第15話 其れから下
里は重い着物を着ているのだからすぐ追いつく。
そう高を括っていた藤太は、森の中ごろまで入り込んでも姿が見えない里に胸騒ぎがしていた。
なんとか袖の端を目の端に拾って追いかけていたつもりだが、もしや道を間違えたのだろうか。
一度、引き返したほうがいいのだろうか。
そう考え立ち止った藤太の耳に、懐かしい音が聞こえた。
最後に聞いたのはもう十年は前だ。覚えているよりもずっとのびやかに艶やかに響いていた。
姉の、笛の音だった。
気が付けばその音が聞こえるほうへ全速力で走っていた。
一度わかれば迷う暇などなかったのだ。
姉がいる。少なくとも姉の笛を持つ人がいる。
ならば妹もそこにいるはずだった。
音を頼りに走り抜けた先は、子供のころ遊んだ木立の中の広場だった。
姉が、よく笛を吹いていた場所でもあった。
音はすでにやんでいた。
鮮やかな色の着物を着た里が、こちらに背を向けて立ち尽くしている。
その向こうに、誰かいた。
男と女の二人だった。
男のほうは白づくめだ。
白い狩衣に色の濃い袴。真白い髪を後ろで一つにまとめ、その肌も白い。
藤太からそれなりの距離があるにもかかわらず、匂い立つような尋常でない美貌だとわかった。
その姿に既視感を覚えたが、藤太はそれを深く思い出す暇はなかった。
藤太を釘付けにしたのは女のほうだった。
年の功は二十をいくつか過ぎた位だろう。
藤太の村に居てもおかしくなさそうな、のどかな空気をまとった女だった。
小柄な体に、落ち着いた色合いの上等そうな着物を身にまとっている。
それと、日々の労働からくるやつれがないふっくらとした健康そうな肌が、村娘というには違和感のある要素だった。
まるで夫婦のように寄り添う二人に藤太が里と同じように立ち尽くしていると、女がこちらに気付き、ふんわりと笑った。
こちらを安堵させてくれるような柔らかな笑みは、姉そのものだった。
「またね」
そっと唇を動かされた言葉が、なぜかはっきりと聞き取れた気がした。
一歩踏み出そうとした瞬間、ざあっと強い風が吹き木の葉が舞い上がった。
それに思わず顔をかばい、目を離した数瞬の間に女たちは消え、里だけが取り残されていた。
「おい、里……」
幻のような出来事が、壊れてしまうのではないかと藤太はそっと里に声をかけた。
「今、姉ちゃんがいたの」
藤太がいることはその一言で分かっただろうに、里は一点を見つめたまま、呆然と言った。
「大きくなったねって。結婚おめでとうっていってくれて、お祝いだってこの笛をくれたの」
里の手元をのぞいてみると、その手には黒塗りの見事な金蒔絵の施された竜笛が大事そうに握られていた。
「それで、約束したのに会いにこれなくてごめんねって。あたし、今まで忘れてたのに……っ!」
「そうか……」
藤太がそっと肩を抱くと、里はぼろぼろと流れる涙のまま子供のように泣いた。
「姉ちゃん生きてたよう……っ!」
藤太は里が泣き止むまで、姉がよくしてくれたのを思い出しながらぎこちなく里の背中を撫でてやった。
*
「姉ちゃんは家族の為にお嫁に行って不幸になったのに、あたしが好いた人と結婚していいのかなってずっと不安だった。でもそうじゃなかったんだ。あの隣にいた白い人とずっと一緒に居たいから夫婦になったって言ってた。それで今は笛を作っていろんな人にあげてるんだって。姉ちゃん、好きな人と幸せになったんだ」
「そうみたいだな」
目元を赤くはらしているがすっきりと晴れ晴れとした表情で語る里の話に、藤太は己の胸中にあるわだかまりもほどけていく気がした。
姉は母や兄弟に頼られて、いつも自分のことは後回しにしているようだった。
その唯一の息抜きが笛づくりだったのに、父にそれを取り上げられた姉がどうなってしまうのか不安だったのだ。
案の定父のために会いに行った嫁入り先の姉はやつれ果てていて、父の話をするのは気が引けた位だ。
