第2話 音無しの精霊


 指はひんやりとしていたが、嫌な冷たさではなかった。

 柔らかい、五月頃の涼風のような優しいものだったけれど、誰もいないと思っていた笹はぎょっとして目を開いた。


 いつの間にか目の前にいたのは、笹よりもいくつか上の少年だった。

 人ではないと、一瞬で分かった。

 雲で月が隠れている真っ暗な森の中、衣の色や表情まではっきりと見て取れたからだ。

 笹と同じようにしゃがみこんでいたその少年は、上等そうな真っ白い狩衣を着ていて、素足には草履を履いている。

 彼は心配そうに笹をのぞき込んでいたが、驚きすぎて涙が引っ込んでいるのを見て安心したように微笑んだ。


 その微笑みに、笹はぽかんと見惚れてしまった。

 村一番の美人で、領主様のところへ奉公に出た娘さんとは比べ物にならないくらい綺麗だったのだ。

 髪は真っ白だが、笹が知っている老人の白髪では全くない。絹のようにつやつやと輝き、うなじで結ばれていて、さあっと地面まで垂れている。

 朝日が昇る寸前のような瑠璃色の瞳は、笹には都に住む雅な方々が持つ宝玉のようだと思った。


 これはきっと山に住まう精霊に違いない。


 自分を含め、黒い髪、黒い瞳しか見たことのない笹は見たこともない綺麗な色彩にそう確信していた。

 涙も引っこんでしまうほどの美しさに見入っていた笹は、少年の目じりが赤く腫れていることに気が付いた。


「お前様も泣いていたの?」


 思わず問いかけた後で、話しかけても良いものだったのかと慌てた。

 白い少年も話しかけられると思っていなかったのか、ゆっくりと瞬きをして驚きを示した。けれど、怒ることはなく、こくりとうなずいた。

 ほっとした笹だったけれど、少年が何かを伝えようと唇を開いても、ひゅうひゅうと息の通る音がするばかりだ。

 もどかしそうに悲しそうに表情がゆがんだのを見て、笹は察した。


「声が出なくて悲しいのか」


 喉元を抑えた少年がこっくりとうなずき、その通りだと肯定する。

 さらに白い少年は近くに落ちていた小枝を拾うと地面にさらさらと書きつけた。

 笹には、その文字も少年と同じように不思議とはっきり見て取れたが、正直に言った。


「おら、字は読めないんだ」


 都へ行けば、人は文字を習うらしいが、村で必要になることなんてめったにない。

 笹たちにとっては当たり前のことだったが、肩を落とした少年に、少し申し訳なく思った。

 だが、白い少年はめげずに白い掌で文字を消すと、今度は絵をかき始める。

 神秘的な外見とは違い、案外打たれ強いのだなと笹は迷いなく動く繊手を目で追いながら妙なことで感心した。


 出来上がった絵はとても上手で、少年であろう人型が空に向かい手を広げ、楽しげに口をあけて歌っていた。

 今度は笹にもちゃんとわかった。


「歌いたいんか」


 白い少年は満足げにうなずくと、寂しそうに空を見上げた。

 つられて笹も見上げ、なるほどと思った。

 目の前の少年のように、見惚れてしまいそうな美しい満ち月だった。


 空も綺麗に晴れていて、絶好の月見日和だ。

 そりゃあ、こんなにいい月夜だったら歌の一つも歌いたくなるだろう。笹だって、こんな日には笛を吹きたくなる。


 そこであっと懐にある物を思い出した。声が無くとも、息さえ吹き込めば音が出る。

 笹は、懐から唯一残っていた笛を出し、白い少年に差し出した。


「歌えないんなら、笛を吹いてみるといいよ」


 嬉しいときも、楽しいときも、悲しいときも、悔しいときも、笹はずっと笛を作り吹いてきた。笛の音は、いつだって笹の心を表してくれる。

 声とは違うかもしれないけれど、想いは表せることを知っていた。 

 目をぱちくりとさせた白い少年は、急いで地面に笛の絵をかき、ばってんをつけた。


「笛は吹けねえのか」


 いい考えだと思ったのだけど。

 笹が肩を落とすと、白い少年は慌てて首を横に振った。もどかしそうに唇を開くが声は出ない。絵を書こうにもうまい表現が浮かばないらしい。

 だから、笹はその否定を吹いたことがないと、解釈した。


「吹いたことがねえのか? ならおらが教えてやんよ。こう吹くんだ」


 笹は笛の吹き口に唇を当て、息を吹き込んだ。


 ピイィィィッ…………!!


