第三十一話 それぞれの思惑

 左腕に力が入らない。脱臼だ。遅れてやってきた激痛に、ヴァラガンは叫び声を上げる。関節を固めたわけではない。純粋な力によって脱臼させた。軍用複製素体の驚異的な能力を、身を以て知ることになったのだ。まさに厄介極まりない相手。

 たとえ殺すことができたとしても、その場凌ぎにしかならない。精神置換技術によって、エストックが本当の意味で死に至ることはない。チップさえあれば、エストックの精神は別の複製素体に乗って生き続ける。生身のヴァラガンに勝機はなかった。

 それでも優の計らいを無下にはできず、ヴァラガンは人一倍大きな体を起こす。満身創痍ではあるが、ここにきて吐いた唾を飲むことはできない。エストックは追撃せずに、ヴァラガンが立ち上がるのを待っている。やがて、二人は正面から向かい合う形になった。

 背中をやや丸めて手錠のついた両腕を顔の前で構えるヴァラガンに対し、エストックは両腕を下げて無防備な状態で迎える。そうして向かい合ったのも束の間、重い打撃音が響く。

 先手を取ったのはヴァラガン。振り抜いた右の拳がエストックの顔を捉える。手錠のせいで否応なしに左腕も引っ張られるが、襲ってくる激痛には耐える他ない。

 衝撃でウルフヘアは風に膨らみ、点々と血飛沫が飛ぶ。続けざまに二発顔を殴り、もう一発と放たれた拳はエストックの五指に捕まった。凄まじい力で掴まれ、振り払おうにも動かせない。その力は拳をも砕かんとする勢いだった。左腕は脱臼で使い物にならないために、ヴァラガンは頭突きを食らわせて辛くも拘束を逃れる。

「普通、顔は狙わないものじゃない?」

 額から垂れてくる血を舐めながら言うエストックに、ヴァラガンは荒い息遣いで返す。相手は顔面を潰そうと、数秒で元の形に戻ってしまう。体力とともに精神力も消耗していく。

 続いて放った大振りの打撃は容易く躱され、鳩尾みぞおちにエストックの肘が入る。その次は足を払われ、アスファルトに尻をついたヴァラガンの首に、うしろからしなやかな腕が回った。

 頸動脈を絞められ、十秒と経たないうちに視界が歪みだす。ヴァラガンは酸素を求めて藻掻くが、今度は逃げられない。エストックは赤みの増していくヴァラガンの横顔から、前方で未だ銃撃戦を続ける班員たちの方に視線を移す。

「しぶといね。さっきよりも数、増えてない?」

 エストックの言う通り、流氓リウマンたちは次々と増えている。死体の山も着々と高さを増していっているが、動いている人数は最初のものを遥かに上回っていた。班員たちは弾切れを防ぐべく、自動小銃の連射を控えて単発撃ちで処理している。

 そんな光景もやがては失せて、銃声だけが耳朶に響く。視界が淀んでいく中で辛うじて意識を保っているが、このままではあと十数秒で闇に沈む。抵抗する力も、残りわずか。

 そのとき、不意に首を絞める力が緩む。突然のことにヴァラガンは嘔吐えずきながらも余力を振り絞り、背後のエストックの胸倉を掴んで前方へと背負い投げる。

 それと同時に、眩い光がヴァラガンの視界を奪う。反射的に手で顔を覆って指の隙間からそちらを見れば、先ほどミキサー車の出てきた路地から一台のバンが驀進してきていた。

 ヴァラガンは咄嗟に身を翻すが、エストックの方は起き上がる間もなく撥ね飛ばされる。その勢いでSUVに半身を強打したあと、通りに転がった。衝突でボンネットのひしゃげたバンは、ヴァラガンの前で止まる。運転席には見慣れた顔があった。

