第二話 暗がりの灯

 皮のたるんだ腹には十字に裂創があり、そこからこぼれたはらわたを風になびかせていた。これが仕事を怠った者の末路。龍灰窟ロンフェイクーの支配者は、恐怖で住人を束ねている。原始的かつ合理的なやり方だ。利用価値のない者は文字通り、切り捨てられていく。

 今回は自身が間接的に老人を殺したのかもしれない。あのときは他者を顧みる余裕などなかったが、今になって罪悪感が込み上げてくる。すっかり記憶探しに心を奪われていた。

 哀れな老人の屍を前に、物思いに耽るヴァラガン。本来ならばそんなことに費やす時間は一分たりともなかったのだが、どうしても老人の最期の言葉が耳から離れなかった。

 ——お前の記憶なんざ金になるか。

 幾度となく耳にした台詞。

 大半の買い手は金になる記憶、ようは愉快な思い出や貴重な体験の詰まったものを選り好みする。そんな連中からすれば、ヴァラガンのような人間は見当違いもいいところなのだろう。愚にもつかぬ話をちらつかせ、記憶を想起するために買い手を利用するのだから。

 もしかすると悪質な買い手ばかりに遭遇しているのではなく、自身が連中の神経を逆撫でしているだけなのかもしれない。それでも、これは記憶を取り戻すことにつながる。

 そんな日が来るのを夢見ながら、ヴァラガンはパーカーのポケットから仕事内容を殴り書きした紙の切れ端を取り出す。数は少ないが、危険なものばかり。かといって投げ出せば、あの老人と同じ運命を辿ることになる。まだ午前九時だというのに、空は暗澹あんたんとした雲に覆われ始めた。ヴァラガンは雲から逃げるように街路を駆けだした。

 仕事が終わったのは午後十一時。ヴァラガンは荒んだ通りを歩きながら、束の間の安寧を享受していた。盗難車からの部品調達や銃の横流し、薬物の売人からの集金。便利屋という名の忠犬だ。危ない綱渡りだったが、今日もなんとか生き延びた。

 記憶の転写や再解釈に携わらない者たちの仕事には、いつも暴力が付き纏う。同業の人間は入れ替わりが激しい。皆死ぬか、記憶関係の仕事に移る。使い走りに甘んじる者は稀だ。尤も、記憶の買い手がいないヴァラガンには端から選択肢はなかった。

 そんな折、通りのどこかで銃声が鳴り響く。

 ヴァラガンは小さく欠伸すると、右角に伸びる路地を覗き込む。暗がりの中からは、男の呻き声が聞こえた。目を凝らせば、おびただしい量の血が広がっていることもわかる。こうなってはもう手遅れ。辺りから点々と目玉が浮かび上がり、軽快な足音が路地に響く。野犬の群れだ。翌朝には、この男は襤褸ぼろ切れに姿を変えていることだろう。

 野犬が生肉を食む湿った音を背に、ヴァラガンは足早に先を進んだ。通りの角を曲がったところで、ぴたりと足を止める。そこには寂れた料理店が佇んでいた。ネオンで鮮やかな赤に輝く看板には『炎熱酒家イェンルージウジア』の文字が刻まれており、付近一帯を煌々と照らしている。その明かりは、ささくれ立った心に幾分かの輝きを呼び戻す。

 ヴァラガンは、落書きだらけの引き戸を開けて沓摺くつずりを踏む。店主の江秀英ジャンシュウインは、閑古鳥が鳴く店内で瞼を擦っていた。

「よお、江」

「……いらっしゃい」

 江は顔馴染みの声を耳にして、顔に生気を取り戻す。

 店内には八人掛けのカウンターと、テーブルが四つ。それらを隔てる中央の通路では、今や骨董品となったブラウン管テレビのような頭をした、給仕ロボットが床掃除に没頭していた。自身の足元に転がる空薬莢やガラス片に構わず、小さな埃にご執心だ。ヴァラガンは天井の低い店内を猫背で移動し、カウンターの椅子に腰をおろす。

「ごめんね、散らかってて」

 江は、カウンターにも散乱している空薬莢を刷毛はけで床に払っていく。軽い金属音が響く中、ヴァラガンは店を見回す。普段から薄汚れた店ではあったが、今日は一段とひどい。

 壁は弾痕に彩られ、床には割れた酒瓶が転がっている。その中で煌めくおびただしい数の空薬莢から、自ずと答えは導き出された。江は坊主頭に蛍光灯の光を反射させて、力なく笑む。生物学上の性別は男となるが、その萎れた様子は口調も相まって女のようにみえた。

「借金取りよ。催促ついでに、お店を荒らしたの」

 それにしては随分と殺意が強い。誤って債務者を殺せば、取り立てもできなくなるというのに。取り立てる側も切羽詰まっているということだろうか。

「なんだ、てっきり儲けてるのかと」

「知ってるでしょ。精神置換技術で娘を生かしたから」

 ヴァラガンは「そうだったな」と、合点がいったように肯く。

 チップと複製素体。それらが高額であることは自明の理。不死への羨望に取り憑かれたが最後、貧者は金と欲望に骨の髄までしゃぶり尽くされる。だが、江の場合はわけが違った。

「うちのコは免疫不全で生まれてね。一生、隔離されて過ごすなんて不憫でしょ。だから、いろんなところで借金して新しい人生を買ってあげたの」

 しみじみと語りながら、江はヒビの入ったジョッキにビールを注いで出す。ジョッキの中に浮かぶ、黄金の海と白い波。いつの時代も、その配色は人を幸せにする。水で薄めているせいで生じる妙な透明感が玉に瑕だったが、ヴァラガンは黙ってジョッキを傾ける。

「アンタも親になったらわかるよ。今、何歳だっけ」

「三十前半、だった気がする」

「まだ若いじゃない。こんな時代だけど、子どもには自分の全部をなげうってでも幸せになってもらいたいもんだよ」

 それで自分が死んでも構わないのか、と口を衝いて出そうになったが、ヴァラガンはそれをビールとともに飲み込んだ。給仕ロボットは、まだ床を手で磨いている。ジョッキの底に泡が沈んだ頃、カウンターに今夜の主役が運ばれてきた。

 ほどよく焼けた餃子だ。生まれも龍灰窟の江はいつも無意識に餃子を茹でようとするが、ヴァラガンが口酸っぱく「焼いてくれ」と頼んだ末に、しっかりと焼き目をつけたものが振る舞われるようになった。保存食やらを食すことを思えば、十分すぎる逸品だ。ヴァラガンはあっという間に平らげ、江との雑談に戻る。

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