三.同意書と誓約書

「アサギ、スイ。二人とも、ギルヴェール国王にはまだ食事の介助が必要だと決まったわけじゃないよ」


 そっと子どもたち二人の肩に手を置いたのはイーリィだった。

 ギルが顔を上げると、妖精族の闇医者はほとんど見えないはずのその両目を合わせ、こう勧めてきたんだ。


「催眠をかけられるのを抵抗に感じるのは無理もないよ。だから、こちらでは君に書いてもらう同意書と僕がサインする誓約書を用意しよう。僕は一介の医者に過ぎないけど、イーリィ=ライローズの名にかけて治療目的以外で催眠術を使わないと誓うよ」


 正直言うと、少し意外だった。どこまでも患者に対して良心的な姿勢を見せるイーリィは、記憶の中に残る〝夜鳶よとび〟のイメージとはかけ離れている。

 夜鳶と言えば手術が得意な、いやむしろ、手術を名目にしてヒトの身体にメスを入れるのが大好きだった。手術直前になると、すげえテンションが高くなるんだよな。

 昨日のイーリィは、牙炎に対する応対が冷たく雑だった気がしたけど、医者としてギルに接する姿は真摯しんし的だ。それに、アサギやスイにかける声音はどこまでもやわらかい。


「……分かった。契約を書類上で交わすのなら問題ないぜ」


 たぶん、ギルもイーリィの誠実な態度と書面で交わす契約に心の壁を崩したんだと思う。

 ルーンダリアは商業国家だ。商売人が契約書をなによりも大事にするのは、証拠として手元に残るからなんだし。


「よかった。もちろん写しは用意するから心配しないで。不安ならそちらで保管してくれて構わないよ」

「ああ」


 ギルが素直に首を縦に振ってくれたことで、イーリィも安心したようだった。ほっとひと息をついたその時、かたわらにいた子ども二人がすかさずフォローを始めたのだ。


「父さんは約束を破ったりしないから大丈夫だよー!」

「そうそう! イリ先生は優しくて優秀なお医者さんだもん。だから王さま、怖がらなくてもいいんだよー!」

「分かったから。怖がってはないからな?」


 矢継ぎ早のように子ども二人に熱弁を奮われ、ギルもたじたじになっている。

 息子のアサギはもちろん、イーリィはスイに絶大な信頼を置かれているようだ。俺みたいに身体の一部が本性のままでいるってことは、スイもトラウマ持ちだろうし、治療を受けたことがあるのかもしれない。


 子どもたちに穏やかな笑みを向けながら、イーリィは壁際に置いてあった簡易式のテーブルを運んできた。

 小さな車輪がついていて、目にハンデのあるイーリィでも手で押すだけで難なくギルの前にテーブルを設置することができた。たぶん医療用で、食事をする時に使うものなんだろう。

 なにも言ってねえのに、アサギとスイはしゃがんでテーブルが動かないよう車輪に留め具を挟んで固定させている。ずいぶんと慣れた手つきだった。


 続けて、イーリィは黒革製のカバンを持ち上げた。大人が両手で抱えるほどの大きさだ。その中から取り出した透明のファイルから紙を抜き取り、テーブルの上に置いていく。

 一枚、二枚。

 光が宿らない銀色の目を動かし、イーリィは長い指で紙を示した。


「これが陛下がサインする同意書。で、これが君に対する僕の誓約書だね。僕のサインはもうしてある。国王はその姿じゃペンも握れないだろうから、ヒムロ、君にサインしてもらおうかな」


 俺の立っている位置がわかるのか、イーリィは俺を一瞥してからそう言った。

 イーリィは文字を読めるようだ。書いてある内容もサインする場所も教えてくれた。

 弱視ってことは、完全に見えないわけじゃないんだろう。でもそれにしたって、文章が読めたりするのは不思議だ。


「イーリィは目が見えないのに、どうやって文字を読んだり書いたりしているんだ?」


 あ、しまった。つい思ったことが口から出ちまった。


 当然イーリィはきょとんとした顔で固まっている。その隣で、赫目はくすくすと笑っていた。アサギとスイは目をぱちぱちと瞬かせて俺をまっすぐ見ている。

 うわ、めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど!


