〈幕間三〉懐古の夢、闇医者との対話

 子供の頃。雪が溶け始める頃になると、勉強の合間に城の中庭に出てよく遊んだ。

 すぐ下の弟のライカと、一番下の弟ノエル。

 俺たち兄弟はみんな母親が違っていたが、仲は良かった。


「ギル兄さん! まってよ、ギル兄さん!」


 俺の後ろをひよこみたいに追いかけてくるのが末っ子のノエルだった。

 俺と同じグリフォンのくせに、同じ年頃の子供より背が低くて細っこくて。発育が悪かったのは生まれつき身体が弱かったせいだ。

 そのくせ妙に人懐っこくて。

 いつの間にかちまちまとついてくるから、いつも追いかけられていることに気づけなかった。


「兄さん、ちょっとまって! あうっ」


 すぐ後ろで悲鳴が聞こえ、俺は我に帰る。まずい、やってしまった。


「ノエル、悪かっ……」

「ちょっと、ギル!」


 後悔してもすでに後の祭り。颯爽と現れたライカが目の前に立ちはだかる。

 肩に届きそうなほどの淡い月色の髪を揺らして、ライカは俺の顔をきつく睨み上げてきた。


「ちゃんとノエルのことを見てあげないとだめじゃないか! 怪我でもしたらどうするんだよ!」


 こっちはすぐに駆け寄ってやろうと思ったが、激しく手を振り払われてしまった。

 ライカはいつもそうだ。俺に対してはいつも手厳しい。

 まるで俺から掻っ攫うかのようにライカは末の弟のそばに寄ると、宝物でも扱うような手つきでゆっくりと抱き起こす。

 生まれつき身体が弱くて寝込むことが多かったせいか、ライカはいつもノエルに関しては過保護だった。そしていつも肝心なところで細やかな気遣いができない俺には当たりが強かったんだよな。


「いや。でも、ほら……ノエルも俺と同じグリフォンだし」

「ノエルは身体が弱くて細いんだから、ギルとは全然違うんだ。何かあったらどうするの!」

「わかった。悪かったよ、ライカ。今度から気をつけるよ」

「本当に悪いと思うならノエルに謝って!」


 いつでもノエル第一主義で、俺たち兄弟の中では唯一グリフォンではなかったライカ。だからなのか、ライカは俺とは弟に対する愛情表現がだいぶ違っていた。

 ノエルが絡むと誰の言葉も耳に入らない。ここは素直にこいつの言う通りノエルにも謝っておく方がいいだろう。


「悪かった、ノエル。大丈夫か?」


 誰よりも目を据わらせてくる蛇のようなライカの視線が怖かった。さすが光翼蛇コアトル。蛇だけに怒らせると一番怖ぇ。

 対するノエルは大きな翡翠色の目を瞬かせると、顔を綻ばせた。こっちはグリフォンというより、子犬みたいだ。あるいはひよことか。


「うん、だいじょうぶ! ぜんぜん痛くないよっ」


 日だまりの中、立ち上がったノエルが俺の手を取る。握り返してやるとこっちが力抜けるくらいに満面の笑みを浮かべるから、頭をなでてやった。結局気をつけてやらなかった俺が悪かったんだよな。


 ライカの位置取りはいつもノエルの左側。俺は右側で。

 俺たち三人はそうしてノエルを中心に世界が回っていた。


 そういう兄弟だった。 




 ◇ ◆ ◇




「ギルヴェール国王?」


 浮き上がりかけていた意識が怜悧な声に引き戻される。


 俺としたことがうわの空になっていたらしい。昨夜、弟の夢を見たせいかもな。

 あるいは、久しぶりにグリフォンの子どもを見たせいで、過去が懐かしくなったんだろうか。

 どちらにしろ、頭を切り替えなければ。


 手負いの状態になってしまった以上、少しの油断も許されはしない。


 今、運び込まれたこの場所は無法地帯のど真ん中。夜鳶の診療所と呼ばれるシーセスの病院なのだから。


『悪い。少し考えごとをしていた』

「気にしなくていいよ。君は患者で、大怪我をしてまだ治りきっていないんだ。疲れていて当然だ」


 手もとの黒い板にペンで書き付けながら、夜鳶よとびはそう言った。


 夜鳶は黒髪銀目の妖精族だ。

 医療の民とも呼ばれるかれら妖精族を見たのは、今回が初めてじゃない。商業国家として名を打ち出してはいるが、ルーンダリアは多種族混合国家でもある。国民の比率は魔族が一番多いが獣人族や人間族、それに妖精族だって少数ながらいる。……のだが、これほどまでに近づき難いと思った妖精族は初めてだ。

 

 体格は俺と同じ背丈ほどだが、夜鳶は全体的に細い。いわゆる長身痩身といったところか。


 端正な顔をしているのに身構えてしまうのは、間違いなく光の宿らない濁った銀色の目のせいだろう。

 夜鳶は赫目あかめのように愛想よく笑うタイプではない。まったく無表情ってわけでもないが、淡々と話す口調はどこか毒舌気味だ。こりゃ、初対面の患者——特に子どもには怖がられるだろうな。

 ……俺も他人のことをとやかく言えたクチではないが


 息子だと言うアサギは血の繋がった息子らしいが、夜鳶とは真逆のタイプだった。

 俺みたいな強面の(だと正直思いたくはないが)グリフォンを目の前にしても人懐っこく距離を詰めてくるし、父親に対する信頼も厚い。率先して患者の世話を買って出るほど思いやり深く健気だ。無法国家だと言われるシーセス国内において、安全な環境で過ごせている証拠だと思えた。