だから、藤太に笛を作ってくれた時の、真に迫るような表情にほっとしたのも確かだ。
帰り際に藤太が何気なく話した里の夢の話に見せた、姉の鮮やかな表情が忘れられなかった。
頬を上気させ嬉しさに顔をほころばせた姉は、まるで恋をしているかのようだった。
俺がもっと大きければ、姉をその人の許へ行かせられたのかと、泣き出しそうな心地になりながら家路についたのだ。
そうして姉の失踪が知らされて、もしかして山にでも入って死んでしまったのではないかと心のどこかでその可能性がぬぐえなかったのだ。
だが、あの隣にいた白い美丈夫は、幼い里の話した夢と同じ姿かたちをしている。
そうか、姉は村を抜け出して幸せになったんだなと、藤太は無性に安堵していた。
「さっき話してた髪紐の話な。実は寝込んでいる時に白い人が持て行ったのを見たんだ」
「ええ!?」
「俺も朦朧としてたし、話をするには不確かだったから言わなかったけど。寝込んで三日目の夜ふと目をあけてみると、同じように白い狩衣をしたあの人がお前の手首から髪紐を解く場面に出くわしたんだ。泥棒にしては心底申し訳なさそうだし、俺が起きているのに気づくと大慌てでさ。必死に唇に指を当てて秘密にしてくれって手振りで頼まれて思わずうなずいたんだよ」
あれは、いつ思いだしても美しさに見惚れるべきか、滑稽さに笑うべきか悩む光景だった。
「多分あれは本来お前が持ってるべきものじゃなかったから返してくれって言いに来てたんだと思うぞ。記憶を少しおぼろげにしていったのもあの人だろうな。その代わりに、俺が具合の悪いのに気付くと笛を吹いてくれてなあ。音がなかったからみな起きなかったが、それを聞いたらあれだけだるかったのに元気になったんだ」
「そうだったんだ……」
「だから、お前がおぼえてないのも無理ないんだ」
胸のつかえがとれた気分で藤太と里は村へ帰る道を歩いていた。
もう日が落ちかけている。
東の空からはすでに清冽な光をたたえた月が顔を出していた。
「姉ちゃん、今は忙しくてあんまり会えないけど、ちょっとずつ会いに来たいって言ってた」
「次はいつかって言ってたか?」
そんな一言に、里はこちらを揶揄するようににんまりと笑った。
「兄ちゃんのうちの誰かがお嫁さんもらった時だって」
「そ、そうか」
「娘組のほうにいい人いるんでしょ。あたし知ってるんだから」
「里っ」
「籐兄ちゃんが嫁さんもらった時はちゃんと呼んでよ?あたしもまた姉ちゃんに会いたい」
「そうだな……早く嫁さんもらわなきゃなあ」
ぼんやりと月を見上げる藤太に、里は決意を秘めて宣誓した。
「あたし、庄六さんと幸せになるよ。もう、姉ちゃんを泣いて困らせたのはおしまい。だから兄ちゃんも姉ちゃんに引け目を感じて、俺も結婚で幸せになっちゃいけないなんて思うのやめなよ」
「里には敵わねえなあ」
今までの胸中をずばりとあてられた藤太は、だが、もう慌てなかった。
「そうだな。俺もちゃんと好いた人と幸せになって、姉ちゃんから祝いの笛をもらうよ」
「……笛をもらうために結婚するの?」
「違うとわかっていてからかうの、庄六の前ではやるなよ? 愛想つかされても知らんからな」
「庄六さんはお金にはしわいけどそんな器の狭い人じゃありませんー」
本格的に暗くなり始めた道を足早に降りていく足を藤太はふと止めて振り返った。
森の奥はすでに闇に包まれていて何も見えない。
だから藤太は声には出さず、姉に呼びかけた。
姉ちゃん、こっちは大丈夫だから、幸せにな。
「籐兄ちゃん、早くいかないと庄六さんがさがしに来ちゃうよー」
「もとはといえばお前が原因だろっ!」
「えーそれいっちゃうー?」
にやにやと笑う気配を感じる里が小走りになったのを追いかけるように、藤太は歩き出した。
もう後ろは振り返らなかった。
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