「全く見えないわけではないよ。君たちの輪郭がぼやけて、かろうじて見える程度かな。そうだね、たしかに君の言う通りこの目では文字は読めないし書くことも難しい。それを可能にしているのは、僕が妖精族だからだ。君は妖精族に会うのは初めて?」

「お、おう」


 故郷ジェパーグはなにも魔族ばかりが住む島だったわけじゃない。翼族……はわかんねえけど、人間族や獣人族、妖精族もいるって親父から聞いたことがある。

 けど、俺の村には魔族、それも一部の例外を除いてほとんどが妖狐の部族だったから、妖精族には会ったことがない。


 そんな俺の疑問に答えてくれたのは、楽しそうに微笑みながら静観していた赫目あかめだった。


「妖精族には生来の能力に霊視というものがあってね、精霊や魔力の動きを見ることができるんだよ。イリが文字を読んだり書いたりできるのは精霊の助けのおかげだね」

「そうなのか」

「うん! 僕も精霊の流れは見えるもん」


 アサギが言うんだから、霊視という能力については本当みたいだ。

 うわあ、妖精族ってすげえんだな。魔力の動きとか肉眼で見れるなんて、魔術師としては羨ましいかも。


「さて。僕は今からギルヴェール国王に催眠をかけるから、他のみんなには病室を出てもらおうかな。すぐに済むから、アティス、子どもたちとヒムロを連れて食事をもらってきて」

「了解。承ったよ」


 てきぱきと采配し、地区の首領ボスなのに赫目あかめは二つ返事で快くイーリィの指示を聞き入れた。

 そうして俺たちはギルを残して、仲良く病室を出ることになった。


 人払いするのは、医者として患者のプライバシーを守るためなんだろうか。牙炎がえんを眠らせた時は公衆の面前だったから、なんか意外だ。

 いや、待てよ。よくよく思い返せば、あの時はギルが重傷を負っていて緊急事態だったわけだから例外のケースに入るんだろうな。店主の通報を受けて、イーリィと赫目あかめが駆けつけたって話だったし。


「今日の朝ごはんはね、オムレツとサラダと白いパン! 楽しみにしてて。ふわふわでおいしいんだよ」


 軽い足取りで隣を歩くアサギは、俺から見ても痩身だった。袖を通した父親と同じ白衣も少し大きいのか、手の甲が半分隠れている。背は高いがイーリィも細身だし、妖精族っていうのは華奢な身体つきなのかもしれない。

 光沢を放つ金属みたいな銀の髪を揺らし、ころころと笑う姿に、心が揺れた。

 海賊の手によって拉致された時、弟は小さかった。人間族で言うなら三歳くらい。生きていたら、アサギくらいの年頃になっているかもしれない。


 いや、なに言ってんだ俺!


 ギルは事実を知る前から諦めるなって言ったんだ。兄貴の俺が、生きてるって信じねえでどうすんだ。いい占い師を紹介してくれるって言ってたじゃねえか。


「アサギ、食堂まで競争しようよ!」

「えーっ、走っちゃだめだよスイ」


 幼い……という年ではないにしろ、思春期にさしかかった二人の子どもは種族の垣根を越えて仲良しだった。手を取り合ってかけ足になるアサギとスイを見てると、なんかこっちまで嬉しくなってくる。こういうのが平和って言うのかな。


 俺があのくらいの子どもの時は、あんなに伸び伸びと過ごせやしなかった。そう、ちょうど牙炎の館にいた時だ。

 いつまでも過去の思い出に縋り、狼たちの影に怯えて、部屋に引きこもっていた。千影に会う前は本だけが俺の友達で。……なんか、自分で言っててむなしくなってきたぜ。


 同じ国に住んでいてもレガリー地区とティーヤ地区では、こんなにも治安や環境が違うんだな。


「ふふっ、子どもたちは元気だねえ」


 いつの間にか隣にきていたのか、赫目あかめが話しかけてきた。宝石みてえな鮮やかな赤い瞳をやわらかく、アサギとスイに向けている。


「アサギはイリに似てていい子だろう? スイが俺の地区に来た時から、アサギは仲良くしてくれてね」

「俺の地区って……、スイは赫目あかめの息子じゃないのか? ——あっ」


 またやっちまった。ギルの時もそうだったけど、首領相手にタメ口で呼び捨てとか。いくらなんでも失礼すぎだ。

 ところが、赫目あかめは嫌な顔をするどころか、くすりと笑って流してくれた。


「話し言葉のことなら気にしなくていいよ。でも、そうだね。俺のことは通り名ではなく、〝アティス〟と呼んで欲しいかな。子どもたちには裏界隈のことを知られていないわけじゃないけれど、これからは本当の名前で呼び合う、そんな平和な時代にしていきたいんだ」

