九.ただ一人のために生きていく

 目の前で親父が殺され、故郷を奪われ、弟と引き離された俺は牙炎がえんの館に連れて行かれた。和国にはいなかった狼の魔族がひたすら怖くて怯えていると、クリュウは俺を研究室に連れ込んで国際情勢やシーセス国の内情や闇組織の情報、なにより共通語コモンを教えてくれた。

 研究者だと自称するだけあって、クリュウの部屋は本であふれていた。都に行かないと滅多にお目にかかれなかった書物の山にすっかり魅了された俺は、言語を学ぶとありとあらゆる知識を吸収した。


 なにもかも失って傷ついた心が砕けずにすんだのは、クリュウのおかげだ。彼が夢中になれるものを与えてくれたからだ。


「少しは落ち着いたか?」


 子どもみてえに声をあげて泣いたのはずいぶんと久しぶりだった。海賊船に乗せられた時だって泣いたことなかったのに。


「……迷惑かけて悪かった。ごめん」


 医者から安静だって言われているくせに、ギルは透明のガラスコップに水を注いで手渡してくれた。

 アサギが就寝前にベッドサイドに置いてくれていたレモン水だ。少し酸っぱかったけど、飲むとすっきりとした気分になる。


「謝るなよ。こういう時は礼を言うもんだろ?」

「……ん。ありがと、ギル」


 言われるままに口にすると、ふわっと心が軽くなった気がする。同時に、シーツが擦れる音がした。たぶん気持ちが上向きになって尻尾が揺れたんだろう。

 そんな俺を満足そうに見ると、ギルは俺の隣に座り、水が入ったグラスをあおった。

 手術前なのに夜更かしをさせているのは俺だ。文句どころか嫌な顔をせず、ただ隣に座ってくれている。憐れみも同情もせず、ただ俺の存在を認めてくれたのがうれしかった。


 俺たちは互いに言葉もかわさず、しばらく並んで座っていただけだった。時おり尻尾がシーツをこする音が聞こえてくる。

 最初に話を切り出したのはギルだった。「俺はさ」と言葉をかけられ、顔を上げる。彼の雷色の瞳は天井を見つめていた。


「おまえが自分に罪悪感を持つ気持ち、わかるぜ。俺たち魔族は寿命が長い種族だ。何百年も生きていると、どうしてこうも後悔ばかり抱えてしまうんだろうな」


 昼間に見せた、あのかげりのある瞳でそう言った。

 ギルは理不尽に《闇の竜》によって両親と国を奪われ、弟たちとも生き別れのまま。俺と同じ心の傷や寂しさを抱えているのは、そばにいてわかる。

 それでも俺にとってギルはいつでも自信にあふれていて、眩しい存在だ。たぶん臣下のケイにとっても同じだろう。

 だから、聞かずにはいられなかった。


「ギルも、後悔したことがあるのか?」

「そりゃあるさ。弟二人を連れて城を逃げ出していたら奪われずに済んだかもしれねえし、玉座に土足であがったあの賊と戦っていれば父と母は死なずに済んだかもしれないだろ」


