第3話 月夜の約束

 しばらくして涙をぬぐった白い少年は、初めて会った時よりもずっと明るい顔をしていて笹はほっとした。そして心にあたたかな希望を宿す。

 笹の笛はあくまで自分が楽しむものだった。けれど今、自分の笛が彼の助けになった。

 なにより自分の手以外で奏でられる笛の音のなんと美しいことだったか。

 笹にとって衝撃的で幸福な出来事だったのだ。

 ああ、自分で演奏するよりも、ずっと嬉しい。

 少年はさっき笹がしたように上等な衣で笛の口をぬぐい、笛を返そうとしてくれた。

 けれど、笹はその手を笛ごと握って押し戻した。


「お前様にあげるよ」


 瑠璃の瞳がこぼれんばかりに見開かれた。

 少年は驚き、もらえないと言わんばかりに首を振る。白い雪の髪がさらさらと揺れる。

 綺麗だなあと思いつつ、笹は遠慮すんなと笑った。


「それはおらが作ったやつだもん。やるのも捨てるのもやめるのもおらが決めるんだ」


 少年の問いかける視線に、父に笛づくりをやめろと言われたことを話した。


「おらは女だから、嫁にかなきゃなんないんだ。綺麗な音を出したくて、笛をつくってたけど、針仕事とか、畑仕事とかじゃなくて、笛になんて熱中してたから、笛狂いって呼ばれてた。今までほっといてくれてたけど、もう駄目だって、言われちゃって……」

  

 話すうちに悔しい気持ちや悲しい気持ちも思い出し、言葉が止まる。

 また涙がこみ上げてくるのを、笹はぐっと堪えた。思い出すのは、白い少年が吹いてくれた笛の音だ。

 いままでで一番美しくて、明るくて、伸びやかに謳っていた。どこまでも飛んでいけてしまいそうな、自由で喜びに満ちていた。

 少年の心を謳う手伝いをしたのは笹の笛だ。

 だから大丈夫。笹は話せる。

 ふわりと、肩に手を置かれて笹は驚いた。

 傍らを見ると、白い少年が労るようにこちらを覗き込んでいた。

 その瑠璃の眼差しは真剣そのもので、けれど笹と目が合うと和らがせる。


「悲しんでくれるの?」


 意外にも、首を横に振られた。

 たしかに、今の少年は悲しいというよりは……。


「怒って、くれるの?」  


 こんどこそ、少年はこくりと頷いて、とんとんと慰めるように笹の肩を叩いてくれる。笹はその優しさが胸に染みて、すんと鼻をすすった。笛作りは駄目だ、としか言われてこなかったから、嬉しかった。

 ずいぶん軽い気分で、笹は明るく言った。

 

「ありがとう。でも、父ちゃんの言うこともわかるし、おらにはどうしようもねえからなあ。笛作りをやめる前に、せめてそいつだけは自分で埋めるために森にきたんだ。だから、お前様がもらってくれれば笛もおらも嬉しい」


 彼は笹が出会った中で、間違いなく一番の吹き手だ。

 自分の楽しみで始めたことだったが。そんな人に自分の一番の笛がもらわれていくのなら、笛を作れなくなっても心の支えになる気がした。


 白い少年は考えるように、笹と笛を交互に見つめた。

 瑠璃の瞳は吸い込まれそうに澄んでいて、笹を落ち着かない心地にさせる。

 やがて大事そうに笛を胸に抱いてくれてほっとした。


 ”ありがとう”


 少年はゆっくりと唇を動かし、言葉の形を作る。

 華がほころぶような笑顔で紡がれた音のないお礼に、笹はくすぐったいようなこそばゆい気持ちになった。


「どういたしまして」


 弟や、村の友達以外に笛を喜んでもらえたこともうれしかったが、この美しい人に自分の笛を持ってもらえたことが誇らしかったのだ。

 ああ、でも。彼に吹いてもらうのであれば、もっと良い笛を……

 その気持ちを、笹は押し殺す。自分は笛をやめなければならないのだ。どうしたってこれ以上良いものを彼にはあげられない。

 だって笹は、村の中でしか生きていけないのだから。


 視線をそらしていた笹は、白い少年が不意に、片方の手を胸に当てると、何かを伝えるように唇を動かしはじめたことに気づいた。

 一つの単語を繰り返しているのに、はじめは何かわからなかったが、彼が名前を教えてくれようとしているではと思い至った。


 ”−・−・。−・−”

「い・お?」


 笹が間違えると首をふり、もう一度繰り返す。


 ”シ・-”


「し・お?」

 

 ”シ・ノ”


「し・の? シノっていうのか?」


 ようやく当てることのできた笹も手を叩かんばかりに喜んだ。白い少年、シノも伝わって良かったと安堵に笑んでいる。


「おらは笹っていうんだ。小さい竹の葉っぱのことだよ」


 ”さ・さ?”


