5.5章 対空機関砲の強化
A6M1が飛行試験を開始してからしばらくたった昭和14年4月のある日、兵器部の佐藤大佐と川北少佐が揃って暗い顔をして相談に来た。私が忙しくしていると思ったのか、黙って立っているので、仕方なく私の方から訪ねてみる。
「何か困りごとですか? 二人揃って私のところに来るなんて、かなり珍しいじゃないですか」
佐藤大佐が説明を始める。
「知っての通り、我軍の航空部隊は大陸に展開して作戦を展開中だ。航空基地に爆撃機や戦闘機が展開して、軍事作戦を実施している。基地を設営すれば、当然敵軍からも反撃がある。現状のところは、敵航空機からの小規模の襲撃だが、攻撃により被害が次第に発生するようになっている。そこでだ、迎撃用の陸上戦闘機が検討されているのは聞いているだろう。しかし、それだけじゃ、基地防衛のためにはまだ不十分だ。そもそも戦闘機開発を要求してから、それが実現するまでには結構時間がかかるからね」
佐藤大佐は自分の言葉が浸透するのを確認するように、周りを見回した。
「それで基地の対空火器を強化しようということになったのだ。しかし、高角砲は艦載砲を陸上に設置したものがあるが、大口径の高射機関砲にいいのがない。九六式25mmじゃ広い陸上基地の防御のためには圧倒的に射程が足りない。航空基地の防衛なのだから、防御の穴を埋める手段を空技廠で検討しろと言われてしまっているのだ。君は、13.2mmのときに良い発想を出してくれただろう。今回も期待して相談に来たのだ」
長々と説明されたが、海軍の中にも、25mm機銃だけでは、防空に穴が開くということを認識している人物がいるらしい。あまたの考えは正しいですよ。もっと大口径の機関砲を採用しないと日本海軍は出遅れますよ。
これにはぜひ、いいものを紹介したい。昭和14年というこの時点では、欧米からの武器の輸入やライセンスの導入はまだぎりぎり可能だ。
「そうですねえ、最近スウェーデンで開発された、大型の機関砲が対空火器として良い性能とのことです。ボフォース社の40mm機関砲といいます。連射性能は、毎分数十発くらいでしょうか、数千メートルの高度までは有効射程になると思いますよ。高性能で信頼性もありますから、よい評価がされて欧米の軍隊でもこれから採用が増えてゆくと思います」
早速、新しもの好きの川北少佐は前のめりになって、佐藤大佐に要望する。
「40mm機関砲であれば、我々が求めていた4、5千メートルの射距離はありそうですよ。評価のために1、2門を購入して、実際に試験をしてもいいんじゃないですか。話を聞いた限りは、なかなか良さそうですよ」
佐藤大佐はもう少し慎重のようだ。
「まあ、あまり焦るな。まずは、ボフォースの40mm機関砲も候補の一つとして扱うことにする。北欧の駐在武官に連絡して、仕様や購入の可能性について調べさせてみよう。私から廠長に話を通すから、川北君は、スウェーデン近辺で駐在しているわが軍の武官に調査を依頼する文面を考えてくれ。ああ、その前に誰に依頼したら早く情報が収集できるのか、欧州で活動できる人物も調べてくれ」
川北少佐は、スウェーデンの駐在武官に早速連絡をしたらしい。まずは、ボフォースの40mm機関砲の情報の入手だ。最初に必要な情報は電文で入手した。ボフォース社からの書類や図面については、欧州から帰国する海軍の武官が自分の荷物と一緒に持ち帰ってきてくれた。この頃はまだシベリア鉄道を使えば10日もあれば人は行き来することができたのだ。
昭和14年8月には、海軍航空本部は、試験用のボフォース40mm機関砲を3門ほど弾薬と共に購入することを決めた。評価のためにボフォース社で作成された完成品の機関砲を購入して試験を行うことが決まった。輸入した3門の機関砲は、横須賀工厰、呉工廠、空技廠の手に渡りそれぞれの組織で、まずは3ヶ月という試験期間を決めて評価が行われた。
