第七章 夜鳶の診療所にて——手術をしましょう

一.診療所の警備システム

 珍しいことに、今朝の覚醒は羽根のように軽くさわやかだった。

 気怠げとともに瞼を押し上げるのが常だっただけに、少し拍子抜けする。けど、悪くない気分だ。


 建物の外から鳥たちが挨拶を交わしている。

 落ち着いて平穏な朝を迎えられるのは幸せなことだ。そう思えるようになったのは、殺伐とした環境の中に身を置いていたせいだろう。

 朝の空気は冷えきっているのに、ベッドの中はあたたかい。今日はいい日になりそうだ。


 ——と、二度寝を決め込もうと布団の中に顔を沈めようとした時だった。

 目と鼻の先、少し身動きしただけで触れそうな至近距離に、絵に描いたような端正な顔があった。

 固く閉じられた瞼を縁取るまつ毛は長くて、白磁の肌を彩る金糸の髪は作り物みたいにきれいで強い光を弾いている。いつもきっちりまとめているその髪はギルの肩や背中を覆っていた。


 寝ぼけていた頭が次第に覚醒してきた。


 そうだ。昨夜はギルと話をして、俺はようやく彼に告白の返事を返すことができたんだった。

 ギルは俺の言葉を喜んでくれて、思いつきで故郷の作法を選んだ俺の気持ちを尊重してくれた。これから先の時間をギルのために使うと決めたんだ。


 あのままひとつのベッドで眠ったんだっけ。一つの布団に潜り込んで、話をしながらいつの間にか眠って——、って子どもかよ。

 初めにギルが俺に好きだと言って、それに対し俺は同じ気持ちだって返事をした。だから、恋人同士になったん、だよな……? 

 昨夜はギルもずっと一緒にいようって言ってくれたし。でも別に恋人じゃなくてもそばにいることはできるような。あれ、自信なくなってきた。


「どうした?」


 端正で精悍な顔が近づいてきて、はたと気づく。いつの間にか起きていたらしいギルが不思議そうな顔でのぞきこんできた。


「甘えてきたり青い顔をしたり忙しいやつだな、おまえは。一人で抱えるなよ。悩みなら聞くぜ?」

「い、いいいいや、別に! 聞いてもらうほどのことじゃねえし」


 俺はほんとうにギルと恋人同士の関係になったんだろうか。なんて、本人を目の前にして聞けるはずがない。

 ギルは眉を寄せて不可解な顔をしていたが、それ以上追求してくることはなかった。


「言いたくないなら別に聞かないけどな。一人で思い詰めるなよ」


 ぽんぽんと頭をなでられた。告白を返す前と変わらない、まるで父親が子どもにするような、あの優しいなで方。俺の不安はさらに大きく膨れ上がった。


「……子どもじゃねえんだけど」


 ギルとの関係性がちっとも変わっていないことが不満だった。つい、そのまま口に出したら、ギルはにやりと笑った。

 端正な顔が迫ってきたと思ったら、ぐいと身体を引き寄せられ、耳もとに生ぬるい吐息がかかる。


「子ども扱いなんか初めからしていないだろ。俺はおまえのこと、恋人だと思ってるぜ?」


 甘くささやかれて、心臓が飛び出そうなくらい大きく跳ねた。身体ぜんぶの熱が顔に集まっていく。やばい、返事できないくらい言葉が出てこない。

 獣の耳と尻尾をもつ俺は思っていることが表れやすい。動揺しまくる俺にギルはたぶん気付いてるんだろう。機嫌が良さげに笑っていた。


 そんな甘い空気を切り裂いたのは、不意に勢いよく開けられた扉の音だった。


「おはようございまーす!」


 元気いっぱいなアサギの声が病室に響いた途端、別の意味で心臓が飛び出そうになった。


 しまった、もう病院スタッフがくる時間だった!

