第三十三話 親の気持ち
ドアを開けると優が立っていた。ちょうど外に出ようとしていたらしく、ドアノブへと伸びていた手はパーカーのポケットの中に戻っていく。優はヴァラガンを見上げ、困り果てた様子でうしろを指差す。そこにはテーブルを挟んで剣呑な空気を漂わせる、ケインズとガントレットの姿があった。どちらも言葉を交わさず、視線で威嚇し合っている。
「落ち着けよ。ここで揉めてどうなる」
二人の間に割って入るように、ヴァラガンはテーブルの端に座る。四つ足のテーブルが軋みながら震える。すかさず優は、小動物のような素早い動きで椅子を運んできた。
「やはり信用できません。あちらと共謀しているのでは」
「なんだと? 俺はラッキーマンとの取引に応じたまでだ」
二人の主張は平行線を辿る一方。優が逃げ出してくるのも肯ける。ヴァラガンは椅子に座り直して、テーブルの上に置かれた昆虫の缶詰を開ける。中にはまともな形を保った昆虫の他に、羽やら触角などが歪に組み合わさったものも散見された。それでも、ヴァラガンは構わず口に放り込む。口からは乾いた音と、砂を擦り合わせたような雑音が漏れる。
そんな音にケインズが絶句する形で、呆気なく論争は幕を閉じた。ヴァラガンはケインズにも勧めるが、浅黒い肌が干し果物のように縮み上がっただけだった。話の主導権を強引に奪い取り、ヴァラガンは今後の動きを皆に説明し始める。
「今は時間がない。おっさんにも話したが、また外勤処理班が仕掛けてくるはずだ」
その言葉にガントレットの瞳が揺れる。
「ケインズ、お前はデルフォードに戻れ。ここは荒れる。俺はコンソルン・シティに行く」
「ちょっと待って、なに言ってるの? まさか、延命管理局に行くの? 嘘だよね?」
ヴァラガンのうしろで、優が声を震わせる。反応に困ったときのような曖昧な笑みを浮かべつつ「どういうこと?」と、独り言に近い声量で呟いている。
ヴァラガンは優の方に振り返って、もう一度ゆっくりと言い聞かせる。時間がないこと、記憶を取り戻す手がかりがすぐ近くにあることを。優は話を聞きながら単語を一つ一つ咀嚼するように何度も小さく肯いていたが、徐々に白目は赤みを増していた。心なしか、
「助かったのに、どうしてそんなことを! 向こうに行ったら死んじゃうかも、殺されるかもしれないんだよ! 延命管理局じゃなくても、デルフォードとかの病院で記憶を探ってもらおうよ! 待っている方がどんな気持ちか考えたことある? ねえ、ヴァラガン!」
優は一頻り心のうちを吐き出すと、手の甲で目元を拭う。涙に濡れた顔には、幾層にも重なる愁いを湛えていた。優はパーカーの袖にも付いた愁いの残滓に視線を落とすと、二階に消えてしまった。ヴァラガンが、口の中で言葉を転がしている間の出来事だった。
勢いよくドアが閉まる音がしたあと、ヴァラガンは小さく舌打ちした。赤松博士の言葉は、優の心情を代弁したものだったのかもしれない。そんな簡単なことにこの瞬間まで気づけなかったことを悔やんだ。自己嫌悪は留まることを知らない。
ガントレットはヴァラガンの次の言葉を待ち、ケインズはオールバックの髪に手を当ててなにやら考え込んでいる。ものの数分で、場の空気は険悪な方向に大きく傾いた。時間がないと言った矢先の展開に、缶詰の中の昆虫も白い目で宙を見ている。
「向こうに行くには身分証がいる。どちらにせよ、今の状態では準備不足だ」
ケインズが口を開く。ヴァラガンは仔細を目で問いかける。
「コンソルン・シティには基本的に、上位中産階級以上の人間しか出入りができない。街のブランドを保つための線引きだ。自身がこの街に相応しい人間か、その証明が必要になる。精神置換技術を受けているのかも一つの指標だが、まずは身分証がないと話にならない」
そこで一旦言葉を切り、ケインズはテーブルの上で指を組む。