9月になると大陸に展開した海軍の漢口基地への爆撃機の奇襲により、司令官が戦死するという事件があり、基地防衛の一層の強化が強く叫ばれるようになった。その一環として、40mm機関砲の試験も加速され、国内で製造することが決められた。川北少佐が慌てて私のところにやってきた。
「鈴木さん、やっとのことで決まりました。40mm機関砲が正式採用される見込みになりました。既にボフォース社とは、我が国で製造するための予備交渉に入っていますが、今後本格的に国産化交渉に移行する見込みです。なお国内製造が立ち上がるまでは、部品を輸入して、国内で組み立てることにより実戦部隊に配備します。40mmの弾薬については、横須賀工厰で製造を行うことで、既に工作機の準備に入っています。私も今月から、部下を連れてスウェーデンに行って交渉をすることになりました。現地から相談することもありますがよろしくお願います」
私からも少し助言しておこう。
「エリコンの経緯を考えると、横須賀工厰で戦艦の大砲並みの時間感覚で製造の準備をしても全然間に合いません。我々が1年以内を希望しても、何年もかかるでしょう。ここは民間企業の手を借りて、生産することも考えた方がいいのではないですか。これを受けられそうな民間企業と言えば、大日本兵器や日本特殊鋼が対象になるでしょう。一度、声をかけたらどうでしょうか。少なくとも、横須賀工厰のみが自分のペースで進めるよりも、競争を行わせることで時間が早まると思われます。欧州でも、中国でも戦火が広がっています。これから、たくさんの機関砲の製造が必要になりますよ。そのときに横須賀工厰のみでは対応できません、必ず民間企業の助けが必要になります」
結局、連絡員の中尉を現地に残して、川北少佐は3ヶ月後に40mm機関砲の図面と共に帰国した。ライセンス交渉はまとまったが、ボフォースの技術者が来日を拒否したため、今後は図面と説明書のみで国内生産を立ち上げないといけない。連絡員の中尉は、国産化作業で何かあった時の要員として、しばらく現地に滞在する手はずになっていた。
図面が入手され、ボフォースの部品が日本に到着すると国産化の作業は一気に加速された。横須賀工厰で40mm機関砲の組立が開始されると、日本特殊鋼の技術者も同席が許され、2者で32門の機関砲の組立がまずは行われた。大日本兵器はエリコン20mmの生産で手一杯ということになり、40mm機関砲本体の製造からは辞退した。横須賀海軍工厰では得意とする機関砲の砲身は、要求される品質の砲身を製造できたが、なれない機関砲の機関部にはてこずった。特にボフォース40mmは反動利用の機関砲なので、図面の寸法通りに部品を製造しても、材質や重量が違うと想定した通りの動作にならない。機関部の排莢動作をスムーズにさせようと反動バネの強さを弱くすると、装弾時の力が弱くなって弾込めがスムーズにいかなくなる。一方、機関銃の機構を知り尽くしている河村博士が主導して、日本特殊鋼が製造した機関部は期待通り動作した。昭和15年4月には、横須賀工厰と日本特殊鋼が分担して作成した機関砲の試験が開始された。
試験は4ヶ月の短期間で終了となって製造が開始された。不具合がいくつか発生したが、最も大きな問題は、昭和15年12月になって、冬季の樺太において追加で実施した低温の試験で発生したリコイルバネの折損事故だった。日本特殊鋼に切れたバネが送付され、材質の改良が行われ、生産済みの機関砲に対しては部品が交換された。本格的な生産は、昭和16年2月から開始され、当初は基地への配備が行われたが、泥縄式に艦船への搭載が始まった。なお艦載型の射撃照準器は九六式25mm機関銃と同様に九四式高射装置に連動するように、銃架の改修が行われた。
本砲は昭和16年3月に一式四十粍機関砲一一型として正式採用された。続けて、艦艇への搭載を主目的に連装砲の銃架が開発されて、一式四十粍機関砲一二型として、艦艇に搭載された。
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