6.8章 よみがえる記憶

 MK5Aのケルメット軸受け問題が終息してきた昭和14年の秋のある日、私や、菊地中尉と松崎中尉の間でエンジン整備について話題になった。MK5Aは、金星で採用した燃料噴射に加えて、新たに水メタノール噴射を採用していた。クランクケースの鋼製化やケルメットの材質の変更等、今までの発動機に比べて変更もいろいろある。これも2,000馬力のエンジンを実現するためには必要なことだった。


 変更に伴いエンジンの整備に関しては注意すべき事柄が増えてくる。しかも初めて採用した機構は一から説明しなければ、整備員には理解されない。当然ながら前線で整備に関してしっかりと教育しなければエンジンの性能は充分に発揮されないので、新エンジンの整備についての教育方法が我々の間で話題になった。私の未来の知識でも、水メタノール噴射の不調は燃料の質の低下と合わせて、日本の航空機エンジンが額面性能を大きく割り込んだ要因になっている。


 日本の発動機整備用のマニュアルは非常にお粗末だ。何とか改善しないといけないという問題意識はあったが、エンジン自身の開発に必死で、今まではメーカー任せとなってきた。私の考えをまず述べた。


「まずは、説明書をしっかりさせることが先決だと思う。我が国の説明書は米国の説明書に比べて、非常に貧弱だ。三菱も中島もP&Wやライトからワスプやサイクロンの技術導入をしているのだから、それらのエンジンのマニュアルをよく見て見習ってほしいものだ。特に、追加された水メタノール噴射の機構は、噴射量の調整や調整の不備は性能低下に直結する。しっかりと説明書に記載することが必要だ。メーカーだけの責任ではないぞ。我々がエンジンの評価や審査の過程で習得したノウハウは、前線部隊にとっても有益なことがたくさんある。我々とメーカーが協力してエンジンを問題なく運転するためのノウハウまで記載した説明書を作ってゆく必要がある」


 海軍航空隊の整備部隊と一緒に、さんざん油にまみれて作業した経験のある松崎中尉は、私の意見に賛成のようだ。


「鈴木さんのいう通り、米国並みのもっとしっかりした説明書が整備されれば、現場の整備部隊はずいぶん助かりますよ。私自身が習得したいろいろな技術や知識も、現場に伝授したいことはたくさんあります。メーカーさんと協力して私の知識も説明書の要所に入れてもらうように要求します。もちろんその部分は私が自分で記述しますよ。ガリ版刷りのペラペラの説明書なんてもってのほかです。米国のエンジンの説明書を空技廠ももっとしっかり分析して、記載すべき内容について、必須事項を示した、記載内容の具体的な指針を示してゆく必要があります」


「我々でエンジンの説明書に記載が必要な事項は何かを示す指導書を作っていこう。整備用の指示書や取扱説明書のひな形ができれば、説明書の改善について私から廠長には要望してみる」


 黙って聞いていた菊地中尉は、現地での教育がまだまだ必要だと考えているらしい。

「現地の整備部隊の教育がまだまだ必要です。特に燃料噴射や水・メタノール噴射など注意が必要な機構は、説明書だけではまだまだ、理解が不足しています。実地で教育をしていく必要があります。金星の整備に関しても、横空で金星の整備を習熟してきた整備兵が中国大陸や台湾の部隊に派遣されているとのことです。これからMK5Aが様々な機体で使われることになれば、我々も前線部隊に行く必要が出てくると思います」


 松崎中尉も同意しているようだ。

「我が軍が仏印や蘭印に進駐することになれば、東南アジアの地域にも我々も出かけてゆく必要があるかもしれませんね。敵弾が飛んでくる可能性もある最前線ですが、まあその時は、私も躊躇なくそれには応じますよ」


 この会話を聞いて、祖父との会話の記憶が突然、よみがえった。

「東南アジア? エンジンの整備? 最前線?」


 祖父の話では、未来に生きていた私から見た曽祖父である鈴木芳夫は終戦間際に東南アジアで亡くなったとのことだ。その時の祖父との会話が頭に浮かんだのだ。


 祖父の話はこうだった。

「飛行機の発動機の仕事をしていたはずだが、仕事の内容は遺族には知らされないのでわからなかった。しかし、終戦後になって、父の友人だという元海軍の人が母を訪ねてきた。その人の話では、発動機の整備方法を現地部隊に対して教育するためにクラークを訪れていて、その地で戦死した。というようなことだったと思う。クラークという地名はよくわからないが、確かにそう言っていたよ」


 私の曽祖父は、発動機の技術士官として、終戦の年には当時故障続きだった発動機の稼働率を向上させる仕事をしていた可能性が高い。恐らく、当時の情勢から故障続発の誉発動機を何とかしようとしていたのであろう。クラークと聞いてもその時はわからなかったが、今なら想像がつく。フィリピンのクラークフィールド基地のことだろう。日本軍が侵攻した後は、海軍の基地だったはずだ。フィリピンの戦いでは神風特別攻撃隊もこの基地から飛び立っていった。昭和20年になってからは、レイテ湾から上陸してきた米軍と地上で激戦となったはずだ。最前線で、専門だった発動機を何とか使えるようにするために海軍技術士官として派遣されたが、米軍の上陸により、地上戦闘に巻き込まれて犠牲となったのだろう。ジグソーパズルのようにピースが矛盾なく収まった。


