第2話 後編

 シキが生まれ育った家は、世間でいう所の一般家庭というものだった。

 ……いや、細かく表現するのであれば、中の下。兄弟が多いせいもあり、シキの後に生まれた兄弟間でのおさがりは当たり前。鍵盤ハーモニカやリコーダーなど、そこそこ値が張る学用品などはもちろんの事。

 新しく購入するのは、年子の兄弟で使いまわすのが無理な時と、経年劣化などが理由だった。

 もちろん子供といえど不満はあっただろう。けれど、兄弟達は仕方が無い事と理解していたのか、多少の不満を口にはしたが、強く抵抗する事は無かった。

 幸い、ランドセルや学習机や制服等などは、それぞれ買い与えられた。これに関しては毎日使用するし、男女で差異がある。成長期により心身ともに成熟するまでは、男女の差は少ないために普段着もおさがりが多く、シキが幼い頃着ていたトレーナーを妹が着ていた事は、今思い返しても申し訳なく思う。

 長男という事もあり、他の兄弟達よりもお金をかけて貰っていたのは、中学を卒業する頃には完全に理解していた。

 子供ながらに、「申し訳ない」という気持ちを持ちつつ、彼は成長していった。

 シキは所謂、秀才型で、基本的には人並みの努力で、卒なく大概の事はこなせるようになる。だが、あくまで人よりも出来る程度で、極めるほどの才能も気概も彼は持ち合わせていなかった。

 『努力できるのも才能』。この言葉は言い訳がましく思えるが、シキは芸を身に着けるまでは努力する事が出来でも、極めるまで努力する事は出来なかった。

 周りの環境に流されて育ったシキではあったが、親戚などから貰った子供向けの本が家に沢山あったおかげで、子供の頃から本を読む事は自分でも好きだと断言はできた。

 けれど、それ以外に、これといってしたい事も得意な事もなく、流されるままに普通科の高校に進学し、大学というものに興味を持ち、進学の事を親に伺いを立てた所、あっさりと許可をくれた。

 進学先は多少揉めたのだが、結局、興味の持てる事をしたいと文学科への入学を決めた。一応は、成績はそこそこ優秀だった事もあり、学費の一部は免除された。在学中に資格を取れるだけとって、出来れば学部に合った職業をと漠然と考えていた。

 けれど現実的には、文学部というのは就職において有利とはいえない。とりあえずは司書の資格は取る事にして単位を取得したのだが、司書や学芸員などはそもそも受け入れる器が小さく、空きが出る事が少ない。

 「空きが出たら亡くなった場合がほとんど」などという話が出てくるほど、求人数が少なく、定年までしっかりと勤め上げる。

 一昔前は、とりあえず教員免許を取るという人も少なくはなかったが、最近はその課程が見直されたために、簡単に取ることは出来なくなっている。

 漠然とした将来の不安と、自分は何をしているのだろうか、本当にこれで良いのかと悩んでいる時に、亡くなった祖父の借金が発覚した。

 ——そこで、シキは完全に歩く道を見失ってしまった。

 このままいけば、シキの大学の学費などの金銭面で負担がかかるのは明らかだ。元々ある程度のバイトをして生活費の足しにはしていたが、これから兄弟達全員が高校生になる。中には大学へと進学を希望する兄弟たちもいる筈だ。もし、そうなれば経費は莫大なものになる。

 長男というだけで、他の兄弟達よりもお金をかけて貰っている事に、シキは罪悪感を持っていた。

 これ以上負担をかけるのは申し訳ないが、無理にバイトを増やして学業をおろそかにすれば、今までの積み重ねが無意味になる。奨学金を貰う事を考えたが、奨学金は事実上の借金だ。そうしてまで、今の大学を卒業する意味はあるのかと、自問自答を繰り返すようになった。

 ——そんな時に、シキは学部の教授から、今回の短期の住み込みの仕事の話を貰ったのだった。


 ふわりとした闇の中から意識が浮かび上がり、ゆっくりと意識が覚醒していくのを感じながら、シキは重たい瞼を開く。

「——ああ。目が覚めたのか」

 仮受けている自室とは異なる、子供向けの間違い探し程度は違う天井。そして聞き慣れた雪の声が呼び水となり、ぼんやりとしていた思考が明確となり、自分の現状を一気に思い出していく。

 流れ込んでくる未知への恐怖、深々と降り積もった疑念が、シキの精神へ過度な負荷をかけてくる。

 情報過多で戸惑ったシキは、現状説明を求めて声の方に顔を傾けると、身を乗り出して顔を覗き込んでいる雪がいた。

「——大丈夫か?君、廊下で倒れていたんだ」

 出会って半月も経たない相手が心配そうにするのを見て、シキは自分がその事を喜んでいる事に気が付いてしまい、自分の単純さを笑いたくなる。

「ここは俺の部屋——楓の間だ。過呼吸で一時的に意識を失っただけらしいから、少し休みを取れば平気だそうだ」

 見た事がある天井だと思っていれば、どうやら毎日出入りしている楓の間だったらしい。清潔なふかふかの布団でシキは寝かされ、枕元に雪が胡坐で座っている。

 従業員が客室に堂々と寝転がっている、という状況に気が付き、シキは慌てて体を起こした。少し頭がくらりとしたが、体調的には問題は無いようだったので、すぐに布団から出ようとしたのだが、部屋の主である雪に止められてしまう。

「支配人には許可を取ってあるから平気だ。基本的には『客』が自由に使っていいという事になっているから、俺が君を連れ込んで看病しても、何ら問題は無い」

 雪と『旅館』には問題は無いのだろうが、シキの心には問題が大ありの状況に、動揺を隠す事が上手くできない。

「……まあ、あれだ。俺が君を看病したいと言っているのだから、有給休暇みたいなものだと思ってくれればいい。一種のお遊びだな」

 言葉の通りに雪が無邪気な笑顔を浮かべているのが、シキの瞳に明確に映る。何時もよりも鮮明に映る雪の笑顔に違和感を持ち、シキは首を捻り、すぐにその答えに辿り着く。

「……あの、……面は?」

 常時装備していた布製の面が外されていて、シキは布越しではなく、素顔のまま初めて雪と顔を突き合わせていた。

 自分の顔に触れて面が無い事を何度も確認して、規則を破ってしまった事に、シキの顔がさっと青くなる。

 支配人の「規則を守っている間は大丈夫」だという言葉が、シキの精神安定剤の役割をしていてくれたおかげで、何とか毎日仕事の事だけを考えて過ごす事が出来ていたのだ。

 それを失ってしまった事で、シキはさらなる混乱へと突き落とされてしまう。

「……ど、……どうしよう。規則……」

 狼狽したシキは再び過呼吸を起こしそうになり、呼吸をする事がこんなにも難しいのかと動揺する。平時は無意識出来ている筈だというのに、意識すればするほど息苦しくなっていく。

 必死に空気を求めて大きく揺れるシキの肩に、雪がふわりと触れて優しく語りかけてくる。

「落ち着け。顔は縁を繋がないための手段の一種でしかない。顔を見られたら即刻駄目になるわけではない」

 どくどくと激しく打つ脈を何とか落ち着けようとするシキに、雪が宥めるためにゆっくりと話しかける。

「君は意外と突然の事態には弱いんだな。面をしているから、声だけでしか分からなかったが……」

 シキはあまり表情に出さず、必要以上に話さないために、大人しく冷静だと思われがちだが、実際の所はそこまで冷静沈着というわけではない。

 特に今回の場合は、シキ自身に理解できない事態である事と、得体の知れない恐怖から目を逸らすために、必死に仕事に集中していただけ。雪崩れ込んでくる感情の処理が追い付かずに、態度に出ていなかっただけだ。

 自らの平静を保つために、無意識に感覚を麻痺させていた部分もあった。だが、それがオバナの事で一気に伸し掛かってきたために、処理落ちをした結果、気絶してしまった。

「まあ、声とかでおおよそは把握していたから、大した違いじゃない。あまり気にするな」

 恐ろしいという感情があるにもかかわらず、雪の慰める言葉がシキの心に染み渡る。弱っている時に優しくされると人は簡単に落ちると、話としては知っていたが、それを自分で体験している事に心の隅で感心をしてしまう。

「そもそも、他人を恐ろしいと思う事は当たり前だと思うがな。自分以外の、自分とは異なる相手が怖いのは、普通の事だろう?」

 当たり前の事だという言葉が、シキの荒ぶった心を鎮め、少しずつ平静を取り戻していく。

 他人を恐ろしいと思う機会は、日常生活では幾らでもある。むしろ幽霊などより生きている人間の方が恐ろしいと、そんな文言があるぐらいに。

「人は昔から理解できない事に恐怖する。だから分からないモノには名前を付けて、無理矢理にでも説明しようとする。違うという事は、考え方や知識が異なる。同じ答えや感想を持つとは限らない。違うという事は、得体の知れない何かでしかない」

 いつの時代でも、人間は違うことを受け入れられずに、今もなお争い続けている。

「幽霊の正体見たり、枯れ尾花。……現実なんてそんなものだ。話してみれば、考えてみれば、大した事はない。君は悪い方へ考えすぎる」

 オバナという単語に、シキはピクリと肩を震わせて、表情が固まる。分かりやすいシキの反応を、雪は悠然と胡坐をかいて眺めていた。

「……雪様。オバナ、さんは……?」

「んー……?ああ、彼なら君の事を近くにいた従業員に伝えて、仕事戻っていった。『自分の事に君を巻き込んですまなかった』という伝言を預かっている」

 切羽詰まって他人に縋っていたオバナの姿と、最後に見た静かに廊下の隅で蹲る姿が、シキの中で浮かんでは沈んでいく。

「まあ、一週回って冷静になったんだろうな。君が自分と同じ様に、何も知らずにここに来た事には気が付いていたみたいだしな。同類を憐れむというのか。あれは」

 落ち着きを取り戻したシキは無表情のまま、雪の方を静かに顔を向けて、その金色の瞳を真っ直ぐに見つめて尋ねる。

「——雪様。……貴方は——この『旅館』にいる『客』は『何』なのですか?」

 気づかないふりをして自分を騙し続けるのは、これ以上は無理だとシキの本能が必死に訴えている。知らない事が、理解できない事が、恐ろしくて仕方がない。

「……この『旅館』は『何』のためにあるのですか?『贄』とは『何』を指した言葉なのですか?」

 次々に浮かんでくる質問をまくし立てる口とは打って変わり、シキ表情は凪いだ水面の様で、透明な瞳には雪が映っている。

「——どうして『ここ』に来るまでの道中の記憶が無いのですか?どうして『逃げる』事が思いつかなかったのですか?どうして——オバナさんの影が無くなってしまったのですか?」

 一つの問いを口に出せば堰を切った様に、今まで溜め込んでいた疑問が濁流の様に口から零れ落ちていく。

 得体の知れない『何』かによって、シキの心は限界を迎えていた。考える事を放棄するしか方法が無かった。

 混乱しすぎて、一週回って冷静を取り戻したのはシキも同じだった。

「君は……。……信じるかどうかは分からないが、俺が知っている限りで、話せる事は話すと約束しよう」

 約束という言葉が雪の口から発せられた瞬間に、部屋の空気が重くなり、すぐに元に戻る。一瞬押しつぶされる錯覚を覚えたシキは、胸を抑えて乱れた息を整えると、視線を雪へと戻した。

 雪が瞼を閉じて息をつき、再び瞼を開いた時には纏っている空気が変わり、厳かで静謐なものへと変化する。

「——最初に伝えるが、俺は『神』と呼ばれる存在だ」

 雪は穏やかな笑みを湛えて、子供にお伽噺を読み聞かせる様に言った。

「ここに居る『客』達は、『神』『妖』と呼ばれるモノ達だ。この『旅館』は俺達の様なモノ達をもてなし、対価を貰う場所だ」

 雪に膝枕をしてお伽噺を聞かせていた時、自分もこんな表情をしていたのだろうかと、シキはぼんやりと関係のない事が頭をよぎり、無意識に逃避をしていた事に気が付く。自らを叱咤して、雪の話を聞き逃さない様に意識を彼に集中させる。

「ここに来る『客』は、『旅館』と『世話役』にそれぞれ対価を支払う。労働の対価は『旅館』から『世話役』へ。そして仕事を完遂した暁には、『世話役』へ『加護』か『祝福』を授ける」

「『対価』は『旅館』から貰うと聞いていましたが……?」

「まあ、間違いではない。君やオバナの様に、何も知らぬまま、ただの住み込みの仕事だと連れてきた相手には、基本的には金銭的な『対価』が殆どだ。事情を知っている相手——君が知っている相手ではナデシコがそれに当たるな。彼女達の様な『世話役』は、基本的には金銭的には余裕があるし、大概は良い地位の親をもっている。彼女らが欲するのは、『神』からの『加護』と『祝福』だ」

 一番最初に全員が集められた時、シキの素人目にも分かるほどに、仕立ての良い着物や時計やアクセサリーを付けていた人達。

「これらがあれば、『悪いモノ』を遠ざけられるし、——分かりやすく言えば『運』が凄く良くなる。『感』が凄く良くなる。そうすれば、何をしても大概上手くいくし、政敵の排除などもし易くなるし、自然と家は繫栄する。『加護』や『祝福』はそれらを貰った本人達の物だ。災いからも逃れ易くなるから、嫁ぎ先も婿の貰い手も引く手数多だろうな」

 単純に目には見えない『何か』から守られるという事は、それだけで心の安寧をもたらすのだろう。富も権力も持ち合わせた人間達からすれば、喉から手が出るほど欲しいものだろう。

「……権力者が双方『加護』持ちだった場合はどうなるのですか?」

「——いい質問だ。政敵同士が双方『加護』や『祝福』持ちだった場合は、単純にそれらを授けた『神』の『神格』に左右される。とはいっても、本当に神格の高い神は形というか実体など無いし、通常の人間には認識すらできない。だから実体を持ってここに来ている『客』は、高くても中級の神格が良い所だろう。只人が接する事の出来る、ギリギリの境目の位だと思ってくれていい」

 ナデシコが『世話役』を代わるように、仕切りに言い募ってきたのはそれが理由だったのかと、シキは独り納得をする。序でに山伏よりも雪は神格が高いのかと、何となくまじまじと見つめてしまう。

 そんなシキの心中を察したのか、雪は楽しそうに胸を張って偉ぶって見せた。その子供っぽい仕草に、シキはクスリと小さく笑ってしまう。

「……それで、話を戻すが、『贄』というのは数合わせで連れられてきた、君達みたいの者の事を指す言葉、——隠語として使われている。基本的にここは予約制だから、半年ほど前から募集をかけるんだが、『客』と『世話役』の人数が合わない事が間々ある。『世話役』の募集が多い分には選考をして人数を絞れるが、『客』の場合はどうしようもない。定員以内であれば、基本的には予約を受け付ける。……でどうしようもない時は、数合わせで事情を知らない『世話役』を連れてくる。先に説明しないのは、単純に信じてもらえない可能性と、契約して『旅館』に連れてくるまでに逃げられると厄介だからだ」

 武器を持たずに戦場に放り出されるような理不尽な扱いに、少し緩んでいた空気が張り詰める。

「『客』は基本的には養生や気分転換、もしくは人間と接することを目的に『旅館』へと訪れる。格が高い『神』はあまり関係ないが、格が低い『神』にとっては認識され、信仰される事はそのまま力になる。信仰されなくなっても、すぐにどうこうなるものではないが、力が弱って外敵に殺されたり喰われたりするからな。死活問題だろ?『客』が『対価』を払って、信仰を得る。それが叶わなくとも、自身の存在を人間に認識させるだけでも効果はあるしな。……だが、まあ、一部の『客』は『世話役』を喰う目的で来ていたりもする」

 雪は言いづらそうに、顔をあらぬ方向に向けて視線を彷徨わせている。思わずシキはその横顔を思わず凝視する。

「……それは、カニバリズム——物理的に人間の体を肉として食べる、という意味ですか?……性的な意味での食べる、ですか?」

 どちらにしろシキにとっては死活問題だ。絶対に回避しなければならない事態だ。思わず身を乗り出して詰め寄るシキに、雪は両手の掌を胸の前で振って自らの身の潔白を訴える。

「いやいや!俺はそんな目的を持ってここに来たわけではない。……というか、君がここに連れられてきたのは、おそらくは俺が急遽予約を入れたせいだと思う」

「そういえば、教授はここの事を知った上で、私にここを勧めたわけですよね……?」

 将来の不安で独り悩んでいたシキは、迷いに迷って誰かに選択を委ねてしまいたくなってしまい、たまたま二人きりになる機会に恵まれた教授に相談をした。

「休学か退学か奨学金か迷っているなら、ここで働いてみろ。単位ならば問題ない筈だろう?」

 示されたのは想像すらしていなかった別の選択肢。半ば自暴自棄になっていたシキはその選択肢を選ぶことにした。

「……いや。俺も少し支配人から話を聞いたが、多分、煮詰まっている君への親切だと思う。ある意味、世界が変わる機会ではあるしな」

 確かにある意味では世界は変わっただろう。知らないものを見て、知らない人と接し、知らない体験をする。

 考え方がが変わる体験をした、という点では激しく同意できるのだが、行き当たりばったりな博打という点は物申したい。だが、当の本人と連絡をする手段が今現在無いために、シキは怒りを何とか持続して持って帰らねばならない。

「……その教授とやらも、この旅館で働いた事があるらしいぞ?」

 さらりと零された爆弾発言に、シキは思わず頭を抱えてしまう。優秀ではあるがマイペースで何を考えているか分からない。年を経ても若々しいままなので、『文学部の妖精』との異名すらある人物に、そもそも一般的な感性を求めるのは間違っているのだろう。

「——話を戻すが、喰うというのは所謂『魂』と呼ばれるモノを喰らう。さっき『対価』を渡すと話しただろう?この『旅館』の中では、基本的に一方的に喰らうという行為を禁止している。だから『世話役』が求めるモノを渡し、『対価』に相手の『魂』の一部を貰う。……影が無くなっていたのは、恐らくは甘葛に何かを貰った『対価』に影を奪われたのだろう」

 鮮明に甦る影を持たない人間の光景は、シキの鈍くなっていた感情を揺さぶるには十分な材料になる。シキは背筋が震えたが、出来るだけ顔には出さない様に努めながら、面のありがたみをひしひしと感じていた。

「……それは、取り戻せるものなのですか?」

「無理だな。そもそも慈悲の心を持ち合わせているのであれば、最初から奪ったりせずに『奉仕』と『信仰』を受け取る。まあ、愉快犯が偶にいて、奪ったものを気まぐれに返すという事はあるが、基本的には諦めるしかない」

 そうであって欲しいと縋る思いで口にした問いは、無情な答えで返されてしまい、シキの絶望感を更に煽る。

「君、甘葛の担当になった時に、『旅館から対価は貰っています』と答えて、何も貰うなと支配人からも忠告されたのだろう?それを言って断れば、基本的には何の問題もなく終わる。——けど、同じ忠告を受けていたにも拘らず、あの男はそれをせずに『神』から個人的な施しを受けてしまった。だからその『対価』として、影を——人間としての存在の一部を失ってしまった」

「知らない人から物を貰ってはいけませんと、小学校の時に習ったと思うのですが……」

 大人が子供の頃に言い聞かせた事だというのに、当の大人の方が守っていない事は割と多い。

「横断歩道を渡る。順番は守って横入りをしない。友達は大切にする。自分がされて嫌な事は他人にはしない。……大人って、たまに嫌になりますね」

 シキは自分は守れていただろうかと、自問自答をしながら呟いた。

「君はどうだったんだい?ちゃんと言いつけを守ってきたのかい?」

「良い子ではなかった、と思います。むしろ成長しきってから、そういう事を気にする様になった気がします。出来るだけ、自分が嫌な事は人様にはしない様に心がけています」

「良い事じゃないか。それに、誰も傷つけずに生活したのであれば、誰とも接しない様にするしかないだろうからな。多少は仕方が無いし、その辺りは折り合いをつけるのが大人だと思うぞ」

 もし、シキが自分が大人になったのは何時だと思うかと尋ねられれば、過去の自分の行動を振り返って、なんであんな事をしたのだろうと悔いて、他人に嫌われる事が恐ろしくなった時だと答える。

 人は自分の常識の中で生きている故に、自分がされて嫌な事は他人も嫌なのだろうと考えるものだ。

 だからこそ、シキはできるだけ嘘はつかない様に気を付けるし、他人の悪口を人に言わない様に心掛けている。悪口と愚痴と注意の境目が難しいと心底思う。

「嘘を吐かない様にするのは良い事だと思う。嘘ほど貫き通すのが大変なものは無い。ここでの決まりの中にもあるだろう?下手な嘘を吐いて、それを誤魔化すためにさらなる嘘を重ね続けた結果は、大概の場合は破滅だろう?お伽話でもそんな話は多々ある」

 見た目の年齢はシキと大して変わらない様に見えるのだが、彼自身の言葉通りなのだとすれば、『神』である雪は悠久の時を生きてきたのだろう。

 大人と子供というよりは、老人が子供に向ける眼差しを向けられているのではと、シキは何とも言い難い心地になってしまった。

「安易に嘘を吐いて、嘘を本当にするために代償を支払う羽目になるから、ここで『神』相手に嘘など吐くなよ。末代まで呪われたくはないだろう?」

 怯えるシキを気遣う素振りは見せるのに、所々で脅しをかけてくる雪の事が心底分からなくなってしまい、シキは小さなため息を吐いた。

「人間が覚えやすいのは命の危険を伴った記憶だろうからな。怖い思いをしておいた方が君のためだ」

 どうやらわざと脅すようなことを口にしているらしい雪は、口元を歪めてにやりと笑う。

「顔を隠すのも、先ほども言ったが縁を結びづらくする意味合い以外に、表情で心を読まれないためでもある。一応は、『世話役』が決まり事を守れば、身を守れる仕組みになっているんだ」

 支配人と同じ事を口にする雪の顔を、シキは探るようにじっと見つめる。けれど若輩の身であるシキには、雪の感情を読み取る事は出来ない。

「……彼は、オバナさんはこれからどうなるのですか?」

 その問いかけへの返答に一瞬間が空いたのは、どこまで話していいかと雪が思案したためだ。

「——これ以上喰われないように努めれば、命は助かるだろう。だが、おそらくは、帰れなくなるな」

「——帰れなくなる?」

「ああ。『魂』が欠けてしまっては、元の世界に戻って元通りの生活は無理だろう。何かで足りない分を補填する事ができれば、あるいは可能性はあるが……。それは君たちのいう『普通』の人間ではないだろうな」

 影がない人間を『普通』の人間と呼べるのか。足りない物を他から用立てたとしても、それは本人の物でない。体の部品の移植自体はそう珍しい事ではない。けれど、魂をつぎはぎをした人間を人間だと呼べるものなのか?

