第12話 詩野の想い

 

ほんの少し、怖かった。

 笹は一時期笛を作ることすら忘れていた。だから、もう一度会った時に、ちゃんとわかるのか。

 けれど、今笹を包んだ気配に、懐かしさがこみ上げてくる。  

 

 「笹、大丈夫かい」


 次いで聞こえてきたのは知らない声だ。

 雪解け水がさらさらと小川に流れていくような、一際美しい声だった。

とくべつだと、たった一声でわかってしまう。全身が震えるようだった。

 

 その声は優しく笹の名を呼んだが、だってそんなのはありないのだ。

 詩野は声を無くしていて、笹はそれを取り戻そうとお願いして、殺されそうになっていたのだから。

 混乱したまま、確かめようとはやる気持ちのまま瞼をあけたが、光に目がやられてしまっていて何にも見えない。

 するとひやりとした大きな手に両目をおおわれた。


「目をやられてしまったんだね。すぐ良くなるよ」


 じんわりと体中に響くような感覚は、詩野が笛を吹いて笹の傷を治した時と同じだった。

 そして気持ちの良い手が離れて、笹がゆっくり目をあけると、真白い髪で白い狩衣を着た、美しい青年の慈しむような瑠璃の瞳と出会ったのだ。


 あれだけ会いたかった人なのに、笹は急に不安になった。

 色は同じだが、姿が違った。

 出会った時は、笹より一つか二つ上の少年だった。夢の中でもそうだ。

 だけど、目の前でうれしそうに微笑む人はどう見ても二十歳をいくつか過ぎた位の、立派な青年なのだ。


「詩、野?」

 

 だが、自信なさげに呼びかけた笹に、その人はそうだというように華やかな笑みを見せる。その笑顔は、確かに覚えている通りの詩野だった。


「怖い思いをさせてしまったね」

「え、でもなんで声が……?」


 笹は詩野に守られるように囲われながらも困惑気味に問いかけようとした時、凄まじい音をさせて雷が落ちた。

 いらだちをぶつけるように遠くの森に雷を落とした美女は、動揺を隠し切れないように詰問した。


「なぜあなたがここにいるのです!? しかもその声、妾が封印したはずです!」

「紫陽花の姫がお前の封印を解くのに一役買ってくれたのだよ。梔子の姫」


 梔子の姫と呼ばれた美女の金切り声での詰問に答えたのは、黒い直衣を着た美丈夫だった。


 いつの間にか笹たちと美女の間にあらわれていた彼は、すいと切れ長な目元に、薄い唇が男らしい。

 頭に冠はかぶっておらず、結えないほど短い髪をそのまま遊ばせているのがしっくりきていた。


 詩野が女性的な美貌なら、この男は男性的な華やかさを持っていた。

 知らない人物の登場に笹があっけにとられて男を見つめていると、男はちらりと笹を見て親しみを込めるように目の端で笑った。


「姉様が!? まさか」

「水葉」


 さっと表情が青ざめた梔子の姫を、詩野に水葉と呼ばれた男は鋭く見据えた。


「そのまさかだよ。おぬしが離魂の香を娘に仕込み、気分がすぐれぬといった紫陽花の姫に詩野を紹介して利用したこと、かの方はすでにご存じだ。云われなく詩野の声を封印したこともたいそう嘆いておられてな。妹の不始末は姉がとるべきであると、術を解いてくれたのだよ」

「それは、せっかく妾が自ら誘いましたものを、狐狸妖怪どもに唄えなくなるからという理由だけで、眷属になることを断ったのがいけないのです。姉さまも短慮すぎますわ。情にほだされてしまっては、あの美しい声を独り占めなどできませんのに」


 笹が聞いてもむちゃくちゃな論理で、梔子の姫は心外とでも言いたげに不快感を示す。水葉は処置なしとでもいうように肩をすくめ、軽蔑の視線を向けた。


「……まあいい。わざわざおぬしの浅慮な言葉を聞きに来たわけではない」

「なっ……!」

「今日は音霊の神となったわが友、詩野の付き添いなのだ。つまり俺は脇役だな」

「音霊のですって? あれは辛うじて名があるだけの下級の木霊だったはず。そう簡単に変わるものでは……」


 美女は信じられないと愕然と詩野を見て、笹にはわからない何かに気付いたようだった。


「神格が、上がっていますの?」

「おう。そこにいる娘の笛のおかげでな。詩野は声の代わりにそれを吹くことで神気を補い、お前の言う狐狸妖怪、土地の妖や八百万の神の病を癒した。そのたぐいまれなる響きに霊威が宿ってな。力あるものに聞かれることによって神気も上がり異例の速さで位が上がったのだ。今は、おぬしと同格よ」


