内なる獣が俺を殺す

島流しにされた男爵イモ

第一章 龍灰窟の掟

第一話 売れない記憶

 記憶さえ、それさえ取り戻せたら、あとは構わない。


 むせかえるような腐臭に蠅たちが騒めく、夏の終わりの暮れ。ヴァラガン・ラッキーマンが『記憶』を売ったのは、その日が初のことだった。きっかけは老人の意味ありげな一言。

 ——お前さん、大層な人生を送ってきたんだな。

 無論、最初は相手にしなかった。こうした類の人間は、人恋しさゆえに声をかけてくるか、金目のもの目当てのどちらかだ。老人の風体からは後者であることが窺えた。

 面倒事に首を突っ込む必要はない。だというのに、ヴァラガンは記憶を売っていた。興味本位というのもあった。なにせ今まで誰一人として、自身の記憶に一瞥いちべつさえくれなかったのだから。老人とともに歩道に並ぶ長椅子に腰かけ、ヴァラガンは記憶の断片を語る。

 老人は慇懃いんぎんに肯くと、皺だらけの紙に素描し始めた。木の幹のように太い指の間に、短い鉛筆を小器用に挟んでいる。まるで六本目の指みたく、筆運びに迷いはなかった。

「あんた、この仕事は長いのか」

「かれこれ四十年ほどさ」

 老人は感慨深げに目尻を下げる。芝居がかった表情からは、どこか陰険な空気が漂う。風が吹けば、剥がれ落ちそうなほどに脆い仮面に見えた。街中に立ち込める腐臭は、人々の心から滲む灰汁。ヴァラガンは、足元に転がる鼠の死骸を踏まないように足を組み替える。

 この街、龍灰窟ロンフェイクーには混沌が渦巻いている。

 西暦二〇九一年、世界は未曾有の格差社会へと変貌を遂げていた。それは二〇四〇年代に、極東の科学者たちが発表した『精神置換技術』に端を発する。これは人間の脳機能及び精神を以前の肉体から摘出し、新たな肉体へ移植するという理論を具現化させた技術だった。

 精神などを記憶させた『チップ』がソフトの役割を担い、生身の体に代わる『複製素体』というクローン素体がハードに置き換えられる。不死性の獲得。人間は万物の理を逸脱するに至ったのだ。精神置換技術は、世界的な全体主義の先鋭化を促進させることになる。

 新たな技術は利潤を生み、貧者に牙を剥く。富める者は永遠の生を手に入れ、貧者は過去に朽ちていく。これは人間の選別だったのだ。全体主義の落伍者たちは次々と住む場所を追われ、世界中の都市部近郊や危険地帯への定住を余儀なくされた。

 そんな場所の一つが龍灰窟。かつての大都市の面影は、今や見る影もない。盛衰の荒波に揉まれた末に残ったのは、無機質なビル群と前衛的な貧民文化だけ。その退廃的な有り様には哀愁さえ覚える。とはいえ、このような貧民街にも役割があった。

「お前さんの記憶は、いい絵になるな」

 空々しく呟く老人の傍らで、ヴァラガンは漫然と歩道を眺める。街行く人々は神経質に靴を鳴らし、道に一続きの影を揺らめかせる。通りに面した店のネオン看板は「制造记忆チーツァオジーイー」と示す。電気の濫費など、問題外だと言いたげにその光は眩い。

 記憶の製造。その目的は想像力を養うことにある。精神置換技術を以てしても、想像力は置換できなかった。この技術の恩恵を授かった人々は、ここ数十年で想像力を失いつつある。中には皿を落とせば割れるという、因果関係すら理解できない者もいるのはもっぱらの噂だ。

 原因は一説には、死への恐怖の欠落が挙げられる。死の否定は皮肉にも、置換された精神をも否定した。そのために近年では、精神置換技術への疑問を口にする者も多い。

 こうした流れの中で利権を失うことを危惧した科学者たちは、チップへの記憶の移植による想像力の増強を考案する。しかし無味な記憶はもちろん、虚構では話にならない。あまつさえ、富める者たちは想像力を欠いているのだから。そこで注目されたのが貧者の記憶。彼らの貪欲なまでの生への渇望に、科学者たちは魅力的な記憶の誕生を期待した。