「——君は薄々気が付いているようだが、ここは君達が生きているあちら側と、君達が『神』『妖』『精霊』などと呼ぶ存在達が住む、こちら側との境目にこの『旅館』は建っている。どちらとも繋がっているが、簡単に移動できるものではない。——君自身、ここにどうやって来たのか覚えていないのだろう?」

 シキは苦々しそうに頷く。先ほどからしきりに旅館へ着くまでの工程を思い出そうとしていたが、旅館に着く直前までの記憶が切り取られたかの様に、全く思い出せない。表現するのであれば、気が付いたらそこにいた、というのが一番しっくりくる。

「……もしかして、ここから逃げ出す、という事すら忘れていたのはそのせいですか?」

 逃げ出すという言葉に雪の肩が僅かに揺れたが、表情は労わる様に目を細めて柔らかく微笑む。

 その微笑みは宗教絵画の様に美しく、慈愛に満ちたものの筈だというのに、シキの脳裏には、恐ろしい怪物を前にして慄く人間の絵画がちらちらと脳裏をかすめる。

「——君は覚えていないかもしれないが、ここに来る前に契約書を交わした筈だ。そこの項目に『旅館の場所を詮索しない。誰にも伝えない。任期を全うするまでは、旅館の敷地外への外出はしない』と書かれている筈だ」

 契約という話でシキは軽い頭痛を覚えながらも、ぼんやりと自分が仕事上の規約という文言に目を通す様子が浮かび、続けて契約書にサインする光景が浮かんでくる。

「事を知らずに契約した場合は、意識し辛くなっている。行動を起こす気にならないし、無意識に考えなくなっている。まあ、刷り込みや誘導に近いから、何かの切欠で意識してしまう事はあるんだ。基本的には本能的にやってはいけないと思っている事だから。——例えると、動物が火を恐れるのと近い。君だって高い崖の上から何の理由もなく、飛び降りよう何と思わないだろう?」

「強くその行為をすると覚悟していれば、可能という事ですか?」

「可能だろうがしない方がいい。ここからは逃げたとしても、道が分からないから、迷って終わりだ。下手をしてうっかり境目を超えてしまうと、向こう側へ行ってしまう。その場合、よほど運が良くて、親切な相手に見つけてもらわない限りは、ただでは済まない」

 「そんな相手は、そう相違ないと思うがな」と、雪は肩を竦める仕草をして苦笑いを浮かべている。よほどの運が無ければ、逃げ帰る事は出来ないのだろう。

 どんな修羅の国なのだと呆れるしかないシキに対し、「文字通りの人外魔境というわけだ」と楽しげに笑う雪に、シキはいっそのこと憎らしくなってくる。

「……まあ、心配しなくても、この『旅館』での敷地内での出来事であれば、ある程度は保証される。生き残れば、帰れなくなったとしても、生きるための場所や職は与えてくれる。長期間は無理だが、一時的な帰宅ができるように融通もしてくれる」

 その説明でシキはある考えにいたり、知りたいような知りたくないような、どっちつかずの気持ちに悩みながらも、勢いのままに尋ねてみる事にする。

 雪は『客』は人間ではないと明言していたため、それ以外の『従業員』達は少なくとも人間の範疇なのだろうと判断していた。

「……もしかして、ここで働いている従業員の皆さんて——」

 葉月、支配人、香月、と今まで世話になった人達の顔が浮かび、遠い事の様で、すぐに近くにある事実にシキはぞっとする。シキを横目に、困った顔で雪はうなじを触りながら何かを考えている。

 今までの話の流れからして、さほど難しい質問ではない筈だと、シキは首を傾げて雪が口を開くのを待った。何となく手持無沙汰で、シキは意味もなく掛布団の皴を伸ばしたり、枕を膝の上に載せて形を整えたりしていると、雪が答えづらそうに言葉を選びながら話し始めた。

「あー……、何というか……、個人情報だから詳しくは教えられないが……。少なくとも、支配人は元々人間だな。けど、自ら望んで人間を止めた——は語弊があるが、とりあえずは巫女や神官に近い。この『旅館』とその敷地や、境目を管理している『神』が居て、そいつに仕えている。葉月と香月もおおよそ同じと思ってくれていい。そうなる過程は個人で違うが、まあ、そこはそれこそ個人情報だから、知りたいのであれば本人に聞いた方がいい」

 支配人ができうる限りは『世話役』を守りながらも、仕事に優先に動いていたのは、彼がこの『旅館』を完全に管理しているわけではなく、いわば雇われ館長をしているためだ。元より決められた規約は、彼らにもどうする事も出来ない。出来うる限りサポートしつつも、決まりを破って被った『世話役』個人の被害までは保証は出来ない。

「……少なくともと前置きをしたという事は、それ以外の理由で働いている従業員もいる、という事ですね」

 苦笑を浮かべている雪の煮え切らない反応で、シキはそういう事なのだと理解をした。

 結局の所、シキが出来るのは、決まりを守りつつ職務に従事する事だけ。オバナの事に関してはシキには何もできないし、支配人や他の従業員達にもどうする事もできない。それ故のあの反応なのだろう。

「——あの男は君を身代わりに差し出そうとした。甘葛の目を自分から君へ向けさせて、自分は逃れようとしていた。そんな相手の心配をするのかい……?」

 雪は納得がいかないのか、整った眉を顰めて不満そうに視線をシキに向けている。その人間じみた仕草に何となくほっとしてしまったシキは、その質問に答えることにした。

「見返りが欲しくて、彼を助けた訳ではありませんから。全ては自己責任ですから」

 元々彼をあのまま放っておいて何かがあったら、シキはあの時に行動していればと、ふとした瞬間に思い出して嫌な気分になるのが目に見えていた。

「——と、ここまでが綺麗事です。正直な所を言いますと、自分の身を危険にさらしてまで救いたいとは思っていません。結局の所、一番優先するのは自分の命、身の安全。何も損なわずにここから帰る事です」

 子供の頃、物語の中で仲間を見捨てた登場人物を酷い人だと責めた事がある。けれど、今その物語を見た時、仕方がない判断だったと思ってしまう。

 何もできない状況下で逃げる事が悪いとは、到底思えない。一緒に殺される状況下で、逃げて一人でも被害を減らす事の何が悪いのかと。さすがに逃げる際に、故意に囮にでもされたりすれば怒りも湧いてくるが、隠れて見ているという選択肢ならば、それを責める事もできない。

 たまに、圧制者に傷つけられながらも従い続けるのを見て、「何故立ち上がらないのか」「戦わないのか」と訴える主人公がいるが、それを言えるのは彼らが強いからだ。肉体的にでも精神的にでも、知力が高く作戦を練る事ができたりと、現状を打破するだけの能力があってこそ言える台詞だろうと。

 魔王を倒すために、勇者が旅立つのは何のためなのだ。村人に王国の騎士に倒せるほどの力があれば、わざわざ彼が来てくれるのを待ったりしない。

 ……力が無い者の言葉は戯言と同じで、誰も聞きはしない。訴えを耳にさせるだけでも、それ相応の力が必要となる。

「——もし、私が彼と同じ立場になったとしたら……。彼と同じように、自分の命を守るために、誰かを犠牲にするかもしれない。……しないと言い切れるほど、私は聖人君子ではない。私は力も無ければ度胸も無い。怖いものから逃げるし、他人を救うために飛び出せるほどの博愛精神も持っていません。苦しいのも、痛いのも、怖いのも、嫌いですから」

 人は自分の力量を察して、出来る事と出来ない事の分別が付くようになる。そうして自分は天才でも特別でもないと気が付き、——言い方は悪いが、社会の歯車として、替えの利く有象無象の一人でしかないと悟る。

「——そうして命が助かったとしても、きっと罪悪感で苦しみ続けるのだと思います。……本当に、どこにでもいる一般人以外の何物でもない」

 穏やかな表情でシキは口元に笑みを浮かべる。

「実際問題、私は被害を受けていませんから。これで何か損害を受けていたら、普通に怒って責めるのでしょうが、切羽詰まって助かりたいと思って行動した彼に対して、文句や思う所はありますが、それ以上でもそれ以下でもない」

 責めた所でどうしようもないと、シキは悟っていた。自業自得の部分があるにしろ、一番被害を被っている当人に、大した被害を被ってはいない第三者が責めるのは違うと思っている。

「君がそう思うなら、それで良いと思う。……少なくとも君は、一般世間でいう所の善良な人間だと思う」

 オバナの事をどうこうする気はシキには無いし、そんな気概も能力もない。だからこの話はここで終わらせるしかない。

「夕餉の前になったら起こすから、それまでもう少し休むといい。——明日からは、日課の散歩に付き合ってもらいたいしな」

 そう雪は言ってはくれたものの、客室で堂々と眠れるほど神経は図太くはないので、シキは断ろうとしたのだが有無を言わせることなく、雪に両肩を掴まれて後ろに押されると、あっけなく布団へと逆戻りとなった。

「最初に言った通り、これは俺の趣向だから付き合ってもらう。眠れなくても、せめて目をつぶって横になるだけで随分と違う」

 ふかふかの布団のおかげで、倒された衝撃は殆ど無い。雪はさっさと掛け布団をシキにかけて起き上がるのを阻害する。

 すると、仕事の一環だと言われた事もあるが、誰かの傍で眠るという行為をするのが久しく、一人ではないという事が、シキをゆっくりと微睡みの中へと誘っていく。

 雪はそれを促すために、シキのお腹を布団の上から優しく一定のテンポで優しく叩く。

 自分で思うよりも精神的に負荷がかかり、それに伴って身体的疲労が溜まっていたため、シキは睡魔に抗う事も出来ずに眠りへと落ちていった。


 恩は財産だとシキの祖母は語っていた。

 祖父は人の面倒を見るのが好きで、地域の役員に進んで立候補して、イベントごとなども率先して引き受けて、沢山の人から感謝をされていた。

 家にはその時の感謝状が、いくつも額縁に入れられて飾られていた。

 困っている人を助け、仕事の面倒を見たりと、大勢の人に頼りにされて慕われていた。

 けれど、祖父は他人を助けたが、血の繋がった家族を顧みる事は無かったせいで、その負担は家族へと伸し掛かっていた。

 シキが子供の頃に祖母から聞いたとある話がある。知人がお金に困り、持っていた山を買ってくれと頼んできた。祖父は他から借金をして、その山を買ってあげたのだと、祖母は自慢げに語っていた。

 けれどそれを聞いたシキは、祖母の神経を疑った。他人を助けるために、借金をして山を買う。家に財産があって、それからできる範囲で知人にお金を貸すのであれば問題はないだろう。だが、家にお金が無いというのに、他人を助けるために他から借金をした挙句、所有するだけで税金がかかる山を買い取った。

 おかげで父は出張が多く、いつも忙しそうに働いていた。シキは子供ながらに、他人のために、どうして肉親が犠牲にならなければならないのだと、ずっとおかしいと思っていた。

 恩は財産だと言うけれど、それを商売に活かして人脈を広げることもせずに、ただひたすらに負の遺産を増やして、それを家族に残して亡くなった祖父をシキは到底尊敬する事は出来なかった。

 恩を受けた相手が、それを恩だと思わなければ何の意味もない。何の価値もない。 

 恩というものは、記憶と同じように時間と共に劣化していく。それを直接受けた人間がいなくなればそれまで。縁者に恩を返せと言っても、何の話だで終わる。

 結局は恩というのは、相手との良好な関係性あってのもの。

 恩を売るために人を助けるという行為自体が、相手に見返りを求めた時点で、それは善意ではない。

 なあなあの関係で済ませたがために、どうにもできないまま、結局祖父母が亡くなり、それが今になって負の遺産となって、シキの家族たちを苦しめる事になった。

 自分の面倒を見る事が出来ない人が他人の面倒を見た結果に、シキは呆れるしかなかった。

 雪はシキの事を善良だと言ってくれたが、シキからすれば、自分はただ悪人になりたくないだけ。他人に迷惑をかけたくないだけの人間で、世の中にあふれかえっている。

 そんな風にしか考える事ができない自分の事が、シキはあまり好きになれない。

 けれど、ふとした瞬間に、思ってしまうのだ。

 ——自分の悪い所も良い所も、自分を理解してくれる誰か。ありのままの面倒くさい自分を受け入れてくれる誰かは、どこかにいないのだろうかと。

 一生に一人だけでいいから、そんな誰かに出会う事が出来れば、きっとその一生は幸せなのだろうと。


 約束通りに夕飯より一時間ほど前に、雪は揺り起こしてくれた。おかげで、シキは疲れを取った上で身だしなみを整える事が出来た。

 すぐに動かない方が良いという雪の申し出を断り、シキが自分が使用した布団を畳んでいると、葉月が楓の間を尋ねてきた。

 襖の向こうからかけられた声に雪が返事をすると、葉月が部屋の中へと入り雪に頭を下げて一礼をする。

「——雪様。お食事の用意ができました。お部屋にお運びしてよろしいですか?」

 布団を押し入れにしまい終えたシキは、いそいそと葉月の隣に座り直して頭を下げる。やはり客室で寝ていた事がいたたまれずに、いつもと変わらず振舞う事で、調子を取り戻したいと思っての行動だった。

 その辺りを察している雪と葉月は仕切り直しだと、いつも通りの行動をする。そして、シキは表情を見られない様に深々と頭を下げる。

「……所で雪様。度々ご迷惑をおかけして申し訳ございませんが、……私がしていた面はどこにあるのでしょうか?」

 遮るものが無いため雪を直視する羽目になり、シキは慣れない状況での接客に緊張が酷く、作り笑顔を浮かべるのが上手くいかずに困っていた。

「……あー。その辺に置いておいたと思うが……」

 雪は辺りを見回したが、周囲にそれらしいものは無いのは明白で、シキは横目で葉月に伺いを立ててみる。

「この場合は仕方がないですね。お食事が終わった後に、予備の物をわたしが取ってまいります。——雪様。少し表情が硬くなってしまいますが、知っての通り体調不良ですので、ご容赦願います」

 面をつけずに外をうろつくのは良くない事なのは、流石にシキでも察しがついたので、泣く泣く断念して雪に再び頭を下げた。

 この日の夕餉は天ぷらうどんで、雪が食べたくなって頼んだの事だった。昆布と鰹節でとられた出汁が注がれた器に、白く艶やかでコシが強い麵は触感が良さそうで、食欲をそそる。

 エビ、イカ、レンコン、サツマイモ、カボチャ、シメジ、シイタケ、マイタケ。数種類の野菜とさくらえびのかき揚げなど、様々なサクサクの天ぷらが大皿に丁寧に並んでいる。

 薬味も様々並び、好みに合わせ組み合わせられるようなっている。

 とても美味しそうなうどんではあるのだが、器と箸の数が三つ並んでいる事に、シキは首を傾げる。だが、三という数で理由を察して顔を上げる。

 何時もよりも入り口側に寄って座っている雪の前に一つと、彼と一人分の間の空いけて横と、彼から見て入り口側の斜め前にそれぞれ一つずつ。

「君、朝に食べたきりだろう?せっかくだから、俺と君と葉月とで食卓を囲もうと思ってな。天ぷらが無理そうなら、俺が食べるから無理のない範囲で食べるといい」

 確かにシキの胃の中は空っぽで、体がしきりに空腹を訴えている。頭がぼーっとするのは体調不良だけではなく、活動するためのカロリーが不足しているせいだという事は、本人が一番よく分かっていた。

 困惑するシキを置いてけぼりにして、葉月が斜め前の席に座ってしまったため、雪の隣の席に座るしかない。

 せっかくの行為を無下にするのも悪いし、断る気力も湧いてこないので、シキは早々に諦めて雪の隣に少し間を開けて座る。

 目の前に置かれたどんぶりの中には、つやつやのうどんが薄く醤油で色づいた透き通るだし汁の中に沈んでいる。

「言っておくが、これは旅館からの心遣いだ。俺が用意したものではないから、君の正当な取り分だ。俺が君に何か求める事は無いし、君は明日から今まで通り働いてくれればいい」

 シキの瞳が不安そうに揺れていた事に気が付き、雪がすぐに説明をして、葉月も小さく頷いて安全を保障してくれたおかげで、シキは素直に空腹を訴える本能に従う事にした。

 運ばれてきたうどんはコシがあって、食べ応えは十分だ。なみなみと注がれた出汁の優しい風味が味を更に高めてくれる。温度も丁度良くて、体を温めて体温を上げる手伝いをしてくれる。

 天ぷらはサクサクの衣と素材本来の旨味と触感が口の中で広がり、いくらでも食べられそうな錯覚に陥る。

 半日以上使用されていなかった胃だったが、美味しいものを目の前にして、すっかり調子を取り戻してくれた事に感謝しつつ、シキは天ぷらうどんを堪能した。

 寮の食堂で出される食事は、素材も作る料理人も客に出されるものと全く同じだ。客に出す物の味を知らないのは失礼だという建前と、労働の合間に美味しいものを食べて英気を養って欲しいという支配人の心遣いにより、この旅館で働く従業員達の楽しみの一つになっている。

 『世話役』達も同じように料理人が腕を振るった食事をしている。もちろんシキも美味しいと思って食事を口にしていたが、今食べた天ぷらうどんが、この旅館で食べたものの中で一番か二番目に美味しいと思った。

 少し前に三人で食べた食事も、雪と散歩がてら食べたお弁当も、同じぐらい美味しかったと思い出しながら、シキは手を合わせて「ご馳走様でした」と口した。ふと視線を隣で同じように手を合わせる雪に向け、ゆっくりと出汁を飲んでいる葉月を見て、何故美味しいのかの理由が分かってしまう。

 ……ああ、自分は寂しかったのか。

 環境に慣れるのに精いっぱいで、得体の知れない何かに怯えて、それらを周りに気づかれないようにと、必死に自分の中で押し殺していた。その時に、一緒に寂しいという感情も抑え込んでしまっていた事に、シキは漸く気が付いた。

 親し気にしてくれる雪や葉月、気にかけてくれる支配人の事を疑いながらも、彼らの傍にいる事を選んでいたのは、自分が寂しくて誰かと共に居たいと思っていたからだ。

 一人でいる事に慣れていても、家族のおかげで本当の意味で一人ぼっちになった事がなかったシキには、この旅館での孤立に知らない内に疲弊していた。

 人と一緒に食事の美味しさを思い出してしまった事で、シキは家族の事を思い出して、胸の奥が温かさと寂しさで一杯になってしまう。

 しばらくの間、顔を俯けて表情を二人に見られない様にして、傍にいる二人の料理の感想と世間話に耳を傾けていた。


 食事の片づけが終わり、日課となった膝枕をしながら、シキはぼんやりと縁側から見える外の景色を眺めていた。

 石で作られた灯篭に灯された明かりが、ぼんやりと紅葉の庭を照らし出す。昼間の鮮やかな赤色とは違う、暗闇の中で淡く揺れる赤色は落ち着いていて柔らかだ。紅葉の間から覗く月は、優しい光を纏い暗い闇の中に浮かんでいる。

 何度も見た光景だというのに、心根一つで見方も感じ方も違ってくる事が、シキに新鮮な驚きをもたらしていた。

 やっぱり溜まっていたものを全て吐き出した事が良かったのだと、シキは雪をちらりを見る。面をしていないため、彼と近距離で顔を合わせるのが恥ずかしい上に落ち着かないので、膝枕をしてから一度も視線を向けていなかった。

 雪は膝の上で仰向けになり、目を閉じて穏やかな顔をしている。眠っていないのは何となくシキにも分かっていたが、口を開かずに黙ったままの雪は本当に人間味が薄い。

 実際に雪は神らしいので、人間ではないのだが、日頃はよく話し、表情がよく変わり、飄々としていて、生命力に溢れている。

 だが、黙って静かに横たわる様は、その儚く美しい容姿と纏う雰囲気が無機質だ。まるで、自然の作り出した景色を眺めている様な錯覚をしてしまう。

 神は自然の化身のような物らしいので、シキがそう感じるのはおかしな事ではないのかもしれないと考えていると、不意にとある疑問が浮かび上がってきた。

「——雪様。お休み中の所大変申し訳ないのですが、一つ尋ねてもよろしいでしょうか?」

「……ああ。構わない」

 雪は目を閉じたまま微動だにせずに、口だけを動かして返事をした。雪が目を閉じたままでいてくれた事にほっとしながら、シキは彼の瞼の下にある金色の瞳と、今見ていた月を重ねながら尋ねてみた。

「雪様の金色の目と白銀の髪。かなり珍しいですよね。——というよりは今まで会ったこ事が無いのですが、どうして私はそれを変に思ったり、驚いたりせずに普通に受け入れていたんでしょう?それもやはり……」

 雪ほどの綺麗な容姿をした人間にはそうはお目にかかれないが、金色の目など、一般人が会う機会など殆ど無い。

 というよりは、金色としか表現できない瞳の色はあるのだろうか?と考え込んでしまう。髪の方は色や光加減や鬘などで、再現する事はそうは難しくはない。目もカラーコンタクトという方法はあるが、雪の瞳も髪もすごく自然で違和感を感じない。

「——君が黒い髪と瞳をしていておかしいと思わないのと一緒だ。俺はこういうモノとして作られているからな。後は君の予想通りで、契約の影響だな。いちいち容姿で反応を変えられては困るからな。そういうモノとして自然な光景だと思い込ませている」

 何でもない事の様にさらりと答えた雪に、シキは改めてまじまじと見つめてしまう。まつ毛や眉毛なども髪と同じ色をしていて、髭が生える様子など全くない滑らかな白い肌。背はそれなりに高く骨格自体は男のものだが、それがなければ女だと思われてもおかしくはない。

 喋れば声ですぐに男性だと分かるのだが、中性的過ぎて、ぱっと見の外見だけではそれぐらいでしか判断材料がない。

「……所で、そろそろ寝物語でも話してはくれないか?」

 雪からの切実な訴えに、シキは苦笑をして気分を変えるために、それに応える事にする。そろそろ全く違うお伽噺をしようと思っていた所なので、シキは多少の皮肉を込めて言葉を紡ぎ始めた。

「——ではギリシャ神話のゼウス神が、あちこちでやらかした話でも……」

 それは数日にわたって語られ続ける、欲に忠実な神様がやらかして、迷惑を被った被害者達の話。

 ——少なくとその間、シキの周りで騒動はなく、穏やかな時が過ぎていった。


 その日の朝、シキはいつもの様に朝食をとるために自室を出た。そして部屋を出てすぐに、周囲に漂う張り詰めた空気に気が付いた。

 元々知人同士で群れていた『世話役』達が、いつもよりも大きな群れを形成して、しきりにひそひそと囁き合っている。女性達よりも比較的単独行動が多かった男性達も少人数で集まって、強張った表情で怯えて、きょろきょろと周囲の様子を窺っている。

 当初からの知人以外と距離を取る露骨な態度ではなく、お互いが身を寄せ合って大きく見せて敵を威嚇する魚の群れの様だと、シキは顔が隠れているのをいいことに、堂々と布越しに観察をしながらそんな感想を抱いた。

 群れる相手のいないシキの様な一般人達は事態が呑み込めずに、異様な雰囲気に怯えるか、ここ半月ほどで出来た知人達と共に行動しているかのどちらかだ。

 シキも何とも言えない、じめっとした重い空気が肌に纏わりつく様で、朝から気分は降下する一方だった。

 食堂は何時もよりも人の密集率が高く、がやがやと騒がしい。いつもならば食事が終わればさっさと退室する人達も残り、就業時間までの空いた時間を食堂で過ごしている。

 それだけの密集していれば、人同士の距離も自然と近くなる。いつもならば聞こえない声量だったのが、この日は嫌でもシキの耳に入ってきた。

「……そう。あの騒いでいた人。オバナ、だったけ……。うん。行方不明みたい。…………違うよ。食べられた訳じゃないみたい。……そう。……影を取られた後は、取り返そうと躍起になって、余計に色々取られてたみたい。そう……。ほとんど変化はなかった。だから一日で……。逃げるのは無理。荷物も……いた……い。…………だよね。帰り道なんて分からない。敷地外に出たらすぐに分かるらしいし。…………多分、『旅館』の中の誰かだろうね」

 複数の人間の声が入り乱れて会話をしているせいで、少し聞き逃した部分もあったが、シキはオバナの身に何かあった事だけは理解した。

 シキが倒れた日の後、彼はオバナと何度かすれ違う事があった。言葉を交わす事はなかったが、軽く会釈をする程度には顔見知りになっていた。影は無く、顔色は悪いままだったが、目に生気が戻り、しっかりとした足取りで歩いていた。

 顔見知りというだけの相手だったとしても、行方知れずというのは気分は良くない。知っているというだけで、そこに何らかの繋がりはあるものだ。それが無くなってしまい、胸に小さな傷を残したまま、些細な時にふと思い出して、そして少しずつ忘れていくのだろう。

 食事を終えたシキは食器を片付けて返し、さっさと食堂を出て自室へと向かう。

 廊下は人気は無く、食堂の方からの喧騒が遠い。廊下にはシキの小さな足音をかき消す音が無いせいで異様に響く。

 静寂の中を歩いていたシキは、とある廊下の隅で足を止めた。そこは少し前にオバナが蹲っていた場所。掃除が行き届いているため、そこには埃一つなく、もちろんオバナの姿もない。

 小さな音がしてシキが外の景色に目をやると、ぼつぼつと小さな雨粒が曇天から落ちてくるところだった。地面や屋根や植木を叩く雨粒の数は増えていき、やがて滝のような豪雨へと変わっていく。