「身分証をこちらで都合してもいい。手切れ金の代わりだ」
なによりも、とケインズは言葉を続ける。
「コンフィデンスを得て、早くここから離れたい」
そう言って、さり気なくガントレットを見る。ガントレットは、ヴァラガンの方に視線をやる。
「たかが警部補に、そんな大それた真似ができるのか?」
「署長が職務中に負傷して、うちも混乱の最中なんだ」
取引は成立した。上手くいく保証はどこにもなかったが、時間の余裕もなかった。薄暗い照明はケインズを胡散臭い男に演出していたが、ここに来て梯子を外すような人間でないことはたしかだった。尤も、ガントレットだけは頑なに警戒を解こうとはしなかったが。
ヴァラガンは自身の身分証の他にもう一人分、予備のものを作るように頼んだ。ケインズは不審そうに首を傾げたが、ヴァラガンは「念のためだ」と言って詮索を退けた。
二人は再度、昼過ぎに落ち合うことになった。話を終え、ケインズは立ち上がる。しかし、すぐに椅子に座り直した。訊けば、デルフォードに戻る足がないとのこと。嵐は過ぎ去ったとはいえ、この時間帯に外を出歩くのは自殺行為。仕方なく、ガントレットがバンでの送迎を請け負った。二人は、一触即発の空気も連れて席を立つ。
表にいる赤松博士に送迎を頼むことも考えたが、ケインズの心労を察するにその案は却下となった。二人の背中を見送り、ヴァラガンは厨房から水を張ったガラスのコップを持ち出す。それを傾けて、水と一緒に口の中にこびりついた緊張を流し込む。
途端に訪れた、得も言われぬ感触に顔をしかめる。
娘が第一。最期の言葉も、娘のこと。江の執心など、ヴァラガンにとっては関心の
階段を上がった先には、手前から奥にかけて三つ部屋が並んでいた。ドアに埋め込まれたプレートを見るに、一番手前は銃火器類の倉庫。その次は赤松博士の私室。こちらには本人の似顔絵と思しきものが、プレートに貼られていた。
今の機械的な顔ではなく、中年男性のものだ。痩せこけた頬に落ち窪んだ眼。不健康を体現したような顔は、黄の顔料で中和されていた。本来ならば、白で塗るべき場所だったに違いない。ヴァラガンは文字通り『おっさん』の似顔絵に苦笑を浮かべ、廊下を進む。
残るは一番奥の部屋。そこが優の私室になる。木製の床の軋む音に不安を煽られながらも、ヴァラガンは部屋の前に行きつく。ドアには、頭から無数の数式を溢れ出させる髑髏の絵が描かれていた。ヴァラガンは遠慮気味にドアをノックする。
返事はなかった。ドアに耳を当てても、中からはなにも聞こえない。寝ているのだろうと思い引き返そうとするが、それでは間に合わないと気づいて立ち止まった。今、伝える必要がある。ヴァラガンはただ、優に謝りたかった。
陶器を扱うように、慎重にドアノブを回す。暗い室内に廊下の灯りを送れば、案の定、優は寝ていた。ベッドにうつ伏せになり、黒のパーカーは乱暴に足元に脱ぎ捨てている。その周りには、記憶の再解釈に使う文章をまとめた紙が無造作に置かれていた。やはり、声をかけることはできない。背中を丸め、ヴァラガンはドアを閉めようとする。
「……パパに会いたい」
閉じる前に、隙間から優の声が届いた。突如として、鈍器で殴られたような衝撃が心臓を打つ。その弾みでヴァラガンは、再びドアを開けてしまった。
勢いを殺せず優の側に歩み寄るが、寝息が聞こえるだけ。寝言だったようだ。暗がりに慣れた目には、うつ伏せでは隠しきれていない優の横顔が映った。赤く腫らした目元には、涙の通った道が残っている。ヴァラガンは、床に投げ出されたタオルケットを小さな背中にかけてやる。優の願いに、今はこのような行為でしか応えることができなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます