第13話 笹の覚悟

 


「だってその小娘は人間の男と盃を交わして、正式な夫婦になっているもの。ましてや交わした酒は妾の言祝いだ神酒よ。しっかり絆が結ばれているわ。人のものになった妻を横取りするわけにはいかないでしょう?」

「貴様……!」

「あははははっ!残念だったわねぇ。妾の申し出を断るからだわ!」


 狂ったように笑う梔子の姫に、水葉は厳しい表情を浮かべた。


 神や妖が人の娘を浚うのは多くはないが珍しくもない。

 だが、それは生娘であったり少女であったり未婚の娘であったり、人とのつながりが薄い者とみなされる場合だ。

 夫婦になるというのは夫に対し強固なつながりを持つことになり、さらに、酒を交わすのは自ら進んでつながりを結ぶ意味を持つ。

 神酒で交わしたとなれば神に誓約をしたに等しい。

 仮にも神に誓われたとなると、それを反故にするのは同じ神でも許されない。

 水葉はさっさと蹴り飛ばしてしまえばよかったと思いつつ、どうしようもない事態を招いてしまった己が申し訳なく思った。


 詩野は胸を抉られたようにぽっかりと穴が開いている気さえした。

 答えを求めることすら許されないと言われたに等しかった。

 この小さな手を離さなければいけないなんてあんまりだった。


 だが、笹はそっと声をあげた。


「形だけでもダメか」

「笹……?」

「おら、勧められた酒がどうしても飲めなくて、ぐずぐずしてたら飲む前に盃を落として割っちまった。それでもダメか」


 笹の突然の告白に三柱は呆然としていたが、すぐに立ち直ったのは水葉だった。


「詩野、お前なら言霊の偽りはわかるだろう。ゆがめようと思うなよ。娘の言葉に違えはないか」

「……ない、笹の言っていることは本当だ」

「だろうな。俺もつい動揺したが、娘から酒の香りはしても吐息に酒精は混じってねえ。飲んでないのは明白だ」


 水葉の言葉を聞き終えないうちに、詩野は勢い込んで笹に尋ねていた。


「笹、私と来てくれるのかい?」

「行く」


 やはり彼らの話についていくことはできなかったが、笹は詩野の言葉には迷わずうなずいた。


 もし、と考えないことなどなかった。

 もし、詩野のそばにいられたら、きっと村を出なくてはいけなくなっても笛を作っている時以上に、きっと笹は幸せだろうと。

 でもそれは人の考えることだ。

 人ではない詩野が同じことを考えてくれるわけがないと思い込んでいたから、ずっと村で生きていかねばと思っていた。

 でも、詩野が望んでくれる。

 笹自身を好きだと言ってくれた。


 ならば笹は一緒に行きたいと、初めて自ら選び取りたいと思えたのだ。


「なんで、どうして、うまくいくはずだったのに……」

「おぬしも、もう邪魔はできまい。今回のことも詩野の声を奪ったことも、大変ご立腹だ。おとなしく紫陽花の姫に叱られに行くがいい」


 打ちひしがれるようにその場に膝をついた梔子の姫は、ぎっと水葉をにらんだが、口惜しげに詩野を見つめたかと思うと霧のように消えてしまった。


 笹を殺そうとした相手がいなくなって、ほっと息を吐く。ただ梔子の姫の視線に焦がれる色を見た気がして、あの人も詩野に恋をしていたのかなとふと考える。

 手を引かれてその思考はおぼろげになり、先ほどまで喜んでいた詩野が不安そうにしているのに気付いて首をかしげた。


「本当にいいのかい? 確かに迷っていても連れ去ってしまおうとは考えてはいたが、返事は待つつもりでいたんだよ」


 ずいぶん怖いことを考えていたんだなと笹は思ったが、想いが叶い、心に決めたことに迷いはなかった。


「いいんだ。ついていけばいつでも詩野に触れるし、笛も声も聴けるんだ。それならおら笛作ってるのと同じくらい幸せだ。だから妾でも女中でも奴婢でもいい。そばに置いてください」