 その頃になると雨の幕に覆われて、外の景色は霞んでほとんど見えなくなっていたが、シキはその光景をぼんやりと眺めていた。

 不意に誰も居ない筈の虚空から気配を感じて、シキは我に返った。恐る恐る気配の方を見るが、がらんとした人気のない廊下が続いているだけだ。

 奥へと伸びる空間には動くものはいない。ガラス越しに聞こえる雨音と風の唸る音が酷く遠く感じられる。

 やがて、食堂の方の喧騒が動き始めると、その気配は胡散して消えてしまった。

 恐怖で強く脈打つ心臓の音を聞きながら、シキは必死に気のせいだと言い聞かせながら、小走りでその場を後にした。

 今日はさすがの雪も外出はしないだろうとシキは考えていたのだが、驚く事に雪は早朝に一人で外出をしたらしく、葉月も豪雨の中を心配そうに見つめている。

 シキが倒れた日以降も、結局、葉月は何も尋ねてこなかった。だからシキもあえて何も聞かずに、今まで通り接するように心掛けた。

「傘は持っていなかった筈……。迎えに行った方が良いのだろうけど、この雨の中で人探しをするのは危ない。一度、支配人に意見を聞きに行きましょう」

 葉月の提案で、シキ達は一旦支配人のいるであろう執務室へと向かう。

 外の滝の様な土砂降りの雨を見ながら、楓の葉が全て散ってしまわないのだろうかと、シキは雨水に浮かぶ落ち葉を見て物寂しさを感じた。

 執務室は来客中だったのだが、葉月が襖越しに声をかけると、あっさりと入室の許可が出た。

 葉月とシキが部屋へと入ると、来客用のソファーに向かい合う形で、支配人と甘葛が座っていた。支配人の顔色は悪く明らかに疲弊している。対照的に甘葛は数日前に見た時と変わらずに、にこにこと人の良さそう微笑みを浮かべている。

 部屋の中の空気は剣呑としていて、その空気の中で綺麗な微笑みを浮かべている甘葛が際立ち、異質な存在感を纏っていた。

「——やあ。久しぶりだねモミジさん。元気そうで何よりだよ」

 甘葛はシキの姿を捉えると、嬉しそうに目を細めた。笑っている様に見えるのに、その目に宿っている感情は、どろりとした粘着質な何か。シキは一瞬で鳥肌が立ち、一気に冷や汗が噴き出してきた。

「——先ほども申しましたが、『世話役』は最初についたお客様が最優先となります。ですので甘葛様のご要望は応えかねます」

 支配人は毅然と言い返しながら、疲弊していても気難しそうな、いつもと変わらず精悍な顔つきで、甘葛の事を見据えている。

 支配人が折れる気が無いと察したのか、甘葛は肩を竦める仕草をして苦笑を浮かべる。

「分かったよ。無理を言ってここを出禁にされるのも困るからね。……でも、わたしは食べかけだったんだよ?」

「……分かっております。それに関しては『旅館』側の落ち度です。今回のご宿泊の対価は一切頂きません。今回は、それでご容赦願います」

 そういって深々と頭を下げた支配人は立ち上がり、葉月の方を見る。葉月は支配人と視線を合わせてその意図を察して、襖を開けて甘葛の退出に合わせて彼女自身も部屋を出ていった。

 端によって道を譲ったシキを見て、甘葛はにっこりと笑みを向けてきた。その笑みを目の前で見たシキの背筋が凍り、呼吸が止まってしまう。

 甘葛が立ち去って足音が聞こえなくなってから、ようやくシキは金縛りから解放されて、止まっていた呼吸が再開される。それと同時に、体を支えていた筈の足から力が抜けて崩れ落ちる。

「……大丈夫か?とりあえずゆっくりと深く呼吸をしろ」

 座り込んで動けなくなってしまったシキを心配して、支配人が声をかけながら背中をさすってくれたおかげで、シキは何とか自分で動けるままで回復した。

「……ありがとうございます。も、もう、大丈夫です」

 よろけながら立ち上がったシキを支配人が支えて、先ほど支配人が座っていたソファーに座らせた。

 シキは深々とソファーに座り、乱れた呼吸をゆっくりと整えていると、眼前にスプーンが添えられたカップが突き出された。おずおずとそれを受け取ったシキは、手の中のぬくもりにほっとして溜息を吐く。

 以前に貰ったアップルティーとは違う、柔らかい香りのお茶にそっと口をつけた。香り高い紅茶の香りと共に、果実由来のほのかな甘みと風味が口の中に広がる。カップの底には、リンゴやモモなどを小さく切った果実が沈んでいる。

「香月が差し入れに持ってきた紅茶だ。インスタントとは違って強くはないが、新鮮な果物の香りを嫌うものはそうはいないだろう」

 ちゃんと紅茶葉を熱湯でしっかりと蒸らして抽出した紅茶に、リンゴ、モモ、ナシなどの果物を角切りにして沈めたものだと、支配人は棚に置かれた保温機能の付いた水筒をちらりと見た。

「……言っておくが、契約上、旅館から『世話役』に提供される物は、報奨の一部と明記されている」

 水筒を見た横顔が一瞬緩んだが、すぐにいつもの気難しそうな表情へと戻り、シキの向かい側の席へと座る。

「——雪様から『旅館』と『世話役』と『客』の話は聞いたな?」

 支配人は回りくどい事は不得手だと捕捉しつつ、強い眼光でシキを見据えている。ごまかすつもりのなかったシキは素直に頷く。

「……そうか。……悪い事をしたな。基本的に、数合わせの『世話役』達にはベテランの優秀な者を宛がう事にしているんだ。良くも悪くも彼女らは経験豊富だ。人の感情の機微に気が付きやすいし、精神力が強い。ちょっとやそっとでは動揺しないしな。……さすがに今回の事態は予想外すぎた。香月は非番にして、甘葛には別の従業員に就いてもらっている。元々面倒見のいい性格をしているんだ。心は強いが、傷つかないわけではないからな……」

 香月の事を慮る支配人にも疲労が蓄積していた。思考力は落ち、支配人としての顔を維持するのが難しくなってしまい、時折、眠たそうに眼をこする仕草はどこか幼い。

 疲労も相まって、彼自身も自分の限界が近い事を理解している。だからこそこうして、シキに吐露する事で、何とか自分の心を維持しようとしている。

 葉月や香月、他の従業員達は、これからもここで共に生きていくのに比べて、シキはあと半月程度の付き合いと決まっている。そしてシキの性格上、他人との関係を悪くするような行動をとらないと判断した人選だ。

 その場限りの相手だという事が大きいのだろうと、シキは黙って紅茶を飲みながら、支配人の話を静かに聞いていた。

「オバナもようやく立ち直って、今後の身の振り方を考えている矢先だったからな。香月はそれを素直に喜んで相談に乗っていた」

「……顔見知り程度でも思う事はありますから。面倒を見ていたのであれば、なおの事……」

「……ああ。慣れないものだな。——いや、これで良いんだろうな。慣れてしまったら、それこそ人間離れしてしまう」

 支配人はカップの底に沈んでいた果物をスプーンですくい口に運ぶ。シキもそれに習ってスプーンを手に取る。熱い紅茶の中に沈んでいた果肉はゆっくりと火が入り、とろりと溶けるように柔らかく、薄くなった甘みと風味と共に紅茶の香りが広がる。

 シキはお腹に優しそうだと思いながら、時間を惜しんでインスタント食品ばかり口にする支配人の事を心配して、香月がフルーツティーを入れてきた意図を何となく察した。

 押しつけなどではなくお互いを思い合える関係性を、シキは好ましいと思う。だから支配人達はここで働いているのだろうかと、シキは少々踏み込んだ質問をしてみる。

「……支配人は、望んでこの職業についたと聞きました。何故、この仕事を?」

 唐突だとは思ったが、自ら望んで難しい仕事に就いた支配人達は、何を思っていたのだろうと、尋ねたい衝動に駆られてしまった。

 歩く道の見えないシキにとっては、道を見据えて真っすぐに歩く彼らが羨ましく思えた。

 それとなくシキの家庭事情を知人から聞いていた支配人は、彼の質問の意図を理解していた。今回の騒動に巻き込んでしまった事と、愚痴を吐き出す先に選んでしまった事に対する詫びの意味を込めて、真摯に応える事にした

「ここは、元は俺の家系が代々継いできた宿だった。だが、まあ……、時代の流れというものなのだろうな。けど、俺はこの旅館と土地が、故郷が好きだった。失われるのが嫌だった。——だから、『神』と取引を交わした」

 シキの話しぶりから、自分の事を大まかに聞いたと判断したうえで、支配人は必要な部分だけをかいつまんで話していく。

「それで、『神』が管理するこちらの場所に、建物ごと移築した。ああ、ちなみに、色々あってな。建物も雰囲気も違うが、宿もちゃんと元の場所で営業を続けている。いつかそちらも客として利用するといい。あちらは俺の兄弟が跡目をついで、その子孫達が営業している」

 支配人はこの『旅館』が好きで、故郷を大切にしていた。だからこそ、彼はこの仕事に就いたのだと口元に柔らかな笑みを浮かべた。

 迷う事も、苦しい事も、悲しい事も、後悔する事もあるが、彼はそれらを抱えて、ここで支配人を続ける。

 その覚悟ができるほど、彼はこの『旅館』が好きなのだろうと、シキは支配人に尊敬と畏敬の念を抱いた。


 葉月が戻ってきたところで支配人には会話を止めて、再び棚の傍へと向かいフルーツティーを注いで、葉月に手渡してシキの横に座らせる。

「ご苦労だった。序でに言えば、甘葛様との話を切る隙を与えてくれた事に感謝をする」

 戻ってきた葉月を労わりながら、支配人は苦笑を浮かべて本題へと入って行った。

「——さて、聞いての通り、甘葛様を担当していた『世話役』のオバナが行方知れずとなった。原因は確証は無いが、おおよそはついている。だが、滅多にない事態なのも確かだ。葉月達は覚えがあるだろうが、比較的新しい従業員達は資料として目を通しただけの話だ。不測の事態に備えつつ、通常通りの営業を続ける」

「それは良いのですが……、原因の排除はすぐには出来ない、という解釈でよろしいですね?」

 その問いに支配人は苦々し気に頷いた。彼からすれば原因が分かっているのに、排除出来ずに手をこまねいている状況が許せない。だが、どうしようもないのも事実だろう。

 『世話役』であるシキがいる前でそれを口にしたという事は、他の『世話役』達にも伝わっている。今更、隠す意味が無いという事を安易に示していた。

「——で、お前達がここに来たのは、雪様の事だろう?」

 支配人はシキ達が執務室を訪れた理由に察しがついているのか、要件を早々に切り出してきた。

「——その件についてだが、恐らく、雪様の散策については、今後は殆ど無くなると思って構わない。通常の『客』と同じ予定で今後は動くようにしてくれ。……迎えは行かなくていい。むしろ行くな。二次被害が起きるだけだ。本人が戻ってきた時のために、タオルや着替えやら、濡れた廊下の掃除やらをする準備だけしておけばいい」

 たまに雪に対しておざなりになるのは、それなりの付き合いがあるからだろうとシキは勝手に考えていた。だが、深くため息を吐いた支配人を鑑みるに、似たような事を過去に何回かやらかしているのかもしれないと、心の中で支配人に応援の言葉を送った。


 支配人の予想通り、土砂降りの雨の中、傘を差すことなく帰ってきた雪は散々たるありさまだった。全身ずぶ濡れで、彼の歩いた後は水たまりができるほどで、とりあえず来ていた上着を脱がして預かり、バスタオルで大雑把に水分を取り、即刻湯舟へと向かってもらった。

 幸い予約制の小さい方の浴場が空いていたので、前以ってお湯を張り、雪が入ったのを見計らって着替えとバスタオルを用意しておいておき、脱いだ服を回収して洗濯場へと運ぶ。上等な着物のため、素人が洗濯することは出来ないので、それ専門の能力を持った従業員がどうにかしてくれる。

 シキは濡れた服を預けた帰り道、廊下の端でナデシコと女性の従業員と山伏が立ち話をしているのを見かけた。ちらりと山伏と従業員がシキの方を見て、山伏は軽く手を挙げて挨拶をしてきたので、シキも軽く頭を下げて挨拶をしてから、ナデシコに見つからない内にその場から立ち去る。

 シキと葉月で水浸しの廊下を二人がかりで掃除に取り掛かり、終わった頃に風呂上がりの雪が声をかけてきた。

「面倒をかけてすまない。出先で降られて近くの東屋で雨宿りをしていたんだが、止む気配がないから、これはもう諦めるしかないなと思ってな」

 この『旅館』は基本的に携帯端末の類は持ち込みが禁止されている。圏外になるので外部との連絡はできないのだが、そもそも電波が入るかどうかという疑問を置いておく。そもそも『世話役』と『指導役』が『客』に付き添うのも、不測の事態が起きた際の連絡係の意味もあっての事だ。単独で外出していた雪には、自分の居場所を知らせる手段がない。

 今なお、滝のごとく降り続く雨と、雨で霞んで見える分厚い灰色の雲を前にすると、雪の判断は正しい。だが、場所によっては、それこそ大事になっていた可能性もある。

 色々な事情を加味すると、非難も褒める事も難しいため、シキはとりあえずは笑って流す事にした。

 掃除が終わったので楓の間に戻ったのだが、雪が髪を乾かすのを面倒くさがって放置していたため、葉月が少し早い昼餉の準備をしている間に、シキがドライヤーでしっかりと乾かした。

 雪の髪は艶があり、サラサラで指通りも良く、キューティクルへのダメージも見受けれらない。これも神と人の差なのだろうかと、シキはちょっと興味がわいてしまう。

 髪を乾かし終わった雪が寛ぎ始めた頃には、料理の配膳はほとんど終わっていた。シキは手伝えなかった事を葉月に謝罪してから、備品のドライヤーを元の位置に戻しに部屋を出た。

 基本的には『客』が泊まっている本館の方の廊下では、騒いだり無駄な私語をすることは少ないのだが、この日は従業員達が必要以上に気配を潜めている様に感じて薄気味が悪い。

 人気がないだけでこんなにも空気が澱むものなのかと、シキはじめっとした纏わりつく空気に眉を顰めた。

 次の瞬間に、シキは背後で空気が動いたのを肌で感じ取り、反射的に振り返った。だが人気は無く、真っすぐに伸びた空虚な空間があるだけ。

 シキは暫くの間、廊下の端の壁を眺めていたが、動くものが無い事を確認してから過敏になりすぎだと自身に呆れてしまう。そんな油断していた折に、突然背後から声をかけられたシキは大仰にビクッと反応してしまう。

「!……ごめんなさい。驚かすつもりはなかったの」

 振り返った先にいたのは香月で、彼女は逆にシキの大きな反応に驚いていた。

「……いえ。私の方こそ、すみません。少しぼーっとしていたようです」

「……そう。何ともないのであればそれで良いのだけれど……。あまり一人で出歩くのは良くないから、出来るだけ葉月さんと一緒にいた方がいい」

 前に見た時よりは少し顔色が悪く覇気が無いが、一見すればおかしな所はないようで、シキは内心でほっとした。

「はい。ご心配をかけて申し訳ありません」

 香月に礼を言ってから分かれ、シキは再び楓の間へと向かう。遠くで誰かの声がした気がしたが、気のせいだを言い聞かせながらその場を後にした。


 その日はずっと雨ふりだったため、雪は部屋でのんびりと寛いでいた。シキもそれに付き合い、出来るだけ部屋にいた。たわいのない話をしたり、トランプを雪と葉月と三人でしたりして過ごした。

 余談だが、葉月は異様に記憶力がよく、神経衰弱などは彼女が圧勝。ポーカーやブラックジャックなど、運や感が関わる要素が強い場合は雪が圧勝していた。

 結果としては、シキは偶に引きが良い時に何とか数回勝てただけだった。

 葉月は時折、部屋から出て、少ししてから戻ってくる事が何回かあったが、それ以外は基本的に楓の間に滞在していた。

 夕餉は薬味と共に盛られたカツオのたたきと、とろとろのナスの煮びたし、里芋の煮っころがし、レンコンと野菜のサラダ、栗ご飯など。

 毎回料理のメニューを考える料理人は凄いなと、シキは雪の食事風景を眺めながら思った。

 ……そういえば最近は雪が晩酌をしていない。不意に気が付いた些細な事が気になるのは、やはり気が高ぶっているせいかと、シキは首を傾げた。

 葉月の入れた食後のお茶を飲み終えると、日課の膝枕をして、最近続いているギリシャ神話の物語を始める。

 嫉妬に狂った女神のせいでとばっちりを受けた人間は、かなりいるので話のレパートリーはそれなりに多い。

「当人は悪くないのに、とばっちりで動物にされたり、星にされたり、迷惑極まりないですよね」

 人よりも容姿端麗に産まれたがために、神に見初められ、挙句嫉妬に狂った妻によって呪いをかけられる。当人も迷惑だが、親しい家族に呪いをかけるのはえげつない。

「浮気がばれた時に、男は女を責めて、女は浮気相手を責めるとは言いますけど、知らない間に恨みをかって呪われるのは理不尽すぎます」

 そんな感想に、雪は目を瞑ったまま苦笑をした。

「そりゃあ、神は理不尽だろうさ。自然災害と同じで、運が悪かったとしか言えない事も間々ある。もちろん約束を守る神も沢山いる。けど、問答無用でちょっかいをかけてくる相手が居るのも事実だ」

 確かに自然災害を目の前にして、大概の場合は人は無力だ。

「——君は、なんで人間が神に祈るのか分かるかい?個々の『客』達に気に入れられ様とするのか、分かるか?」

 軽い口調で話す内容なのかと首を傾げたが、シキは大人しく考えてみる事にする。

「……自分よりも上位の存在だからでは?自分で出来ない事ができる相手。自分の知らない事を知っている相手。だから、自分ではどうしようもない。代わりに望みを叶えてください。後は利益が欲しい。——ということでは?」

 壮大な他人頼みなお願い事。神様に願い事が聞こえているかどうかは置いておくにしても、結局の所は、自分では無理だから、出来る人に頼む。人間も日頃している事だ。

「気に入られようとするのは、頼み事を聞いてくれる確率を上げるため、ですよね」

 自分でもどうかと思う答えではあったが、雪が伝えたい意味を考慮しつつ考えてみた結果だった。

「ふふっ。ああ。まあ、間違っちゃいないな。これは俺個人の考えだがな、誰しもが『特別』になりたいと思っているからだと考えている。特にここに進んでくる連中は、大抵の場合は他人よりも上の存在に、『特別』になりたいと思っている」

 シキに担当を代われと募ってきたナデシコを思い出し、確かに上昇志向は強そうだと納得する。

「人間は大勢いるが、その大半の人間には会わずに一生を終える。人間は一人では生きてはいけないが、人類全員が必要なわけではない。そりゃあ、本人からすれば、家族や恋人、友人、知人、は必要で大切だろう。けど、他人からすればどうでもいい相手だ。だから、世間でいう所の『特別』な、人類に必要な人間はほとんどいない」

 シキは赤の他人の膝で寛ぐ『神』を見下ろし、これも罰当たりなのだろうかと不安に思いながら、雪の口の動きをぼんやりと見つめていた。

「それなりの家の出ならば、その家を守護するものが憑いていても不思議じゃない。とはいっても、やはり祭っている本家と、おこぼれに与る分家とでは雲泥の差だ。ここに来る人間達は、そういった分家か本家でも跡目を継げない奴らばかり。中途半端に自らの出自が良いものだから、態度も中途半端に偉そうになる。跡目を継ぐ人間は、その重みをちゃんと理解しているし、そういう風に教育する。だからこそむやみに権力を振りかざしたりしないし、相手を尊重して対応もする」

「そのせいでやたら高圧的なんですね。私がそう言った礼儀作法に疎いのは百も承知なのですが、それをいちいち指摘されても反応に困るのですが……」

「逆に言えば、それしか誇るところが無いと思っているんだろうな。悪口というのは基本的に本人が言われて嫌な事だ。自分が嫌だから、相手も嫌だろうという、……まあ、安易な考えだ」

 一般家庭のシキからすれば、「はあ、そうですか。すごいですね」としか反応できない。シキの生活にはほぼ無関係な事で虚勢を張られた所で、態度を改めるわけがない。そもそもがこの場限りの他人なのだから。

「……そんなに『特別』になりたいものですか?見合った能力がなければ、苦労するのが目に見えていると思うのですが……」

 人間は自分が一番大切で、一番特別なのが普通だろう。だから見識が狭い子供の頃は自分に可能性を見出せるし、無知ゆえの過ちを犯してしまう。所謂、黒歴史。中二病と呼ばれるものたちの事だ。

 小学校から中学校へと、一気に接する人間が増えて世界が広がり、自分の能力や価値を知って、ようやく客観的に見られるようになり大人へと近づいていく。

「——自分が必要とする相手に必要だと思われていれば、それだけで十分に満たされていると思うのですが。そんなに大多数の赤の他人から必要とされたいものですか?」

 自分が生きている世界の中で満たされているのであれば、無理をして外に出ていく必要性はあるのだろうかと疑問に思う。シキは大半の人間が持っているであろう承認欲求というものには、とんと興味がない。

 唐突に雪が目を開き、金色の瞳にシキの顔を映す。突然の事に驚きはしたが、布の面のおかげで軽減された視線ならば、そこまで嫌ではない。シキは視線を逸らすことなく、面越しに雪の宝石のような目を見つめ返した。

「——君は、誰かの『特別』になりたいとは思わないのか?」

 『特別』な立場の雪が、『特別』ではないシキに、『特別』を求めないのかと尋ねる事を、シキは少し可笑しく思ってしまう。

「……正直に言えば、私を『特別』だといってくれる相手が欲しいとは思います」

 恥ずかしそうに笑うシキを雪がじっと見つめている。その視線が面を諸共せずに、シキの目を見つめている気がして、いたたまれなくなり視線を彷徨わせる。

「……俺は君の事を気に入っている。君が望むのであれば、君を『特別』に出来る」

 彷徨う視線を追尾されている気がして、ぞわぞわとシキの体をなぶる感覚に戸惑ってしまう。

 きっとそれは砂漠での一滴の水。深い闇の中での星の輝き。それほどにシキの心を強く引き付けた。

 ——きっと、雪の『特別』になれるのであれば、それは幸せなのだろう。けれど……。

「……遠慮、しておきます。神様から貰う『特別』は、きっと私には重すぎる。きっと、耐えられずに潰れてしまう」

 一時の激しい感情に弄ばれる事に恐怖を覚え、シキは後ろ髪を引かれながらも断りの返事をした。

 下から見上げる雪の目には、布の隙間から覗いたシキの口元が見えている。穏やかな声はどこか寂しそうだが、同時に安堵しているのが雪にも分かった。


「……そうか。少し残念だ」

 ——きっと、彼はその他の人間達の群れに紛れて、似たり寄ったりな日常を過ごして、……そして平凡で穏やかかに死んでいくのだろう。そして彼自身もそれを尊い幸せなのだと思っている。

 『特別』であるという事は、群れを引っ張って先頭を行かねばならない。もしくは群れに入らずに、孤高の存在であり続けるという事。

 そして彼は自分が一人で生きていけるほど強くない事を、自分が孤独にも、罪悪感にも耐えられない弱い存在だと理解している。

 罪悪感を抱くことはあっても、そういうものだと思っている雪には、きっと罪悪感の痛みも苦しみも分からない。それが苦しい事だと知識として理解しているだけで、それを味わうことはない。

 ……ああ。何とか弱く、愚かで、賢いのだろうか。


 数日続いた雨が上がった日の朝、シキは雪に散歩に誘われた。

 オバナの行方不明の件がよぎったが、何となく雪がいれば大丈夫だと根拠のない理由で、それを了承した。

 自分はこんなにも不用心で、考えなしの行動をする様な人間だっただろうかと、シキは自分の心と思考回路が分からなくなってきていた。

 いつもとは違う日々がシキの日常を侵食して、彼の常識を蝕んでいくのをひしひしと感じていた。けれど、あと十数日はここから逃れる事は出来ない。ならば最終日まで自身を保ち、日常に戻ってからそこで自身を取り戻せばいい。

