第5話 雪解け
いつの間にか積もっていた雪が溶け、手足にあかぎれやしもやけが少なくなり、冬は終わりに近づいていた。
笹は一つ年を取り、十四になっていた。
そろそろ出稼ぎに行った男衆が帰ってくると、村中がそわそわしていた。
次男坊はもちろん、長男や舅も帰ってくる婚家もどこか浮き足立っていた。
笹は一度も顔を合わせたことのない夫が帰ってくるといわれても、そのことを深く考えられないほど疲弊していた。
少しでも家にふさわしい嫁にしようと姑や大姑の指導は厳しくなっていたから、少しでも叱られないようにそれにこたえることで手いっぱいだったのだ。
そのころには月のものが来ていたので、ああ早く子を産んで嫁の役目を果たさねば、と周囲にさんざん言われた言葉をからくりのように思い返していただけだった。
ある日、溶けかけた雪でぬかるんだ道を行商人がやってきた。
村では手に入らないものを荷駄に積んでやってきて、冬に村人が作った細工物などを積んで去っていく。そんな時には村の広場はちょっとした市になり、笹も姑に連れられてやってきていた。
行商人は慣れた調子で姑と笹が持ってきた布や籠を買い取った後、ふと、笹に目を止めた。
「もしかして、山向こうから来た娘さんかい?」
「そう、だけど」
話しかけられると思っていなかった笹が驚きつつも頷くと、行商人はうれしいような困ったような顔で言った。
「実は、去年の夏にお前さんのオヤジさんから買い取った笛を都で売ったんだ。そしたらある日妙に風采のいい男がやってきてね、試し吹きをしたかと思ったら大金払って買ってくれたんだよ。そのあとも同じようにすべて売り切れたときたもんだ。だが、もう一度仕入ようと村へ行ったら作ったのは娘でもう嫁いでしまったというじゃないか。買ってくれた人はみんな一様に『
「村に、いなくてごめんなさい」
笹は姑に散々直された、丁寧な言葉使いでぎこちなく謝る。
そんな生返事に行商人は少し哀れみを含んだ表情になった。だが、また笛を作ったら買い取らせてくれと言い残し、次の村人との交渉に行った。
「あんた、なんのことだい! まさか金目のものを売って……!?」
帰り道、行商人との会話を聞きつけた姑は笹を問い詰めようとしたが、笹の様子にぎょっとする。
笹は自分でもわけのわからぬまま、ぼろぼろと涙を流して歩いていた。
笛を作っていた日々は、昔のことではない。ただいろんなことが変わってしまって、行商人の話はどこか遠くのことのようだった。
あれだけ好きだった笛を作っていないと思い出しても、他人事のようなのだ。
けれど、知らない誰かが自分の笛をほめて吹いてくれているというのが、ぼんやりとしていた頭にしみこむにつれて、胸の奥から熱いものがあふれてきたのだ。
笹は家についてからも涙が止まらず、あきれた姑に納戸で一人にされた。
泣きながら眠って、起きると夜だった。
納戸の小さな窓を格子越しに見上げた空は曇っていたけれど、笹はふと、考えた。
今、詩野は何をしているだろう。
まだ笹の笛を吹いてくれているだろうか。風に乗ってきこえてこないだろうか。
他愛のない想像だったが、笹は久しぶりに穏やかな気持ちでしばらくそうしていた。
そんな夜から数日後の朝、婚家に笹の一番上の弟、藤太が訪ねてきた。
突然の訪問に笹も姑らも驚いたが、行商人が来て以来、笹が少しマシに働けるようになっていて姑の機嫌がよかったから、水入らずで話す時間をくれた。
弟は少し背が伸びていて、父の仕事も手伝い始めているという。
なつかしさに目を細める笹だったが、藤太はどうしたらいいかわからないという表情で打ち明けた話に目を見張った。
「実は、父ちゃんが死にかけている」
続きを促すと、藤太は不安を洗い流すかのようにとうとうと語り始めた。
*
ある日の夕方、父が帰ってくると森で大男に出会ったと言った。
編笠をかぶっていて顔は見えなかったが、獣の皮で作った着物を着た男の身長は優に父の二倍はあり、これは人ではないと思ったという。
恐れおののく父に大男はこういった。
「お前の娘が作った笛をくれ」
恐ろしさもあったが礼を弾むという言葉に目がくらんだ父は了承した。
三日後、大男は家まで取りに来ると言い残し、大きな体のどこにそんな素早さがあったのかあっという間に森の陰へ消えてしまった。
だが、笹の作った笛はもうない。心配する家族を意に介さず、父は笹にできることが俺にできないはずがねえと、さっそく笛をこしらえにかかった。
「姉ちゃんの笛は特別だって、すぐにばれちまうって言ったんだけどな」
ため息のように藤太の言葉に、力はなかった。
出来上がった笛はそれなりに見えたが、笹の笛を子守歌代わりにしていた弟には、音の違いがよく分かってしまった。
