1章 ハワイの戦い

1.1章 宣戦布告

 12月6日の朝、ワシントンの日本大使館の会議室に3名の男がひっそりと集まっていた。真ん中に座った男が静かに口を開いた。彼の名は横山という。


「朝からご苦労さん。1週間くらい前から、諸君には重要な文書が送付されるかもしれないと通告していたが、どうやら今日になって、その文書が本国から送られてくると連絡が入った。野村大使への通知とは別に、軍令部から私のところに、海軍の極秘情報として知らせてきたのだ。命令は、対米通知のための外交文書が送付されるので、それを決められた時間までに米国務長官に提出できるように、大使館員を全面的に支援せよという内容だ。つまり、帝国の名でこの大使館に暗号文として送付されてくる外交文書を解読してから清書して、時間厳守で野村大使の手からハル国務長官に手渡せるように準備しろということだ。我々が手助けするのは、本来であれば外交文書を作成している奥村書記官や堀内電信官になるだろう」


 この日、日本大使館の会議室には海軍から駐在武官として派遣されていた、横山大佐、実松中佐と寺井少佐が集まっていた。横山大佐宛に海軍から、重要文書の作成に関して命令が出る可能性があることが、1週間ほど前に通知されていた。いわば準備命令だ。加えて、作業を実行するために大使館で信頼できる海軍武官を集めるよう命令が出されていた。それが昨夜になって、実際に文書作成を支援せよとの命令が届いたのだ。


 実松中佐が質問した。

「文書の作成は我々の本務ではありませんが、なぜ大使館の事務官に待機するよう指示が出ないのでしょうか?」


「どうやら海軍の作戦が絡んでいると考えないと話が合わない。大使館内でも特定の人物以外には、極秘とすべき内容だが海軍にも関連がある。それを支援せよという命令だ。文書量が多くなる可能性があるが、絶対に間に合うように、我々にも手伝えということだ。実際に本国から文書が届き始めたら、海軍から命令されていることを、私から野村大使に説明する。その後に奥村秘書官に一緒に作業することを伝える。今日は大使館員もあまり出勤していないようだから、彼にとっては渡りに船だ。作業の手順としては、まずは私が奥村さんと一緒に暗号を解読する。ちなみに、使える暗号解読機は1台しかないということだ。本国からの指示で1週間ほど前に2台は処分したそうだ。実松君と寺井君は解読した文書を、提出可能な外交文書となるようにタイプで清書してくれ。どうも奥村さんはタイプが苦手なようだからな。軍人としての仕事ではないが、そこはお国の重要任務と考えてくれ」


 寺井少佐が時計を見てから、腰を上げた。

「私が電信担当官のところに様子を聞きに行ってきます。既に何通か来ているかもしれませんから」


 すぐに、寺井少佐が1通の文書を持って戻ってきた。これは軍令部から横山大佐に宛てた海軍としての命令を示す暗号電だ。暗号電の内容を3名で確認する。指示されていたのは、現地時間の7日午後零時半厳守で文書をハル国務長官に渡すこと、外務省で起案された文書はかなり長くなること、海軍武官の文書作成支援に対しては、外務省から許可を得ていることであった。3人は黙ってうなずく。恐らく、帝国はハルノートを拒絶して、次の段階に駒を進めることを通知するのだろう。現在の日米の状況から、そこまでは想像できる。次の段階とは具体的にどのようなことなのか、更に次はどの方向に進むのかは3名にもわからない。


 ほぼ同時刻に、東郷外務大臣名で野村大使と来栖大使、奥村書記官にもこれから米国への覚書を送付することの通知が外務省から届いていた。15部からなる文書を送付するから、それを米国務長官に7日午後零時半に手交せよとの東郷外務大臣からの指示だった。直後に15部の文書の一部が届き始める。奥村書記官はさっそく準備を始める。この日は、あいにくと大使館の主催で歓送迎会があり、それに出席する大使館員たちは出払っていた。自分一人で文書を作成するしかないと腹をくくる。そこに1通の海軍の電文を持った横山大佐と野村大使がやってきた。