 そう自分に言い聞かせて、雪の背中を追って旅館を後にした。

「散策の最中に見つけたんだが、その時は少し早くてな。そろそろいい具合だと思ってな」

 シキは前を歩いて先導する雪の背中を見て、細身だがちゃんと男なのだなと、背中まで伸びた襟足の髪が揺れるのを眺めながら思う。何となく尻尾の様にも見えるなと不遜な事を思ってしまう。

 散歩の定番コースの楓の並木道を通り過ぎて、小川に架かっている橋を超えると、もうそこはシキが足を踏み入れた事がない領域だ。

 今まで景色としては何度も見ていたが、そこに立ち入った事はなく、見知らぬ土地にいる事が不安になり、シキはとっさに足を止めてしまう。

 先を歩いていた雪がすぐに気が付き、足を止めて不思議そうに振り返った。

「……どうした?」

 雪は橋すぐ傍で立ち竦んでいるシキをしばし眺めていたが、強く握られた拳が僅かに震えている事に気が付いた。

 雪は無言でシキに歩み寄り、彼の手首を軽く掴んでゆっくりと歩きだす。多少の抵抗もあるかとも思ったのだが、シキはそれに大人しく従い無言で雪の後に続いて歩く。

 雪は人間の感情の機微を理解はしていないが、長年の経験からおおよその察しが付く。この時は、橋を越えるまでは素直に付いて来ていたのに、急に足を止めて怯えていた様子から、恐らくは知らない場所に行くのが怖いのだろうと判断した。

 いつの時代も人間が恐れるのは、理解できない事。知らない事。いつも得体の知れない何かに怯えながら、文化を発展させてきた。

 雪がここ半月の間にシキと接して思ったのは、枠組みから外れたり、変化する事に忌避感を抱いているという事。

 優柔不断のきらいがあり、迷った時は人に意見を求めてくる。けれど、出来るだけ規則を常識を基準として動き、その範囲であれば人の意見に従う。

 ——それらを含めて考えてみると、よくもまあ、短期とはいえ、内容のはっきりとしない住み込みの仕事を引き受けたものだと、不思議でならない。

 当時のシキの心境の変化が知りたいものだと、雪は手のひらに収まったシキの体温の感触を指先で確かめる。

 身長はそれなりにあるが、雪に比べると少し筋肉が柔らかく、簡単に潰れてしまいそうだと思う。整った顔立ちだが、童顔で少年のような危うさが垣間見えて、雪の保護欲を掻き立ててくる。

 同じような体格や性格をした人間は星の数ほどいる筈で、珍しいかと言えばそうではない。

 もしかしたら、似た様な人間と似た様な状況で出会えば、似た様な感情を抱くのかもしれない。

 ——けれど、雪はシキに出会ったのだ。

 結婚は四十六億人の人類の中で、二人が出会った事は奇跡に等しいと、誰かが言っていた。もちろん同じ国で生まれて、同じ言葉を話している方が、出会う確率は確実に高いのだろう。

 けれど、本来は縁も所縁もない相手と出会って、こうして同じ道を歩いている事には、多分何かがあるのだろう。

 知らない道に不安そうにきょろきょろと辺りを見ますシキの手を引き、雪は疎らに紅葉した木立の中へと入って行く。

 最低限の通り道と木の剪定はされてはいるが、人の往来は殆ど無いためか、旅館の傍の様に決められた品種が植えられているわけではなく、ほとんど自然のままで手つかずだ。

 整えられた光景ももちろん美しいが、偶然にも自然が作り出した光景は、それらとはまた違った美しさがあり、雪はどちらも好んでいる。

 そこに何かの意思が介入しようがしまいが、美しいものは美しいのだ。

 不安そうにしながらも、雪の手を振り払う事なく素直に従うシキをいじらしく思い、この後の彼の反応を見るのが楽しみで仕方がない。

 うっそうと枝に覆われた薄暗い道を通り抜けると、その先の光景にシキは目を見張る。

「本来ならば、その名の通りに彼岸に咲いて、今頃は終わっている筈なんだが……」

 そこにあるのは一面に広がる彼岸花の海。

 儚い紅葉とは違う、瑞々しさを感じる花々が誇らしげに、鮮烈な紅が燃えるように咲き誇っている。

 時折吹く風が、花を揺らし、赤い海が波打つ。

「……凄い。草原が燃えているみたい、です」

 雪は散策の途中にこの光景を見た時、自分も同じ感想を持った事を思い出して、ほんのりの胸の奥が温かくなるのを感じた。

「……あの、雪様。周囲には誰も居ないか分かりますか?」

 唐突にシキが人目を気にし始めたので、雪は怪訝に思いつつも、周囲に誰も何の気配もないことを確認して、大丈夫だと伝える。

 すると、シキは徐につけていた面を外し始めた。らしくない行動に雪が驚いて目を瞬かせていると、面を外して素顔をさらしたシキが物恥ずかしそうに苦笑する。

「すみません。少しだけ、見逃してください。なかなかこの光景は見れませんから。直接目に焼き付けたくて」

 雪には既に素顔を見られているので、一回も二回も大差ないと思ったシキは、少しの間だけ規則破りを見逃して欲しいと頼んだ。

 少しばかりの我儘が自分が作ったものだという事が嬉しくて、雪は楽し気に頷いた。

「命は、こういう色をしているんでしょうか」

 ——死と再生。浄化を意味する火の色。命の象徴である血の色。

 ——紅葉が眠りにつく冬を前にしての刹那的な命の輝きならば、眠る準備をするために命を燃やす様に、強く咲き誇る彼岸花達。

 ——いつだって命が強く輝くのは、死と向かい合いながらも懸命に生きようとする時だったと、雪は忘れてしまった命達に思いを馳せる。

 シキは徐に身を屈めて、すぐ近くに咲いている彼岸花の花弁にそっと触れる。

「——彼岸花。曼殊沙華。天上の花。なんだか、この場所にはぴったりな気がします」

 あちらとこちらの境目で誇らし気に咲く赤い花は、ここが本来は人間が立ち入るべきではないのだと訴えている様で、シキは決して花達の中へとは入ろうとはせずに、彼らを眺めて少し触れるだけにした。

「葉見ず、花見ず。彼岸花は秋が終わって花が枯れてから葉を伸ばす。そうして夏になると葉を枯らす。葉と花が共にある事はないからそう呼ばれる事もある」

 その特性のおかげで、彼岸花はこんなにも赤く燃えるように咲く事ができる。

「彼岸花は種を作らない花だ。ここも最初は誰かが植えたんだろうな。その後はほとんど人の手を借りず、こうして咲き続けているんだから、なかなか根性がある花だ」

 人の手から始まり、自然の中へと紛れていった花は、今となっては人の手など無くても自分達で根を張り葉を伸ばし、毎年花を咲かせる。

 どちらでもあって、どちらでもない。淡い曖昧な境目で咲き乱れる花。

「——綺麗だろう?シキ」

 月の様に輝く瞳がシキを映し、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて、穏やかな心で雪はシキの隣に立って問う。

 ピクリと僅かに肩を震わせ、徐に立ち上がってシキは振り向き、雪の問いに答える。

「——ええ。本当に、この国に生まれて良かったと再認識した所です」

 日本ほど自然が豊かで、季節がしっかりとある国はそうはない。四季折々の魅力は一言では尽くしがたいほど、多彩で目を楽しませて、心を豊かにしてくれる。

 綺麗な景色を見せてくれた雪に感謝しながら、シキは正面で向かい合った雪に思わず息を呑んだ。

 ——燃える様な赤い世界で佇む雪の姿は、呼吸を忘れるほど、とても綺麗で、儚く、酷く恐ろしかった。


 花見を満喫した一行は、来た時と同じ道をなぞるように戻っていた。

 客が通る時に分かりやすいよう、旅館へと続く道は幅が広く、小まめに手入れがされているため歩きやすい。

 他愛無い話をしながら歩いていると、気付けば楓の並木道まで戻ってきていた。

 かさりと枯葉を踏みつける音が物悲しい中、一際強い風が吹いて、楓の葉が風に乗って舞い散る。

 風に押されるような感触を味わいながら、楓吹雪の中を歩いていた雪が目の前を横切った紅葉を優しく受け止める。

 散ったばかりの楓は瑞々しく、綺麗な手の形を残して、赤い指を綺麗に広げている。楓を空にかざして、陽の光を通して透かして見ていたが、一通り眺めて満足したのか、雪は徐にシキに紅葉を差し出した。

 いつもの様に布の面で顔を隠したシキが、雪の意図が分からずに怪訝そうに首を傾げる。

「——一等綺麗な楓だ。対価はいらないから受け取って欲しい」

 無邪気な微笑みを浮かべて手渡してきた楓に、シキは困惑して固まってしまう。散々『客』から物を受け取るなといった本人が、今目の前で楓の葉を受け取るように促している。

 雪からは悪意は感じられないし、甘葛の様にねっとりとした絡みつくような気配もない。本当に、ただ拾ったものを気に入り、それを好意で差し出してくる子供の様にしか思えない。

 シキは停止した思考を高速で動かして、失礼にならない断り方を探すがどうしても見つからない。

 いつまでも道のど真ん中で立ち往生をしている訳にもいかず、シキはとっさに思いついた苦肉の策を提示する。

「……一旦、保留という事で預かります。然るべき方にお伺いを立てた後に判断を下し、ご返事をさせて頂かせると幸いです」

 畏まった口調で一気にまくし立てたシキに、雪は思わず笑ってしまう。快活に笑う雪に、しばし呆気に取られてシキは目を瞬かせる。

「——ああ、すまない。けど、素直に支配人に状況説明をして、問題ないと分かったら受け取るといえばいいのに。……いや、この場合は悪くは無いのか。受け取るのはいけないし、速攻で断ってもいけない。言質を取られるのが一番厄介だからな」

 内心を言い当てられて、気まずくなったシキは顔を俯けて黙り込んでしまう。

 雪の人柄は好意的に思っているが、信用する様ができない齟齬に、シキは罪悪感でいっぱいになってしまう。

 しかし、雪はシキの不安をよそにして、少し強引にシキの手に楓の葉を乗せてしまう。

「それでいい。支配人に確認してくれて構わない。さっきも言ったが、これに関して対価はいらない」

 はっきりと言い含める様に、楓の葉がのったシキの掌を雪の手がそっと覆う。ギリギリ触れるか触れないかの肌の距離だったが、じんわりと雪の体温が伝わってくる。

「……さ。そろそろ戻るか」

 手のぬくもりが遠のいていき、シキがゆっくりと顔を上げると、微笑みを浮かべる雪の穏やかな顔があった。

 シキは無言で頷き、持っていたハンカチで楓の葉をそっと包み、懐へとしまう。それを待っていてくれた雪の隣へと並び、ゆっくりとした速度で旅館へと歩いていく。


旅館へと帰宅すると、雪の提案で、シキは一旦彼と別れて支配人に会いに行く事になった。

 いつまでも不安要素を残さないようにとの、雪の配慮に従い、シキは一路執務室を目指す。すっかり旅館の構造にも慣れて、迷うことなく執務室に行けるようになった事に、シキは感慨深く思う。

 雪の背を見送ったシキが執務室への廊下へと体を向けると、素顔をさらして憤怒の形相のナデシコが立ちはだかっていた。

「何でよ——。何で……何で……何で……!あんたみたいな『贄』が……!」

 鬼の形相とはまさにこの事だろうと思うほどに、歪んだナデシコの顔は悪意に満ちて、そのらんらんと鈍く光る眼光は鋭い。

 夜中に出くわしたら、大概の人間は速攻で回れ右をして逃げるだろう程度には、まともではないと一目で分かる。

「……あんたなんて、とっとと喰われてしまえば良かったのよ。それぐらいしか、あんたの価値なんて無いんだから……!」

 久しく感じた事のない直接的な悪意に、シキの肌がじりじりと火に炙られる様な、ある筈のないものを感じ取る。

 基本的には争いごとは避けるが、自分が一方的にリスクを押し付けられる事は看過できない。

 最低限話し合った上で双方と法律や常識に則り、落としどころを見つけるのは良い。けれど、端から相手にリスクを背負わせて、自分は何の痛みを追わずに利益を得様とする行為を、シキは断固として拒絶する。

「……少なくとも、この『旅館』の中では、私と貴方の価値は全く変わりません。どちらも『旅館』に雇われた『世話役』としての立場以外に、重要な事がありますか?」

「ある!あるのよ!私は代々続く、舞踊の名家なの!みんな師範として全国に沢山の弟子を抱えている。一般人とは生まれも育ちも違う!」

 だから姿勢や所作が綺麗で、着物を着る事に慣れているのかと、独り納得をしながら、シキは臨戦態勢へと入る。

「失礼ですが、——それと私がどう関係しているのですか?」

 ナデシコの家はきっと有名な名家なのだろう。けれど、とんと舞踊とは縁がないシキには、「はあ、そうですか。凄い家なんですね」ぐらいしか返す言葉がない。

 現代社会でも金やコネといったしがらみはあるが、それで全てがどうこう出来るほどの力は殆ど無い。伝統芸能の一族となれば、それなりに他方面にコネはあるだろうが、それゆえの格式や世間体といったしがらみを多い筈だ。

 雪が言っていた、家名の重み、それを理解するための教育。とはそういう事なのだろう。生まれは良くとも育て方のせいで、中途半端に高慢な性格とコンプレックスを大きくしてしまったのだろう。

 大きな子供という言葉が当てはまる言動を繰り返すナデシコに、辟易したシキは無言で眺めていた。

 面のせいでシキの表情が見えない事が彼女の癇に障り、唇をきゅっと噛み、わなわなと怒りに震えながら、つかつかと大きな足音を立ててシキに勢いよく迫ってくる。とっさに後退する彼の顔を隠す面へと、ナデシコは手を伸ばした。

「——お前達、そこで何をしている」

 周囲に響き渡る抑揚のない低い声の方を見ると、疲労のせいでより一層不機嫌そうに見える支配人が、シキ達を睨みつけていた。その隣にはナデシコの『指導役』の女性が並んで立っている。

 シキはどこかで見た事があるなと、女性の顔と記憶を擦り合わせていく。ぼんやりとした像が浮かんできて、ようやく彼女が以前に玄関先で出くわした、ナデシコの『指導役』だと思いいたる。

「……客がいつ来るかもしれない場所で揉め事を起こすな。水無月。ナデシコを連れて客の所に戻れ。……それとその顔を客に見せるな」

 水無月と呼ばれた女性は「はい」と簡潔な返事をすると、ナデシコの元に近づいて軽く肩を叩く。

 顔が歪んでいると指摘された事に衝撃を受けて、我に返ったナデシコは自分の口元に手を当てて、気まずそうに顔を俯けた。先ほどまでの自分の言動が見苦しいものだと気が付いたらしく、小さな声で謝罪を口にすると、水無月に促されてそそくさとその場を後にした。

 無言のまま二人を見送るシキを、支配人は険しそうな表情で見つめていた。シキが自分の用事を思い出して支配人に向き直ると、支配人は一瞬を目を伏せたが、すぐにいつも通りに顔つきに戻る。

「お騒がせしてすみません。あの、少々お尋ねしたいことがありまして……」

 支配人の目の前まで近づいてから、シキは懐からハンカチを取り出し、雪から貰った楓の葉を彼に見せた。

「——雪様に、「対価はいらない」と渡されたのですが、これは受け取っても良いのでしょうか?」

 支配人は眉を顰めて、目の前の楓の葉をしげしげと観察し始める。化粧でごまかしてはいるが、目元の隈が濃くなり、どことなく退廃的な色気のようなものが滲んでいる。

 始終気難しそうに顔を引き締めているせいで、その圧力に意識が向きがちではあるが、支配人は元より涼し気な顔立ちをしている。おそらくは接客業に向いている容姿の筈だ。

 これで優しい微笑みを浮かべられれば、『世話役』達からの受けも良くなるのであろうが、彼が厳しく接する事で、『世話役』達がおかしな事をしない様に牽制して、彼らの身の安全を守っている。

「……少なくとも、雪様が対価はいらないと、宣言した上で渡してきたのであれば問題はない。元々この旅館の敷地内の楓の葉だ。さすがに私物や眷属の類の一部であれば止めるが、これであれば持っていても問題ない」

 支配人の言葉にシキは安堵の笑みを浮かべて、彼に礼を言ってから楓の葉をしまう。せっかく知り合いになって言葉を交わしたのだから、何か思い出になる物を一つぐらい持って帰りたいと、常々シキは考えていた。

 丁度、ここの楓は他で見るよりも、ずっと鮮やかで濃い赤色をしていて、記念に押し花にして栞にでもしたいと思っていた。なので、これは彼にとって渡りに船だ。

 それとなくその事を伝えると、支配人は顎に指をあてて何やら思案する。

「——いや、わざわざ押し花にしなくても問題はない。多分、雪様が細工をしたのだとは思うが、腐食も枯れて朽ちる事もない筈だ。さすがに火で燃やせば消えるだろうから、そのまま栞にでもするといい」

 知らない所で神様の力を使われていた事に驚きつつも、雪の心遣いを嬉しく思い、シキは頬を緩める。

「ありがとうございます。良い思い出の品ができました」

 深々と頭を下げるシキに、支配人の目元が少し和らいだ。

「——まあ、折角の贈り物だ。大切にするといい」

 諭すように穏やかな声で、支配人は何かを諦めるように言った。


 その日、朝の食堂は異様な雰囲気に包まれていた。

 少し前に合った、オバナが行方知れずになった時と似ているが、違う点が一つあった。

 ひそひそと交わされる会話と、怯えながら様子を窺う視線。それらは殆どがシキに向けられていた。

 シキは顔を布で隠しているため、彼の表情が他者に見える事は無いが、怖い化け物でも見るような遠巻きな視線に対して、シキは酷い顔をしていた。

 朝に起きて、組まれた予定通りに食事をとるために食堂に向かうと、シキが足を踏み入れた途端に、食堂内の雑踏が掻き消えて静まり返った。

 食堂中の視線が、自分に向けられている理由がシキには思い当たらない。困惑して周囲を見回すと、彼の視線から逃れる様に顔を逸らされた。

 元々、友好的とは言い難い状態ではあったが、それは他の一般枠の『世話役』達も同じようなものだった。けれど、今はその人達すら彼を遠巻きにしている。

 食事を終える頃には、向けられる好奇と脅えと敵意の視線に、シキは辟易していた。さっさと食器を返して食堂を後にすると、彼の姿が見えなくなった途端に、食堂の中は打って変わって騒がしくなり、何となく自分の事を話しているのだろうと予想がついた。

 いつもであれば、一旦食後の休憩として自分の部屋に戻るのだが、この時ばかりは、向けられる冷たい視線に胸がもやもやして落ち着かなかった。

 自室には戻らずに、いつもより少し早めに寮を出た。いつもであれば心が落ち着くはずの竹林の道。さわさわと竹が揺れる度に涼し気な音が何時も心地良かった。

 けれど、今は先ほどのひそひそとした囁き声を思い出させて、酷く耳障りに感じてしまい、彼を不快にさせるばかりだ。

 心なしか吹く風も生ぬるく、じっとりとした空気が重く伸し掛かってくるようで、シキの機嫌はオバナが居なくなった時に並び、最悪の物になっていた。

 自分が悪い事をして遠巻きにされるのであれば、仕方がないと自分を納得させる事は出来るのだが、今回の様に全く身に覚えのない敵意は、理不尽で苛立ってしまう。

 感情のコントロールが上手くいがず、シキは自分にも苛立ち、乱暴に自分の腕を掻く。昔から、シキは不快な感情が大きくなると、それを逸らすために自傷行為として体を掻く癖があった。成長するに従い、その癖も収まっていったのだが、最近立て続けにかかるストレスに、思わず引っ搔いてしまった。

 本館の前に着く頃には、少し落ち着く事ができたのだが、爪を立てて引っ搔いた腕がピリピリと痛んで、搔いてしまった事を後悔してへこんでしまう。

 シキが本館ついてすぐに、寮に向かおうとしていた葉月にばったりと出くわた。いつもよりもずいぶん早い出勤と、気分が優れない様子のシキに、葉月はおおよその事を察して苦笑を浮かべる。

「無い事好き勝手に言われるのは誰だって嫌な物。それが身に覚えのない事であるならなおさら」

 葉月は落ち込んでいるシキの肩を軽く叩いて、少しでも彼の心が張れる様にと、労わるために優しく話しかける。

 少し調子を取り戻したシキと葉月の足は、自然と楓の間へと向き、道中に葉月が今朝の原因を大まかに説明をしてくれた。

「……ナデシコっていう子。あの子が今朝行方知れずになったの。何の予兆もなくね」

 オバナに続き、顔見知りが行方知れずになったと聞かされて、シキの心中は穏やかではない。他の話した事のない相手ではなく、シキが名前と顔を把握した相手が、立て続けにいなくなってしまったという事実が、彼を打ちのめした。

「前に誰かから聞いたかもしれないけど、この『旅館』の敷地内であれば、支配人にはどこにいるのか把握できるの。もちろん、いつも見張っているわけではなくて、必要な時にすぐ呼べるようにと、……『世話役』達の安否確認のためにね」

 雪が敷地から出ればすぐに分かると話していた事を思い出し、シキは何か発信機でも付けられているのだろうか、もしくは何かの神秘的な力によるものなのだろうかと、思考をあらぬ方へと向けてしまう。

「基本的には起床時間と就寝時間、それと日によって時間が違うけど仕事中に一回程度。——で、今朝、支配人が調べたら、ナデシコが跡形もなく消えていたの」

 ため息交じりに話す葉月も、心なしか元気がない。

「どこかにおしゃべりがいるらしくて、本来ならばこういう事は『世話役』にむやみに話したりはしないの。不安を煽って空気を悪くするだけだし、疑心暗鬼になって治安も悪くなったりするから」

 オバナが居なくなった次の日には、『世話役』達に彼の話が広まっていた事も、『旅館』側からすれば不本意で、全く予定外の事だった。

「一応、従業員には伝えてあったから、どこかの『指導役』が漏らしたのは確実ね。何か取引を持ち掛けられて間が差したのかもしれないけれど、この『旅館』で、そういう不誠実な規則破りをする事のリスクを、知らないわけではないでしょうに」

 同僚が犯してしまったであろう失態に、葉月も頭が痛いのか、大きなため息を吐いた。おそらく支配人が疲労困憊しているのも、それが原因なのだろう。

「……それで双方とも知り合いで、先日に揉めていた私が疑われていると」

 どうやらシキにナデシコが絡んでいる所を誰かが目撃しており、それが食堂で一気に『世話役』達に広まってしまった。従業員達がそのことに気が付いた時には時すでに遅く、『世話役』達全員の耳に届いてしまった後だった。

 不意にシキは最近の出来事を思い出していた。偶に視線を感じて振り返っても、誰も居らずに首を傾げる事があった。疲れて過敏になっているのだろうと思い、気のせいだと高をくくっていたが、もしかしたら本当に見られていたのかもしれない。

「……疑われているのは確かだけれど、どちらかと言えば『共犯者』としてね」

「……『共犯者』?——では『主犯』は?」

 葉月は困ったように笑い、一旦話を中断して楓の間に挨拶をしてから入ると、座椅子に座ってお茶をすする雪に朗らかな笑顔を向けられた。

「おはよう。いい朝……とは言い難いが、まあ、湿度が高い事を除けば、天気自体は良いな」

 今朝は雲一つない快晴だというのに、空気がじっとしていて蒸し暑い。騒ぐほどではないが、今朝の雰囲気の悪さも相まって、不快指数は高水準となっている。

 それを諸共しない飄々とした雪の態度が、シキにとってはありがたい。

「雪様。絶賛冤罪をかけられている真っ最中ですよ。一週回ってサイコパスに見えてしまいますから。人目のある所では言動に気を付けないと、『モミジ』のとばっちりが酷くなる一方です」

