったという電話でした。
「昨日の夕方、交通事故で……」
どうやら道路に急に飛び出したところをドラゴンに跳ねられたとのことでした。頭の中が真っ白になって、泣きながら話すお母さんの声が耳を通り抜けていくようです。
「どうして、アゲハ。なんでこんな早く……」
信じられない思いが次々と押し寄せてくるのに、考えが全くまとまりません。ようやくお葬式の日取りだけ聞き取って電話を切りました。しばらく、呆けたように動けません。五分ほど経ってようやく怒濤のように悲しみが流れ込んできました。真珠のような涙がカドデの頬を伝ったかと思うと、わんわんと泣き出しました。泣いて、泣いて、枯れるほど泣きました。足下に涙の水たまりができるくらいに泣きました。真珠色の水たまりにアゲハの顔が映ります。
「そうだ、アゲハはいつでも真面目で礼儀正しかったなあ」
「ルールを破ることや理不尽なことが許せない子だったなあ」
「おかしい、アゲハは飛び出しなんてする子じゃない」
「絶対に、何かあったんだ」
カドデは急いで第二中学校の先生に電話をします。三年団の先生に代わってもらって、事故に至るまでの経緯を詳しく聞き出しました。そして、真相を聞くなりカドデの形相はみるみる変わっていきました。白かった肌は青黒く歪み、長く美しかった髪は縮れて逆立ちました。体は大きく膨れ上がったかと思うと、張り裂けた皮膚の隙間から濁ったガスとタールのような毒々しく粘着質などろどろが噴出しました。
「許せない。絶対に許せない」
異形と化したカドデは鬼神の如き勢いで第二中学校へ向かいました。カドデの体に当たった雨粒は蒸発して消し飛んでいきます。カドデの通った道々は大気が轟き大地が割れました。第二中学校の周りの夢畑の葉は枯れ落ちました。第二中学校の玄関に着いた頃には、カドデの体は校舎の二階ほどの大きさになっていました。カドデは大声で叫びます。
「三年団の学年主任はどこにいるのだ!」
カドデの咆吼は教室の窓ガラスを震わせました。下校前の生徒たちは足下でちりぢりに逃げていきます。暗い雨がそぼ降る中、職員玄関から姿を現したのは見るも醜悪な小男でした。禿げ上がった頭に不自然に突き出た下腹、左右で長さの違う手足。手には旧時代の遺物と思われていた魔法の杖。それが悪名高き悪の妖精とは信じられないような風体です。
「わしが学年主任じゃが、お前は何者か」
「私は去年、アゲハの担任をしていたのだ。貴様、よくもアゲハを殺したな!」
「何を、言い出すかと思えば。言いがかりも甚だしい」
「私は全て知っているのだ!昨日、放課後教室に残ってアゲハに個人的に指導をしていたらしいな。血相を変えたアゲハが生徒玄関から飛び出して来るのを見た者がいるのだ。貴様が、貴様が何かしたに違いない!」
「わしは何も特別なことはしておらん。ただ、生活態度を指導しただけじゃ。ちょっと強い口調で言うただけで、あやつ急に教室から飛び出しおって。昔は、あれくらい当たり前じゃったのに」
「やはり、貴様の強引な指導のせいではないか!貴様さえいなければ、貴様さえいなければこんなことにはならなかったのだ!」
カドデは再び獣のような雄叫びを上げました。かろうじて形を保っている手で印を結びます。魔法学の教員なら一目でそれが禁忌の魔法だと悟ったでしょう。悪の妖精も古き時代に忘れ去られた呪文を詠じます。
「滅び去れ、悪の妖精!貴様は学校現場にいてはならない老害なのだ!」
空中に浮かび上がった禍々しい魔方陣から紅の光が発せられたと思うと、その中心から粘着質な炎が悪の妖精に向かって伸びていきます。
「汝不可飲水間部活!」
悪の妖精が杖を振ると、唱えた呪文が文字となって浮かび上がり、鎖のように炎に絡みついてカドデの魔法を消し去ります。
「お前のような若輩がわしの魔法に敵うわけがなかろう。年上に逆らうもんではない」
そう言って悪の妖精は不適に笑います。その笑い声の癇に障ることと言ったらありません。臓腑の煮えくり返るような感覚が、カドデの姿をより邪悪なものに変えていきます。憎しみと怒りの感情で膨れ上がり腐臭を放つ体は、もはや爛れた肉の塊でしかありません。「許さない」とカドデは血の涙を流しました。六本になった手で恐ろしいほどの速さで印を形作りました。
「おおおおおおお」
その印を見た悪の妖精が表情を変えて呪文を唱えようとするが早いか、カドデは歪な魔方陣を完成させ、その陣を悪の妖精になすりつけました。
「うああああああああ」
魔方陣に触れた悪の妖精の体は焼け焦げました。辺りに吐き気を催す臭気が広がります。断末魔の悲鳴を上げながら、
「ふざけるな!ゲスめ!お前など!お前など……」
と、悔し紛れに言い残して、悪の妖精は消え去ってしまいました。後に残ったのは古くさい魔法の杖だけでした。カドデは巨大な足でその杖を踏みにじりました。朽ちた杖は粉々になりました。
「おーい、カドデー!」
