余白を見つめて

西野ゆう

第1話

 卒業式と、その後の最後のホームルームを終えて、私は音楽室へと向かっていた。三年間、必死になって息を吐き、指を動かし続けた場所。広い音楽室が、身動きの取れないほどの部員で埋まっていた夏までの日々。

 目を閉じれば、いつでも思い出す事のできる声、音、空気の震え。

 一般棟を四階まで上がり、特別棟へと渡る屋根のない廊下を渡る。なぜ今日はこんなに晴れているのだろう。なぜ風は、はしゃぐ声ばかり運んでくるのだろう。

 最初は、中庭で繰り広げられる卒業生たちと、先生や在校生とのやり取りを横目にのんびり歩いていたが、そのあまりにも春めいた音に、自然と早足になっていた。

 渡り廊下の扉は重い。作り自体は他の扉と変わらないのだが、強風で指を挟む事故が起きないように、ドアクロージャーの設定が重くしてあるのだ。私の少し苛立った気持ちを扉を閉める行動にぶつけることもできない。

「先輩!」

 音楽室から見える廊下に姿を現した私に、指揮棒を手にした後輩がジャンプしながら手を振っている。

 卒業生は私一人。この吹奏楽部にも、同級生は沢山いたのに。卒業するのは私一人。

 私が部室に近づいたのを確認したからなのか、ヴィヴァルディの春が演奏され始めた。お世辞にもうまい演奏ではない。しかし、少人数の編成でも演奏できるこの曲は、これからも暫くは譜面台から下されることはないだろう。

 演奏の出番がないパーカッション担当は、ペーパーフラワーのアーチを持って卒業生の私を出迎えている。

 私が音楽室に入ると、今更「春」の演奏なんてどうでもいいと言わんばかりに、後輩たちは強引にフェルマータで曲を終えた。

 元々八十人いた部員は、夏のコンクールを最後に激減した。

 今では二十人も切っている。

 あの夏の日。

 私たち部員をコンクールの会場に運んでいたバスが、高速道路で高架にぶつかり、大破した。

 亡くなったのは顧問の先生と生徒が三十四人。残された部員も、多くがショックで退部し、ある者たちは転校した。

「先輩、卒業おめでとうございます!」

 新部長が、花束と寄せ書きを私に手渡した。

「ありがとう」

 私はそう言って、その場で寄せ書きに目を通した。

 一人一人、違う色のペンで五センチ四方くらいの大きさでメッセージを書いていた。

 真ん中には「祝卒業」と大きめに書かれている。

 私はふとある一箇所に目が止まった。

 丁度一人分、四角くささやかな余白となっている部分があった。

 パッと見、カラフルな四角形が並んでいるように見える寄せ書き。その中で、一番眩しく見えた余白。

 ざっと確認すると、在校生は全員メッセージを書いていた。きっと彼らも、この余白を作るつもりはなかっただろう。私だって、この余白をこんなに見つめるとは思わなかった。

 でも、見える。聴こえる。感じる。

 喜びも、嬉しさも、希望も、絶望も。

「おめでとう」

 正解なのかわからない。だけど、試しに呟いてみた。

 変わらず余白は白く輝いている。

「ごめんなさい」

 これまで言えなかった言葉をはっきり伝えてみた。

 余白は余白のままだった。感謝も許しもしない。

 でもやはり、見える。聴こえる。感じる。

 私は指揮台の横に立って在校生に頭を下げた。

「ありがとうございます。最後にお願いがあります。もう一度、聴かせて下さい。春を」

 私は寄せ書きを胸に抱き、その音の波を余白と共に身体に浴びた。

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余白を見つめて 西野ゆう @ukizm

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