 先ほどの質問の答えに、シキは色々と合点がいった。

 一般人のシキでは、彼らを人知れず連れ去るのは実質不可能だ。いくら前日に揉めていたとはいえ、それは安易すぎるし、只人である彼に対してあれほど怯えるのもおかしい。他の『世話役』達が怯えていたのは、シキの背後にいるであろう雪の存在だったのだ。

 何せ相手は『神』なのだ。何か不可解な現象で、どうとでもできると思ったのだろう。

「あー……。それについては俺が全面的に悪い。嫌な思いをさせてすまない」

 手にしていた湯飲みを机の上に置き、雪は姿勢を正すと、凛とした雰囲気を纏い丁寧に頭を下げた。無駄がなく滑らかな所作に、シキは心の中で感嘆の声を上げる。

「俺が予定外の客である事も知られていてな。それも疑惑を大きくする要因になっている」

 招かざる客が犯人というのはミステリーの王道だ。あくまで疑惑なのだろうが、こういった閉鎖空間というものは逃げ場が無く、次は自分かもしれないという不安感が、悪意をどんどん増長させてしまう。

「故意なのか偶然なのかは分からないが、二人とも俺の『世話役』を一日だけ務めているという例外。——ついでに言えば、俺が単独で散策をしていた事もそうだ。……明確な証拠はないが、状況証拠でいえば一番俺が怪しいのも事実だ」

「……基本的には、この『旅館』に来るお客様方は『世話役』傍において、行動は共にするものですから。雪様の様に、『世話役』を放っておいてうろつくことは珍しいですから」

 完全にシキの気のせいなのだろうが、副音声で「困った客」という声が葉月から聞こえてくる気がする。

 それは雪にも届いているらしく、ばつが悪そうに視線をそらしているが、優雅に微笑む葉月の視線から逃れる事は出来ていない。

「……とにかく事が解決するまでは、出来るだけ俺と行動を共にして欲しい。あ、これは食事をここでとれという話だ。それ以外は基本的に好きにしていいから」

 客の部屋で寛げと言われても、それを実行できるほどシキは豪胆ではない。けれど、無駄にうろついて不用意に周りの不安を煽るのも得策ではない。

「……分かりました。正直、あの視線は居心地が悪いですし、遠巻きにひそひそされるのも気分が悪いですから。雪様がそれが良いと仰るのであれば、そう致します」

 実際、楓の間に来て雪や葉月と話していると、先ほどまでシキが感じていた、じっとりと纏わりつく不快な気分が、少しずつ薄れていくのを感じていた。

「支配人からも了承は得ている。そちらの方が、お互い都合が良いしな」

 シキ達には幸いな事に、支配人やベテランの従業員達は、雪やシキが行方不明の犯人だとは思っていない。

 雪は今回は予定外の宿泊ではあったが、今まで何度もこの『旅館』に泊まっている常連客で、支配人とそれなりの付き合いがあるため、雪がそんな事をする必要性が無いと判断していた。

 『神』は気分屋ではあるが、自らの不利益を顧みずに意味のない行動をとる事は殆ど無い。その行動をするのであれば、何らかの理由がある。それが人間の常識の範疇だとは限らず、神様にしか理解できない基準である事が多いだけだ。

「支配人も私達も、神様の考えを理解する事は難しいですから。もとより違う理の中を生きているのです。……だからこそ、この『旅館』のように、人と接する事を望む方も多い」

 葉月は手ずからお茶の支度をしながら、自身の考えをシキに伝える。

「よく、支配人にお節介すぎるとは言われますが、私としてはせっかくの機会なのですから、人と共に楽しい思い出を作って欲しいと思ってしまうのです」

「まあ、確かにな。一部の『客』は、彼らに仕えている人間達としか接する機会が無い者も多い。違う空気を味わいたいと思うのも変ではないしな」

 お茶のおかわりを葉月に注いでもらった雪がしたり顔で頷く。

「……雪様も、そうなのですか?」

 雪も人に祭られる立場の『神』の一柱だ。ならば彼を信仰する神社や社に神官や巫女、信者達がいても不思議ではない。

 そのことにようやく思いいたり、シキは思わず尋ねてしまう。少し不躾だっただろうかと不安に思ったのだが、当の雪は気にした様子もなくあっさりと頷いた。

「まあ、一応はそれなりの力は持っているからな。だが、俺は基本的にあちこちを移動しているから、いろんな人間達と接する機会は多い。ここに来るのも、ここの『神』と古い付き合いで、昔馴染みという事も大きい」

 支配人が言っていたこの土地を管理している『神』。

「……少し失礼かもしれませんが、その神様も人の姿をしていて、今もこの旅館にいたりするんですか?」

 『旅館』の全ての場所に行った訳ではないが、それらしい人物に心当たりはない。それに支配人に『旅館』の管理を任せているあたり、その神様はこの土地を留守にしているのではと、シキは考えていた。

「——あいつは割と広い範囲の境目を管理している神だからな。各地にある社を転々として、むやみやたらに、あちらとこちらが繋がらない様にしている。君らだって、橋を渡ったら見知らぬ世界に居たなんて御免だろう?」

「……ホラー案件以外の何物でもないですね。所で、もしかしてこの土地の管理をしているのは川の神様だったりしますか?」

 昔から川は分かりやすい土地の境目として使われている。そもそも人の手を入れるのが難しいというのもあるが、細かく区域を分ける際に、対岸同士を別にした方が何かと便利だろう。

 何より川というのは、この世とあの世の境目として表現される事がある。

「まあ、別に隠す事ではないから言うが、君の予想通りに、この土地を管理しているのはとある川の神だ。境目を守るのには適しているからな」

「なるほど。川周辺全ての土地を含めれば、相当、広域に及びますね。それは多忙でしょう」

「一応あいつの部下に橋の神もいるから、代理として管理を任せているんだ」

「どこの世界も中間管理職は大変なんですね」

 運良く、その神がいれば、支配人があれほど疲労困憊する必要はなかったのだろうが、別の土地を放り出して来てくれとは言えないだろう。

 どこの縦社会も、中間管理職は上と下からの摩擦で苦労するのは同じようだ。

「……所で、先ほどから普通に流して聞いていたのですが、やはり事故などではなく、故意に誰かが起こした犯行——という事でよろしいでしょうか?」

 雪が犯人だと疑われ、支配人は彼が犯人ではないと思っている。雪には犯行をする理由が無いと。遠回しに誰かが起こしているという事を肯定している。

 雪は別段気にした様子もなく、葉月はあらあらと首を傾げている。さすがに年の功で、シキよりも長く生きてきた経験は伊達ではなく、平時と変わらぬ表情をしていて、こういった場面でも役立つのかと、シキは舌を巻いた。

 少し深入りしすぎたと反省をしながら、シキは深く息を吐いて頭を切り替える事にした。

「——とりあえずは、出来る限りここに居る事にします。雪様、葉月さん。本来の職務に障りが出ますが、出来るだけ努力いたしますので、よろしくお願いします」

 理由はどうであれ、シキは彼らに面倒をかける事になる。周りの都合に振り回されているとはいえ、彼がすべき職務を放棄する事になるのだ。

「先ほども言ったが、本を正せば俺の態度が悪かったのも確かだ。まあ、君の滞在期間も残り少ないんだ。折角なのだから、ゆっくり過ごそう」

 雪はおもちゃを前にした子供の様に、うきうきと楽しげに笑う。自分が不利益を被ったのは確かだが、雪のいう通り、ここで過ごすのもあと少し。距離を気を付けつつも、子供の頃の修学旅行を思い出して、少し懐かしくなった。


 夕餉の後、膝枕をしながら、シキはギリシャ神話のペルセウスとアンドロメタの話を語る。

 母であるカシオペアが自分の方が、海の女神ネレイドよりも美しいと言ったがために、海の神ポセイドンの怒りを買い、娘であるアンドロメダが怪物の贄にされる事となってしまう。怪物に喰われそうになっていたアンドロメダを英雄ペルセウスが救うという話だ。

「ちなみにペルセウスはゴルゴーンという怪物を倒した帰りに、偶然岩に鎖で縛られたアンドロメダを救うのです。怪物を倒すのに、ゴルゴーン首を使い石に変えてしまったそうなのですが、そもそもそのゴルゴーンを倒すのにも相当神の手助けがあったので、……何というか、ペルセウスは神に祝福されすぎだなと思う話です」

 よくある、口は禍の元の典型例ではあろうが、神より美しいとのたまったカシオペアも凄いが、それを地獄耳宜しく、聞き逃さなかったポセイドンの馬鹿親っぷりも凄い。

「——まあ、誰にだって逆鱗はあるものだからな。この場合は、神が人間より上だという思いが前提としてあったのだろうな。可愛がっていた愛玩動物が手を噛んだから怒った。まあ、君の言う通り、どれだけ暇だったんだろうな。その外つ国の神は。美しさに自信があるのであれば、人間の戯言だと流してしまえばいいのに。その女は神が気にするほど、よほど美しかったのだろうな」

 雪の感想に、シキはああなるほどと感心する。そもそも本当に優れているのであれば、自分よりも劣った相手の言葉など戯言でしかない。つまりは戯言ではなく、立場を脅かされる可能性があったからこそ、聞き流すことができなかった。許す事ができなかった。

「……雪様は、ご自分よりも優れていると誰かから言われて、気に障った事はあるのですか?」

 自らの膝の上で寛いでいる『神』の、雪の様に儚く綺麗な顔を見ながら、シキはこの場での戯言として尋ねてみた。

 特別である『神』は誰かに劣等感を抱く事はあるのだろうかと、純粋に気になってしまった。同じ神同士ならばあるのかもしれないが、人間相手にそういった感情を持ち合わせているのだろうかと。

「——今の所は無い、かな。そもそも価値の基準は国や立場、育ちで変わる。それは人間も神も同じだ。基本的に神は上下関係がしっかりしているからな。下剋上ができないわけではないが、上をどうにかするよりも、単純に信仰を得たり、修行をして得を積んだり、……それこそ獲物を喰って力をつけるなりする」

 飄々としていて、尚且つ老獪な部分も持ち、いつも楽し気な雪も、誰かに嫉妬したり、誰かの言葉で心を動かすことはあるのだろうか。瞼の奥の金色の月も、負の感情で曇る事があるのだろうかと。

 当たり前のように、怒り、嘆き、悲しみ、嫉妬をしてしまう人間であるシキには、雪が遠い人に思えて、不意に物悲しくなってしまう。

 ここに来てから情緒が不安定だと、シキは自分の不甲斐なさに内心で大きなため息を吐く。

「まあ、この話で一番の被害者は、明らかに娘だろうな。母親の不用意な発言のせいで、怪物に喰われそうになった。本当にその国の神はえげつないな」

 暗い雰囲気を仕切りなおすために、雪が話の総括を口にしたので、シキはこの話をした訳を思い出した。

「ふと思い出した話なのですが、彼岸花は学名をリコリス・ラジアータというのですが、このリコリスというのは先ほどの女神ネレイドの一人であるリュコーリアスという女神から付けたそうです」

「なるほど、まあ綺麗な花だからな。女神から名をとる理由もわかるな。日本では持って帰ると火事になる、なんて迷信もあるしな」

「ああ、それは私も聞いた事があります。火事花なんて呼ばれる事もあるそうですね。確かに鮮やかな赤色と形が火を連想させます。実際に、一面の彼岸花は、本当に燃えているとしか表現できませんでした」

 花の美しさを思い出しながら、シキはふととあることを思った。

 ——かつては人間だったモノ達は、果たして人間と同じ考え方をして、同じような感情を持っているのだろうか。


 シキと雪が楓の間で談笑している間、葉月は片づけを終えてすぐに執務室へと向かっていた。

 従業員全員への通達であれば大広間を使用するのだが、今回は内通者がいる事を危惧して、関係各員の身執務室へと呼ばれていた。

 知っているものが少なければ、外部に漏れる可能性は低くなり、漏洩した際は犯人を絞るのは容易い。

 日頃の習慣で、葉月は殆ど足音を立てる事がない。これは単純に部屋の前を歩く際に、客に足音を聞かせてしまわない様に気を付けた結果で、彼女自身は何か特殊技能を持っているわけではない。

 確かに元より手先は器用ではあったが、所作から始まり、華道、茶道、香道、舞踊。それ以外にもいろいろな技術を身に着けているのは、努力もしたが、単純に習う場所も時間がそれだけ多くあったというだけの事だ。

 純粋に葉月の能力を評価してくれる後輩の従業員も多く、師範の資格も持っているため後進の育成も彼女の仕事だ。

 不意に、空いた時間に葉月にお茶の入れ方を教わりに来た『モミジ』の事を思い出し、負けず嫌いなのだろうと微笑ましく思った。

 彼に迷惑をかけて振り回している自覚もあるが、彼女にとっては『客』をもてなし、満足のいく休暇を過ごしてもらう事が最優先だと思っている。

 特に雪は昔からの常連客で、『管理者』の昔馴染みだと聞いている。葉月の事を気に入ってくれて、来る度にお土産や旅の話を聞かせてくれる。

 葉月も雪の事は個人的には好意的に思っている。良い『客』で、とても付き合いやすく、無茶も言わないので、新人の教育の際はとても助かっている。

 だからこそ、雪の事が時折心配になってしまう。不相応な思いだとは思っているが、しっかりしていて面倒見がいいが、時折ひどく不安定に感じる。

 雪という名乗り通り、儚く見えて、その実とても強く、聡明だが、風に舞い散る雪の花の様に、ふわりといなくなってしまいそうな危うさが見え隠れする。

 雪は降って地面に積もれば、全てを白く覆い隠す。時には人間に太刀打ちできないほどの災害を起こすほどにもなる。けれど雪の花は、熱に弱く、生き物が触れただけでも体温で溶けてしまう。

 空を舞う雪の花ではなく、地面に積もってお互いが溶けぬ様に支え合うためには、彼と共に居てくれる存在が必要なのだ。

 思考に没頭していた葉月は、背後から近づいてくる、ひたひたという足音で我に返った。聞き慣れない足音だが、方向からして同じ場所を目指しているのだろうと思い、相手に当たりを付けて振り返ったのだが、それは予想していた人物とは違っていた。

「……あら。こんばんは。水無月」

 そこに居たのは少し存在感が薄いと評される女性、水無月だった。ひっそりとしていて、声をかけられてようやく彼女に気が付き、同僚達が吃驚する事が多い。

 けれど、この時は葉月が水無月の接近を察知できたため、やはり彼女も本調子ではないのだと思い、葉月は傷心であろう後輩を気に掛ける。

「……貴方も支配人に呼ばれているのね。貴方の担当だったのだもの。無理はしないでね」

「はい。でも、ナデシコの『指導役』でしたから」

 寂しそうに目を伏せる水無月は、葉月ほどではないが、それなりの年数をこの『旅館』で従業員として過ごしている。『指導役』を務めるのもこれが初めてではなく、今まで何人もの『世話役』を無事に務めさせてきた。

 多少奪われてしまった者達もいたが、命を失った者は今まで一人もいなかった。

 それはオバナを担当していた香月も一緒だ。彼女は生真面目なきらいがあるが、それが逆に『世話役』達を指導するのに向いていた。『旅館』の経験則で、数合わせの『世話役』達に詳しい説明をする事はしない事になっている。

 昔はまだ信仰が強く、そういった類のモノに理解があったが、最近はその話をするとこちらの正気を疑われたり、怪しい宗教だと思われたり、端から信用されずに愚かな行為を助長させてしまったりと、不利益を被る割合が多くなってしまった。結果、数合わせの『世話役』達には詳しい事は教えずに、規則を守って『客』の相手をさせる事を念頭に置くようになった。

 香月の真面目で誰にでも真摯に接する姿勢が、不安の中にいる彼らを勇気づけて、信頼と共に忠実に職務を全うさせてきた。

 今回は想定外の事が多すぎて、支配人にかかる負担が多すぎる。最近は仕事の合間に『世話役』達の動向を監視し、安否を確認しては仕事に戻るのを繰り返した結果、通常時よりも倍の仕事量となって重く伸し掛かっている。

 支配人を慕う従業員達は、彼の健康を危惧して心配の声を上げているのだが、支配人がしなければいけない仕事のため、彼らに出来るのは身の回りの手伝いだけだ。

 支配人もこの一か月を乗り切った後、予約を一旦打ち切って臨時休業する事も考えているようだ。とにかく、今が正念場だとカフェインに頼りながら、他の従業員に出来る仕事は彼らに回し、古参に疑わしい新人をそれとなく探らせながら、日夜職務に励んでいる。

 葉月達は『世話役』達が『客』に付きっきりで接待をする夕食の後に、理由を作って執務室を訪れる事になっている。

「相変わらず『世話役』達は雪様を疑っているみたいで、その話で持ち切りの様です。序で甘葛様。山伏様と支配人の順です。——雪様がそんな事をなさる訳が無いのに」

 存在感の薄さを利用して、それとなく他人の世間話を立ち聞きをして情報を集めている水無月が、大きなため息を吐いた。

「他のお客様方を疑うのも失礼だけれど、支配人を疑うという事は、この『旅館』を疑っている事になると分からないのかしら。——もっと疑われないように上手くやるでしょうに」

 支配人が事件にかかわっているのであれば、そもそも事件と認識されずに終わるはずだ。最近は疲労で表情と口が緩んではいるが、仕事のできる優秀な人なので、それらしい理由を付けて証拠を処分して、全てを闇に葬るはずだ。

「この『旅館』が存在出来るのは、支配人あっての事。彼に何かあれば、『管理者』の神は、すぐにここを無くしてしまうでしょうね。……だというのに、欲に駆られた愚か共は支配人をどうにかすれば、ここを好きにできると勘違いをして。救いようがないわ」

 『神』が訪れ、彼らに拝謁をし、『加護』『祝福』を得る事の出来る場所。

 権力者でなくても、喉から手が出るほど欲しいのは当たり前で、必然と言ってもいい。

 けれど、彼らは『神』が災害と同じだという事を失念している。台風も地震も雪崩も、人間にはどうしようもない天災だ。その災いから逃れる事は難しく、運よく身を隠して通り過ぎれば御の字だろう。

 ——何故、しめ縄をするのか?

 ——何故、神に人間は頭を下げて平伏するのか?

 神と人の領域を区切り、目に見える形で知らしめるために。

 神の姿を直接目にするのは恐れ多く、人の目が潰れてしまうから。

 この国の神は外の国の神よりは謙虚で大らかだが、自らに不敬を働く人間達を許しはしない。

 「末代まで祟る」という言葉がある様に、この国の神は一度怒れば、その怒りが収まるまで長い時を有する。外の神の方が些細な事で怒るが、せいぜい親と子供、そして孫に被害がでる程度。

 けれど、この国の『神』はその血脈が途切れるまで祟り、時には周囲にもまき散らし、甚大な被害を被る事すらある。

 どちら良いかなど答えなど無いのであろうが、どっちにしろ神の怒りを買う行為を進んでする愚か共には近づきたくないと、葉月は天を仰いで嘆きたい気分になる。

「前から、この『旅館』を欲していた人間達は多くいましたが、それを行動に移す気合の入った馬鹿は定期的に現れますよね」

 あまり表情が変わらない水無月すら、顔に疲労感をにじませている。

「この『旅館』は言わば、不特定多数の『神』のための神殿。社。『支配人』はそれを司る祭主。私達はそれを手伝う巫女」

 葉月と水無月は足を止めて、執務室の襖の方を居直る。葉月はゆっくりと息をついてから、ゆっくりといつもと変わらぬ悠然とした微笑みを浮かべた。


十一

 別の日、相変わらず雪とシキは楓の間に引きこもり、穏やか時を過ごしていた。

 シキと雪は縁側に並んで座り、小春日和の中で読書に勤しんでいた。時間を潰すためにシキが持って来ていた本は読みつくしてしまったため、支配人の許可を得て、解放されている資料室から小説を適当に見繕ってきた。

 シキもようやく雪の傍で気を抜く事に慣れ、言葉を交わさずとも空気が変になることは無い。

 前方で小さな音がして、シキは本から目を話して顔を上げると、枯れて茶色くなった落ち葉の上に、鮮やかな紅葉が落葉した所だった。積み重なった枯れた落ち葉の上に載っている紅葉が、それらの仲間入りを果たし、あとは朽ちて土に還っていくだけなのだと思うと、シキは何となくそれが恐ろしく思えてしまい、しばらくじっとその光景を眺めていた。

「……しかし、この手のミステリー小説というのは、何故かやたら探偵が事件を解決するよな。普通に考えれば、担当する警察官が犯人を突き止めるものだろう?彼らはそれが職務なのだろうし、その技術も経験も持っている筈だろうに」

 雪が探偵ものミステリー小説を一冊読み終えた所で、そんな事をのたまった。シキは苦笑しながら雪の方へ顔を向けて、次に読む小説を物色している雪を見る。

 シキと雪の間には色んな種類の小説が多数積まれており、雪はあらすじやあとがきを軽く確かめて内容を把握して、気が向いたものを手に取る。

「——まあ、何と言うかロマンというか、様式美というか。一定数、探偵という職業に変な憧れを抱いている人はいますね。本来は人探しや、不倫の調査依頼や、行方知れずのペットの捜索とかが殆どらしいですけど」

 普通に考えれば、一般人の探偵が事件の捜査に首を突っ込む事などあり得ない話なのだが、昔から根強い人気でその地位を守り続けている。

「やはり、シャーロック・ホームズや金田一耕助などが影響しているんだとは思いますが……。ぶっちゃけて言えば、物的証拠がなければ机上の空論でしょうし、警察科学捜査も凄いと聞きますし、実際に殺人事件を解決するような探偵はいないと思いますよ」

 最近では探偵でも殺人事件などではなく、日常に潜む人間の闇や日常で起こる些細な事件を解決する物も多い。やはり、一定数は所謂、嫌ミス「読んだ後に、嫌な気分になるミステリー」や、逆に血生臭い事や暗い話は好まない人もいるため、ミステリーと言っても多様化している。

「私もご都合主義が過ぎるのはどうかと思いますが、そういった誰も不幸にならない話も嫌いではないです。実際問題、登場人物全員が幸せになる話なんてそうはありません。あっても、ご都合主義が酷くて、登場人物の言動がおかしくなり、明らかに悪い事をしているのに何故かあっさり許されて、何故か仲間になったり」

 読んでいても途中で飽きてしまうか、内容に突っ込むのに疲れたり、一週回って面白くなってきたりした後、何を読んでいるのだろうと悟りに入ったりと、忙しないのだとシキは苦笑する。

「まあ、誰も傷つかないのであれば、それが一番いいのだろうが、現実はそんなに上手くはいかないよな。侮辱されて突発的に殺人事件を起こすし、ずっと昔の些細な事を根に持っていたり、嫉妬に狂ってやらかしたり」

 雪が手に取ったのは一昔前に流行った事がある恋愛小説だ。シキはちらりと映画のコマーシャルを見ただけだったのだが、本棚に並んでいるのを見て試しに読んでみようと持って来ていた。

 資料室の本は多彩で、小説、文学、図鑑、専門書、料理本、エッセイ、絵本、写真集と、かなりの量が蔵書されていて、ちょっとした図書館の様になっている。

「加害者は忘れていても、被害者は覚えている。という事は珍しいくはないですし」

「——俺達からすれば、そんな些細な事は忘れて、とっとと前へ進めばいいと思うんだがな。ただでさえ生きる時間は限りがあるうえ、記憶の容量だって限られているというのに、無駄にしすぎだと思うがな」

 人よりも遥かに長い、有給の時を生きる『神』にとっては、限られた時の中で生きる人間の大事を、それらを些事だと、時間の無駄だと一蹴してしまう。

 逆に人間からすれば些細な行為が、彼らの琴線に触れて、良くも悪くも影響を及ぼしてくる。

「少なくとも、君の事は無駄ではないと思っている。人間に犯人呼ばわりして疑われるのも、なかなかできない経験だしな」

 不意に雪が文章から目を離して、シキの横顔を眺めながら、子供の様に楽しげに笑う。

「——雪様。……前から不思議だったのですが、どうしてそれほどに私に目をかけて下さるのですか?」

 おそらくは自分の勘違いや自意識過剰などではなく、理由が定かではないが、雪が自分を気に入ってくれている事は、さすがにシキにも分かる。

 本から雪へと視線を移すと、楽しそうにこちらの反応を観察している雪と視線が合った。

「——それは『君』に出会ったからさ。本当にただの偶然で、ただの感。本当にただ何となく、君が良いと思った」

 雪の言葉を聞きながら、シキは彼が持っている恋愛小説が運命という言葉を多用して宣伝していたなと、意識の隅でそんな事を思う。それと真逆の事を平然とのたまう雪は大物なのか、——いや、『神』だったなと、妙に納得する。