 シノに確かめるように形作られた自分の名前がなんだか特別なものに思えた。

 笹は照れくささをごまかすためにそういえばと、思ったことを口にした。


「シノっていうのはその笛を作った竹のことだな。シノの名前には意味があるのか?」


 待ってましたと勢い込むようにシノは地面に風に揺れる草原のようなものを書いた。

 それだけでは何が何だかわからないと思いかけたが。


「ああ、歌うような風の吹く野原で、詩野か。きれーな名前だな」


 詩野はその通りだとうれしそうに笑ってくれた。笹はなんでわかったのか不思議に思ったが、そういうこともあるだろうとくに気にはしなかった。

 ふと詩野は、手に持ったままの笛を見やり、笹に問いかけるように首をかしげた。


「笛に名か? 付けたことないよ」


 思わぬことを聞かれた笹は詩野が残念そうな表情をしたので、驚いた。


「なくて寂しいんなら、詩野がつけたらいいよ。それはもう詩野のものだもん」


 笹が慌てて言うと、詩野は本当に良いのかと困惑したようだが、妙にまじめにうなずいた。

 すると、詩野はまた小枝で何かを書き始める。

 その様子があまりにも真剣で、戸惑いつつも覗き込んでいたのだが。


 笹はそれを本物は見たことはないが、絵巻物のようだと思った。

 左端には詩野と笹が描かれ、上のほうには満月がかかっている。

 隣には落ち葉を散らす紅葉の木が、その隣には雪が積もった松の木が、さらに隣には花をが咲いた桜が描かれていた。

 そうして最後に描かれたのはまた満月で。

 最初と同じように笹と詩野が描かれ手を取り合っていた。


 多分、最初の満月は今の笹と詩野のことだろうと笹は考える。

 三本の木はきっと秋と冬と春のことだ。

 すると最後の満月は……

 たどり着いた答えに笹は勢い込んで聞いた。


「また、おらに会いに来てくれるのか? ここで、ほんとに?」


 詩野がうなずくのを見るや、笹はこの美しい少年との約束に喜んだが、すぐに気付いて落ち込んだ。

 そうだ、笹はそう遠くないうちに嫁に行くかもしれないのだ。

 嫁ぎ先が近くの村だったら会いに行けるかもしれないが、遠くだったら笹はここに来れないだろう。


 こんな素敵な友達ができたのだ、これっきりにしたくない。相手が望んでくれるのなら、笹だってそれがたとえ十年も二十年も遠い先でも、もう一度会いたかった。

 それくらい、詩野といるのは心地よい。

 それでも、ちゃんと言わなくてはと、笹は重い口を開いた。

 

「それはすごくうれしいけど。もし、おらが行けなかったら……」


 ごめんなあと、謝ろうとした笹の手を、詩野はぐっと握った。


 ”迎えに行くから”

「っ!?」

 

 心の準備もなく真摯な表情の秀麗な顔が目の前に迫り、笹は狼狽えた。

 白い指が、笹の手を握っている。

 迎えに行く。その意味は、わからなかったけれど。

 笹よりずっと大人びた美しい人が、今まででいちばん真剣なのだとわかった。


 ”私は笹と一緒に居たい。一年待っていて”


 詩野が何を言いたいのか読み取れずとも、己の名前と、”いちねん”という単語だけは読み取れたからともかくうなずいた。


「い、一年後だな。わかったよ、わかったから早く離れてほしい、な」


 白皙の美貌をそれ以上直視できずに笹は真っ赤になった顔をうつむいた。

心臓が、どきどきと早鐘のように打っている。こんなふわふわとした感覚は初めてだ。

 心臓を宥めることに必死になっていた笹は、詩野がもどかしげに唇をかみしめた後、何かを決意したように瑠璃の瞳に力がこもったことに気付かなかった。


 影が動いたことで美貌が離れたことを知った笹は息をついたが、詩野が手を放そうとしないのが気になり、おずおずと顔をあげた。


「あの、手、離してくれんか?」


 笹は気恥ずかしくてもじもじしながら見上げたのだが、詩野はやんわりと微笑んだ。

 その笑みに、笹はなぜか近所のいたずら好きの子供が大人たちに罠を仕掛けるときのことを思い出した。


 詩野は笹の手を取ったまま立ち上がると、とん、とごく軽い調子で地を蹴った。

 それだけであっという間に周囲の木々を超えるほどの高さまで飛び上がったので、心の準備もなかった笹はひょえええと盛大な悲鳴を上げた。

 詩野は成功したと言わんばかりに楽しそうに笑っている。


 ふうわりと着地したのはひときわ高い大樹の枝で、笹はあんまりの高さにまた声をあげかけた。

 笹が必死に彼へしがみついていると、詩野は空を指さしてみせる。

 恐る恐る見上げて、ぽかんとした。遮るもののなにもない空は吸い込まれそうなほど広く、満天の星々はもちろんいつもよりずっと大きく見える月まで手が届きそうだ。

 

 ぼうっと見とれる笹に詩野は微笑むと、木の上に座るよう促す。いつもよりずっと高い場所だったが、木の枝に座ったことは何度もある。

 詩野を支えにして笹が並んで座ると、詩野は笹があげた笛を取り出して吹き始めた。

 詩野と笛の音に笹はうっとりと聞き入った。

 晴れ晴れとした夜空にかかる満月を背景に、冴えた月明かりに白く浮かび上がる詩野はそれは美しく、澄み渡るような笛の音が軽やかに宙を舞う。


「きれいだなあ……」


 思わずこぼれた言葉に、詩野が笛を吹いたまま目の端で微笑んだ。

 その瑠璃の瞳が自分を見ているのがとてもこの世のこととは思えなかった。

 でも、確かに詩野は隣にいて笹の笛を吹いてくれている。いちばん、良い音で。

 この幸せなできごとは、きっと一生忘れないだろうと、笹は一緒になって笑っていた。


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