三.ぐちゃぐちゃパニック!

 迂闊だった。

 久しぶりにきた大きな案件だからって——、いや、でかいヤマを抱えているからこそ注意を怠ってはいけなかったのに。




 大客クライアントと最後の打ち合わせをしていて、席を外していた時だった。

 仕事部屋に戻ると、一日掛かりで作成した書類がクレヨンでぐちゃぐちゃに塗りつぶされていた。


 小さな丸い背中が床にうずくまっていて、淡い水色の尻尾は機嫌よくゆらゆらと揺れている。その小さな手はぐりんぐりんと弧を描き、紙面を、床に敷かれた絨毯を、青く塗りつぶしていく。


 時間が止まったかのような錯覚から、一瞬で現実へ帰還した俺ははっとした。目の前が真っ暗になりそうな中、気がつくと、娘にこう叫んでいた。


「ダメだろ! 何やってんだ、氷芽ひめっ」


 やってしまったと後悔が押し寄せてきたのは数秒後。

 小さな肩と髪の隙間からのぞく三角耳がびくりと震える。淡い蒼色の瞳が大きく見開かれ、やがて潤んでいき、娘は産まれて初めて号泣した。


「うわぁぁあああん! ママが怒ったぁあ!」


 あああああああっ、やっちまったぁぁああああ! もう世界の終わりだ。絶対に守ると誓ったのに、親である俺が泣かせるなんて最低だ。

 よりにもよって、まだなにもわからない幼い娘を頭ごなしで怒鳴るなんて。

 氷芽ひめには、いつも笑っていて欲しかったのに。




 ❄︎ ❄︎ ❄︎




 氷芽ひめは狼の耳と尻尾、鳥の翼をもつ変わった容貌の娘だ。ざっと見で三歳ほどの幼児だけど、実のところ世界に誕生してからまだ一ヶ月も経っていない。


 半月ほど前、とある事件で差し押さえた水晶竜クリスタルワームのたまご。温めて孵したそのたまごから生まれたのは、小さな翼を持つ淡い水色の子狼だった。その子に氷芽ひめという名前をつけ、今はとして俺が面倒を見ている。……まあ、俺は男、なんだけどさ。細かいことはこの際、置いておくことにする。

 今は事件発生中だ。なにに置いてもまず氷芽ひめのことだ。



 氷芽ひめを頭ごなしに叱ってしまった、あの日。

 俺は魔法具職人で普段は王城で勤務していて、一つの大きな案件を抱えていた。いつもの量産型じゃない、大掛かりな魔法具の制作だ。素材の一つ一つが高価なものになるし、結晶石に刻み込む術式だって複雑で編み上げるのに高度な技術を必要とする。


 だから今回だけは、娘を顔見知りの女官にあずけ、一日掛かりで魔術式の作成に取り掛かっていた。

 時間と労力をかけ、あとはほんのちょっと養父の千影に手伝ってもらい、術式は無事に完成した。あとは紙面に書いたその図面を見ながら竜石に刻み込むだけだった、のだけど……。


 氷芽ひめがその紙を見事に青色のクレヨンでぐちゃぐちゃにしてしまったのだった。


「それは大変でしたね、ヒムロ。まさかその〝設計図〟が風で飛ばされて子どもの手に届く位置に落ちてしまうとは。またしても間が悪かったんですね……」


 ひと通り俺たちの話を聞き、赤髪の従者ケイはそう労ってくれた。

 ちくしょう。言われて初めて気づいたけど、今回の事件も俺の不運体質が原因かよ!


 俺の伴侶、ギルは商業国家ルーンダリアの国王だ。ケイは国王の従者で、妻子持ち。おまけに彼は人狼の魔族で、子どもも狼の双子らしい。子育てに関しては俺よりも経験者だから話を聞いてもらうことにしたんだ。

 下働きの兵士たちが利用する王城内の食堂で、俺とケイは向かい合って席についていた。俺の膝の上でいまだにぐずっている娘に、ケイは小さく切り分けたリンゴを小皿にのせて差し出してくれた。

 それを小さな両手でつかみ、氷芽ひめはしゃりしゃりと半泣き顔で食べ始める。


「……俺が悪かったんだよ。大事なもんを作業机に置きっぱなしにしておいたから、こんなことになったんだし。完全に俺の不注意だ」


 まさか、俺の姿を探して氷芽ひめが女官から脱走するなんて思わなかったし、タイミングよく図面紙が氷芽ひめの手もとに届く位置まで風に飛ばされるなんて思わなかった。ぜんぶ想定外だったけど、防ぐことができたはずだ。


