(執筆者向け)現地人の一人称視点で書かれた小説で「この世界には」で始まる説明文にある違和感について
タイトルにも記載している「この世界」というのは、「森羅万象この世の全て」という意味です。
例えば中堅の冒険者が新人に対して「この世界はそう甘くない」とは違います。ここで言う世界とは冒険者という職業、業界についてだからです。
私が言いたいのは「世界は未知で満ちている」というような、あらゆるものを含むという意味で使う世界です。
本題に入ります。
ここでは良くある剣と魔法の中世的なファンタジーを例にします。異世界転生者も転移者もいない、現地人のみで構成されたファンタジー小説です。
「この世界には魔法がある」
この文章が現地人の一人称視点で語られたらどうでしょう?
違和感はありましたか? それともありませんでしたか?
タイトルにもあるように、私には違和感がありました。
これがもし、三人称視点で書かれているのであれば違和感はありません。
ではなぜ一人称視点でだと違和感があるのか。
「この世界には時間が流れている」
これをあなたの知人や友人が言ったらどう感じますか?
「いや、どの世界と比べてるんだ」
「中二病?」
と思いませんか?
「この世界」というのは何か別の世界と比較している言葉なのです。
別の次元からやってきた異次元人が「この世界には時間が流れているんだな」と言えば違和感はないでしょう。
異次元人は自分が居た次元と訪問先の次元を比較して「この世界」と言っているのです。
「世界には時間が流れている」これも違和感はないでしょう。他の世界と比較しているわけではありませんから。
「地球には海がある」
「この地球には海がある」
「この」が付いているかどうかで文章から受ける印象がかなり違いませんか?
話を戻し「この世界には魔法がある」に当てはめて考えてみましょう。
「この世界」というのは物語の舞台である世界のことでしょう。ではその世界とどの世界を比べているのでしょうか?
そう、我々が生きている世界と比べているのです。
なぜファンタジー世界のことしか知らないはずの主人公が我々の世界のことを知っているのでしょうか?
私はそこに違和感を覚えるのです。
重箱の隅を楊枝でほじくるようなことだとは分かっています。
ですが、こういう違和感が物語を楽しむことを阻害するのです。冷めるというのでしょうか。
例えば食事をしようと飲食店を訪れたとしましょう。
テーブルに案内され椅子に座り、注文した料理を食べ始める。料理は非常に美味しくて楽しい気分になります。
しかしあなたは気が付いてしまう。
前に座ったお客さんが落としてしまったのか、足元にフライドポテトが落ちていることに。
せっかく料理は美味しくて楽しい気分だったのに、嫌な気持ちになりませんか?
それからずっと足元のフライドポテトが気になってしまうでしょう。
こんな心境なのです。
せっかく素敵な世界を作り上げているのですから、最後までその世界に没頭させてください。
以上です。
(「小説家になろう」にも(執筆者向け)を除いたタイトル、同内容のエッセイを投稿しています)
赤月 朔夜の雑多なあれこれ 赤月 朔夜 @tukiyogarasu
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