 間違いなく本心の、だが妙な愛の告白に、詩野と、そばで聞いていた水葉はあっけにとられた。

 笑いをかみ殺す水葉などそっちのけで、詩野は慌てて笹の勘違いを訂正する。


「私は笹と夫婦になりたいんだが」

「へ、そんな詩野は神様だろう? おら、そんなんじゃなくても一緒に行くよ」


 なかなか通じない思いに焦れて、詩野は笹を抱き上げた。

 突然の行動に笹はひょえと妙な声をあげてしまったが、間近に迫った目の座った秀麗な美貌に胸が変なふうに跳ねた。

 詩野は平坦な声で呼んだ。


「笹」

「うひゃい」

「私は、笹だけを一日中愛でていてもいいし、可愛がりたい。笹を唯一にしたいんだ。それならば夫婦が一番ふさわしい。わかるかい?」

「つ、つまり、好きっていうのは……そういうことなのか」


 ようやく飲み込めてきた笹だが、今度は頭に血が上り、挙動不審に陥る。

 胸がどきまぎとしてどうしても気恥ずかしく決定的なことを言いあぐねていると詩野の瑠璃の瞳が熱を帯びた。


「愛しているよ。私の妻になってくれるね」

「はひ……」


 その言葉が限界だった。

 笹はかろうじて返事をしたが、免疫の全くない刺激の強すぎる言葉に顔を真っ赤にし、ぐらぐらする頭を支えきれずにくたりと詩野に体を預けた。

 目を回している笹をそっとなでる詩野は、ようやく愛しい人に触れられる喜びをかみしめていた。


「さてと、終わったし、長居は無用だ。そろそろ帰るぞ」


 詩野がどれだけ苦労をしていたかよく知っている水葉は邪魔をしないでやり、程よいところで声をかけた。

 いまだによくわかっていない笹だったが、この黒衣の美丈夫にも助けられたのはわかったから、あわててお礼を言った。


「あ、あの助けてくれてありがとうございます」

「気にするな。俺は親友の手伝いだけだ。それに苦労したのはお前さんを抱いている色男だからな。大したことじゃない」


 水葉の言葉に我に返った笹が自分で歩けると主張したが、詩野は頑として譲らず結局そのままになった。


「おや、私がやった髪紐が無いね」


 羞恥心と戦っていた笹は詩野の何気ない一言にあっと思い出した。


「それは、寛二郎さんに酒を飲まされかけた後にな、そのう床へ連れてかれそうになった時に燃えて助けてくれたんだけども、なくなっちまったん……だ?」


 もうおっとうじゃないと言い換えた説明は、ずんと詩野と水葉の雰囲気が一変したことで尻切れトンボに終わった。


「水葉、私には正当な復讐の権利があると思うんだが」

「言いたいことはわかるが、抑えろ詩野。天下の竜神がなめられたとあれば沽券に係わる。こっちは俺に任せて娘を休ませてやれ」


 なんだか怖い顔で笑いあう二柱に笹はおろおろしたが、水葉がどこかへ行ってしまうと元に戻ってほっとした。

 ほっとすると疲れがどっと押し寄せてきて瞼が重くなってくる。

 だが笹は、これだけは聞いておかねばなるまいと眠気と戦い、詩野に呼びかけた。


「なあ詩野」

「何だい?」

「おら、詩野のそばにいても笛作っていいか?」


 村にいるときは絶対に聞けなかった言葉だった。

 ダメだと言われるのがわかりきっていたからだ。

 でも、詩野は当然のだというように笑った。


「もちろんだ。笹は笛のことを話す時が一番幸せそうだからね。

 でも、作っているところを直接見たことはないから、今度見せておくれ」


 好きなことをやっていい。ずっと誰か言って欲しかった。

 笹は溢れそうになる涙をこらえて笑った。


「んなら、おらは詩野の歌が聞きてえな」

「それなら今からでも叶えられるよ」


 詩野の柔らかく艶やかな歌声に、うっとりと耳を澄ませながら、笹は意識を手放した。

 目を覚ますときは、詩野がそばにいてくれたらいいと思いながら。


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