第三十二話 一つの答え

 しばらくして、バンは赤松博士の喫茶店の前に停まった。タイヤが湿った地面にわだちを作り、店先の曼珠沙華は水飛沫に濡れるが、その凛とした佇まいが崩れることはなかった。

 ヴァラガンが店のドアを開ければ、中ではテーブルを挟んで優とケインズが座っており、カウンターでは赤松博士が自身の体の手入れをしていた。優はヴァラガンを視界に認めるなり駆け寄り、ケインズは小さく溜息をつく。

「よかった、ヴァラガン。生きてた」

 せきを切ったように感情を爆発させる優に、気圧されるヴァラガン。べたべたと体を触られるのは色々な意味で不快だったが、今回は甘んじて受け入れる必要があった。右往左往しながら「手錠ついてる。外すのを手伝って、博士!」と言う優の耳のピアスが忙しなく揺れるのを横目に、ヴァラガンはケインズの向かいの席に腰をおろす。

「悪いな、ケインズ。ワンの話は流れた。まあ、半分はお前のせいでもあるが」

「まだ、ラッキーマン逮捕というタスクが残っている」

 笑えない冗談にヴァラガンは眉をひそめたが、真面目なケインズなりの励ましの言葉と受け取ることにした。なにしろ口を開いたときからケインズの後頭部には、ガントレットが大型拳銃を押し当てている。ヴァラガンはガントレットを落ち着かせて、先ほどから腕の関節部分の補修をしている赤松博士に声をかけた。

「今日は泊らせてもらう。部屋は空いてるんだろ、おっさん」

 赤松博士は、お手製の工具を自身の腕に当てながら首肯する。夜も更けて、しばらく経つ。闇夜を眺めるよりも、太陽が昇るのを指折りする方が早いだろう。それでも、今はこの場にいる皆に休息が必要だった。優とガントレットは二階、他は一階を使うことになった。

「それが終わったら、手錠と傷も診てくれ」

『あと五分で終わる。表で待て』

 カウンターに置かれた電子手帳に浮かび上がった文字を一瞥し、ヴァラガンは外に出る。丁寧に駐車されたバンのドアに背を預け、閑散とした通りに自嘲気味な笑みをこぼす。

 夜風に吹かれながら、失ったものを想起した。江とイーガン。そして、自我。前者はまだしも、後者はエストックによってことごとく打ち砕かれた。自身の過去と思しきものの暴露に、呼び覚まされた獣性。エストックとの戦闘時には余裕こそなかったが、ヴァラガンは殺しを避けることなどすっかり失念していた。自我が根底から否定された。

 そもそも、なぜ殺しを厭うのか。臆病な心のせいか、はたまた糞の役にも立たない美学を誇るためか。ヴァラガンは未だわからずにいた。逆に今わかっていることは、パンドラの箱は一つではないこと。しかも、すべてを開けなければ記憶は取り戻せないということだ。

 王の次には、延命管理局が立ちはだかっている。その子飼いの外勤処理班は、あえて自身を見逃した。自信を持ってそう言えるほど、ヴァラガンは確信していた。今は泳がされているだけだと。頭の中に去来する思いが、思考を雁字搦めにする。危ない橋を渡ることに慣れていようとも今回ばかりは助からない、と本能が警鐘を鳴らしていた。

「分不相応な夢は見るな、ってことか。なあ、村門」

 背後でドアがゆっくりと軋み、赤松博士が現れる。片手に小型タンクと医療鞄を持ち、空いた方の手にはガス切断機を持っていた。ヴァラガンはばつが悪そうに咳払いすると、バンのバックドアを開けてそこに腰かける。

『厄日だったな。優からは、ことの顛末を聞いた』

「優とガントレットの助けがなかったら、今頃はコンソルン・シティにいただろうな」

 医療鞄を開く赤松博士に向かって、軽口を叩くヴァラガン。その金属の仮面が喜怒哀楽を示すことはなかったが、代わりに首から下げた電子手帳が心情を表した。

『あまり心配をかけるな』

 優のことだけに腐心していると思っていただけに、ヴァラガンは面食らってしまう。無論、その文言を素直に受け止められるほど純粋ではなかったが。赤松博士は『すぐに終わる』と電子手帳に文字を並べると、ヴァラガンの左肩を入れ、肩口と腰の傷を洗浄、側頭部は医療用ステープラーで縫合された。肋骨の痛みは我慢しろとのことだった。