約束の晩、小さい弟たちは寝てしまったが、くるまで待っていようと藤太も両親と一緒になって起きていると、戸を叩く音がした。
藤太が恐る恐る開けると、戸口から下半身しか見えないほど大きな男が立っていた。
男からしたら小さな戸口から、手だけをにゅっと出してきたので、父の作った笛を乗せた。
その時ほんの少しだけ顔を外に出したことを後悔した。
少しだけ見えた大男の顔には、目玉が一つしかなかったのだ。
悲鳴を上げる間もなく受け渡しは終わり、大男は反対の手に用意してあったらしいずっしりと重い小袋を藤太の手に残し、風のように消えてしまった。
そのまま朝になり、小袋をあけてみると砂金がぎっしり詰まっている。
得意げな父に反して、大男を間近で感じた藤太は不安をぬぐいきれなかった。
案の定、その予感は当たった。
笛を渡した翌日、母が起きると父が汗をびっしょりとかいてうなされていた。
慌てて起こすと父は真っ青な顔で、夢に一つ目の大男が出てきたという。
男は「だましたな」と、地を這うような声言うと、こう告げた。
「お前はこれからまがい物を作った指は日に日に腐り、七日で骨から崩れ去るだろう」
父はそれだけは勘弁をと涙ながらに懇願すると、男は一つしかない目を険しくすがめていった。
「ならば三日以内に本物の笛を用意し、渡した袋に入れて軒下につるせ。もしできなかった場合は、お前の命をもらう」
その証と言わんばかりに父の両手は蝋で固めてしまったように、動かなくなっていた。
*
藤太は、事の次第を話し終えると、こう言った。
「正直、欲張った父ちゃんの自業自得だし、父ちゃんが笛を作るなって姉ちゃんにどれだけつらくあたってたか知ってる。姉ちゃんの嫁入りだってそうだった。だけど、今の俺だけじゃみんなを養えねえし、父ちゃんだって死んじまうことはねえと思うんだ。だから」
俺の為に、笛を作ってくんねえか。
笹は、再び藤太をを見つめた。
言葉とは裏腹に、父のために真っ暗な山道を夜通し必死で走ってきて、よれて疲れ果てているのは、明白だった。
だが弟は、そんなことは一言も言わない。
家が怪異にあったのも、父が危篤だということにも驚いたし恐ろしかった。
だが、それよりもあまり甘えることのなかった弟に、笛を作ってくれと頼まれたことがすとんと心に落ちてくる。
そして、笹はあっという間に笛を作るという思いでいっぱいになったのだ。
「わかった」
一度決めた笹は迷わなかった。
すぐさま姑のところへ行き、乾かしてある竹を使う許可をもらうと自分の寝床に取って返した。
ほんの少し板がずらせる場所に手を突っ込み、ここに来てからは全く触ることのなかった道具を取り出した。
もう何ヶ月も作っていない。
だけど、笹はうまく作れるかと不安に思う気持ちも起こらなかった。
今は、美しい音を竹に聴く事だけに集中する。
笹は、訝しげに見に来た姑と、久々に姉の作業がみられると期待する弟の存在すら忘れ、小刀を握り、竹を削り始めた。
日が傾かないうちにできた笛を大切に懐にしまった弟は、そういえば里が妙な夢を見たんだと、帰り際に話していった。
「見たこともねえ貴族様の御殿の中にいて、白い衣と黒い衣を着た立派な身なりの男が二人、言い争ってたんだと。でも話すのは黒い衣のほうだけで、白い衣のほうは首を振るばかりで一言もしゃべらねえ。話してることはわからなかったらしいけど里のやつ、白い衣の男のそばに姉ちゃんの笛見っけて声をあげたんだとよ」
白い衣、笛、と聞いて笹はたった一人を思い出す。
「姉ちゃんの笛が一等好きだったのは里だったからなあ。寂しかったんだろ。そしたら二人とも振り向いて、黒い衣のほうが話しかけてきたんだ。この笛は本当に姉ちゃんが作ったものかってね。当たり前だって答えると、姉ちゃんがどうしてるか根掘り葉掘り聞いてきたってよ。もうお嫁に行ったって聞いたら両方ともたまげていて、それがおかしくて笑ったら起きちまったってさ」
幾分表情が明るくなった弟を見送った帰り道、笹は内からこみあげてくるような喜びに胸を震わせていた。
里が出会ったのはたぶん詩野だ。
ただの夢でしかないのかもしれない。でも里には詩野からもらった髪紐を預けているのだ。
そういうこともあるのかもしれない。
笹は震えそうになる声で呟く。
「まだ、笛を持ってくれてたんだ」
笛を間にして言い争いをしていたのは気になるが、声に出して、確認する。
詩野は、笛を持ってくれている。彼はまだ約束を忘れていないのかもしれない。
ならば、また会えるかもしれないのなら、――詩野のために笛を作ろう。
笹の瞳に、決意の色が宿った。
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