帰り道〜after story〜
after story 桜瑪瑙
「3月31日、今日は雨が降る日だった」
帰宅すると、私は中3の夏で止まっている日記帳を久しぶりに開いた。家の近くのコンビニで買った透明のシンプルなシャーペンを握り、ノートの上を滑らす。
昨日から今日、明日の自分へと1人で回す交換日記にしよう、という思いを込めて中3の時に表紙に書いた「寧々の1人交換日記」という文字が初々しい。結局、最初のページに日記を書いて以来、その続きは書いていない。最後に日記を書いた中3から3年が経ち、私はこの前高校を卒業した。美久とミネラルウォーターを飲んだ去年の冬が既に遠い昔のことのように思える。
好き。
あのページに書いたその気持ちは忘れかけている。
あの頃の自分はもうここにはいない。
懐かしいな、なんて昔のことを思い出しながら、私は最後のページに日記の続きを書く。
「今日、私は桜瑪瑙という言葉があることを知った」
☆
3月31日。今日は高校生最後の日だ。もう高校は卒業したが、3月31日までは世間ではまだ高校生だとみなされる。今日は、4月から県外の大学に通う美久と遊ぶ日だ。
「寧々お待たせ、久しぶり」
イエローのブラウスの上にベージュのトレンチコートを羽織った美久が私の肩をとん、と軽く叩いた。
私の高校は髪を染めても良い高校だったので私は高校時代髪を染めていたが、美久は校則の厳しい高校に通っていたため美久はずっと黒髪だった。
だけど、今日は。
「美久、髪色似合ってる!」
「ありがとう! ミルクティーベージュだよ」
ミルクティー。
なんだかその響きが懐かしい。
美久はやっぱりミルクティーが似合う。
ミルクティーを飲む君は、可愛い。
「美久はミルクティーが似合うね」
私が美久の緩く巻かれたミルクティー色の髪の毛を見ながらそう言うと、どういうこと? と美久が笑った。キラキラしたラメが乗った涙袋と黒いマスカラが塗られた睫毛が強調される。美久が髪を耳にかけると華奢なゴールドのイヤリングがちらりと覗いた。
「なんか、美久はミルクティーのイメージがある」
「あ、もしかして私がよく元彼と飲んでたから?」
「そうそう」
「もうー、やめてよ〜。今はもう好きじゃないから! 元彼との画像もプリクラもプレゼントもトーク履歴もぜーんぶ消して捨てましたー」
「そうなんだ……! なんか、ごめんね」
「ううん、いいよ。私ね、やっぱりミルクティーが好きなんだ。元彼がどうとか関係なしに」
それを聞いて心の中で何かが動いた。
私は、美久への恋心が消えてからラムネを見るとなんとなく気まずくて、いつしかラムネという飲料を避けるようになっていた。ラムネを好きでいると、いつまで経っても美久へ執着してしまうような気がして。
でも、美久の言葉を聞いて心の中の蟠りが溶けた気がした。
好きでいていいんだ。
私も、ラムネが好きだ。
たしかに美久との思い出の象徴でもあるけれど、それ以前に私はラムネのあの味と香りが好きだ。
しゅわしゅわ湧き出るような爽やかさ。
それに伴うほのかな甘酸っぱさ。
ほんの少し舌に残るほろ苦さ。
飲むとしゅわしゅわ弾けて、心も弾んで、目の前に炭酸が広がるような気がする。
そんなラムネの夏の味が大好きだ。
私が水色の傘を閉じ、美久がビニール傘を閉じる。そして傘を袋に入れて私たちは駅ビルに入った。
「寧々、このお店見てもいい?」
「もちろん!」
駅ビルの中にある雑貨屋に入ると甘い香りが鼻を掠めた。
天井から「春のフレグランスフェア」と書かれたポップが吊り下がっている。
私は密かにオードトワレに憧れていた。
「美久、私オードトワレ買ってみようかな。大学生になるし!」
「私も欲しいと思ってた! 一緒に見てみよう!」
フレグランス類が置いてあるコーナーに行くとさっきの甘い香りがさらに濃くなった。
