悪の妖精
kgin
第1話 異動はある日突然に
ここは妖精のくに、メルヘン市。
市の外れにあるささやき山は朝から珍しく雪景色、生き物たちはみなひんやりとした静けさを保っています。聞こえるのは肌を切るような冷たい風が通り抜ける音と、木々の枝から雪が落ちる音ばかり。そんな中、麓のメルヘン市立第二中学校の放課後を告げるチャイムが鳥のさえずりのように響き渡ります。
「カドデ先生、さよなら」
「さようなら、アゲハさん。道が滑るから気をつけて帰ってね」
最後の生徒を教室から送り出したカドデは、ほうっと安堵の溜め息をつきました。小学生のとき不登校気味だったアゲハが今日も楽しそうに帰っていったのです。花の綻ぶような笑顔を見ていると、入学当初からいろいろなサポートをしてきて本当によかった、という思いで胸がはち切れそうになります。もうすぐ今年度も終わり。このまま全員元気に進級してほしいとカドデは祈るばかりです。いつものように手で印を結ぶと、可愛らしい魔方陣が現われて机が真っ直ぐに整いました。続けてきらきらと印を結んで鉢植えの希望の木の花をともだち色に色づかせます。窓を閉めて教室を出ると、職員室に戻る足取りは踊るように軽やかです。
「今日は部活もないし、授業準備が済んだら早めに帰ろう」
職員室に戻ると、皆それぞれの仕事をしています。三年団の先生方は進学に向けて書類作成に余念がありません。一年団の先生方は校外学習の準備をしているようです。二年団のカドデは、二つの学年団の合間を抜けるようにして自分の席に着きました。魔法学の教科書と、十年来使っている授業用のノートを取り出します。長い髪を耳にかけながら、指導要領が変わったところの内容をチェックし、ノートにメモを書き加えていきます。
「カドデ先生、ちょっといいかな」
顔を上げると、オオサカ校長が大きな腹を抱えるようにして立っていました。指さしている先は校長室です。
「はい、大丈夫です」
一体何だろう、と少しドキドキしながらカドデは校長室に赴きます。どうぞ掛けて、と勧められたソファに腰を下ろしました。
「校長先生、何か……」
「いや、これは本校勤務二年以上の人には全員言っているんだけどね」
「はい」
「年度末で異動の可能性があります」
「……」
「特にカドデ先生は六年目で、この学校での勤務が長いからね。ただ、人事希望表では留任希望にしてあったよね」
「はい。うちのクラスの不登校気味の生徒のことも気になりますし、まだまだこの学校で学級経営について学びたいこと、やってみたいことがたくさんあるんです」
「なるほど」
「魔法学の授業についても、昨年度からやっている取り組みがちょうど軌道に乗ってきているので……来年度もこの学校で勤務させていただきたいです」
「わかりました。委員会には伝えておくよ。脅かすようなことを言ったけど、今回の異動はないと思うよ、多分」
カドデは拍子抜けしました。それでも、オオサカ校長が言うのですから異動の可能性が低いというのは本当なのでしょう。カドデは自信を持っていました。と言うのも、カドデは自分で言うのも何ですがよく働く方です。部活動の顧問はもちろん、教科主任や生徒会担当にもなっています。この第二中学校ではちょうど中堅教員が他にいないため、行動力があってしかもこの地域のことをよく知っているカドデがいなくなるのは、この学校にとって実際痛手なのです。来年度も変わらずこの学校で生徒たちとともにがんばろう。カドデはそう思っていました。
三週間後、この日も人事異動についての面談日でした。校長室から出て来たヨシナリに「次、カドデの番」と声をかけられます。ヨシナリはカドデが第二中学校に転任して来てからずっと可愛がってくれている先輩です。第二中学校での勤務歴がカドデより長いヨシナリが異動の対象になっていることは以前から聞いていました。幸福力学の授業も生徒指導も抜群で職員室のムードメーカーでもあるヨシナリがこの学校を去ってしまうのは、正直なところ心細くてなりません。そんなカドデの心を知ってか知らずか、すれ違い様ヨシナリはポン、と肩を叩きます。ニヤリと笑うヨシナリに励まされるように、カドデは校長室に入っていきます。
「ああ、カドデ先生。こちらへどうぞ」
「失礼します」