 いくつか推測が含まれているが、事実と大きく違わないだろう。この世界の私はそれを警戒して、これからフィリピンに行かなければ死亡確率を減らせるはずだが、軍人として命令を受ければ、拒否は容易ではあるまい。むしろ、そのような状況にならないようにエンジンの性能と信頼性を向上させるのだ。加えて日本とアメリカとの間の戦いをもっとまともな形で早期に終わらすことができれば、それほど良いことはない。


 私が黙ってしまったので、行きたくないと思ったのだろう。横にいた松崎技師がフォローしてくれる。

「鈴木さんは、NK3Aの開発に加えて、MK5A本体の開発で忙しいので、私達が現地の指導や教育に行きますよ。今なら、金星の試験に参加して経験を積んだ工手たちも何名もいますから、彼らと行けば充分です」


 意識を会話に慌てて戻す。

「ああ、松崎君、気を使わせて悪いね。もちろん、日本のために私も現地で仕事をするよ」


 その時、川田技師が新聞をもって慌ててやってきた。

「ついに戦争が始まったぞ。ドイツがポーランドに侵攻した。戦争が始まったんだ。もちろんポーランド自身は全力で反撃するだろうが、かなわないだろう。加えて、ドイツに立ち向かう意思を示すために、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告したぞ」


 菊地技師と松崎技師は一瞬驚いたが、落ち着きを取り戻した。菊地技師が話し始めた。

「スペインのフランコの戦いもそうですが、まだこれはヨーロッパ大陸内での戦いですよね。限られた地域内での紛争で収まることも大いにあり得るんじゃないですか?」


 日本で暮らす人々にとっては、まだ欧州での戦いが始まったという認識なのだろう。全地球規模の戦いではないし、アメリカも日本も参戦しているわけではない。この時点で、日独伊三国同盟は成立していないので、日本が直ちにこの戦いに巻き込まれるわけではないのだ。私は歴史を知っているので、悲観的な意見を述べた。


「いや、対岸の火事が大火事に広がることもあり得る。イギリスとフランス本土はポーランドから遠いので、実質的に援護は間に合わないだろう。つまりポーランドはドイツに侵略されるということだ。イギリスとフランスはそれに納得するわけがない。ドイツとの戦争状態はこれからも続くことになる。もしもアメリカがイギリスについて参戦すれば、これは大戦争につながる道になる。俺は、我が国がこれに巻き込まれないことを望む。しかし、それは容易ならざる道だろう」


 戦争の話題となり、皆静まり返ってしまう。


 とりあえず、会話を終わらして、この世界の自分自身の未来について、あらためて考えてみる。この世界でも新聞報道により、世界の出来事を知ることができる。既に日本は国際連盟を脱退し、盧溝橋事件を引き起こしている。日華事変の引き金は既に引かれて、大陸での日中の戦いはこれから拡大していくだろう。欧州では、スペインで内戦が始まり、ヒトラーはつい最近オーストリアを併合して、ズデーテン地方をチェコスロバキアに割譲させた。次はあるのかと思っていたら、ついにポーランドへ侵入した。私の知っている歴史の通りに、世界は確実に第二次世界大戦に向かって進んでいる。2年後には、間違いなくこの世界でも真珠湾が攻撃され、太平洋戦争が始まるだろう。今の自分の立場で開戦を引き留めることなどできそうもない。それならば、何ができるのだろうか。自分は何をすべきなのか。


 その日は、疲れが出たことを理由にして、早めに帰った。落ち着いて、部屋にためていた新聞を、戦争につながりそうな大きな事件を中心に拾い読みしてみる。しかし、未来の私自身が歴史として知っている出来事から逸脱するような記事を見つけることはできなかった。細部まで同じように、この世界も戦争に向かって進んでいるのだ。

 

 一晩、眠ることもできずに、自分は何をすべきか考えていた。最終的に、エンジンの技術者という自分の能力を最大限生かして、日本の戦争をできる限り早期に終わらせることを目標としようと決心した。なんとしても民間人の被害が多数出るような戦争を避けたい。本土爆撃なんてもってのほかだ。そのためには、まさに担当している18気筒エンジンで高性能な機体を実現する必要がある。来年になれば、雷電となる十四試局地戦闘機が始まるはずだ。これを史実のような少数生産機とするのではなく、防空戦闘可能な戦闘機とする必要がある。艦上機としての烈風も早期に実現するようにしたい。空母の戦いが有利になれば終戦への糸口が見つかるかもしれない。


 次はジェットエンジンを短期間で実用化する必要がある。この世界でゲームチェンジャーとなり得るジェットエンジンが早期に登場すれば、日本の戦いは大いに有利になるはずだ。さらに、高性能の戦闘機や爆撃機ができても、レーダーがなくては戦闘が不利になる。これからは夜間爆撃も想定する必要があるので機上レーダーも早期に実用化しないといけないだろう。しかし、この点については空技廠ではなく海軍技術研究所で開発がされたはずだが、人脈がない。


 未来の自分は電気系の大学生だったこともあり電気や電子分野の基礎知識はある程度あるが、レーダーの専門家じゃない。これでどこまで通用するだろうか。まずは、開発に時間がかかるだろう高性能戦闘機の実現を可能とするエンジンの開発に注力するが、電子機器の人脈づくりも心がけることに決意した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る