校長会でもしていたのでしょうか。校門の方から、連絡を受けた市内の校長たちと教育委員会の職員たちとが校舎に駆け寄って来ます。その中にはヨシナリの姿もありました。
「カドデー!大丈夫か!」
必死に呼びかけるヨシナリでしたが、カドデには何の感情も呼び起こしません。憎しみと怒りによって、カドデは理性も自我も失った邪悪そのものの存在になってしまっていたのです。
「おおおおおおおおお」
もはや言葉も忘れたカドデは教育委員会の職員たちに襲いかかります。六本の手でそれぞれに印を結び、攻撃をしかけてきます。職員たちは手に手に武器を取って応戦しますが、カドデの勢いに圧倒されて太刀打ちできません。校長たちは手を拱いているばかり。唯一、オオサカ校長だけが封印の呪文を唱えてカドデを止めようとしますが、オオサカ校長の魔法でさえカドデは受け付けません。オオサカ校長の呪文を喰らって吸収したのをいいことに、オオサカ校長に触手のように六本の手を伸ばしました。その手の先は刃のように鋭く尖っていきます。
「カドデ!いけない!」
咄嗟に、本当に咄嗟にヨシナリの体が動きました。オオサカ校長を突き飛ばしたヨシナリの左腕にカドデの手が触れて、そのままヨシナリの腕を切り飛ばしました。傷口からサーッと溢れた虹色の血がカドデの腕にかかります。
「おおおおおおお」
虹色の血を浴びたカドデは耳をつんざくような悲鳴を上げて悶えました。痛恨の表情がカドデの顔を覆います。瓦礫が崩れるようにカドデの体が砕けていきます。崩れて、砕けて、残骸は蒸発するように消え去ってしまいました。辺りは先程までの喧噪が嘘のように静まりかえりました。
「大丈夫か、ヨシナリ先生」
オオサカ校長が急いで癒やしの魔法でヨシナリの傷口を塞ぎます。すぐに血は止まりましたが、ヨシナリの左腕は肘から先が消えてしまいました。
「すまんな、私のために……」
「いいんです。俺が勝手にしたことなんです。それより、カドデは……」
先程カドデがいたところを見てみると、焼け焦げた地面の上に掌ほどの真珠色の珠だけがぽつねんと残されていました。手に取ってみると、ずっしりと持ち重りがして中に何か混沌としたものが渦巻いているのが見てとれます。
「これは……」
「カドデ先生の魂の結晶だろう。負の感情が消し飛んでこれだけが残ったのか」
「しかし、まだ混沌とした力を感じますが」
「まだカドデ先生の中で憤りが風化しきっていないのだろう。これは捨て置いたらまた負の感情を蓄えて暴走しないとも限らん」
「オオサカ校長、どうすれば……」
「暴走しないように、封印するしかあるまい」
「わかりました……委員会の方で対処してみます」
ヨシナリは残った右手を握りしめました。降り続いた雨はようやく止んで、枯れ果てた夢畑の上に虹がかかりました。
その後の教育委員会の苦労たるや筆舌に尽くしがたいものがありました。第一中学校と教育委員会は教員が暴走したことを不祥事として処理し、保護者説明会を開く必要がありました。悪の妖精がいなくなって均衡を失った第二中学校には、退職したベテラン教員を再任用して配属しました。生徒たちの心のケアにも細心の注意を払い、スクールカウンセラーやヒーリングセラピストを巡回させました。それら全ての対応を隻腕のヨシナリがやってのけたというのですから、今年度の教育委員会は捨てたものではなさそうです。
そしてカドデの珠はどうなったかと言うと、ささやき山の中腹にある希望の木の下に祠を作ってそこに封印することになりました。三月、生き物たちがざわめき希望の木が零れるように香しい花をつける頃、ヨシナリは祠を訪れました。祠の前で片手を合わせて、カドデに語りかけます。
「カドデ……いつか『人事なんてそんなもんだ』って言ったの、撤回するわ。やっぱり、教員の人事は生徒ファーストで行われないとな。年代、教科、性格、いろんな先生がいるから一筋縄にはいかないけど、今回は何とかやってみたよ」
祠の中の珠は、ひっそりと聞き入っているようでした。
「校長会の方でもオオサカ校長が尽力してくれてさ。どの学校も今年度よりはまとまるはずだ。まあ、この三月でオオサカ校長が定年退職したから、まずは来年の人事が正念場だな」
なかなか校長たちが頭固くてさ、とヨシナリは小声で漏らしました。小さな笑い声が仲春の空気に溶けていきます。
「だからさ、カドデも安心するといいよ。俺が教育委員会にいる間に、できることはやってみるから」
そのとき、生き物たちのざわめきが止んで一陣の風がヨシナリを覆いました。温かい風は希望の花をサッと散らして辺りに馥郁たる香りが立ちこめます。ヨシナリには、それがまるでカドデが「ありがとう」と言っているように感じられたのでした。
[了]
悪の妖精 kgin @kgin
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