 運命というものは、誰だってロマンを感じて、そんな相手がいたらと夢想をする。けれど、そんな相手はいないのだど、どこかで自分で見切りをつけてしまう。

「それ、雪様だから言って許される台詞ですね。人間だったら見た目が良くても、人によっては引かれますよ」

「君、酷い物言いだな。俺だって、時には傷つくんだぞ」

 大して気にした様子もなく、わざとらしく眉を下げて、しょんぼりとした表情を浮かべている雪に、シキは小さくため息を吐く。

「本当に顔は良いですよね。美人は普通の人よりも利益が多いって、昔何かで見たことがあります」

「まあ、言っちゃ悪いが、商売道具の側面もあるからな。そりゃあ、美人だろう」

 それを言ってしまっていいのだろうかという発言を平然と口にする辺り、やはり雪は大物なのだろうと、シキは感心するしかなかった。


「……そういえば、雪様ってここに何度も足を運んでいると聞きましたが、毎回あんな風に、一人で辺りを散策なさっているのですか?」

 その日の夕餉の後、さっさと膝枕を所望してきた雪に応えながら、シキはこの人は太らないのかと首を傾げていた。

 初日からしばらくは外を出歩いていたので、十分に運動をしてはいたが、ここ最近は部屋に籠っている。それに付き合っているシキもさすがに自身の運動不足を危惧して、自室に戻った後、軽くストレッチやスクワットなどをして、ささやかな抵抗をしている。

「んー。いや、まあ。滞在はしているが、この時期に来るのは稀だな。良い所ではあるが、一週間ぐらいの滞在が殆どだ。結構昔に『世話役』を付けた事はあるが、もっと短い期間だった。これほどの長期の滞在は初めてだな」

 どうやら別のプランもあるらしく、そちらは一週間だと聞いて、シキはそちらの方が安全なのではと考えているのが分かっているらしく、雪はにやりと口元に笑みを浮かべる。

「言っておくが、そっちは一週間ごとに客が変えての一月だぞ。よほど要領が良くないと対応できないだろ」

 あまり人付き合いが得意でないのを自覚しているので、シキは反論できずに押し黙る。くすくすと小さく笑った雪はもぞもぞと動いて体勢を変えて、頭を丁度いい位置へと動かす。

「——まあ、ここに来たのは私用もあったんだ。知人に頼まれて少々探し物をしていた」

 探し物をしていたから毎日出かけていたのかと、彼の答えに納得しながらも、シキには新しい疑問が浮かんでくる。

 今は部屋に引きこもっているが、それは下手に動いて周囲を混乱させないための措置だ。けれど、雪が探索を止めたのは疑われるより前だった。

 ——大雨が降って、オバナがいなくなってしまった日。支配人も雪が探索を止めると知っていて、それをシキに伝えてきた。

「……探し物は、見つかりましたか?」

 探している物を尋ねる勇気がなく、シキはそれが見つかったのどうかだけ確かめてみた。

 部屋の清掃は葉月と共に毎日行っているため、部屋の様子が変われば気が付くはずだ。雪は持って来ている私物は必要最低限で、着替えと必要な日用品の類だけ。急に荷物が増えた様子は見受けられず、あったとしても旅行鞄の中に収まる大きさという事になる。

「いや。目星はついているから、もう直、見つかるだろうさ」

 「もう直」という言葉が発せられた瞬間に、最近は感じなくなってた筈の、得体の知れない恐怖がシキの背筋を這いあがっていく。体が強張り、息が詰まる。

「——どうかしたか?」

 強張った瞬間に筋肉が固まり、違和感に気が付いた雪が目を開けて、肘をついて頭を上げて、シキの様子を窺う。

「……いえ。すみません。……探し物が、早く見つかるといいですね」

 シキを心配している雪の瞳に、自分の面に覆われた顔が映っているのが見える。まるで月の様だと関係ない事を思いながら、とっさに繕った。だが、雪にはその事はばれていると分かっていたが、そのまま押し通す事にした。

 雪から『旅館』の話を聞いて、落としどころを見つけて落ち着いた筈だったというのに、ここに来て得体の知れない恐怖を感じてしまったが、そのおかげで、ようやくの恐怖の理由に気が付いた。

 ——これは上位の存在の『神』に対する、人としての本能的な恐怖。

 きっと、雪が探している物は、それが生き物だろうが生きていない物であろうが、それは碌な結末を迎えないのだろうと予想できてしまう。

 シキが何かに恐怖を感じた事自体は、反応で察する事が出来たとしても、人間ではない雪には、その恐怖は理解する事が出来ない類のモノだ。

 だからこそ、シキはごまかし続ける事にした。それを伝えて認識させてしまったら、この穏やかな空気を滞在中に保つことは難しい。

 一期一会の出会いを良いものと、綺麗な思い出として残すために、これは必要な事だと強く心に決めた。

 シキは話題を変えたいと思い、何かいいネタは無いかと思案していると、何気なしに雪が積んでいた本の山に手を伸ばし、一番上に置かれていた推理小説のタイトルを指でなぞる。

「——君は、俺が今回の犯人だとは思わないのか?」

 前に自分は犯人ではないと主張していたにも拘らず、雪は本から手を離して、手にしていた小説へと目を向ける。

「……いえ。そういえば、雪様を犯人だと思った事は不思議とないですね。自分の知人が犯人だと思いたくないだけかもしれませんが」

 シキは俯けていた顔を上げて、雪が本に視線を落とす様子を眺める。

「推理小説は、犯人正体。犯行の方法。犯行の動機、理由。これらで構成されていて、大概の場合は、犯人が誰かという作品が多いそうです。けれど、作品によっては、犯行の動機を主軸に置いた話もあって、私も犯行動機というものは推理小説では大切だと、個人的に思っています」

「まあ、確かにな。理由がないであれば、それは災害と大差がない。ただ、運が悪かったとしか言いようがない」

「だから、雪様との付き合いは短いですが、何となくですが、意味もなく人を傷つける事はしないと思っています。この場合は、オバナさんも、ナデシコさんも、雪様の担当になりたがっていましたが、貴方はこれを断っています。『旅館』の規則では、最初に着いた担当が優先される。貴方が望めば、二人を外す事は簡単ですし、実際にそうしています」

 雪は小説の文字列から目を離し、布で隠された顔へと向ける。

「良くも悪くも、貴方は平等でしょう。先ほど貴方が仰ったとおり、何の理由もなく向けられる悪意は災害と大差ありません。——逆に言えば、理由のある悪意は、相手への何らかの激しい感情です。許容量を超えた時、人間は何らかの形で発散しなければ、自分が耐え切れなくなって壊れてしまう。誰かを傷つける行為は、その発散の理由の一つです」

 許容量のは個人で差異があり、些細な事で限界を迎える事もあれば、よほどの事が起こらない限り限界がこない人もいる。まったく同じように傷つけても、相手によってその痛みの感じ方も違う。

「私の兄弟にも、基本的にはあまり怒らないのに、日頃の小さな積み重ねで限界を迎えた切欠が、本当に些細な注意だった事があります。穏やかな人ほど怒ると怖いというのは、そういう事でしょう。容量が多いが故に、溜まっていた物が溢れ出すと、一気に全て流れ出して濁流となって襲い掛かってくる」

 不意に、シキはここでの日々を思い返しながら、やたら許容量が多いであろう神様に微笑みかける。

「貴方は長くを生きて、多くの物を見てきた。他人と接する時に、自信が許せる範囲で、お互いが一番痛みの少ない方法をとっている。……二人の人間を他の神の土地で、他の神が決めた決まりを破ってまで、どうこうする理由がありません。貴方は『客』で、彼らは『従業員』。それ以上でも、それ以下でもない」

 ……それに比べると、自分は随分と好待遇だな。シキはそんな事を思いながら、色の薄い、凪いだ水面の様な空を見上げる。

「——私は性善説という物を全く信じていません。むしろ、性悪説の方を押しています。だからこそ、悪人にならない様に、自分の天秤で測りながら、手探りをして生きています。自分がこうだから、結局は自分の価値観でしか、貴方を見る事が出来ません。私の勝手な価値観では、貴方が犯人だと思わない」

 結局の所は、シキが雪の事を信じていたいだけ。自分の知る相手が悪人だと思いたくないだけ。勝手な自身の都合。

「——君は、俺が『神』で、人間ではないという事を軽く考えている」

 空を眺めていたシキの体が、生き物が持って生まれた本能的な危機管理能力が、命の危険を感じて反応する。

 人間は恐怖のあまり動けなくなる、という文章は何度も読んだ事はあったが、シキ自身がそれを体験した事は覚えている限りは無い。

 ジェットコースターに乗った時の浮遊感とも、何かにぶつかりそうになってとっさに目を瞑ってしまった時とも違う、経験のない——知らない恐怖に、シキの体は金縛りのように動けない。

「——『神』は災害と変わらない。そこに理由があれば、人間を傷つける事に罪悪感など覚えない。人間だって、人間以外の生き物を殺して生きている。『神』は自分の利益のためならば、どこまでも我儘になれてしまう」

 頭の上からつま先まで、ほとんど身動きが取れない状況でも、何故だか眼球はシキの意思で動く。彼の眼球の可動範囲の限界まで動かして、隣にいる『神』に視線を向ける。

「——だからこそ、『神』は決まり事を大切にする。自らの理性で、自らを縛って、自らの欲求を抑えている」

 雪の顔には感情が無く、金色の瞳がただシキだけを映している。白銀の髪が日の光で輝き、染み一つない白い肌は新雪のように穢れを知らない。桜色の唇から紡がれる言葉は、風の様にシキの体を優しく撫でる。

「——だから、君は、俺は信用してはいけない。たとえ君が傷つくとしても、俺は自分の欲求を優先してしまう」

 そこで、シキは雪と初めて会った時に、目を奪われるほどの衝撃を感じた事を思い出した。

 それは人間が壮大で美しい景色を見て、抱えきれない感情のあまりに、言葉が思いつかず、呼吸すら忘れそうになるほどの衝撃と酷似している。

 ——『神』は自然の一部。ある者は立ち眩むほどの高さからの光景。ある者は遥か遠くの地平線へと沈む太陽。ある者はどこかへと通じている広く深く暗い海原。

 シキは、それらと同一の感情を雪に感じていたのだと気が付く。一目見た瞬間に受けた感情と、人間という形をしているが故の矛盾によって、シキには理解が出来なくなってしまっていた。

 どんなに美しい光景だとしても、それらに触れることは出来ない。それらは遠くにあって、触れようとすれば人間を滅ぼしてしまう。

 雪に感じる恐怖は、炎の美しさに魅入られて手を伸ばした結果、炎が肌を焼く熱さだったのだと、シキは遠のく意識の中でようやく理解した。


「……き。…き。……し……。」

 ふわふわとした意識の中、自分を読んでいる声が木霊する。その声を言葉として認識はできないが、声が自分に向けられていると感じていた。

 夢と現の曖昧な狭間に漂うのはとても心地いい。体の感覚が曖昧で、ふわふわとした意識が揺蕩うような感覚だけがそこにある。

 きっと母親の中にいる赤ん坊はこんな気持ちなのだろうと、漠然とした意識の中で考えていたが、ひやりとした感触が彼の覚醒を促してきた。

 ひやりとした感触の後、彼の体温が僅かに下がり、触れている感触が徐々に温まっていく。

「……君。君も大概、寝起きが悪いんだな」

 声が言葉と認識されて、シキは自分が誰かに呼ばれている事に気が付く。心地よい眠りを惜しみつつも、自ら覚醒する意思を示すと、一気に体の五感が外界の情報を脳へ伝達される。

「——ようやく目が覚めたか。少し、脅かしたつもりだったんだが……、またやり過ぎてしまったようだ」

 目を開いたシキの眼前には、申し訳なさそうな雪の美しい顔と、茜色に染まりつつある空と薄い雲が広がっている。

 人間の五感の中では視覚情報が大部分を占める。目を閉じていた時は曖昧だった空間把握能力を取り戻し、自分が仰向けに寝転んでいている事に気が付く。

 そしてシキの頭部が仄かに温かく、程よい硬さと弾力性のある感触があり、顔を覗き込んでいる雪の位置から察するに、自分が彼に膝枕をされている事に気が付いた。

「……これは一体どういった状況なのでしょう」

 現状が呑み込めずに、目を瞬かせて視線をあちこちに向けているシキに、雪が苦笑を浮かべて答えてくれた。

「——すまない。君があまりにも無防備だったから、少し脅かして注意をしようと思ったんだが……。至近距離での力加減が、これほど難しいとは思わなかった」

 シキが体を起こそうと力を入れると、雪が背中に腕を入れて支えてくれたので、すんなりと上半身を起こす事が出来た。

 シキが辺りの様子を確認すると、部屋に置かれていた本が、全て部屋の隅に押し込まれて撤去されている。

「……次からは体験させる前に、口で注意してから、強硬手段を取るようにして下さい。何のための言葉だと思っているんですか……」

 少なくとも言葉による意思疎通が可能なのであれば、まずはそれを試みた後に、通用しなかった場合に最終手段としての力技だろう。それでは戦争も待ったなしだ。

「……いやな。君があまりにも強かだから、つい、大丈夫かなと思って」

「そういう事思う人ばかりだから、うっかり殴って人殺しをしてしまう人が後を絶たないんです。人間なんて、下手をすれば思い込みや、驚いた拍子にあっけなく死んでしまう生き物なんです」

 根拠のない過剰評価のせいで卒倒させられた側の身にもなって欲しいと、シキは大きなため息を吐いた。

「本当に申し訳ないと思っている。……けど、君ももう少し『神』に警戒した方がいい。確かに俺たちは君達と言葉を交わして意思疎通もできるし、俺は君達の常識という物を知りはしている。……けれど、知っている事と、それに沿った行動をするかは別物だ」

 日本人が海外に滞在する際に困る出来事に、一般常識の違いが多いという。

 例えばハワイは日本人の旅行先として人気だ。日本語が通じる場所も多いし、案内板も日本語で書かれていたりと、英語が話せなくても困ることは無い。

 けれど、ハワイは外国で、銃社会であるアメリカだという事を忘れてはいけない。日本の様に夜に一人で歩いていても平気な国は希少で、その常識は日本だけのもので、外国では全く通用しない。

 ハワイはその国の法律の中にあり、民間人の銃の所持が認められているのだ。一万円にも満たないお金のために、平気で人殺しをする人間が当たり前にいる国だってある。

 基本的には、人間社会は人間の命を尊ぶ。だから人殺しを忌避するのは自然な事だ。けれど、時と場合によっては、命よりもお金が優先される事もある。

 雪はシキに対して、言葉が通じて、人の姿をしていても、違うの生き物で、異なる決まりと考え方で存在しているのだと、理解させたかった。

「……確かに、そうなのかもしれません。やはり人の姿をしていて、こうして言葉を交わしていると、自分と同じなのだと心のどこかで思ってしまう」

 雪と話していると、気が付けば彼が『神』という存在だという事を失念してしまう。シキにとっては人の姿形をしていて、言葉が通じて意思疎通ができて、一般常識を弁えている。それだけで十分に、『人』なのだと思ってしまう。

「……俺個人としては、君に好意的に見られるのは嬉しい事だ。けど、それは俺が君と言葉を交わして、君の事を気に入っているからだ。ここの『客』達は、基本的には人間に対して友好的だ。接し方は異なるが」

「……食べるのもですか?」

 少し意地悪かとも思ったが、シキは先ほど気絶させられたばかりなのだから、これぐらいは許されるだろうと思い、思い切って思ったことを口にする。

「君だって、嫌いな物や気に入らない物や変な物は食べたくないだろう」

「極論過ぎませんか?カニバリズムは創作の中だけでお願いします」

「……あー。確か、人が人の肉を食べる事だったか?言っておくが、俺もそんな趣味趣向は持ち合わせていない」

 俺はと、自分の事を強調するあたり、やはり人肉を好む『神』もいるのだろうと、シキは顔を引きつらせる。

「——俺も含めて『神』は基本的には完成された状態で始まる。だから、最初から自分の事は自分が一番理解している。けれど、人間はそうではないし、俺達からすれば想像すら出来ない事を仕出かす。そして色々な事を作り出す。だから、俺は人を面白いと思うし、人を好いている」

 シキの事を真っ直ぐに見つめて、雪は朗らかに微笑む。

 人間と同じように話し、同じものを見て、同じものに触れて、同じように笑う。

 けれど、やはりシキと雪は全く別の生き物で、違うものを見て生きているのかと思うと、シキは胸の奥が少し痛み、酷く寂しくなってしまった。


 人間は慣れる生き物だというが、本当にその通りだとシキは一人感心していた。

 正直な所、今でも人間ではないという所に時折戸惑う事もあるが、最初の頃の様な恐れを抱く事はかなり減った。

 むしろ、シキの周りにいる者達は彼に良くしてくれる。単純な性格と言われれば納得しざるおえないほどに、彼はこの『旅館』の事が、それなりに気に入ってしまっていた。

 きっと、雪は早かれ遅かれ、シキの事を思い出に昇華するか、忘れてしまうかのどちらかだ。できれば彼の記憶の隅でもいいので、こんな人間がいたのだと覚えていて欲しい。

「——なら、形がある方がいいか」

 ポロリと口から零れた言葉に、隣を歩いていた葉月が首を傾げた。

「……どうかした?」

「あ、すみません。あの……、私物を『客』に渡すのは駄目でも、この旅館で得た材料で作った物を渡すのは、規則的にはどうですか?」

 シキの唐突な質問にも、葉月は目を瞬かせながらも、すぐに答えてくれる。

「……そうねえ。規則的には問題ないと思う。その物品に髪とか血とか混ぜ込まなければ」

「……私は人に呪物を渡したりしません」

 そんな呪物を送るようなメンヘラになった覚えは無いと、首を横に大きく振ると、葉月は茶目っ気のある微笑みを浮かべる。初めて見た葉月のあどけない少女の様な仕草が、年下である筈のシキにも愛らしく思えた。

「——ちなみに、何を渡そうと思っているの?」

 幼子を見るような微笑ましそうな視線が少し恥ずかしく、シキは視線を逸らして廊下から見える景色へと向ける。薄暗くてもそこにある木や花の美しさが衰える事は無い。

「……雪様は割と本を読むお方なので、この旅館の紅葉を加工して押し花として栞を作ろうかと。道具と電子レンジをお借りすることになりますが」

 この旅館の売りは、サービスと周りに広がる四季折々の景色だと聞いていたし、シキ自身もその景色に見入ってしまう事が何度もあった。

「それなら問題ないと思うから、あとで支配人に聞いておくわね。必要な物を教えてくれる?」

 シキは以前に、興味本位で調べた事のある押し花の作り方を思い出し、葉月に告げる。出来ればしおりを覆うフィルムも手に入れば長持ちしていいのだが、それが無くても栞を作ること自体は問題ない。

「……できれば、葉月さんにも受け取って頂きたいのですが……、その……ご迷惑でなければ」

 有難迷惑になってしまい、葉月に不快な思いをさせないかと不安に思いながらも、勢いのままにシキは伺いを立てた。

 すると、シキの不安など馬鹿らしくなるぐらい、葉月が嬉しそうに笑う。人の感情の機微に疎いシキでも、これが好意的な反応だと分かった。

 安堵でほっとして、シキははにかみながら葉月の好きな植物を尋ねる。

「……そうねえ。押し花にするのであれば、確か水分が少ない物が良い筈よね。ああ、でもそうね。できれば楓の葉が良いかしら。貴方から貰う者だもの。雪様もそうじゃないかしら」

 『モミジ』は紅く変化した葉の事を指す言葉で、本来は広義の言葉だ。今は紅葉した楓の事を指すことも多いのだが、確かにシキが贈るのにはふさわしい植物と言える。

「本来は自分の名に由来する物は気を付けるべきなのでしょうけど、そもそもが一時的な仮初の名前だもの。材料も『旅館』由来の物であれば問題は無い筈だから、楽しみにしているわね」

「——ありがとうございます。我儘に付き合ってくれて」

 もうじき任期を終えて旅館を去る事に、シキが哀愁を覚えてしまっている事を葉月も察している。多少怖い目を見たとはいえ、シキにとってもかけがいのない思い出の一つになりそうな事に、葉月は内心では喜んでいた。

 本来であれば不用意に『客』と縁を結ぶのは良い事ではないけれど、この『旅館』を介すれば問題は無い。

 この思い出が雪にもシキにとっても、良きものになる事を葉月は祈っていた。

「——送っていただいて、ありがとうございました」

 ここ最近はずっと葉月に部屋まで送り迎えに来てもらっているため、シキは深々と頭を下げて礼を口にする。

「ふふっ。貴方を安全に気を配るのも、私の仕事の内だから」

 善良な青年から伝えられる感謝の言葉は、どんな時だって嬉しいものだと、葉月は胸が温かくなるのを感じていた。

 長い間この職務に携わってきたが、沢山の経験と出会いを重ねても、それでもやはり葉月は自分が人間なのだと、胸を張って言える。

「じゃあ、おやすみなさい」

 挨拶を交わして、シキが自室に戻って扉を閉めるのを見送った葉月は、支配人の所へと向かうために踵を返した。

 その瞬間、どこからか向けられる視線を感じて、葉月は足を止めて周囲を見回す。

 葉月はあくまで従業員なので、おもてなしをするための技能は磨いているが、それ以外はからっきしで、特殊能力は持ち合わせていない。けれど、長年接客業で培ってきた経験と勘が警鐘を鳴らしている。

 部屋というのは襖などで区切ってしまえば、それだけである程度の守りを得られる。さらにこの旅館では、一時的にその部屋の主となった者が扉を閉めてしまえば、一種の防御の結界となり、よほどの事が無ければ突破することは不可能だ。

 それができるのはこの土地を『管理者』の神と、それを代行している『支配人』だけだ。……そのせいで、支配人があらぬ疑いを受けてしまっている訳なのだが。

 周囲を目を凝らし、耳をそばだてて気配を探るが、残念だがその気配は途端に途切れてしまう。

「……やはり、支配人のいう通り、『何』かがいる」

 速く脈打つ鼓動を宥めつつ、葉月はその場を後にした。


 翌日には、さっそく朝から葉月に付き合ってもらって、材料を探しに散策に出た。とはいっても、シキは並木道の楓の葉を使用すると決めていたので、そこで傷が無く色が落ちていない楓の葉を選別して持ち帰った。

 不意に目に留まったのは、以前に雪と話した時に、彼が鬼がいるのだと見ていた楓の木。

 ふわりと、シキの体を撫でる様に通り過ぎた風が、楓から葉を攫う。舞い散った葉が、シキの目の前にゆっくりと落ちてくる。それをシキは両方掌で、水を掬う様に受け止める。

 受け止めた楓の葉には傷もなく、鮮やかな紅色をしていて、シキは一目で気に入り、これにしようと決めた。日頃は優柔不断で迷ってばかりではあるが、こういう時に切欠さえあれば勢いのままに決められる。

 この美しい紅色をどれだけ残せるかは分からないが、成功する事を祈りつつ、持って来ていた紙に挟んで保管する。

 他の人の分と念のための予備にと、楓から数枚ほど紅葉を取り、それを持って執務室へと向かう。

 昨夜のうちに、葉月が報告の序に支配人に許可を得てくれた。だが、支配人が電子レンジを使うのであれば、自分の部屋の物を使う様にと言われている。

 確かに、調理場にあるオーブンレンジは、元より客に出す場合に使用される。彼の意見は至極もっともだ。シキとしてはレンジの機能を使わせてもらえれば、どれでもいいので、ありがたく利用さえてもらう事にした。