色とりどりの香水瓶が宝石のように煌めきを放っていた。
「香水瓶って可愛いね。寧々はどんなデザインのが好き?」
「んーとね、私が好きなのは……これかな!」
それは淡い桜色をした容器のロールオンタイプのオードトワレだった。蓋には桜の花びらの形に加工された淡くピンクがかった天然石のチェーンが付いていて、パッケージに『桜瑪瑙の香り』と書いてある。
「これ、なんて読むんだろ。寧々わかる?」
「うーん、わかんないな」
「香り試したいけどテスターなさそうだね……」
「うーん、そうだね……」
桜瑪瑙。
読めないその三文字に私は魅了された。
「美久、私これにする」
「え! どんな香りか分からないのにいいの?」
「 うん、勇気出してみるよ。美久はどれにする?」
「私は金木犀の香りが好きだから、これ気になるかも」
それは私が選んだのと同じロールオンタイプのオードトワレだった。
淡いイエローの容器が可愛い。
「私もテスターで試さないで買ってみようかな」
「ドキドキするね」
私たちは一緒にオードトワレを持ってレジに向かった。
☆
「楽しかった〜」
「ほんと。美久が引っ越す前に会えて良かった」
「私も寧々と会えてよかったよぉ。星空色の帰り道だねー」
「その表現、好き」
「そう? ありがと」
「結構遅い時間になっちゃったけど、美久は門限ある?」
「ないよー。小さい頃は『暗くなる前に帰るのよ』なんて親に言われてたけど、高校卒業してからはうるさく言われなくなった」
「私の親もそんな感じ」
私たちは駅に向かって歩きながらそれぞれ買ったオードトワレを手首の内側に塗り込んだ。
桜瑪瑙のオードトワレは、バニラとフローラルが混ざったような、甘く爽やかな香りだった。
私が選んだオードトワレは美久の好みの香りではなかったみたいだ。
でも、それでよかった。
オードトワレはかすかにラムネの香りがした。比喩じゃなくて、本当に。
私が美久を好きだった頃の気持ちを忘れてしまったように、いつか今日のこの香りも忘れてしまうのかな。
もう少し残っていてよ。
その小さな願いはきっと揮発して、空気に溶けてしまうんだろうな。
憧れていたオードトワレなのに、どこか少し寂しい。
☆
「今日、私は桜瑪瑙という言葉があることを知った」
「『桜瑪瑙』と書いて『サクラメノウ』と読むらしい。『瑪瑙』は『アゲート』とも言う。石言葉は『勇気』」
日記を書いている途中にあの夏の美久の言葉を思い出し、手を止めた。
ラムネのガラス玉って取り出せるんだよ。
サクラメノウが私の背中を押す。
想いを伝えられなかった過去の私の背中を。
私はトークアプリを開き美久のアイコンをタップした。
「今日はすごく楽しかった! 美久、大好き」
美久、大好き。
好きの意味はあの時と違うけれど、私はたしかに美久のことが大好きだ。
手首の内側から香るサクラメノウの香りは優しかった。
忘れたくないよ、と最後のページの端にロールオンを転がした。
もしもロールオンの瓶がからっぽになっても思い出が消えないように。
それは、ボールペンで文字を書く感覚に少し似ていた。
ラストノート。
これが最後のページだ。
最初のページと最後のページにしか書かなかった日記帳からかすかにサクラメノウの香りがする。
私は壁掛け時計に目を向ける。
今の時刻は21時。
オードトワレの持続時間は1〜3時間。
4月1日になる頃にはきっと香りは消えている。
その頃私はもう高校生ではなくなる。
だけど、忘れたくない。
ミルクティーも、ラムネも、砂糖水も、水飴も、ミルクティーキャンディも、ミネラルウォーターも。
全部、私の青春だった。
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