二.裏帝国からの敗走
二週間後、早くも俺は後悔していた。
「……ひ、ひどい目に遭った」
ゼルス王国の国境線を超えてからすぐの宿場町で、俺は食堂に入るなりテーブルに突っ伏していた。
ごめん、マスター。注文でもなんでもして金は必ず払うから、とりあえず休ませて欲しい。
「よお、兄ちゃん。ずいぶんと満身創痍じゃねえか」
真上から影がさしてくる。
顔を上げると、えらくガタイのいい親父が腕組みをして立っていた。シンプルな紺のエプロンをしているけど全然似合ってない。店の主人かな。
「悪い。注文もするし宿も取るから、少しだけ休ませてくれ」
「まだなにも言ってねえだろ。えらく小心者だな。その調子だと、お前さんもゼルスから逃げ出してきたクチだろ」
「……お、おぅ」
すげえな、この親父。なんで俺がゼルスから命懸けで逃げ出してきたことを知ってんだ。心が読めるなんて精霊か。
「なんで俺がゼルスからきたってわかるんだよ」
「うちにきてバテてるやつは大抵そうなんだよ。国境さえ超えちまえば安心だからな。ゼルスは《黒鷹》や《赤獅子》の縄張りみたいなもんだ。おまえみたいなキツネの獣人がいけば、そりゃ食われるにきまってんだろ」
「……くわれるって」
そっか。この親父、俺のこと獣人だと思ってんのか。
魔族ってのは大抵が先のとがった耳を持ってる特徴なんだけど、あいにく俺はとある事情によりキツネの耳としっぽが出ている。それこそ獣人族のように。
ゼルスのやつらも親父のように俺を獣人族だと勘違いしてくれればよかったんだが、あいにくと騙されてはくれなかった。
なぜか俺が魔族だと見抜き、しかも取り引きしようとしていたのが魔法具だったのもあって、奴らこの俺をとっ捕まえようとしてきやがったんだ。
組織ってもんは恐ろしい。
人海戦術で連携し、まるで網のように囲い込んで捕らえようとしてくるんだから、本気で怖かった。
魔法と剣ができたってどうにもならねえ事態ってあるんだな。一人相手ならどうにでもなるけど、さすがに大勢に囲いこまれたら敵わない。
通りすがりの怪盗が来なかったら、俺はあやうく堅牢な城の中に引きずり込まれ、一生出てこれなくなるところだった。なんて恐ろしいところなんだ、ゼルス王国。
誰だ、未来が明るいだなんて言ったやつは。……俺だ。
全然大丈夫なんかじゃなかったし。
これからどうしようか。
大人しく千影のもとに戻るか、それとも別の国に渡るか。
帰ろうと思えば転移魔法で帰れるし、路銀を失ったわけじゃない。これから進む選択肢はまだいくつか残ってる。
「お前さんはあれだろ。なにか商売始めようとしてゼルスへ行ったんだろ」
「お、おう。親父、なんでもわかるんだな」
「ゼルスは表向き商業国家な上に金回りのいい国だからなー。だが安全に商売するなら、あんなマフィア国家よりうちの国ルーンダリアを俺は勧めるぜ」
ことりと目の前にグラスが置かれた。
両手でつかんでひと息に飲み干す。よく冷えた水が喉を滑っていった。たった一杯の水なのに、渇き切っていた全身が潤っていくような気がした。
「ルーンダリア? あ、そっか。国境を超えたってことは、ここはもうルーンダリア国なのか」
同じ商業国でもゼルスと比べるとはるかに治安のいい多種族混合国家。それがルーンダリア国だ。
まあ治安がよくなったのもごく最近で、政変が起こる前までは荒れてたって噂だけどな。国境近くに宿場町ができるくらいには、復興が進んだってことか。
「ここは田舎だから商売の足掛かりにはできねえが、首都まで行けば商工会があるぜ。王城まで行けば取引先をいくつか紹介してもらえるだろ。今では警備が行き届いて安全だし、何よりルーンダリア国では王命により魔族による他種族狩りが禁止されている。お前さんのような獣人はゼルスで商売するより、ずっと安全だと思うぜ?」
「……ん。そう、だな。ちょっと考えてみるわ」
まぶしいくらいに笑顔全開の親父とは反対に、胸の中にはどすんと鉛が落ちていった。明るい照明で照らされた室内ががどんどん暗くなっていく感覚がする。
適当な返事をして、無理やり笑顔を作って。
マスターの親父がひたすら推してくるサボテンステーキを注文したのだった。
「ルーンダリア、か……」
ゼルスの南に面するルーンダリア国も商業国家で、大きな港を持っていると聞いたことがある。
食堂の親父が言うように他種族狩りは王命により禁止されているし、
それでも俺は旅先の候補から真っ先にルーンダリアを除外した。それには理由がある。
なぜなら、現ルーンダリア国王が大の闇
今から数百年前、ルーンダリアは荒れに荒れていた。国王は不在、法などなにもない無法地帯に近く、王家など存在しなかった。それは闇
今こうして治安のいい国だと知られているのは二百年ほど前に生き残った第一王子が勇士達と共に改革を起こし、城とその玉座を取り戻したからだという。それが現国王のギルヴェール陛下らしい。
つまりルーンダリア国王にとって《闇の竜》は家族の仇なのだ。
国に王が戻り、ルーンダリアは商業国家として生まれ変わった。しかし王弟二人は政変以来、いまだに行方不明だと聞く。《闇の竜》が残した爪痕は深く残り、失われたものをすべて完全に取り戻せてはいない。
そんな国王が治める国へ行こうだなんて思えるわけもねえだろ?
《闇の竜》に所属はしていなかったものの、俺はその組織に魔法製の薬や道具を卸していた。そう、《闇の竜》に関わっていたんだ。
ましてや王城のある首都なんて行ってみろ。素性がバレて城の兵士たちに捕まるかもしれない。
いや、捕まるだけならまだいい。万が一、《闇の竜》の一員だと誤解されたら、絶対処刑される!
ひょいとゼルスに行っただけで捕まりそうになった俺のことだ。不運体質なことはガキの頃から自覚している。
絶対首都に行ったら、今度はルーンダリアのやつらに捕まる。そうに決まってんだ。
「…………けど」
借りた宿の一室で荷物を広げたベッドの上。制作した作品たちと書類を睨みつけながら、俺は頭を抱え、ため息をひとつ吐いた。
「もう、選んでいられる状況じゃねえよな。選択肢はひとつだけだ」
国民証を持たない旅人の身で、商売ができる国なんて限られている。
闇
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