激闘編

横須賀の情景

 空技廠の東側には、貝山と呼ばれる丘がある。その丘に登ってみると、北側のすぐ隣には、横須賀航空隊の兵舎や格納庫、海岸線を埋め立てて拡張した追浜飛行場を眼下に眺めることができる。東を見ると、空気が澄んでいる日には千葉県の富津岬が見える。東京湾が意外に狭いことを実感できる眺めだ。南の方に目を転じると南東方向の吾妻島を挟んで向こうに横須賀海軍工廠のドックや桟橋が見える。


 昭和16年になってからは、空母の改装や爆弾、魚雷の準備などをしながら、艦載機の訓練も行わねばならず、連合艦隊には休みもない慌しさだった。横空の飛行場もひっきりなしに艦爆や艦攻、艦戦が離着陸していた。それが11月になると、飛んでいるのは空技廠の実験機とヒヨッコの練習機が目立つようになった。


 空技廠で勤務していても、丘に登れば港に停泊している海軍艦艇がはるかに見えた。停泊している艦艇の変化を注意深く観察していれば、くしの歯が抜けるように連合艦隊の艦艇が少なくなっていったことに気が付いたかもしれない。私も、久しぶりに横須賀工廠の方向を眺めて、大型艦がいなくなっていることに気づいた。何しろ、ついこの間まで、カタパルトや電探の追加のために空母の艤装を行っていたのだ。長く停泊していたのは竣工間近の空母翔鶴だったが、それも今は姿が見えない。


 私には、いなくなった空母の目的地がどこなのかわかっていた。一度、九州方面まで航行して、錦江湾を真珠湾に見立てて訓練していた艦攻隊や艦爆隊、大村あたりで訓練していた艦戦を収容してから、単冠(ヒトカップ)湾に向かうはずだ。そこから出港すれば、それ以降は「ニイタカヤマノボレ一二〇八」となるはずだ。


 未来の私にとって歴史となっていた出来事が時間軸もずれることなく、事実になろうとしている。太平洋戦争に向かう時計の針は、8月に日本が仏印に進駐したことで、残り時間はほとんど無くなってしまった。残り2分のところで、これからハル・ノートが米国から提出されれば、1分進むだろう。そして、日本がその受け入れを拒否して最後通牒を発出すれば最後の1分が進んでしまうことになる。つまり、太平洋を舞台とした戦争開始の鐘が鳴ることになるだろう。

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