 空気が澄み渡るような、清々しい音が広がった。

 夜の虫たちは一瞬笛の音に驚いたように鳴くのをやめるが、すぐに競うように鳴き始める。笹は負けず嫌いな虫たちの声に沿わせるように高く低く音を伸ばす。

 瑠璃の瞳が真ん丸になるのがおもしろくて、笹はいつもより少し、長く吹いた。

 途中、少しだけ父に掴まれた手首が痛んだが構わなかった。


 吹き終わると、白い少年は頬を熟れた野いちごのように染めて拍手をしてくれた。

 遊び仲間達も喜んでくれるが、ここまで素直に賞賛をあらわしてくれる人は久々で、気恥ずかしい。


「へへ、恥ずかしいな。……痛っ」

  

  照れくさくなった笹は頬をかくと、たまたま傷めた手首の方でちょっと痛い思いをする。

 少年は笹が手首を痛めていることに気付くと、すっとの手首に触れた。

 ひんやりとした指先は、気持ち良い。少年は腫れた頬にも伸ばしてきて、土で汚れているのが申し訳なくなる。


「こんなのほっておけばすぐに治るから、心配しなくていいんだよ?」


 それでも、少年は辛そうで、労るように頬を撫でてくれる。

 笹のほうが驚いてしまった。けれど、そんな風に労ってもらったのは、いつぶりだろう。

 なんだか無性に気恥ずかしくなって、笹はいそいそと笛の口を衣で拭くと、少年に持たせてやった。


「こう持って、ここに息を吹き込むんだ、……ああ、そんなにべったりつけちゃダメだ」


 戸惑いつつも笛を構える白い少年に、あれこれ指図をして形にしてやる。


「さ、音を出してみろ」


 白い少年は、恐る恐る唇を当て、息を吹き込んだ。


 ピュウゥイィィィィ…………!


 笹が出すよりも美しい音が、夜空を貫いた。

 今度は笹が目を真ん丸にして、白い少年を見つめる。

 どうやら吹いたことがないというのは笹の思い違いだったらしい。

 白い少年ははじめ戸惑っていたのが嘘のように、自由に楽しげに音を響かせた。

 笹の時はあれほどうるさかった虫ですら鳴くのを忘れている。

 自身が歌っているかのようにどこまでも遠く冴えわたり、その音に森の木々や、風でさえ耳を澄ましているようだ。

 自分の笛が、こんなに美しく鳴るなんて知らなかった。

 それが少し悔しい気もするが、彼自身も嬉しそうなので良しとして、笹は体の奥まで響いてくるようなそれに浸った。


 白い少年は笹の知らない曲をたくさん吹いて、ようやく唇を離す。

 ほう、と少年が満足そうに息をつくまで吹き終わったことにすら気付かないほど、美しい演奏だった。

 ぽうっとしていた笹は慌てて手を叩こうとして、驚いた。


「あれ、手が痛くない」


 赤く熱を持っていた手首が治っていたのだ。

 そういえば腫れて痛みを主張していた頬も痛くない。口の中の血の味もしない。

 笛を聴いたからだ、とすぐに気づいた。

 笹は、沸き立つ心のままきょとんとする少年の手を握って振り回した。


「今までで聞いた中で一番だったのに、笛の音でおらの怪我まで治すなんてすごいなあ!」


 言われてはじめて気づいたらしい。白い少年は振り回されている手を止めじっと笹の手首を眺めた。

 次いで、気の毒なまでに腫れていた片頬に手を伸ばし、そこが健康な小麦色の肌にもどっていることを確かめる。

 笹は呆然と頬を撫でる白い少年に感謝こめてにっこり笑った。


「治してくれてありがとう。……ふえ、どうしたんだ!?」


 白い少年は泣いていた。

 玉のような美しい雫が、真っ白い頬を次から次へと伝い落ちる。

 はじめこそ慌てた笹だったが、どうして泣いているのかはさっぱりでも、悲しいからではなく嬉しくて泣いているのは表情で分かった。強く握られた手はそのままにした。

 泣き崩れた白い少年の傍らで、幼い弟たちにするように、落ち着くまで背中をさすってやっていた。


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