第2話 ラムネ

 今日から夏期講習が始まる。中三の夏休みは忙しい。私、佐藤寧々は憂鬱な気持ちで塾の校舎に入った。廊下を歩いて自分のクラスに向かう途中、教室で瓶入りのラムネを飲んでいる子を見つけた。お祭り以外で飲む人いるんだ、と気になって廊下から彼女を眺めていると、彼女と目があった。吸い込まれるような瞳、サラサラの髪の毛、少し汗ばんだ肌、全てが輝いて見えて思わず見とれてしまった。今でもその瞬間を鮮明に思い出すことができる。あの時君だけが輝いて見えた。自分の中で何かが始まったような気がした。その予感は嘘じゃなかった。心の中で何かがしゅわしゅわ弾けた。まるでラムネのように。


「寧々ちゃん? 寧々ちゃんだよね!」

 彼女が私に近付いてきた。彼女は同じ小学校だった葉山美久だった。小学生の時はよく一緒に遊んでいたが、中学校が離れてしまってから一度も会っていなかったため、初めは誰か分からなかった。ここから先はよく覚えていない。ただただ心臓の高鳴りを止めるのに必死だった。


 一目惚れ、なのだろうか。厳密に言うと初対面ではないため一目惚れとは言えないのかもしれないが、これは一目惚れ以外の言葉では表せない。彼女に再会するまで、自分が同性に恋をするなんて思いもしなかった。これは恋ではない、自分に必死に言い聞かせる。しかし否定するほど想いは膨らんでしまう。今までこれだけドキドキしたことはあっただろうか。この心臓の鼓動を経験することはこれからあるのだろうか。この鼓動の正体に薄々気付いていながらも、この時の私は、自分の恋心を素直に受け入れることができなかった。


 私と美久は志望校が違うため、塾のクラスが違う。そのため、同じ塾でも休み時間や塾が終わった後にしか会うことができない。会えるかな、と期待して塾に行き、会えなかった、と肩を落として帰る日々。会ったら会ったできっと私はどうしたらいいか分からなくなるだろうけど。

 会いたい、と美久に直接言えば塾帰りに会うことはできる。しかし、ラムネのガラス玉を取り出すことができないように、そんな本音は言えなかった。


 夏期講習が終わり、通常の講座が始まった。そこでも私たちはクラスが違かったため、夏期講習が終わってからは一度も美久を見かけなかった。

 ある日の授業後、私は教室に残ってラムネを飲んでいた。私はあの日からよくラムネを飲むようになった。塾の隣に、塾生が頻繁に利用する小さなスーパーがあり、夏が終わってもラムネが売っていた。ラムネを半分位飲み、ガラス玉を眺めていた時、何故だか爽やかな風が吹き抜けたような気がした。その予感は嘘じゃなかった。開いたドアの前には美久がいた。


「寧々、久しぶり」

 話せるかな、と思い、ドアの前に行くと、美久の隣には仲が良さそうな女子がいた。同じ中学校の子だろうか。その子は美久の腕にしがみつき、にこにことしている。美久もそれを当然のように受け入れている。私は「久しぶり」と一言だけ言うとすぐ席に戻った。

 話せなかった。

 席に戻ってから美久の方を見ると、今度はあの女子が美久に抱きついていた。美久は嬉しそうに笑っている。

 美久はもう私の方を見ていない。

 ラムネのガラス越しに見る美久は遠く感じた。


 もう帰ろう。

 結局あの後は勉強が捗らなかった。

 半分残っているラムネを手に持ち、塾を出ると、駐輪場に美久がいた。


 さっきの嫉妬も忘れるくらい、美久の姿はキラキラ眩しすぎた。全身に鼓動が伝わって、息つぎするのも忘れてしまいそうだった。きっと今体温計で体温を計ったら体温計は壊れてしまうだろう。

 今声をかけなかったらもう話せないかもしれない。サドルにまたがった美久を私は思わず呼び止めた。


「あ、寧々! どうしたの?」

 言葉が出てこない。何を話したらいいのかわからない。こんなに好きなのに何も伝えられない。好きにならなかったら小学生の時みたいに友達でいられたのだろうか。友達にも恋人にもなれない私はどうしたらいいのだろう。

「じゃあね」

 私はそれだけ言った。

「うん、ばいばーい!」

 美久が乗った自転車がどんどん遠ざかっていく。


 私は残っていたラムネを一気に全部飲み干した。取り出すことのできないガラス玉がもどかしい。

 やっぱりラムネは恋の味がした。

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