「最悪な一日だったが、わかったこともある。俺が誰で、どうして連中に狙われているのか」

『憶測でものを語るべきではない』

「そうかもな。ただ、とぼけるのもいい加減にしろよ」

 赤松博士は耳を傾ける素振りもみせずに医療鞄に器具を戻すと、酸素とアセチレンの入ったタンクに持ち替える。二つのタンクとガス切断機はホースでつながれた。

『内なる獣を殺すつもりなら勝手にしろ。止めはせん』

 まるで、考えていることなど手に取るようにわかると言いたげだ。ヴァラガンは鼻持ちならない様子で踵を鳴らすが、当の本人は意に介していない。慣れた手つきでガス切断機の燃料バルブを回して、電子ライターを添える。たちまち先端の火口から、細長い炎が延びる。

『少し辛抱しろ』

 ガス切断機の炎が手錠の真ん中の結合部分に当たり、激しく火花を散らす。

「おっさん、手まで焼けるぞ!」

 電子手帳の液晶画面に、どっと文字の波が押し寄せる。ヴァラガンは、顔の前を飛ぶ火花に目を細めながら文字を追う。内容は今使っているガス切断機について。

 通常のものであれば高熱で手錠もろとも肉が焼けるが、これは超低温切断用に改造したものだと記してあった。それだけの説明を余分な単語で修飾した結果が、迷路となって液晶画面一杯を覆っている。学者に話を振れば一が百になって帰ってくるだけだと悟り、ヴァラガンは口を閉ざす。高温には変わりないが、幸い腕や手を火傷することはなかった。

 結合部分の切断が終わり、緊張していた肩の筋肉が緩む。赤松博士は次に、手首に纏わりついたゲル状の凝固剤に融解剤を垂らしながら、多目的鋸で手錠の外輪を切っていく。その動きは職人そのもので、寸分の迷いすらも入り込む余地はなかった。

「なあ、今の外勤処理班とは面識があるのか?」

『新しい工具の性能を試す、よい機会だった』

 ヴァラガンは「はあ?」と片眉を上げる。通常の会話と異なるせいもあるが、赤松博士と会話の波長があったためしがない。もう昨日になってしまったが、昼間の話も一方的なものだった。そのことを思い出し、ヴァラガンはなにげなく昼間の話の続きを持ち出す。

「優の父親が誰なのか、最初から知っていたんだろ」

『答えは無数にある。その一つを提示しても、それは真実にはなり得ん』

 赤松博士は手を止めて顔を上げる。その顔の二つの窪みに嵌まったレンズには、怪訝な眼差しを向けるヴァラガンが映る。電子手帳にゆっくりと文字が並ぶ。

『皆、覚悟を決めねばならん。こうなった以上、時間はない』

 再び、手を動かし始める。優だけでなく、ガントレットからも仔細を訊いていたのだろう。表で待っていた時間を考慮すれば、想像に難くない。エストックのガントレットへの異様な執着は、赤松博士とも関係しているとヴァラガンは推察していた。読みは当たったようだ。

「あんたも、そろそろ潮時か。どうも延命管理局の頭は完璧主義者らしいな」

『企業帝国主義の信奉者でもある。地盤が固まった今、この赤松は用済みというわけだ』

 ヴァラガンの知る限りでも、王の後釜を狙う連中はごまんといる。龍灰窟ロンフェイクーの頭が挿げ替えられるまでには、膨大な時間と血が流れるとみていい。その機に乗じて、外勤処理班が再び乗り込んでくることは目に見えていた。

流氓リウマンどもは役に立たん。銃一つで生きてきたというのに、その構造も知らん連中では』

「馬鹿にし過ぎだ。まあ連中の脳みそは、あんたほど出来はよくないだろうが」

 金属同士の擦れ合う寒気のするような音が止み、手錠が軽い音をたててアスファルトに転がる。手首をさするヴァラガンに、赤松博士は注意を引くように電子手帳を小突く。

『現在と未来は、過去の従僕だ。その足跡が記憶の根幹を成す。わざわざ過去など探さず、現在を礎にして生きる方が気楽だとは思わないか、村門功輝』

 気ままに電波を拾うラジオのような相手とのやり取りに辟易としていたヴァラガンは、その一連の文章を見た瞬間に突然水をかけられたように唖然とする。手錠が外れた代わりに、両の肺を鷲掴みにされているような息苦しさがやってきた。たまらず話題を変える。

「そういえば、ジャンはどうなった」

『あちらの風習には疎いが、烏に突かれる前に火葬した』

 ヴァラガンは目礼して、重い足取りで店に戻っていった。

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