 今から二百年ほど前、ルーンダリア国は《闇の竜》に扇動された貴族たちの手により玉座を奪われた。というのは、俺はクリュウから伝え聞いた歴史の知識でしかない。

 実際、当事者でなければ、現場がどんな状態だったか理解できないと思っていた。

 でも今、ギルの表情かおを見ていれば、彼と彼の国を襲った理不尽がどれほどの痛みと悲しみをもたらしたか、わかった気がした。


「そっか」

「でもな、どれだけ後悔したって、過去は変えられない」


 俺の手に、ギルの手のひらがそっと触れる。指先を伝ってきたぬくもりにはっとして見上げれば、ギルの瞳はもう翳っていなかった。

 いつものあの、自信に満ちた、強烈な光を宿す雷色の目だ。


「ヒムロ、おまえは賢いからちゃんと分かっているんだろ。だから、もう間違えねえように必死なんだよな」


 そうだ。もう二度と、間違って大切な誰かを失いたくない。不運体質だから巻き込んでしまうだなんて、ただの言い訳だ。

 だから魔術師のような輩に狙われやすい千影の存在を知られねえように必死になったし、クリュウが自分の命を犠牲にしようとした時もみんなが助かる道を模索した。

 運命の道を切り開き、奇跡を起こすのは人の特権だ。——と、千影から聞かされたことがある。

 過去は変えられなくても、未来の運命をつかむのは俺次第だから。


「そうだよな。大事なのは、これからどう生きるかだ」

「ああ」


 二人顔を合わせている今なら言える気がした。

 必要なのはほんのちょっとの勇気と、伝えるべき言葉。人とコミュニケーションを取ることには不器用な俺に、美しい詩的な表現なんて思いつかない。


「ギル。俺、今まで何のために生きてんだろうと思っていたんだ」


 胸の奥で、心臓が大きく音を立てている。そばにいるギルに聞こえるんじゃないかと思えて、ごまかすように膝の上で手を握り合わせた。


「故郷も家族も失った上に、言葉も文化も違う世界に放り出されて、正直絶望した。それでもこうして生きているのは、死にたくなかったからだ。クリュウは生きていくのに必要な共通語コモンと知識を与えてくれたし、千影は仕事につながる技術を教えてくれて、父親代わりになってくれた。だから、こんな俺でもなんとかやってこれたんだと思う。でも、時々どうしようもなく消えたくなるんだ。俺なんかいなくなった方がいいんじゃねえかと思えてしまって」

「……ヒムロ」

「昔の俺は、もう冬雪ふゆきは死んでしまったと思っていたから。海賊から買い取られた先に待っているのは、闇とつながりのある買い手だけだ。当然、人としての扱いなんて期待できない。なのに俺は弟を守れなかった。親父の遺言さえ果たせてないのに、なに俺だけフラフラ生きてんだろうって。けど、今は違う」


 寄せ集めた勇気を振り絞って顔を上げた。

 ギルのつった両目とかち合う。意思の強い光を宿す、きんいろの瞳だ。


「望みを捨てていた俺に、ギルは希望を与えてくれた。諦めるなと言ってくれたから、俺はまたがんばってみようって思えた。弟一人さえ守れなかった最低な俺を、ギルは、好きだと言ってくれた。すごく、うれしかったんだ……」

「そうか」


 甘やかし癖のある彼のことだ。自然な流れのように、ギルの手が俺の頭にのびてくる。

 頭をなでて欲しい。甘くて強い欲求にかられて身をゆだねたくなったけど、なんとか耐えて俺はギルの手首をつかんだ。


「ヒムロ?」


 拒否をしたのは初めてだった。ギルが驚くのは当たり前だよな。

 けど、まだ一番大事なことを伝えていないから。


 きょとんと目を丸くするギルの手をやんわりと払いのけ、俺はベッドに上がった。両足を折り曲げ膝をそろえて正座する。ギルが振り返ったおかげで、俺と彼は正面から向かい合うかたちになる。


「こんななりだから、俺は満足に変化へんげはできない。人と会話すんのは下手くそだし、後ろ向きなことしか考えねえし怖がりで、俺の取り柄なんて魔法具を作れることくらいだ。こんな俺だけど、これからもギルのそばに置いてください」


 足もとに指を伸ばした両手を添えて、少し頭を下げる。すると、珍しく動揺した声が返ってきた。


「そ、それって、つまり……」

「俺もギルのことが好きだってことだよ。覚悟が決まったから、これからはギルのために生きていくって決めたんだ。……悪い、回りくどくて」


 顔を上げたらギルは口をぽかんと開けて固まっていた。

 なんだ。俺、変なこと言ったかな。やべ、どうしよう。もう一度頭を下げてなかったことにしたくなってきた。


「なんだよ、急にかしこまるから心配しただろ。……そうか。それがおまえたちの作法なんだな。なら、俺もそれに倣うとしよう」

「へ?」


 予想外の言葉が返ってきて思わずぼけた返事をしてしまった。

 口もとに笑みをきながら、ギルは片足を上げてベッドに上がってくる。二人分の体重がかかったせいで、ぎしりとベッドが悲鳴の音をあげた。


「ギ、ギル!?」


 見よう見まねで俺を見ながら、足を揃え膝を折り曲げて正座をしようとするもんだから、さすがに動揺した。一国の王サマに正座させて付き合わせるとか、さすがにないだろ!