 野村大使からまずは事情を説明した。

「横山大佐に海軍から命令が出た。これからハル国務長官に提出する文書の作成を手伝えとのことだ。私も許可するから、彼らと共に文書を作成してくれ」


 更に、横山大佐から命令の詳細を聞くと、大佐に通知された情報が、文書の提出時間や文書量が多いことなど書記官への指示と一致している。間違いない。海軍でとんでもなく機転が利く人間が、今日のような事態を想定して駐在武官に指示していたのだ。そしてこれから提出する文書は、海軍の作戦に大きくかかわっていることも想像できた。


「わかりました。それでは横山さんや実松さん、寺井さんに手伝っていただきます。実は私一人でこの大量の文書をどうやって作成しようか思案していたところです。私にとっては願ったりかなったりです。それにしても、海軍さんはとても手回しがいいですね。これから来るのは、とても重要な文書であるのは確実です。絶対に遅らせられません」


「そうですね。最低ハルノートは受け入れられないこと、および米国との交渉の行き詰まりから帝国の次の行動を示す内容と思います。これは海軍にとっても、とても重要なことなので、我々に指示が出たのだと考えています」


 会話をしている間にも堀内電信官が次々と日本からの電文を持ってきた。12月6日の夜までに、文書の本文となる13部の文書が届いた。横山大佐の決めた分担で流れ作業的に書類を作成したため、6日の深夜にはタイプで清書した文書が出来上がっていた。翌7日の朝になって、14部目が届いた。14部になってやっと、帝国が米国の提案を受け入れられないこと、今まで続けてきた交渉を打ち切るという結論的な内容が記載されていた。


 横山大佐が独り言のように話す。

「米国からの提案の受け入れに理由をつけて、困難なことを説明して、最終的には外交交渉打ち切りによる国交断絶ということだな」


 しばらくして、最後の15通目の前に、国務長官への通知時間を30分遅らせるようにとの指示が来た。こちらから文書を手渡すのは午後1時に時間変更だ。この指示は直ぐに野村大使と来栖大使に届けられた。ハル長官に面談の予約を入れるためだ。次に最後の15通目が届く。この最後の短い電文には帝国が対米交渉を打ち切り、宣戦を布告することが明確に述べられていた。


 作業をしていた全員が一瞬手を止めて顔を見合わせる。

 ため息をついてから奥村書記官が口を開いた。

「これは宣戦布告です。帝国は米国に対して、戦争を仕掛けるということです」


 横山大佐たちが、ざわついているのを聞きつけて、野村大使と来栖大使が様子を見に来た。解読された文書を見てすぐに状況を理解する。


 野村大使が周りを見ながらつぶやく。

「今まで、粘って交渉を行ってきましたが、もはや私たちの出番ではなくなってしまいました。これは私の力が及ばなかったことも一つの理由だと心得ています。これからは軍人である皆さんが活躍する状況になりました。私にとっては、今日が外交官としての最後の仕事になるでしょう」


 横山大佐が絞り出すように答える。

「非常に重要な文書になったわけですが、ハル国務長官への約束の時間には間に合いますよね」


 野村大使が答える。

「もちろん、かなり余裕をもって間に合うよ。来栖さんと私は、あと1時間もすれば出かけることになる。そうなればもはや後戻りはできない」


 横山大佐が続ける。

「私はこの文書が本国から指示された時間通りに、国務長官へ手渡されることを海軍に報告しなければなりません。軍は何か作戦を考えているようです」


 野村大使がため息交じりに答える。

「戦争を始めるのろしを上げる役割を、君が託されたというわけか。因果なものかとも思うが、軍人としての責務を全うしてくれ」


 横山大佐は、大使館から国際電話を申し込んだ。この通知だけは、リアルタイムで本国に伝える必要がある。たとえ電報にしても即時の連絡はできない。東京の海軍軍令部へつなげてもらうように国際通話の申し込みを行った。東京の相手は既に通話を待っているはずだ。じりじりと待っていると10分もしないうちに折り返し電話がかかってくる。アメリカ大陸を横断して、サンフランシスコから東京まで電話がつながったという、電話局の交換手からの通知だった。先般、国際電話連絡が確実にできるか、軍令部からの指示により練習を行ったが、ここまでは、予行練習通りに進んでいる。