「わかった。……ごめん」

「だから謝らなくていいんだよ。で、さっきの質問だけど。スイは血は繋がっていない息子、つまり俺の養子なんだ」


 やっぱり、そうなのか。

 あまり似てないとは思っていた。スイは元気で活発って感じだけど、赫目あかめ……いや、アティスはどうも逆な気がするんだよな。いや、ワインレッドみたいな派手な色のジャケットを着こなすような洒落た人なのに、俺みたいなネガティブなのと一緒にしたら失礼か。


「うちの地区は人身売買を禁じていてね、そういう業者がいたら差し押さえて、徹底的に排除している。そのお仕事をしている時に見つけたのがスイだったんだよ」

「グリフォンの子どもが、人身売買されてたってことか?」


 アティスの口から出たスイの過去に俺は開いた口が塞がらなかった。

 グリフォンと言えば、ギルのように強靭な身体と翼をもった人物ってイメージが抜けない。強そうなのに、そういういかがわしい業者に捕まることがあるのか。


「そう。君だって妖狐なんだ、覚えがあるだろう? 子どものうちは誰だって大人には勝てない。俺だってそうだったよ。妖狐もグリフォンも大人になれば弱くはないけれど、そう多くはいないから希少価値が高いのさ」


 たぶんアティスは海賊による狐狩りのことを言ってるんだろう。

 ギルが前に言っていた。大陸にいる和国出身者のほとんどは、海賊によって無理やり拉致された被害者だって。


「でもアティスはグリフォンが苦手じゃないのか?」


 前にいた睨樹げいじゅという人喰いのグリフォンは恐ろしく強く、シーセスの首領全員が被害に遭ったと聞いた。それはアティスだって例外じゃない。

 だからこそ、同じ金色のグリフォンであるギルを目の前にして、動揺したんじゃないのか。


「苦手どころか、大の苦手さ! ……そうか。君は、睨樹げいじゅのことを知ってるんだね。はは、もうだいぶ心の傷トラウマは克服したと思ってたのに、陛下を見たら久しぶりに足が竦んじゃったよ。悔しいね」

「苦手なのに、グリフォンの子どもを引き取ったのか?」

「そう。当時は視界に入れるだけで嫌だったんだけどさ。でも、あの子の曇りのない目を見たら放っておけなくなったんだよ」


 形のいい唇を引き上げる様はいつもと変わらないはずなのに、にこりと微笑むアティスの笑顔はいつもと違って見えた。

 あたたかで優しく、細める瞳は慈しみに満ちていて、


「子どもが〝たすけて〟ってすがってきたんだ。なら、大人として助けない道理はないだろう?」


 いつか夢で見た千影ちかげと同じ顔をしていた。


 ああ、そうか。千影もアティスと同じ気持ちだったんだ。だからあの時、俺を助けて、俺のことを「我のもの」と呼ぶようになったのか。

 

「……そっか。そうだよな」

「大変なことはたくさんあったし、今も問題は山積みだけどね。でも父親としても、地区のリーダーとしても俺はがんばるよ。大きく見える山でも障害を一つずつ崩していけば、未来は切り開ける。生きてさえいれば、諦めなければ、朝は必ずやってくるから」


 ぽん、と軽く肩を叩かれた。

 励まされた? もしかして落ち込んでいるとでも思われたのだろうか。

 顔を上げると、アティスに満面の笑みを向けられた。


「そうだよな」


 俺はと言えば、なんとか頷き返すので精一杯だった。余裕がなかったのはアティスが怖かったわけでもとろけるような笑顔に動揺したわけでもない。

 ただ、彼の遺した言葉が心の中に焼き付いていたからだ。


 ——諦めなければ、必ず朝はやってくる。


 口の中でつぶやいたら心が軽くなった気がした。

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