 わがことのように自慢げに話す水葉に、梔子の姫は悔しげにする。それでも何か言おうとするが、詩野の静かな、だが強い意志のこもった視線にぐっと押しとどめられた。


「梔子の姫、改めて申します」

「なにを……」

「あなた様は私の声の価値がわかるものだけが楽しむべきだとおっしゃいましたが、木霊であった時も音霊である今も、私の音は野に属するもの。自(じ)然(ねん)の許に居なければその響きを失います。歌を喜んで聞いてくれた生き物たちを卑しいと切り捨てたあなた様に、お仕えすることはできませぬ」


 お断り申し上げます、と姿勢を正した詩野に、梔子の姫はわなわなと震えた。

 嘆きからではない。二度までも断られた屈辱からだった。

 己の計画の邪魔をし、今も手に入れたかった白い青年により添われるようにいる小娘が憎らしかった。

 梔子の姫は怒りのまま小娘に雷鳴を落とそうとしたが、神格が上の水葉が指をはじくだけで止められる。


 だが、最後の手が残っている。彼らはそれを知らないのだ。

 それを知った時の絶望の表情で一矢を報えると思えば、今は静かにしているのが無難か。

 梔子の姫は悔しさに顔をゆがめながらもそこまで考え黙り込んだ。



 水葉はいまだ憎悪の光を失わない梔子の姫に何かあると感づいていたが、手を出すには少々動機が足らず、静かに動静を見守っていた。





 笹は詩野が何らかの手段で声を取り戻したこと以外わけがわからず、梔子の姫と水葉の厳しい応酬におろおろしていた。

「笹」

「ひゃっ」


 不意に詩野に名を呼ばれびくりと肩を震わせる。

 詩野はそんな笹を落ち着かせるように頭をひとなでした。


「本当はもう少し早く会いに来るつもりだったんだ。すまなかったね」

「約束はもう少し先だもん。詩野があやまることはないよ」

「でも、私が不甲斐ないばかりに、たくさんつらい思いをさせたみたいだから」


 髪を撫で続ける詩野は、涙にぬれていても健康そうだった笹が今はやせているのに後悔が押し寄せ顔を曇らせたが、すぐに表情を改めた。


「でも、笹の笛のおかげで声を取り戻せたよ。ありがとう」

「おらの笛がそんなに役に立ったか?」

「うん、とても。あの日、笛をもらったから元気が出たし、吹いているだけで慰められた。だけれど、あの時もらった笛は声の封印を解くときに壊れてしまったんだ。大事にするつもりだったのにごめんね」

「そんなのいいよ。笛は壊れても作り直せばいい。詩野の声が戻ったことのほうが大事だ」


 詩野の言葉に笹は身の内から湧き上がるような喜びを感じた。

 これ以上ないほどの賞賛をもらった気分だ。

 詩野に会えた。予想外に声も聴けた。もう充分だ。

 これ以上詩野のことを想ってしまったら村に帰れなくなってしまう。

 笹はそう思ったから、今まで握りしめていた笛を詩野に差し出して、笑った。

 これで最後だ。


「詩野のために作った今の一番の笛だ。笛が壊れちまったんなら、今度はこっちを持っていけばいいよ」


 でも、声が戻ったんならもういらないかと続けた笹の、本人は気づいていないのか涙が流れる寸前の表情に、詩野は堪らなくなった。

 差し出された黒塗りの美しい竜笛ごと、笹の小さな手を己の両手で包み込む。


「笛も素敵だけど、私はもっと欲しいものがある」

「へ?」


 あの夜、悲しみに暮れていた詩野が見つけた小さな少女は、家族を慮って自分の好きなことですら押し込めようとしていた。

 自分が悲しくつらいのに、大切な笛まで渡してくれたその優しさを、詩野は愛おしいと思ったのだ。


「私は笹が好きだ。共に来てくれないか?」


 美しい瑠璃の瞳に見つめられ、笹は息が止まったかと思った。

 だって詩野が、一緒に居たいと言ってくれている。

 笹が己の気持ちに気付いてから心の奥底でずっと願っていたことなのだ。


 だから笹はとっさに夢ではないだろうかと考えた。

 なのに、顔は熱いし、心臓が飛び出るくらいになっているのも聞こえた。

 本当に、本当なのだろうか。


「私は音霊の化身だから、いろんなところへ行く。家族にも会えなくなるだろう。でも、笹が嫁入りしたと聞いてもあきらめられなかったんだ。

 私は笹が笛を作っているところも好きだし、そばで笑ってくれていたら幸せだ。きっと大切にする。だから……」

「無理よ」


 冷たい否定の声をあげたのは、勝ち誇った笑みを浮かべる梔子の姫だった。





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