これを優しさと呼ばないのなら過ちでもいい
湊咍人
やっちゃった
「やっちゃった」
設定温度25℃の楽園で微睡む私を、そんな端的な文章が揺り動かした。
乾燥した人差し指で開ききっていない瞼を擦り、控えめに輝くスマホの画面の更新を待った。4回瞬きをした後、シュポンっという気の抜けたような音と共に、一行前と大して変わらない量の文章だけが追加される。
「彼氏殺しちゃった」
◆
「ねえ、ど、どうしたらいいかな?わ、私はこんな、こんなこと───」
「落ち着いて、大きく息を吸って───」
端正な顔を涙でグズグズしながら縋り付く親友を抱きしめ、包み込むように背を撫でる。嗚咽と共に、途切れ途切れに説明する彼女の姿が痛々しくて、気付けば私の相槌は止んで代わりに涙が零れ落ちていた。
奴は、親友の彼氏はクズだった。殺されても仕方がない、それどころか私がこの手で殺してやろうかと思えるほどに。
浮気など、今更取り上げるほどの話題ですらない、偶然にも小石を蹴り飛ばすように、或いは振り返る際に不意に触れてしまうように。まるで凪いだ水面のように、感情に一切の機微すら窺わせず、目を覆いたくなるほどの暴行を振るった。
金品を強請り、返す気もない金を上っ面の笑顔と薄っぺらい言葉で毟り取る。
「わかんない、どうすればいいか、わかんないよ───」
「......大丈夫、私に任せて」
「うん......うん────」
私は迷っていた。
私は、まだ引き返せるのだ。或いは、私だけがこの事件を闇に葬ることができる。
彼女に自首を勧めれば、既に精神状態が限界に達していることもあり、疑いもせずに寧ろ私に感謝しつつ、自らの足で最寄りの警察署に向かうだろう。
彼女に死体の隠滅を勧めれば、疑うまでもなく協力してくれるだろう。
嗚呼。
こんな状況でも打算的に動こうとしている自分が気持ち悪くて仕方がない。
感情でも倫理でもなく、ただ純粋な損得だけで殺人事件の片棒を担ぐかどうかを決められる私は、鉛のバラストのような思考に一端の反抗心を覚えた。
「───埋めよう。あんな奴のために、──が捕まるなんて嫌だ」
私は、初めて私の論理に逆らい、感情を以て判断を下した。
反証が欲しかった。たった一つでいい、私の心が心と呼ぶに値するものであると、間違いでもいいから安心させてほしかった。
そのために──を殺した。
◆
「があっ......ぐぅっ──」
「っ......」
少し冷静に考えれば分かる話だ。非力な少女が、衝動的に、その場に転がっていただけの灰皿で、荒ぶる感情のまま殴りつけ、確認もしていない。
本当に、男は死んでいたのか。今回に限っては、答えは否だった。
視界の端に映る吐瀉物。頭部への殴打として最も重篤とされる反応だ。放っておけば、あと数時間、いや数十分ももたないかもしれない。
だが、その程度の時間で十分だ。混濁した意識が少しでも晴れれば、何をするかは想像に難くない。文字通りに頭が軋む激痛に顔を歪めつつ、携帯端末を操作している男が私の目の前にいた。
───彼女を連れてこなくてよかった。心底そう思った。
だって、もう一度彼氏が殺される光景を、友人に手を汚させる瞬間など見せたくもない。今度こそ、彼女の心に修復不可能な疵がついてしまう。
だから、私がやろう。
罅割れたガラスの灰皿を、音を立てぬように手に取った私が抱いた感情は、一抹の緊張だけ。
振り上げて、振り下ろした。
◆
ビニールに包んだ。幾重にも、何年たっても腐食しないよう、少しの臭いも漏らさぬように、まごころの代わりに侮蔑と哀れみでラッピングして。
穴を掘った。野生動物が掘り返せないように、1m以上の深さになるまで何時間もかけた。幼稚園で、彼女と共に体験した芋掘り体験が脳裏に過って。
そうして、作り物の優しさで犯した罪を、誰にも見つからないように。
深く。深くに。
これを優しさと呼ばないのなら過ちでもいい 湊咍人 @nukegara5111
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