 通話の相手は、情報を担当する軍令部第三部の部長である前田少将だった。


 横山大佐は、あらかじめ準備していた米海軍情報を伝える。

「サウスダコタ級の戦艦4隻が、来年中旬になって相次いで就役する見込みです。一番艦のサウスダコタは3月、2番艦のインディアナは4月に就役するでしょう。それ以降3番艦も4番艦も順次、就役する見込みです」


 もちろん、この通話が盗聴されている前提だ。聞かれても困らないことをしゃべっている。相手の前田少将もそれは先刻承知だ。一連の報告が終わると、それではまた次もよろしくという流れになった。前田少将が最後の挨拶を途中でさえぎる。

「そういえば、大使館の庭に飛んできていた鳥たちは元気かね?」


 ぎこちなく、横山大佐が答える。

「ええ、今日も餌をやったら、ハトはつい先ほど元気よく飛び立って行きましたよ」


「うむ、それは良かった。それでは君も元気でな」

 ガチャリと電話が切れた。


 ……


 前田少将は電話を切ると、後ろを振り返って、それまで立ったままで待っていた副官に命令した。

「米国の日本大使館において、宣戦布告文書の準備を完了した。予定通りの時刻に国務長官に手渡される見込みだ。至急、この情報を軍令部の永野総長と連合艦隊の山本長官に伝えてくれ。待っているはずだ」


 この通知は、5分もしないうちに、呉の長門艦上の山本長官に届けられた。

 メモを一瞥して、山本大将が命令する。

「一航艦の南雲君に、連絡してくれ。いよいよ宣戦布告文が出るぞ。作戦は予定通り実行する。南雲中将に送る電文はこの通りだ」


 山本長官が参謀の黒島亀人大佐に渡したメモには、「ハト、トビタテリ」と書かれていた。


 ……


 一方、ワシントンでは、予定通りの時間に野村大使と来栖特命全権大使が国務省を訪問していた。約束した午後1時より数分早く着いたため、予定通りの時刻に野村大使と来栖大使はハル長官と面談できた。準備した対米覚書を手渡した。ハル長官は事前にパープル暗号の解読文を、既に一読していた。目を通すのは二度目なので、文書を斜め読みしながら自分の知っている文面と一致しているか確認した。パラパラとめくっていた文書の最終ページに目を落とすとそれをしばらく眺めて、短くため息をついた。日本が宣戦布告するページだ。感情にまかせて日本を思い切り罵倒する言葉が口から出そうになったが、ぐっとこらえた。まだ、戦争は始まっていないのだから、そこまで言うべきではない。一応、これは宣戦布告の手順に従った事前通告行為なのだ。いわゆる国際的な外交的プロトコルに則った日本の国としての行為なのだ。


 彼は声を押さえて、手短に話すだけにした。

「日本政府の宣戦布告の意思は理解した。これからは、我が国も全力で貴国と戦うことになる。我が国が戦いで負けることは絶対にない。この戦争は貴国の望む結末をもたらすことはないであろう。今日の宣戦布告を貴国は必ずや後悔するに違いない。これ以上、私から言うべきことはもはや何もない。これからは軍人があなたたちの相手をすることになる。もう出て行ってくれ」


 日本人の退室を確認してから、すぐに大統領に報告を入れる。既に、ルーズベルト大統領にも解読した日本の電文が届けられていた。

「正式に日本が宣戦布告をしてきました。たった今、野村大使が宣戦布告文書を手渡してきました」


「うむ、全軍に待機命令を出しているが、今日から日本との戦争状態に突入したという事実を、陸軍と海軍にもしっかりと伝えておこう。今この時点で日本から攻撃を受けてもおかしくないからね。私はこれから合衆国としての宣戦布告を行うことになるよ。そうだチャーチルにもこの事実を直ぐに知らせよう」


 日本からの宣戦布告により、ノックス海軍長官とその幕僚に日本が太平洋で攻撃を開始する可能性が高いことが伝えられた。スティムソン陸軍長官にも同様の通知が行われた。ノックス長官とほぼ同時に、海軍のアーネストキング作戦部長にもこの情報が伝達された。キング作戦部長は海軍の全軍に日本と戦争状態になったことを通知して、日本軍の攻撃に対する警戒レベルを最大限に引き上げることを命令した。このキングの指示は、オアフ島の太平洋艦隊司令長官のキンメル大将にもすぐに伝達された。

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