前回と同じようなオオサカ校長の表情を見て、カドデは安心して腰掛けました。来客用のソファに体が沈み込みます。
「単刀直入に言うと……来年度の転任が決まりました」
ソファの上でまだ体勢が定まらないうちに、残念そうな声色でオオサカ校長は言いました。
「え……どういうことですか。多分異動はないって、この間……」
「うん、申し訳ないけど事情が変わってね」
「納得いかないです」
「カドデ先生の気持ちはよくわかるよ。ただ、第一中学校が魔法学の先生を必要としていてね」
「それじゃあ私が異動する先って、第一中学校なんですか」
「まあ、その予定だね」
カドデは口ごもりました。夢畑の真ん中にあって自然豊かな小規模校の第二中学校と違って、メルヘン市の中心街に位置する第一中学校は妖精のくにの中でも屈指の大規模校なのでした。小さな学校でしか勤務経験のないカドデは、一度大きな学校で自分の力を試したいと前々から思っていたのでした。確かに思ってはいたのですが。
「再来年度、第一中学校で魔法学の研究大会を行うことになったらしいんだ。カドデ先生の魔法学の授業での取り組みが評価されてね。是非ウチにほしいと第一中学校の校長が言っているんだ」
「確かにありがたいお申し出だと思います。ですが、研究大会はメルヘン市の魔法学の先生全員で行った研究を発表することになるはずです。私が第一中学校へ行かなくても、研究発表のための準備はできると思います」
「それがそういうわけにはいかなくてね。会場校の先生の中から少なくとも一人は代表で研究授業をしないといけないんだ。今、第一中学校に授業をできる先生がいなくてね」
カドデはなおも食い下がります。
「魔法学のこともありますが、以前申し上げたように私のクラスには不登校気味の生徒がおります。二年間関わってきて人間関係もできていますし、保護者も私を信頼してくれています。彼女が卒業するまでは、少なくともこの学校にいさせてもらいたいんです」
「転任される先生方の気持ちはみんな同じだよ。気になる生徒がいても異動するときは必ず来るんだ。その生徒のことは残られる先生方によく引き継ぎをして指導に切れ目ができないようにしておけば大丈夫だ。それに、それほど生徒思いのカドデ先生なんだ。第一中学校にもカドデ先生を必要としている生徒がいるはずだよ」
カドデは下唇を噛みました。どうやら、この異動はもう決定事項のようでした。かく言うオオサカ校長も事務的に異動の内示を伝えようと努めている一方、人のいい顔に申し訳なさそうな表情をいっぱいに浮かべているのでした。
「……わかりました。第一中学校でがんばります」
「……すまないね。カドデ先生なら第一中学校でも十分やっていけると思うよ」
「ありがとうございます。……失礼します」
カドデは拳をぎゅっと握りしめたかと思うと、サッと立ち上がりました。そして振り向かずに校長室を後にしたのでした。
「え、お前異動になるの」
談話室に呼び出されたカドデが事の顛末を語ると、ヨシナリはたいそう驚いた様子でした。思わず溢したふわふわ茶をハンカチで拭きながら労るような目でカドデを見ました。カドデは、少し涙ぐんでいるようにも見えます。
「俺は異動が決まってるみたいなもんだけど、カドデはてっきり残ると思ってたよ」
「びっくりでしょう」
「しかも異動の理由がソレか……なんか釈然としないな」
「そうなんですよ!食い下がったんですけど、ダメっぽいです」
「……まあ、決まったもんは仕方ないか。第一中学校でがんばってきな」
「……そういうヨシナリ先生は、どこに行くんですか」
「俺は、メルヘン市教育委員会」
カドデはハッとヨシナリを見ました。現場での指導力に長けたヨシナリが委員会に異動をするのが、あまりに意外だったからです。それは事実上の左遷にも思えました。
「いやいや、驚き過ぎだろ。そんな暗い顔するなよ。『ご栄転』なんだから」
「でも」
「キャリアアップには必要なんだよ。まあ、また同じ職場で働けることもあるさ」
そう言ってヨシナリは悪戯っぽく笑いました。それでもやっぱりどこか納得いかなくて、それでもやっぱり気持ちを切り替えなければいけなくて、精一杯ぎこちない笑いを見せるカドデでした。
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