 男二人が一つのベッドで寝ている姿なんか、純真な子どもに見せるわけにはいかない。いや、別にやましいことはしてねえけど!

 素早く飛び降りて自分のベッドに戻ろうと思い、勢いよく起き上がった途端。がくりと身体のバランスが崩れた。

 体重をかけようと手を伸ばしたその先、あると思ったベッドのマットレスがない。


「うわあ!」

「えええええっ! ヒムロさん、大丈夫ですか!?」 


 盛大に、ゴツンといい音がしやがった。

 今回は頭からぶつかったらしく、顔面がめちゃくちゃ痛い。痛すぎて声にならなくて、うつ伏せのまま両手で顔を覆っていたら、頭のてっぺんを生ぬるい息が駆け抜けた。


「——へ?」


 顔を上げると、そこには迫り来る黒い影。漆黒のたてがみをもつ獅子の顔と黒山羊の顔が俺を見下ろしていた。獲物を見定めるような赤い目が四つ、俺を凝視している。ぞわりと背筋が凍り、尻尾の毛が逆立った。


「おわあぁぁぁぁぁっ!」


 秒で起き上がり、一気に後退する。俺って、反射神経と逃げ足だけはいいからな。我ながら惚れ惚れする。——って、そうじゃねえ。


「ヒムロ、大丈夫か!?」


 ベッドから飛び降りてギルが背中に庇ってくれた。俺はしゃがみ込んだまま震えているだけ。めちゃくちゃ情けねえ。

 それにしてもギルは俺を背中に庇ったりしてどうするつもりなのだろう。武器を持っておらず、翼を無防備にさらした状態で、あんな魔物相手にどう戦うつもりなんだ。


「なんで、病院の中にキメラがいるんだ?」

「そうだよな。あれって、やっぱりキメラだよな」


 獅子の顔に、胴体から生えた黒山羊の顔。尾は鱗をもつ蛇。四つ足の獣の正体はキメラだった。

 キメラは俺のような魔術師の界隈では有名で、死した身体を掛け合わせて作ると言われている。魔法が使えるほどの知能と声を持つけど、会話ができるほど頭がいいわけじゃない。本能のままに、敵対した相手を葬り去ろうとする危険な魔物なんだ。

 

 病院は絶対安全だって話だったのに、なんでこんなモンスターがうろついてんだ。しかも病室に入ってくるとか!


 黒い毛並みを持つその魔物は今も二対の目で、俺とギルをじっと見ている。ゆらりと尾の蛇が鎌首をもたげた。


「ちょっとだめだよ、キメラ! 患者さんが怯えてるじゃないか」


 ギルの前に小さな銀色の影が滑り込んだ。台詞から察するに、たぶんその正体はアサギだ。


『……小さき主人マスターよ。此奴こやつは敵か? 敵ならば排除する』

「敵じゃないから! 患者さんだから!」

『うむ。了解した』


 ちゃんと会話してる。言語を理解できないはずのキメラがしゃべっている。


「一体、どういうことだ?」


 不思議に思ったのはギルも同じようで、眉を寄せて首を傾げている。

 首を横に振ってわからないと返すと、上から淡々とした声が降りてきた。


「心配いらないよ。あのキメラは君たちには攻撃してこないから」


 きれいな笑みをいて現れたのは主治医のイーリィ。弱視である彼はほとんど輪郭程度しか見分けられないというのに、迷いなくまっすぐに俺たちの方へ近づいてくる。

 朝の往診に来たのか、それとも手術前に伝えるべきことでもあったのか。白衣を翻しながら歩み寄ってきたイーリィにギルが尋ねる。


「あのキメラは何なんだ? 敵意はないようだが」

「あれが敵意を向けるのは招かれざる客、つまり侵入者だけだよ。あれはね僕の手で作った診療所の警備システムなのさ」


 診療所のあるじに応えるかのように、黒獅子と山羊の瞳が不気味に赤く明滅した、ような気がした。

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