 ——と思って、足を浮かせて立とうとしたのに、俺はくずおれてしまう。やべえ、久しぶりに正座したから足つった。なんでこうも俺は間が悪いんだ。


「おい、大丈夫か?」

「だ、大丈夫だ。久しぶりすぎて体勢を崩しただけだし」

「そうか? なら、いいが……」


 結局。


 俺たち二人は正座して向き合うことになった。

 なんでこんなことになったかと言うと俺のせいなんだけど、こうして和国の作法で顔を突き合わせるのは数百年ぶりだ。そう思うと、震えていた胸のあたりがじんと温かくなる。


「ヒムロ、俺はおまえのことが好きだし、なにより俺にとって必要な存在だ。おまえは自分が思っている以上に優秀だし頼りにしている。これからも俺のそばにいてくれないか」

「……うん!」


 うなずいたら、また涙が出てきた。真正面でやわらかく微笑んでいるギルの顔がぐにゃりと曲がっていく。

 夜着の袖で目をこすって涙を拭く。

 クリアになった視界で視線を上げると、俺の目に映ったものは両腕を広げるギルの姿だった。


「今夜は一緒に寝ようぜ」

「えっ……ええっ!? 安静にって言われただろ!?」

「さすがに手術前だし、なにもする気はねえよ。おまえが怖い夢を見ねえように一緒に寝てやる」


 にやりと笑ってそう言ってのけるギルに、俺の頭は追いつかない。「うん」とも「おう」とも返事できないでいると、ギルはあっという間に部屋の明かりを落とし、布団の中に潜り込んで手招きしてきた。

 半分場所を空けて、ぽんぽんと軽く叩いて急かしてくる。


「ほら。早く来いって」


 いつもは固く鋭い声音も、今夜はやわらかかった。恥ずかしくて渋々うなずいて見せてもギルはちっとも嫌な顔をしない。きっと、俺の尻尾が揺れているせいだろう。

 布団の中に入ると、腰のあたりに腕を回され抱き寄せられる。

 薄暗がりの中、いつもより間近で見るギルの顔は彫刻像のように整っていて、きれいだった。顔を寄せると肩の向こうできっちりと固定された翼が見えた。


「国に戻ったら、すぐにおまえの弟のことを占ってもらおうな。俺の弟たちの生存を言い当てた占い師を紹介してやる。腕はたしかだから」

「……おう。ありがとな、ギル」

「本当はもっと早く紹介してやりたかったんだけどな。ウチも人手が足りないから、すっかり政務にかかりっきりになってしまった。悪かったな」


 いつももように、ギルの手が俺の頭をゆっくりとなでていく。その仕草が親父みたいだと思うのは、たぶん子どもに対するなで方のせいなんだろう。

 けど、今夜のギルは少し違っていた。

 長い指で髪を梳きながら、ゆっくりと優しくなでてくれた。


「俺は、別に。結果が出るのはすぐでもこれから先でも変わんねえし」

「そうだな」


 密着しているせいか、夜着を通してギルの体温を肌で感じた。冷えきった身体に染み込んでいくようにあたたかい。

 優しくそっとなでてくれる指の感触が心地よくて、瞼が重くなっていく。

 不思議だ。さっきまで目を閉じると虚空の穴に吸い込まれそうだったのに、微睡みの中にいても不思議とこわくなかった。


「おやすみ、ヒムロ」


 意識を溶かす直前に聞いたギルの声は、やわらかくて優しかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る