 本来は押し花を作る時は、紙や本に挟んで重しを乗せて、時間をかけて乾かすのだが、生憎そんなに時間はかけられないので、電子レンジを使う。

 楓を紙に挟んで、焦げたりしない様に気を付けながら数十秒間電子レンジにかける。楓を挟んでいた紙をそっと外して、しばらくの間、空気に晒して乾かすだけだ。

 幸いな事に、保護用のフィルムを支配人が持っていたため。報奨の一部として分けてもらう事ができた。さらには質の良い和紙とリボンも報奨と銘打ってくれたため、シキは深々と頭を下げて支配人に感謝を伝えた。

 乾燥中の楓の葉は、しばらく支配人が預かってくれる事になった。支配人が色々と協力をしてくれる事にシキは首を傾げた。

 実の所、支配人としては自分が管理する『旅館』での思い出を、関係者全員に出来るだけ良い物にして欲しいという思いは持っていた。それを当人は伝えられないし、『世話役』達が察する機会がないだけの話。

 用事を終えたシキは、葉月と共に一旦彼の自室に寄った後に、楓の間へと急いだ。


「今日はえらく機嫌が良さそうだな」

 葉月と共に朝餉を机の上に並べていたシキは、雪にしげしげと眺めながら言われた。

「……えっと、いつもと変わらないですが」

 そんなに分かりやすかっただろうかと思いながらも、シキは出来うる限りいつも通りを装うが、その背後で葉月がくすくすと口元を押さえて笑いを堪えている。

 実のところ、今朝も支配人に同じ台詞を言われていたので、それを思い出しての二人の反応だった。

 シキとしては、元々、花や葉を愛でるのは好きだし、こういう簡単な工作の類も好んでいた。その結果の妙なテンションの高さで、支配人に怪訝な顔をされて慌てて繕ったのだが、支配人も葉月にも苦笑されてしまった。

 そんな時に執務室を香月が訪ねてきた。テーブルの上にずらっと並べられた楓の葉に、目を丸くしてシキ達を順番に見てきた。

 その視線が現状を問うているのがありありと分かったので、シキが「記念に作っています」と答えたのだが、作る理由を察した香月は「へぇー」と呟く。

 その『へぇー』の意味を問いたい所だったが、シキにはそんな度胸は持ち合わせていない。徹夜明けの様な変なテンションの自分が恥ずかしく思えて、気まずさで言葉が出てこなかった。

「支配人。水無月は少し遅れてからくるそうです」

「そうか。葉月達は仕事の方に戻ってくれ」

 仕事と言われて、シキは目の前に並ぶ楓の葉を下の紙ごと移動させようとすると、支配人に止められた。

「隣の部屋が空いているから、後で運んでおく。客を待たせるな」

 最終的には、気を利かせた支配人の自室で預かってもらう事になった。

 そんな会話をしている最中に部屋の外から声がかかり、水無月が来たので、シキ達は入れ違いに部屋を後にした。

 こういった経緯を経ているので、その質問は今のシキには少々反応し辛い。楽しげに忍び笑いを擦る葉月に、雪は自分だけが理由が分からない事に不満そうに唇を尖らせた。

「なんだなんだ?なんだか疎外感を感じるぞ」

 子供の様にむくれる雪に、シキは目を細めて八つ当たりの意味も込めて物申す。

「——これでお相子では?私は半月以上疎外感を覚えていました」

「ぐっ……」

 事実は時により嘘よりも痛みを与えてしまうものだ。一方的な被害者からの指摘に、雪は反論が出来ずに呻く。

 両方の事情を最初から知っている葉月は、完全に傍観者として気楽そうに成り行きを見守っている。

「……君。結構、根に持つ性格なんだな」

「まあ、最近の事ですので。さすがに一年も過ぎればある程度は許せますが」

 あと数日の付き合いなのだ。少しぐらいずけずけと物申してもいいだろう。面の下でシキはにっこりと作り笑いを浮かべた。

「……まあ、いいか。これぐらいの方が、俺としても気楽だしな」

 準備が終わり、机の上に並んだ食事を前にして、三人は手を合わせて「いただきます」と挨拶が自然と揃う。

 ちなみにこの日の朝食は、何故だかかなりお洒落な洋食だ。焼きたての香ばしい香りを漂わせたバケット。レタスとトマトと胡瓜のサラダ。カリッと焼いたベーコンとスクランブルエッグ。そしてオレンジジュース。ちなみに食器は真っ白でシンプルなもの。箸を使っているのはご愛敬だろう。

 焼き立てパンの香りは幸せを感じさせるのだと、何かの記事で見たことを思い出しながら、シキは充分にその幸せを嚙み締める。

「本当に、ここの料理人の方は凄いですね。何でも美味しく作れるんですから」

 シキが記憶する限り、厨房にいる料理人は日によって入れ替わりがあるものの、基本的には同じ顔ぶれの様だった。食事や掃除などは客がいる限り休むわけにはいかないので、無理が無いようにシフトが組まれている。それでもどの日も料理が美味しいのは、全員が確かな腕を持っている証拠だ。

「——そういえば、俺が知る限り、料理長は五十年ぐらいは同じ人だよな?」

「ええ。けれど、旅館が長期の休業の時などには許可を取って、料理の勉強のためにあちこち飛び回っていらっしゃいますし、自らの腕を鍛える事に余念がない方です。ここにいれば、多少は世間に疎くなる事と、表立って世間から評価されるのを諦めれば、修行をする時間は沢山ありますからね」

 あの人は料理馬鹿だと、葉月は楽しそうに笑う。

 自分の好きな事をして、お金が稼げるのであれば、それはとても幸せな事なのだろうと、シキは話を聞きながら思う。

 けれどそう上手くいくのは本当に一握りの人間だけだ。

 趣味を仕事にすると、嫌いになってしまうから止めた方が良いと語る人もいる。それが嫌で、あくまで趣味で終わらせる人も多い。

 ここの料理長も、給金と料理を極めるためのコネと時間を得る代わりに、世間での評価という物は諦めている。

 シキは楽しげに話す雪と葉月を見て、憧れて羨ましく思うと同時に、とても寂しく思う。やはり遠い場所の存在で、これは一時の夢なのだと理解していても、今ある心地よい空間を失う事への寂寥が消える事は無い。

 何時か、この思い出が薄れる頃には、未練を断ち切る事は出来るのだろうかと、目の前にある光景を眺めていた。


 その日、シキと雪は二人で花札をして過ごしていた。

 雪が暇つぶしに借りてきた道具の中に花札があり、それを見たシキが甘葛の所でやった事を思い出して、何気なく手に取った。雪に花札をするのかと尋ねられたので、ルールが分からなかったので四苦八苦したと話したところ、こういう物は慣れてこそだと促されて、雪と勝負する事になった。

「トランプの時も思ったのですが、運要素が強い遊びって、神様相手にするのって不利過ぎません?」

 全く役が揃わずに、ひたすら連敗記録を更新し続けているシキが不満を漏らした。

「んー?まあ、多少は補正みたいなのは掛かるが、ここは他の『神』の領域だからな。大して君と違わない筈だ」

「……それだと、私が単純に弱いだけですか?」

 いくら初心者だとしても、回数をこなせば偶々役が揃っても良いものなのだが、シキの間が悪いらしく全く揃わない。

「リアルラックが低いことは承知していましたが、流石に一度も勝てないのは悔しいです」

 悲しいかな。シキはビンゴゲームやくじ引きなどで、何か商品を得た事は殆ど無い。一度、餅まきの時に、偶然空中でキャッチした餅で、掃除機を手に入れたぐらいしか思いつかない。

「運だけじゃなくて、君は良くも悪くも臆病だからな。偶には感を信じて博打を打つのも大切な事だ。君は揃い辛い役よりも、揃い易い役を優先しすぎている。こういうのは相手動向も伺って、取捨選択をするのも大切だ」

 雪はシキの顔が見えない分、他の事で彼の反応を窺っているのだが、その事にシキは気が付いていない。些細な動きで彼の行動を予測して、雪は対応を決めている。

 ……臆病な割には負けず嫌いなのだな。雪は布で隠された表情を想像しながら、シキが手札を睨みつけて熟考するのを眺めていた。

「——失礼します。雪様。少し『モミジ』をお借りしたいのですが……」

 支配人に呼び出されていた葉月が部屋に戻って来ると、シキに用事があるので席を外す旨を伝えてくる。

「ああ。構わない」

 快諾をした雪に、シキと葉月は礼をしてから部屋を後にする。

「……とりあえず執務室に来て欲しいの」

 心なしか表情の硬い葉月に促されて、シキは執務室へと向かう。すると、執務室の前で支配人が険しい顔をして立っていた。

「——……ああ、来たか」

 短い言葉を呟いた後、支配人は執務室よりも奥にある襖を開いた。説明もされずにつれてこられたシキは促されるままに、その部屋へと足を踏み入れる。

 前に聞いた話では、執務室の隣は支配人の自室の筈だと思い出しながら、シキは目の前の光景に目を大きく開いた後、何かを堪えるように口元を引き締める。

 その部屋の間取りは隣の部屋と同じなのだが、物が少なく閑散としている分広く感じられる。置いてある家具はベットとローテーブルと、箪笥と本棚。けれどそれらは本来あるべき場所には無く、部屋のあちこちに散らばっている。

 中身がぶちまけられた引き出しと衣類。倒された本棚からは大量の本が雪崩落ちている。周囲に散っている布や綿や羽毛は、ベットの上に合った寝具が切り裂かれた結果だろう。

 ——そして叩き潰されたテーブルの木片と共に、踏み躙られたであろう楓の葉だった物の切れ端が所々に落ちていた。

「……すまん。少し用事で出て戻ってきたら、この有様だった」

 申し訳なさそうに眉を下げる支配人に、シキは必死に平静を取り繕って、声が震えそうになるのを堪えながら口を開く。

「……こちらこそ、申し訳ありません。折角のご厚意で道具や場所を提供していただいたのに。心を煩わせる結果になってしまい、申し訳ありませんでした」

 深々と頭を下げたシキを葉月が痛ましげに見つめている。誰だって、幾つになったとしても、自分の好意を悪意で踏みにじられるのは苦痛だ。

 乾いた楓の葉はとても軽い。下手をすれば簡単な動きでひらりと動いてしまう。その楓の葉がここまで重点的に破壊され、細かく千切られているのは、その行為を意図的に行ったから。誰かが悪意を持って、楓の葉を破壊したのは明白だ。

 むしろ、支配人の部屋はとばっちりを受けただけなのだろうと思い、シキは悪意で胸が痛むのと同時に、自分の行為の結果で、被害を被った支配人に申し訳なくなる。

「ああ。言っておくが、むしろ貴重品は執務室の方に置いてあるから、俺としては大して問題は無い。今日、寝る所がソファーになるだけだ」

「……支配人。空き部屋でちゃんと布団で寝ましょう?」

 さらりと看過できない不健康を口にする支配人に、葉月はため息を吐く。

「……ここで一番防衛力があるのは執務室ですからね。部屋の主である支配人の在室時であれば、殆どシェルターみたいなものです。だからこそ退室時を狙われたわけですが——」

 葉月が濁した言葉の先を支配人は予想がついている。この『旅館』の部屋は一部屋ごとに結界が敷かれ、襖や障子を閉め切れば、簡易の結界が即座に出来上がる。

「境界を仕切る事に関しては、うちの『管理者』に叶う相手はそうはいない」

「そもそも、この『旅館』内に侵入できるだけの力があれば、誰かしらが気が付くと思うのですが……」

 支配人は一時的にしろ、この『旅館』の敷地全ての管理を任されている。その彼が気が付かないという事は、よほど侵入に特化した相手なのか、もしくは弱すぎて気が付かないか。

 さすがに、『管理者』よりも上位の神が無断で侵入する愚行を犯す訳が無い。むしろ上位になればなるほど、感情といった類は薄れていき、もっと純粋な現象の様な存在になっていく。

「……もしくは——」

 支配人はそこで言葉を区切った。おそらくは自分の考えている事は、正解に近い筈なのだから。

「——どっちにしろ、他の客室の結界を、一時的にだが強くするしかない。……悪いが、『世話役』とその他従業員は、何組かに分けて大広間で就寝。分散していた力を絞って守りを固くする」

 今後の方針を決めた支配人は顔を上げて、沈みかけた夕陽を見つめる。その目には夕陽の色が映り、闘志がちらついている。ここまで意思を固めて決意すれば、もう後は支配人に従うだけだと、葉月は全幅の信頼を寄せる相手の横顔を見つめる。

 無言を貫いて成り行きを見守っていたシキは、一区切りが付いた所で頼み事をおずおずと口にする。

「……あの、こんな時に申し訳ないのですが、楓の間の庭にある紅葉を採取してよろしいでしょうか?」

 この辺りで楓の木が植えられているのは、楓の間の庭と楓の並木道だ。恥ずかしいので、出来る事ならば最終日に渡したかったのだが、あまり時間的猶予が無い。

「本人の前で作業するのも、あれなのですが、背に腹は代えられないので……」

 おそらく、シキが雪達に会う機会はもうないだろう。一期一会とはよく言ったものだと、昔の人に思いを馳せる。今よりも通信手段も交通手段も少なかった時代。遠い地の親戚に合う事すら大変な苦労だった筈だ。

 それと同じように、シキには彼らと連絡を取る方法も、ここへ再び訪れる事も無い。

 話をするシキを眺めていた支配人は、不意にある考えが思いつき、らしくない提案をしてみる事にした。よく、遊びが足りないと知人に言われる通り、彼は今まで堅実に生きてきたつもりだ。だが、ここぞという所で、彼は賭けに打って出てきた。

 その結果がこの『旅館』だ。無謀な賭けではない。幸いにも、こちらにはいくつもの手札が揃っているのだから。

「——『モミジ』。お前、俺の賭けにのる気は無いか?特別報酬を出すぞ?」

 ギラギラとした目で不敵な笑みを浮かべる支配人に戸惑いつつも、シキはとりあえず話を聞いてみる。

 その上で、支配人の頼み事を受けた際の危険と、自分へと報奨と、そして支配人への恩が天秤にかけられる。

 オバナとナデシコの二人が襲われた事との関連性が否定できないのであれば、シキが襲われる可能性は高いままだ。今回の事件を鑑みると、明らかにシキへと悪意が向かっている。

 ここでシキが支配人の申し出を断ったとしても、彼は仕方が無いと引き下がってくれるだろう。そして数日間、何事もなく仕事を無事に終えれば、家に帰る事が出来る。そして、シキがここに来る事は、おそらくもう無いだろう。

 恩なんてものは碌でもない。けれど、それをここで返す事が出来れば、支配人や葉月、その他の人達が襲われる可能性を無くせるかもしれない。

 ——そして、雪の助けになるかもしれない。もし、出来る事ならば、雪の記憶の隅で覚えていて欲しい。

 見返りを求めた時点で、これは善意ではなく偽善なのだと思いながらも、シキは支配人の提案にのることにした。


十二

 赤く降り注ぐ夕陽の中、シキと葉月は歩いていた。向かうのは楓の並木道。

「——すみません。葉月さんまで付き合わせてしまって」

 シキは申し訳なさそうに、並んで歩く葉月をちらりと見る。当の本人は楽しげに笑いながら、隣を歩く不安そうな青年を見上げた。

「いいのよ。わたしは貴方の『指導役』なの。それに、わたしだって、この状況は許せないの」

 人気が無く閑散とした道に、カラカラと乾いた落ち葉が風に押されて転がる。

「私はこの『旅館』の中では古株なの。——正しく言えば、初期からずっとここで働いている」

 シキは以前に支配人から聞いた、この『旅館』の話を思い出しながら、気恥ずかしそうに顔を俯ける葉月を見ると、その頬は夕陽で赤く染まっている。

「ふふっ。前に、支配人に聞いたんでしょう?わたしはね、所謂奉公人ってやつだったの。元々、帰る場所なんて無いようなものだし、だから、わたしは支配人に付いて行こうと思ったの」

葉月は自分を見つめるシキに穏やかに微笑みかける。

「——貴方の人生だもの。大切にしなさい。臆病でも、流されてもいい。ただ、自分の歩いた道を後悔をしない様に心掛けて」

 この『旅館』で働き始めた事を、葉月は一度も後悔した事はない。仮に、何か間違えたとしても、それは自分の過ちなのであって、この生き方を否定する事は絶対にない。

「間違えた時は、沢山悩んで悔やんで。そうしたらゆっくり休んでから、また歩けばいいの。歩いている道が正しいかなんて、終わってみないと分からない。きっと、苦しくない道なんて無いんだと思う」

 葉月は真っ直ぐに伸びる楓の並木道を見つめて、過ぎ去ってしまった遠い日の事を思い出す。

 幼かった自分が一人で知らない土地で働き始めた時、気にかけてくれた不器用な少年の事を。誠実で真面目で、不器用で嘘を吐くのが下手な少年は、ずっと真っ直ぐに前を見て歩いている。

 少年が青年になり、彼と彼女が大切にしていたものが失われそうになった時、青年は今までの人としての平穏を犠牲にして、彼の大切な者達を守った。

 同じ時を歩いてきた。例え、彼が違う道に逸れてしまったとしても、自分はこの道を歩き続けるのだろう。

 真っすぐに前だけを見て歩く葉月の姿は、ただひたすらに強く、美しいのだと、シキは実感した。

 ——ひた、ひた、ひた。背後から第三者の足音が響いてくる。

 ピクリとシキの体を悪寒が走り、思わず振り返りそうになるのを必死に堪える。ちらりと葉月の方を見ると、彼女も足音に気が付いているのか、笑顔を浮かべているが、若干口元が引きつっている。

「……この並木道の楓も、もうじき終わりですね」

 不自然にならない様に、こちらがあちらを警戒している事を悟られないように、シキは思いついた事を口にする。

「……ええ。そうね。最後に赤く染まって、散って、朽ちていく。そうすれば冬が来る。冬景色も、この『旅館』はなかなかなのよ?」

 己は冬の景色を見る事は無いと分かっていても、シキはその景色を想像せずにはいられない。この一か月の間の思い出が、次々と浮かんでは沈んでいく。

「——それは、とても綺麗な景色なのでしょうね」

 シキはそう言うと、足を止める。目の前には清流の流れる小川と橋。そしてシキには一等美しく映る、鬼がいても不思議ではない楓の木。

 同じく足を止めた葉月がゆっくりと振り返りながら、悲しげに微笑みかける。

「——何かご用かしら。……水無月」

 鮮やかに赤く燃える景色の中、その鬼は静謐に佇んでいた。

「……」

「あら、無言?駄目よ?挨拶は基本なんだから」

 柔らかな口調で話す葉月に対して、水無月は無言を貫いている。

 その様子を楓の傍らで傍観していたシキは、水無月の姿を見て、ようやく記憶の中の女性と結びつく。そしてその時とはっきりと違う事に気が付いた。

 ……雰囲気が違う。こんなにも存在感のある女性だっただろうか?

 シキは水無月と最後に会ったのは、ナデシコと揉めていた際、支配人と共に現れた時だ。後で考えてみると、ナデシコと共に行動していた『指導役』は水無月だった筈なのだが、ほとんど印象に残っていない。

 雪を玄関先で見送った後に際に山伏と立ち話をした時。遠くばかり眺めている女性だなと思ったのも、よくよく考えてみれば彼女だった筈なのだ。その後も何度か見ている筈だというのに、全く記憶に残っていないのは、それはそれでおかしい事だ。

 幾らシキが他人の顔を覚えるのが苦手と言えど、あれだけ絡んできたナデシコと一緒にいた女性の事だというのに、こうも覚えられないものだろうかと、シキは嫌な汗を搔きながら、必死に記憶を手繰り寄せてみる。

「——長く共に働いていたのに、気が付かなかった。貴方、そんなにも足音を立てて歩く子だったかしら?」

 足音は誰でもさせるものだ。よほど訓練を受けているか、周りの迷惑にならない様に気を使っているかで差は出るが、足で地面を蹴って進んでいるのだから、普通の事だ。

 けれど、葉月は最近になるまで、水無月の足音を聞いた事が無かった。以前、執務室に向かう際、夜で人気が無く静かだったから聞こえた足音。だからこそ、あの時に葉月は香月だろうと思って振り向いた。

「……ねえ、水無月。貴方……どうやって欠けた『魂』を補っているの?」

 ピクリと水無月の方が震えて、ガラス玉の様な目に光が浮かんでくる。そして浮かんできた意識はシキの方へ向けられて、その刺すような視線がシキの不安を煽ってくる。

「貴方の存在感が薄いのは元からではない。——あなたは運悪くあちらからこちらへと引きずり込まれた。結果的に、命は助かったけれど、『魂』の一部を奪われてしまった。行く当てのない貴方は、この『旅館』に連れて来られて、ここで働き始めた」

 視線を逸らすことなく前を向き、葉月はかつて怯えて泣いていた水無月の事を思い出す。そして、何故、もっと早くに気が付かなかったのか。犠牲者が出る前であれば、まだ、救いようがあったというのに……。

「オバナは影が無くなってしまったけれど、貴方は影が薄い——存在感が薄くなり、それに合わせて、貴方の質量も薄くなってしまった。だから、足音もしないし、手を叩いたりしても殆ど音がしない。軽い物は重い物よりも、物にぶつかった時の音が全然違うもの」

 ——いつの時代でも、女を怪物に変えるのは恋なのだから。

 成り行きを見守っていたシキの視界の隅、真っ直ぐに伸びた道の先、赤い世界の中で動く白い塊が映る。

「——何の力も無い、わたしが何をどうすれば、二人もの人間を隠す事が出来るのです?」

 抑揚のない感情が感じられない声は、酷く乾いていて軽く聞こえる。まるで、乾いてしまった落ち葉の様だ。 

「——君は、共犯者なのだろう?」

 その声に水無月はビクッと大仰に肩を震わせ、その瞳に生気が戻り、強く輝く。

 葉月が水無月の注意を逸らしている間に、散歩の最中かの様に雪は軽い足取りで現れた。

「……雪、様。わたし……わたしが、……見えて……」

 雪の金色の瞳に自分が映っているのを見つけて、水無月は涙を溜めて、嬉しそうに歪んだ笑みにを口に浮かべる。

「言っておくが、最初から俺は普通に君の事は見えていた。普通にナデシコという女の『指導役』だと認識していた」

 この赤い景色の中でも遠目にも分かるほど、存在感を持つ雪が徐々に近づいてくるのを見て、シキは夕日を浴びてもこの人は白いなと、能天気な事を思ってしまう。

 返答が気に喰わなかったのか、水無月は全身を震わせて、強く拳を握りしめて、叫ぶように訴える。

「……違……。違います……!わたしは!水無月でも、『指導役』でも、従業員でもない!わたしは……」

「『みづき』、だったかな。君の名は」

 叫ぶように超え荒げる水無月とは対照的に、雪はいたって平静で、立ち話でもしているかのようだ。さらりと呼ばれた水無月は、全身から力が抜けてへにゃりと崩れ落ちる。

「わ、わたしの……」

「うん。確か、君の名前だっただろう?初めて会った時にそう言っていた」

 着物が土で汚れる事を気にも留めずに、水無月はまるで世界には自分と雪だけしかいないかの様に、目の前に立つ『神』を縋る様に見つめる。

「自分が助けた人間の顔と名前くらいは覚えるようにしている。俺が勝手に助けたんだ。それぐらいは最低限の礼儀だろう」

 口元に笑みを浮かべて、雪は目の前にいる、かつて自身が助けて、ここへと導いた女性に話しかける。

「……だが、やって良い事と悪い事の分別ぐらいはつけないとな」

 雪はしゃべりながら、ゆっくりと女性に近づいて、徐に片足を上げて彼女の影を強く踏みつけた。その瞬間に、耳をつんざく様な奇声——悲鳴が上がり、シキは思わず手で耳を塞いだ。葉月も同じ様に手で耳を覆って、顔を顰めている。

 耳障りな悲鳴など聞こえていないのか、水無月は呆けた様に座り込んだまま、その瞳に雪だけを映している。

 やがて悲鳴が止むと、雪が身を屈めて、踏みつけていた水無月の影に触れる。すると、雪の手が影の中へと、水面の様に沈んでいく。やがてゆっくりと引き上げたその手には、太い紐の様なモノを掴んでいた。