「それなのに俺は、勢いに任せて叱ってしまった。子どもに感情をぶつけるなんて最低だ。嫌われたらどうしよう……」

「重症ですね。いつものヒムロらしいと言えば、らしいですけど」


 向かい側でケイが困ったように笑った。

 そうだよな。こんな子どもを怒鳴る母親なんて最低だよな。ケイだって軽蔑したかもしれない。


「嫌ったりしませんよ」


 けど、聴こえてきた彼の声音は真綿のようにやわらかだった。顔を上げると、ケイはにこりと微笑みかけてくれた。


「ヒムロ、子どもは俺たち大人が思っているよりずっと賢くて、親のことを観察しているんです。ヒムロが心からの愛情を注いでいれば、きっと伝わっているはずですよ」

「そう、なのか?」

「だって、ヒムロはどんなに忙しくても、食事の時もおやつの時も一緒にいるし、今までだって仕事の時も一緒にいて面倒見て頑張ってたじゃないですか。ヒメ様を女官にあずけたのだって、今回が初めてでしょう」

「それは、そうだけど」


 自分で育てるって決めたのに、俺はでかい仕事を抱え込んだことを言い訳にして、氷芽ひめを他人に任せてしまった。心の中でそんま罪悪感があったのかもしれない。

 それでもケイが言葉にして「頑張っていた」と認めてくれたから、心の重石が少し軽くなった気がした。


「悪戯をしたのは初めてだったんでしょう? きっとヒメ様なりの理由があるはずです」


 たしかにそうだ。今までは利口すぎるって心配してしまうほど、氷芽ひめは大人しかった。言うことは素直に聞くし、癇癪を起こしたこともない。

 そして理由を知るためには、本人に直接聞くのが一番だ。


氷芽ひめはどうしてクレヨンで落書きしたんだ?」


 りんごのカケラをひとつ食べ終えたところだったらしく、手の中は空っぽだった。

 尋ねた途端、小さな肩が跳ねる。淡い水色の三角耳をしゅんと下げつつ紅葉みたいに小さな両手を握り合わせ、それでも顔をあげて氷芽ひめはまっすぐに俺を見てくれた。


「ママ、ねむそうだったから、ひめがかわりにおしごとしようと、おもったの」


 言われてみれば、たしかに最近は根を詰めて仕事部屋にこもっていた。徹夜はしてなかったけど、氷芽ひめの寝かしつけはギルに任せて遅くまで調べ物をしていた時もある。

 そっか。そうか、子どもはちゃんと大人のことを見てんだな……。


「わるいことして、ごめんなさい」


 聞き分けよく、頭を下げる氷芽ひめの姿に胸が締めつけられる。声をふるわせ、耳と尻尾、小さな両翼をしゅんと下げて、素直に謝る姿は子どもらしくないくらい聞き分けがよくて、目頭が熱くなった。

 氷芽ひめはなにも悪くないのに。


「俺こそ怒鳴ったりしてごめんな。氷芽ひめの気持ちはすごく嬉しかったぜ」


 そっと頭をなでると、氷芽ひめはもう一度頭を上げてくれた。不安そうに見上げてくる娘に、俺は笑ってみせる。


「ほんとう?」

「ああ、だから今度設計図を描く時はこっちの氷芽ひめ専用の紙で描こうな。これはママの大事な紙だから」

「うん! ひめせんようのかみでかく!」


 目に見えて氷芽ひめの顔がぱあっと輝く。まるでよく晴れた太陽のようにまぶしい。

 元気よくうなずく姿にほっとした。水色の尻尾がばしばし腹に当たって痛えけど。


「ふふ、仲直りできてよかったですね。子どもは笑顔が一番です」


 柔らかく細めるケイの赤い瞳は、あたたかな炎のようで優しかった。子持ちなだけあって、やっぱり彼も子ども好きらしい。


「……そうだな」


 狼のイラストが描かれたコップを両手に抱え、尻尾を振りながらオレンジジュースを飲む娘の頭をそっとなでる。

 

 クレヨンに塗りつぶされた魔術式は一から作り直しだし、納品までの期日は迫っていて時間がない。仕事が山のように残っているというのに、氷芽ひめの笑顔を見ているだけで気持ちが風船のように軽くなるから不思議だ。憂鬱な気分にはならなかった。

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