『噂に聞いていたのとずいぶん違うみたいだな』

「え、なにが? まさか陛下まで僕の変な噂を知っているわけ?」


 パイプ椅子をベッドのそばまで運び、腰かけたタイミングで夜鳶にそう切り出せば彼は目を丸くした。少しばかり言葉が足りなかったようだ。変なふうに受け取ったらしい。

 しかし夜鳶の変な噂とは何のことだ。


 もしや、通り名である〝夜鳶〟のことか。


 俺たち人族の髪や目は属性の色が反映されるという。実際、俺は光の属性だから髪も目も金色だ。

 髪が黒であること、そして通り名に〝夜〟の文字が入っているところをみると、夜鳶は闇属性なのだろう。しかしもう一つの文字、〝鳶〟が不穏に思えて仕方ない。

 空を旋回するように飛ぶとんびの習性と言えば……、いや。今は考えないでおこう。

 イーリィ=ライローズがどういう人物にせよ、話した言葉も交わした契約書や誓約書にも嘘偽りはなかった。俺がかけた嘘探知の魔法には引っ掛からなかったんだ。間違いはないだろう。


『そうじゃない。シーセスという国全体の話だ。案外過ごしやすそうな国だと思ってな』

「ああ、そのことか」


 夜鳶は得心がいったような顔をした。


「ティーヤ地区は過ごしやすい方かもね。ほんの一部の地域だけになるけど、スイやアサギが出歩ける場所もあるくらいだし。でも、よその地区にはあまり行かないほうがいいかな。君の国と違って、シーセスには法がないから」

『そのようだな』

「君の連れにでも聞いた? ああ、思い出したよ。ずいぶん前に、狐の耳と尻尾が出た魔族の子どもを診察して手術したことがある。ヒムロ、ここに来たことがあるんだね。道理で僕の顔色をうかがうように見るわけだ」


 それは初耳だ。


『手術?』

「そう。あちこちひどい怪我をしていた上に、精霊バランスが崩れていてね。即手術したんだ。そういえばあの時は彼の保護者には会わずじまいだっけ。同意書にはサインしてあったんだよね」


 間違いない、千影のことだ。


「君がヒムロからシーセスのことを聞いていたのなら、たしかに悪い噂ばかりだろうね。昔は《闇の竜》の勢力も強かったし、人喰いの魔族が残っていた。おまけにレガリーみたいな訳の分からない災害狼までいる始末。でも今はほんの一部の地域だけではあるけど、子育てできるくらいには平和になったよ」

『その、レガリーというやつはどうなっているんだ?』

「捕らえた後のことの采配はアティスに任せているから、僕も詳しくは知らないな。でも野放しにするってことはしないから大丈夫。あいつ、一週間前にアサギをさらおうとした上に、うちの警備システムを壊していったから。前から捕まえようとレガリー地区に攻め入る準備をしていたんだよね。だからアティスは君に感謝してるんじゃないかな。レガリーにはだいぶ手こずっていたみたいだから」

『なっ……!』


 病院を襲って、その医者の子どもを狙うとか。なにを考えているんだ、あの狼は。

 開いた口が塞がらないとはこのことか。


 法がないということは、まともな施設がないということだ。役所や地域の治安を維持する警備の詰所などは勿論皆無。なにより病や怪我を治療する病院など、常に紛争が起こりがちなシーセス国内では貴重な場所だろうに。

 それを、地区を統べる立場にいる首領自ら破壊しに来るとは。

 人当たりのいい赫目あかめが奴を「馬鹿」と詰っていたのも頷ける。俺が彼と同じ立場ならば、やはり怒鳴りつけていただろう。


『アサギは大丈夫だったのか?』

「あの通りすっかり元気だよ。目が見えていたら、もっとしっかり僕が守ってあげられるんだけどね。不甲斐ない父親さ」


 暴力的で魔法を弾く強運体質な上に炎まで吐く、あのとんでも狼に対抗できるやつなんてそう多くはいない。

 しかし夜鳶は誰にも止められなかった牙炎がえんを催眠一つかけただけで黙らせた。クリュウの禁術で動きを封じていたとはいえ、すごいことだろう。


 それにしても、夜鳶にしろ赫目あかめにしろ、家族仲は良好のようだな。子どもたちはヒムロみたいに怯えず伸び伸びと過ごしている。やはりティーヤ地区は悪い環境ではないらしい。

 実際にこの足で歩いてみた時もそうだったが、ティーヤ地区はシーセスのような無法地帯とは別世界、いや、一つの国のように思えてならない。


「さて、そろそろ始めようか。大丈夫。痛くもかゆくもないし、悪いようにはしないから楽にしているといいよ」

『わかった』


 とは言っても、緊張しない方が無理な話だった。

 今の俺はきっと、気難しい顔をしているに違いない。


 精霊や魔力の流れを読み取るという弱視の医者は、俺が身構えたのがわかったようだった。

 ベッドに身を乗り出し、顔を近づけてふっと笑った。


「僕は医者だ。相手がどんな人であろうと、必ず治してみせる。だから君は安心して、しばらく楽しい入院生活を送るといいさ」


 無機質な銀の瞳が間近に迫る。怯えた小動物のように夜鳶を見ていたヒムロの気持ちが少しわかった気がした。

 表情が読めず、なにを考えているのかわからなさすぎて怖いのだ。

 翼が固定された状態では逃げることはおろか動くこともできるはずはなく。


 傍目から見れば素直に、俺は夜鳶の催眠を受け入れたのだった。

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