 立ち上がった雪の手の中で、うねうねと逃れようと藻掻くそれは、真っ黒な色をした蛇。

「——ああ、やっぱりそうか。どこかの川で生まれた蛇神か。大概、川は繋がっているからな。流れに乗って紛れ込んだのだろうが、よそ様の土地で、よそ様の眷属に喧嘩を売ったのだから——君も覚悟ぐらいは出来ているだろう?」

 雪は血が凍り付くような、溶けるような美しい笑みを浮かべると、容赦なく黒い蛇を握り潰した。

 水が詰まった袋を潰す様な音をたてて、破裂した破片は黒色から白色へと変化しながら光の粒子となって、砂の様に地面へと零れ落ちていった。

 掌に残っていた白い光の粒子が風に舞うのを見届けた後、雪は楓の傍で恐怖で固まったままのシキに笑いかけてきた。

「——君。普段は臆病で、危険な事は避けるくせに、どうしてこんな危ない事を承諾したんだい?」

 一つの命を握り潰した直後だというのに、雪は平時と変わらない様子で話しかけてきた。少し眉を寄せて不満げにしているが、それはあくまでシキの行動に対するもので、それ以外の意味は無い。

 斜め後ろにいるシキの位置から、水無月の手が地面に爪が立てて握りしめられるのが見える。

 ……ああ、やはり、そうなのか。

「……支配人が、大丈夫だと太鼓判を押してくれたので」

「君、……支配人に随分と信を置いているんだな」

 俺とは随分と距離があるのに、目を細めて責めるような視線を送られて、ようやく張りつめていた緊張が緩み、シキは徐々に体温が戻ってくるのを感じた。

 シキは徐に、懐から一枚の和紙を取り出す。それには鮮やかな紅の楓が張り付けられて、透明のフィルムに覆われている。

「——雪様の『加護』が込められているお守りだと聞いています。……勝手に栞として加工してしまいましたが」

 シキの手の中に納まった楓の葉を見て、雪がばつが悪そうに目を伏せる。シキが『神』からの贈り物を怖がっていたので、大した価値の無い無償の贈り物だと思っていて欲しかったので、あえて何も言わなかった。

 あの楓の葉は、シキに対しての悪意や呪いといった外敵から、目を逸らさせたり、いざという時には身を守るものだ。

「この土地に紛れ込んだ異分子を排除するのが、今回の滞在の目的だと支配人に伺っています。探し物が見つかって良かったですね」

 気まずく重苦しい空気を何とかしようと、シキは精一杯虚勢を張って平静を装う。

「——支配人が雪様の事を教えて下さいました。お守りの事も聞きました。気を使っていただいて、ありがとうございました」

 シキがそっと傍らにある楓の幹に手を添えるのを見てから、雪は小さくため息をついて足元の女性に視線を向ける。

「——水無月。貴方は、それほどに……、堕ちた神に縋ってまで、元に戻りたかったの?」

 葉月は数歩前に出て、座り込む水無月との距離を詰める。悲壮感で泣きそうな顔をした葉月を初めて見て、シキは素直に驚いて納得した。

 長い時一緒に過ごしてきた仲間。そこには思い出の積み重ねがあり、多少は相手の事を理解しているという自負もあった筈だ。水無月が雪に向けている感情の事も、それが切欠だった事も気が付いている。

 ……けれど葉月は強い。だから、恐らくは弱い水無月の心を図ることは出来ない。

 今までのやり取りで、何となくだが、シキは水無月の犯行の理由を察する事が出来た。

 ——ただ、好いた人の少しでもいいから傍に。その瞳に映して欲しかっただけの話。

 けれど、雪にとっては人間は、例外を除けば他は平等だ。誰にでも同じように笑いかける。

 彼女は思ったのだろう。彼の瞳に自分が映らないのは、自分が欠けてしまっているから。それを『何か』で補えばいい。

 結果として、侵入者にその隙を突かれて、

「まあ、欠けていた君の『魂』を補う形で、君に憑いて行動していたら、流石に支配人も気が付けないな。葉月や香月なら、余剰分が多すぎて気が付いただろうが」

 「そういう俺も気が付かなかったんだが……」とばつが悪そうに、雪は後頭部を掻いた。

「ここの『神』だったら一目見れば分かっただろうが、生憎と俺は戦神の類だからな。……けど、まあ。やった事の責任は負わねばならない」

 雪は目を細めて、自分に縋る様に見つめる水無月を見下ろした。葉月は同僚が罰せられるという事実と、彼女への情がせめぎ合っているのか、唇を強く結ばれている。

「君は、あいつに協力して、『世話役』のオバナとナデシコを喰う手伝いをした。あいつらの命はもうどこにも無い」

 どうしてその二人が狙われて、シキが囮として使われたのか。雪はその理由に気が付いているのだろうかと、シキは事の成り行きを見守りながら思う。

 葉月は何となくだが、水無月が二人を選んだ理由に気が付いているのかもしれない。葉月は水無月の弱さを理解できなくとも、人間の感情を持ち合わせている彼女であれば、状況を繋ぎ合わせれば理論上の理解はできる筈だ。

「——とりあえずは支配人の所へ……」

「——その必要はないよ」

 雪が身を屈めて、水無月を立ち上がらせようと手を伸ばした瞬間、それを阻止する様に声が投げかけられる。

 楓の並木道の横は柵で仕切られて、奥は林の様になっている。楓を楽しんでもらうための目隠しとしての配慮なのだが、人の背よりも高い柵を軽々と乗り越えて、一人の男性が姿を現した。

 僅かに地面を踏む音だけで着地をして、にこにこと笑みを浮かべた甘葛はゆっくりと歩み寄ってくる。

「——野次馬だけかと思っていたんだが」

「わたしとしては、正当な権利だと思うけどね」

 伸ばしていた手を下げて立ち上がった雪は、甘葛の笑顔に胡散臭そうに眉を顰めた。下げられる手に追い縋ろうと手を伸ばす水無月に、甘葛が目を細めてにっこりと笑いかける。すると水無月はびくりと体を震わせて固まると、一気に血の気が失せて肌が青白くなっていく。

「なに、話はわたしがつけるから、貴方は気にしなくていい。それに、彼はわたしの『贄』だった。それを横から奪ったのだから、それ相応の対価は頂かないとね」

 以前に執務室で向けられた笑顔を思い出し、氷を背中に放り込まれたかの様に、シキの背に怖気が走る。

「どっちにしろ、彼女はここから追放されるだろう。そうすれば、結果は大差ない。彼同じ『食いかけ』だから、つり合いも取れている。少し、嫉妬で歪んでいるが、それも一つの味付けだろう」

 雪は苦々しいそうに顔を顰めたが、大きなため息を吐いて後ろへと一歩下がる。それは遠回しの了承の意味だと、その場にいる全員が理解した。

 これから自分を待ち受けている結果を想像して、水無月は恐怖でガタガタを体を震わせながらも、残っている気力を振り絞って訴える。

「——待って……下さい。嫌……、お願い。……せめて貴方の、手で……」

 恐怖で動かない足を叱咤しながら、水無月は懸命に雪に手を伸ばして追い縋ろうとする。

 伸ばされた手を雪は悲しそうに見つめ、感情を堪えながら眉を下げて、せめてもの手向けにと微笑みを浮かべる。

「——さようなら。みづき」

 伸ばされた水無月の手に、横から伸びてきた甘葛の手が絡みつくに握られる。

 気が付けば雪がシキの目の前に佇んでいた。シキの視界は雪の白い体に遮られて、他には何も見えない。

 不意に、シキは外国で葛がグリーンモンスターと呼ばれている事を思い出した。他の木に絡みつき、光合成の邪魔をして枯らしてしまう。

 ——他者を犠牲にして天へと蔦を伸ばす様は、きっと、楽しそうに他人を喰らう姿にそっくりだっただろう。


 残りの数日は、とても穏やかに過ぎていった。

 さすがに、あの並木道で楓の葉を採取するのは憚られたので、雪に手伝ってもらって、まだ残っている色々な木の紅葉を手に入れる事が出来た。

 幸いな事に、雪に渡そうと思っていた楓の葉は、他の物と紛れてしまわないように、シキが部屋へと持ち帰っていたので難を逃れていた。

 それを自室で支配人から貰った材料と道具で仕上げて、栞として雪に手渡す事が出来た。

 シンプルな白い和紙に楓の葉が貼られ、上に開けられた穴には控えめな輝きの金色のリボンを通した。透明な保護用のフィルムを空気が入らないように慎重に張り付けたので、それなりに長持ちするはずだと、シキは納得の出来に自画自賛した。

 雪はきょとんとしながら栞を受け取り、指で楓の葉をフィルム越しになぞり、リボンを指で軽く押した後、顔を上げてシキを見ると嬉しそうに笑顔を浮かべた。

「——ありがとう。大切にする」

 素直に向けられた好意の笑顔に、シキは恥ずかしくなって顔を俯けてしまった。

「——いえ。喜んでもらえれば、こちらとしても嬉しいので」

 何となく部屋の中を漂う雰囲気に耐えかねたシキが話題を口にする。

「——あの、実は葉月さんと支配人にも栞を渡したいのですが、材料の紅葉した葉を一緒に探してくださいませんか?」

 その提案を雪は快く受け入れてくれた。雪が思い立ったら吉日と言って、そのすぐ後に散策——紅葉狩りへと繰り出した。

 この旅館は四季ごとに景色を楽しめるように、各場所に季節に応じた木を植えられた場所が作られている。今までは秋の並木道を散歩していたのだが、他に植えられている木のいくつかが紅葉しているので、シキは終日を間近に控えながらも、あちこちへと足を向ける事になった。

 本来は楓よりも紅葉するのが早い植物も多かったのだが、遅めに染まった葉があったために助かった。

 桜の様々の品種を植えられた広場——桜の園はすでに落葉してしている物が目立つ。前に雪と来た時は、桜紅葉が見ごろを迎えていて、品種や日当たりなどで違った染まり方をしていて、紅色と黄色と橙色のコントラストが美しかった。

 続いて欅の木が植えられている一角へと向かう。やはり大半がすでに落ちて枯葉が地面を覆っていたが、何とか目的の物を手に入れる事が出来た。

 せっかくだからと、様々な種類の楓の葉も手に入れる事にしたのだが、楓と言っても種類によって形に差異があり、折角だから記念にもういくつか作る事にした。

 電子レンジを借りて、楓の間に持ち込み、雪と共に栞を作ったのだが、存外に楽しい時間を過ごす事が出来た。

 手先が器用な雪は子供のようにはしゃぎながら、匠の様に売り物としても十分に通用する作品を作り出していた。

 その合間に休憩時間を設けていたので、この約一か月の間に修練を積んできたお茶の腕を見せる時が来たのだが、頭の中で手順を繰り返しながら入れたお茶を飲んだ雪の感想は、「及第点」だった。

 気を利かせたのか、葉月は最後の夕餉の時間になるまで、用事で部屋を空けていた。

 夕餉は初日と同じモミジ鍋となり、シキと雪と葉月で鍋を囲んで堪能した。

 夕餉の片づけを終えた後、再び葉月は部屋を空け、シキは雪に膝枕をしながら、縁側から庭の光景を静かに眺めて過ごした。

 短い思い出話を語り合い、たわいのない世間話をして、ゆったりと夜は更けていった。

 次の日の朝、雪は朝餉を取る事は無く、人気のない早朝にシキと葉月と支配人に見送られて『旅館』を後にした。

「世話になった。今度来る時は、ちゃんと休暇で来る事にする。毎日どこにいるかも分からない蛇を探すのはこりごりだ」

 小さなか鞄だけを持ち、雪はいつもと同じ白い着物に袴姿で、飄々とした態度で肩を竦めた。

 支配人も思う所はあるようで、少しマシになった隈の浮かんだ顔で、申し訳なさそうに頭を下げた。

「——本来は、管理を任されている俺が、どうにかしなければいけませんでした。だが、結局、貴方に全てを投げる事になってしまい、申し訳ありませんでした。——次は依頼抜きでの、ご来館をお待ちしています」

 元々、雪が飛び入りでこの『旅館』を訪れたのは、この土地を管理する『神』からの依頼だった。

 各地の社を転々としている『管理者』は、『旅館』の敷地に、招かざる客が訪れたのを感じ取った。けれど、彼はそうやすやすと動ける立場にはない。そこでそういった事を得意としている雪に、招かざる客の対応を依頼した。

 最初はその事を聞いた支配人だけで何とかしようとしていたのだが、いかんせん彼は事務仕事に特化していたため、得体の知れない物を相手取るには不安要素が多く、『管理者』が、雪をこの『旅館』へと派遣した。

 元より弱った堕ちた神。気配は小さく、様々な『神』が滞在するこの『旅館』では見つけるのは至難の業だった。

 まさか、欠けてしまった人間の『魂』を補う形で潜んでいるとは気が付かなかった。支配人や葉月、他の従業員達は水無月と共に居た時間が長く、少しいつもと雰囲気が違うなと思う程度しか感じなかった。

 支配人は自分がもっとしっかりしていれば、未然に犠牲を出さずに済んだと思っていたが、たかが数世代ほどの時しか生きていない支配人には無理な話だった。

 それが分かっているからこそ、『客』も『管理者』も誰も彼を責める事は無かった。

「——あんまり、あいつに心配をかけるなよ。元より身内には情が深い相手だ。葉月も、支配人が無理をしないように見張りを頑張ってくれ」

「はい——。従業員一同、これからも支配人と共に、この『旅館』を盛り立てていく所存です。雪様も、無理をなさらず、お体を大事になさってください」

 最後は『旅館』の従業員としての顔をして、葉月は雪に深々と頭を下げた。

「君も、体には気を付けろよ」

 雪は最後にシキの方を見て、朗らかな笑顔を浮かべる。元より暗い雰囲気は好まないので、その顔に寂しさは微塵も見せない。

「はい。色々とご迷惑をおかけして、至らない所もあったでしょうが、私にとっても雪様と過ごした時間は、とても貴重な経験になりました」

 シキはいつもの着物に袴、そして布の面で顔を隠して『世話係』のモミジとして、雪を見送る。

 『世話役』という文字通りに、最後は己の役で締めくくる事にしていた。

 それを雪も分かっているのか、最後は『客』として、最大の賛辞を贈る。

「良い時を過ごせた。ありがとう。——またな」

「——はい。当館のご利用、心からお礼申し上げます。……さようなら」


 そうして無事に『客』を送り出して、次の日には『世話役』達が次々に『旅館』を後にしていく。

 シキも最終日にお世話になった人達へ、ささやかな贈り物する事が出来たので、心残りは無くなった。

 花言葉で『健康』や『長寿』の意味を持つ欅の葉の栞は、支配人に渡した。

「ん……?俺にもか?——ありがとう。大切に使わせてもらうよ」

 シキが記念品を作る事は知っていいたが、自分にも渡されるとは予想していなかったらしく、目を丸くしたが、すぐに目元が緩み、穏やかな微笑みを浮かべた。

 基本的には仕事中はしかめっ面をしていて、眉間に皴を寄せていた事が多かったので、本来の彼が持つであろう優しさを感じさせる表情に、シキは心が温かくなるのを感じた。

「——本当に、お世話になりました。色々と面倒ばかりかけてすみませんでした」

 わざわざ執務室に来てまで、深々と頭を下げて挨拶をする律儀な姿に、支配人はふと昔の自分を思い出した。

 自分の若い頃は、どんな人間だっただろうと、懐かしい遠い日の記憶に懐かしさを感じたが、それと同時に、目の前にいる青年が迎える未来を予測してしまう。

「……これは年寄りからの余計なお世話だ。——お前が選択の結果、どんな結末を迎えたとしても、自分自身の事を恨まないで欲しい。後悔をするのは仕方が無い事だが、その時のお前の最善の選択を信じて欲しい」

 悲しそうに、寂しそうに、穏やかな顔をして、彼は目の前の青年に幸あれと願う。

「——努力します。本当に、ありがとうございました」

 もう一度頭を深々と下げて、シキは執務室を後にする。部屋の前では葉月が静かに待っていてくれた。

 シキと葉月は、たわいのない話をしながら並んで歩き、その短い時間を寂しく思いながら、やがて本館の正面玄関へと辿り着く。

「葉月さん。本当にお世話になりました。貴方が『指導役』で、本当に良かったと思います」

 シキは深々と頭を下げて、顔を上げる。葉月がいつも通りの微笑みを浮かべている。心なしか、いつもよりも目元が優しい。

「ふふっ。そう思ってもらえたのであれば、『指導役』としては嬉しい限り」

 そう言って笑う葉月に、シキは鞄から取り出した栞を二枚手渡した。

 『優美な女性』という花言葉を持つ桜——桜紅葉を使って作られた栞を葉月は嬉しそうに受け取る。

「ありがとう。大切に使わせてもらうわね。たまにはいいわね。こういう別れ方も……。所で、二枚?」

 葉月に渡された栞は同じ桜紅葉を使って、別の意匠で作られている。

「できれば香月さんにもと思いまして。——彼女にも、お世話になりましたとお伝えください」

「承ったわ。必ず香月にも渡しておくわね」

 香月は昨夜から非番を与えたられたのだが、それと同時に体調を崩してしまった。責任感が強くて真面目な性格のためか、客が帰るまではと気丈に振舞ってはいたが、やはり自分の担当した『世話役』を見送る事が出来なかった事を悔やんでいた。

「——ありがとうございました」

 シキは感謝の気持ちを込めて、深々と頭を下げた後、葉月の微笑みに見送られて玄関を出た。

 不意に頭上から視線を感じて見上げると、そこには蛇の様な竜の様な飾り瓦が、無言でシキの事を見下ろしている。

 何となくシキはその飾り瓦にも軽く頭を下げると、背を向けて歩き出した。

 すでに前日には『客』達が、今朝には他の『世話役』が『旅館』を立ち去っていった。一気に人口密度が減ったせいか、閑散としていて物悲しい。

 荘厳とした雰囲気を漂わせた本館は、変わらずにそこにある。『客』を受け入れて、穏やかで満ち足りた癒しを与えるために、これからもあり続けるのだろう。

 支配人がいる限り、この『旅館』は続いていく。けれど、シキは再びここに来ることは無いのだろうと思う。

 得体の知れない『旅館』と『従業員』と『客』は、確かに恐ろしく思えた。けれど、それはどこでも同じ事なのだと、シキは思う。

 ——結局の所、人間は独りで生きて、歩いていくのだから。自分の事が分かるのは自分だけ。自分を許せるのも自分だけ。

 けれど、一人では寂しくて、退屈で、疲れてしまう。だから、人間は誰かと共に歩いていくのだろうと、シキは思うのだ。 

 シキがこの『旅館』に来た時と同じように足で立ち、けれど、今度は一人きりで佇んでいる。

 短くも濃密な時間は、確かにシキの価値観を変えてくれた。

 きっとこれからも悩み、悔やみ、そして、不意に夢のようなこの時を思い出しては、また立ち上がり、道を選び、歩いていく。



 ——とある平日のとある時間に、シキは教授の元を訪れていた。

 壁際には棚がずらり置かれ、本や文献や資料が分類ごとに並べられている。窓を背にして置かれた仕事の様の机と椅子。来客用に置かれたテーブルとソファー。

 部屋はそこそこの広さがある筈なのだが、所せましと物が置かれているせいで、ギリギリ人が歩く空間が確保されている状態だ。

 たまに苦情も来ているのだろうが、当の部屋の主はどこ吹く風だ。  

 シキよりも一回り以上は年をくっている筈なのだが、今でもたまに学生に間違われるのは、その涼しげで中性的な見た目のせいだろう。

 雪とは似ているがどこかが違う中性的で、纏う雰囲気はそういった疑問を相手に忘れさせてしまう。

「——人生観が変わるような経験が出来たようで、よかったな」

 シキに『旅館』の仕事を紹介して、価値観どころか生物としても違う者達の相手をする事になった原因、は他人事の様に笑っている。

 もしかして、自分は彼を殴るべきではないだろうか——?思わずそんな考えが浮かぶほどに、シキは目の前の相手が憎たらしいと思うと同時に、とても感謝をしていた。

 仕事から戻った後、しばらく休暇を挟んで日常生活に慣れた頃。シキが自分の銀行口座を確認した所、大学の学費四年分を払っても、充分なおつりがくるほどの大金が振り込まれていた。

 日常に戻って時間が経つにつれて、あれは何かの夢だったのではないかと思う事が増えてきた時に、シキを一気に現実——非現実へと引き戻すのには十分な一撃だった。

 何度も繰り返し、一、十、百、千、万——と桁を何度も数える羽目になり、そしてこれを家族に見られた場合、絶対に何らかの誤解を受けそうなので、幾つか通帳を作って分散させてみたものの、それでも複数の銀行の通帳にそれなりの額が入っているという状況が出来上がる。むしろこっちの方が怪しいのではと気がついた頃には、もはや諦めの境地に入った。

「まあ、あれだ。先達からの助言だが、まあ、色々と諦めろ」

 ゆったりとソファーにもたれ掛かり、優雅に腰かける教授に対して、シキは頭を抱える。

「——俺が君を推薦したのは、君なら大丈夫だと思ったからだ。君は、いい意味で流されやすい」

 顔を俯けたまま話を聞いていたシキは、それはむしろ欠点ではないのかと思う。

「そうだな……。例えるならば、君は川の流れに乗って流れる一枚の葉の様なものだ。どれだけ流れが速くなろうとも、流れが突然変わろうとも、川が大きくなっても小さくなったとしても、君は自分が一枚の葉で、このまま流されて海まで行くのだという目的を忘れはしない」

 ずっと遠く、おそらくは学内のどこかで、無関係な誰かが騒いでいる声が聞こえてくる。

「——大抵の人間はな、自分が川に流されるだけ、という事を忘れてしまう。無理に流れに逆らったり、別の流れに乗ろうとして、水流に飲み込まれて川底へと沈んでしまう。けれど、君は自分にとって大切な事を忘れる事なく、水面に浮かんで空を眺めていられる」

 水面に浮かぶ紅葉した楓の葉が、清流にのって小さな滝を下る光景が、シキの頭に浮かんでくる。雪のように白い手が、透き通った水に指先を浸す。

「否定するでもなく、肯定するでもなく。客観的に見て、あるがままを受け入れられる人間はそうはいない」

「……そんなに大層な人間ではないです。結局は、自分の意志を優先してしまいますから」

「それの何が悪い?罪悪感も孤独感も退屈も。すべて当人が感じているものだ。少なくとも、君は一方的に、自分の価値観を相手に押し付けるような真似はしない。けれど、同時に自分の譲れないものは決して譲らないだろう」

 誰かを傷つけてまで、自分の意志を通そうとは思わない。けれど、自分を蔑ろにしてまで、誰かを優先しようとも思わない。

「自分の形を忘れず、流れに乗って生きていくのも悪くは無いぞ。……少なくとも俺は後悔していない」

 のろのろとシキが顔を上げて正面を見ると、適当に伸ばされた前髪から覗く目が、酷く優しい。

「それでだが、君は大学で学びつつ、単位を取って卒業するといい。そして、君さえよければ、俺が仕事——フィールドワークをしつつ稼がせてやれるが、……どうする?」

「……それは、つまりは……」

「別に違法な事をして稼いだ訳ではない。どっちにしろ、誰かがやらねばいけない事だ。出来るだけ今の内に稼いで、卒業した後は好きな事をして過ごすのも悪くないぞ。老後の資金はしっかり溜めているからな。好きなだけ好きな研究が出来る」

 先達者である教授は、シキよりも先に川を流れて、ゆったりと海へと向かっているのだろう。

 教授の所作は美しく、どこか良い所の出ではないかと噂されている事を思い出した。

「……まあ、すでに手遅れという点でも、俺と同じだがな」

 静かに微笑んでいる教授の瞳には、諦念と同情と喜びの色が浮かんでいる。

 清流にのって流れていた楓の葉は、水底に沈む他の葉を残して、雪の様に白く美しい手の中へと納まってしまう。

「——話は終わったかい。シキ?」



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まつろわぬもの @hinorisa

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