 ガントレットだ。思いがけない再会に驚嘆しつつ、ヴァラガンは助手席に転がり込む。

「どうして来た。頭痛は」

「借りばかり作ってはいられないので」

 ガントレットの殊勝な態度に、ヴァラガンは強張った顔を少し崩す。だが、正真正銘の頭痛の種であるエストックを前にして、ガントレットの様子は芳しくなかった。

 一刻も早く、この場を離れる必要がある。しかし、バンのライトが照らす先に倒れていたはずのエストックは、もう起き上がろうとしていた。

 腕からは皮膚を破って骨が飛び出し、右前腕はあけに染まっている。それでも垂れ下がったウルフヘアの間から覗く顔は、曇ることを知らない。軍用複製素体には、もはや人間らしさの欠片もないことを認めざるを得ない状況だった。

 他の班員たちの注意もバンに向く中、灯りに揺れる異形のような影は整合性を取り戻す。エストックは班員たちを手で制すと、ガントレットを睨めつけた。

「こっちは死ぬほど頭が痛いんだけど、そっちは大丈夫?」

 両腕を広げて、大袈裟に問いかけるエストック。ガントレットは沈黙を守る。そんな様子を鼻で笑うと、エストックは助手席のヴァラガンに標的を変える。

「ラッキーマン。記憶を取り戻したいなら、覚悟を決めないとね。あとガントレット。次は殺すって言ったけど、あれは延期かな。どのみち過去からは逃げられないことだし」

 どこかで耳にしたような言い回しに、ヴァラガンは顔をしかめる。一方のガントレットはエストックを睨み返しながら、シフトレバーに手を置く。よくやく付近一帯の制圧を終えた班員たちが自動小銃を構え直す頃には、バンは後退して闇に消えた。

 通りを迂回しつつ、北東部を目指す。通りの銃撃戦で多くの人間が命を落としたせいか、北東部までの道のりは静かなものだった。人も見当たらなければ、銃声も聞こえない。

 今頃、あの通りは野犬と烏の餌場になっていることだろう。陥没したアスファルトに揺られる度に軋むバンの中で、ヴァラガンはそんなことを思っていた。ガントレットは頭痛が治まったのか、顔色が戻っていた。二人は束の間の安寧に一息つく。

「見逃されたってことか。あの女、お前の姉貴なんだって?」

「ツインズ・エストック。外勤処理班の責任者であり、延命管理局長の右腕です」

 姉ということには触れず、まるで他人であるかのように淡々と説明するエストック。その心情を察して、ヴァラガンはそれ以上言及しなかった。本当は会話でもして全身の痛みを忘れたかったが、仕方なく頭の整理で気を紛らわせることにする。

 すべての発端は複製素体、もといイーガンを巡るワンとの対立。そこから事態は思わぬ方向に発展していき、最後は龍灰窟ロンフェイクー全体を巻き込む大惨事を引き起こすことになった。

 結果として、外勤処理班によって事態には終止符が打たれた。否、最初からすべて仕組まれていたと言うべきか。延命管理局は、あらかじめ王を始末することを計画していたのか。それならば、ここまで手の込んだことをする意味はない。狙いは別の誰かのはずだ。

 騒動の中心には、いつも同じ人物がいた。自身をおいて他にいない。そこまで自身に拘る理由はなんなのか。その疑問がヴァラガンの心を掴んで離さなかった。

 そして、もう一つの疑問。エストックの存在。ガントレットの一連の行為から鑑みるに、二人の間には確執がある。屋上での二人のやり取りで察しがついていたが、無理に問い質すべきかヴァラガンは決めあぐねていた。車内には重苦しい空気が流れる。

「あの少年、イーガンの件ですが」

 そんな空気に嫌気が差したのか、珍しくガントレットの方から話を切り出してきた。

「なんの情も湧かなかったと言えば、嘘になります」

「……ああ、俺もだ。残念だった」

 ヴァラガンは、まだ温かい腰の刺し傷をゆっくりと撫でた。

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