 記憶の製造には、記憶の転写と再解釈をする者が介入する。前者は客から聞き出した記憶を絵に起こし、後者はそれを文字で補足する。なにを意味する絵なのかを。前時代的な手法であるが、想像力を失った人間には到底できない芸当だった。

 そうして完成した原本をデータ化してチップにしたものが、都会の買い手へと流れる。言うなれば紙に書き殴った絵と文章。それを作るのが、記憶の製造に携わる者の役目なのだ。

 だが、売り手は常に危険と隣り合わせ。さんざん記憶を引き出された挙句、取引を反故にされたり、運が悪ければ殺されたりという話はあとを絶たない。

 記憶を売ろうとする度に突っ撥ねられてきたヴァラガンにとっては、買い手がつくことは願ってもないこと。とはいえ老人が暴挙に出ないか、神経は常に尖らせていた。

「こんな大柄な極東人に誰が喧嘩を売るんだい」

 そんなヴァラガンの心のうちを見透かしたように、老人は笑みをこぼす。そのついでに、口からは不規則に並ぶ黒ずんだ歯を覗かせた。

「ところで俺の記憶は高く売れそうか?」

 長椅子から立ち上がり、白系西ユーラシア人にも劣らぬ上背をみせるヴァラガン。頭に乗る短い黒髪を乱暴に掻き、車道を挟んではす向かいのビルに太陽が沈むのを見送る。

 老人は「それはそうとも」と片頬を上げ、仕上げに取りかかる。少しして、鉛筆の奏でる心地よい音が止む。老人は絵をめつすがめつしたあと、満足げに溜息をついた。

「見るかい」

 紙を受け取る。そこには両の拳を頭上に掲げる男を中心に、様々な動物や人が円になって寝そべる様子が描かれていた。紙を返し、ヴァラガンは老人を怪訝けげんな目で見やる。

「俺の話した記憶は、こんなに陰鬱だったか」

「感じたままさ。俺は歓喜を感じたよ。絵の解釈なんざ、人の数ほどある。そう感じたのは、お前さんの想像力がまだ生きてるってことだろうさ」

 記憶提供の見返りに、ヴァラガンは食用昆虫の入った缶詰をもらう。そのすぐ隣で、老人は仕事終わりの一服を始める。煙草の主成分の燃焼が、老人の体から漂うえた臭いを覆い隠していく。それを疎むように、手で宙を払うヴァラガンに声がかかる。

「また贔屓ひいきにしてくれよ。今週は厳しくて」

 老人は気さくに話しかけてくるが、目は笑っていない。

老板ラオパンが、記憶の転写と再解釈の仕事を管理してるだろ。もし納品を怠ったら」

 黙して車道を見守るヴァラガンの視界の端で、老人は表情を一変させる。

「殺されるんだよ!」

 煙草を吐き捨て、がなる老人。懐に手を入れたかと思うと、次の瞬間にはナイフを握っていた。切っ先が下から腹に迫り来る。ヴァラガンは刃先の刺さるすんでのところで、その棒切れのような腕を掴んで体ごと引き上げた。老人は宙に足をばたつかせる。

「落ち着けよ、取引は上手くいっただろ」

 ヴァラガンは諭すように言うが、激昂する老人には意味を為さない。

「お前の記憶なんざ金になるか。記憶喪失か知らんが、作り話で人を虚仮にしやがって」

「俺は記憶喪失だけどな、遊びで絡んだわけじゃない」

 視線を落とし、ヴァラガンは手を放す。老人はアスファルトに勢いよく尻を打ち付けて悶絶するが、すぐにナイフを拾い上げて、行く当てのない敵愾心を燃やす。二人のやり取りを遠巻きに見守る野次馬は、一分足らずで数を倍に増やした。

 仕方なくヴァラガンは、老人から受け取った缶詰をその場に放置して踵を返す。その背中に老人は懲りることなく罵詈雑言を浴びせるが、振り向きはしなかった。

 翌朝、老人は陸橋に吊るされ、街行く人々に変わり果てた姿を晒すことになった。

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