妖刀・村正
四紋龍
妖刀・村正
天文四年、十二月。一人の男が、命を落とした。二寸五分の凶刃に斃れた、二十五歳の英傑。その名を、松平清康。切りつけたのは、彼の配下であった阿部弥七郎正豊であった。彼はその頃流れていた噂によって、自らの父が清康に裏切りを疑われていると思っていた。そして本陣で清康の馬が暴れた騒ぎを「清康により父が成敗された事によるもの」と思い込み、彼を斬殺したのである。主君を討った正豊は、直ちにその場で植村氏明によって討ち取られる。斃れ伏した正豊の腕には、主君を討った刀がしっかと握られていた。その刀の茎には、くっきりと『村正』の文字が刻まれていた。
それから十四年後、天文十八年。松平清康の子、松平広忠は今川や織田といった勢力に挟まれ、苦慮しながらもなんとか三河を纏めようと奮闘していた。しかし彼もまた、家臣の岩松八弥によって殺害される。彼の手にもまた、『村正』の刀が握られていた。
更に時代が下り、天正七年。この頃、三河を纏めた徳川家康は織田信長と同盟、多くの大名を滅ぼしていく彼に従ってその支配地を増やしていった。彼にとって最大の敵は、甲州を中心に多くの地を治め、その兵の精強さで天下に知られていた武田家である。しかしその武田家も、長篠・設楽原で織田・徳川の連合軍と激突し大敗、急速に勢いを衰えさせていった。
その頃、徳川家康には自慢の息子がいた。徳川信康、長篠の戦では十七歳にして勇猛に戦い、その後も武田軍を相手に素晴らしい戦ぶりを見せていた。その武勇は勇猛で鳴らした三河武士団の中にあっても際立ったもので、家康にとっては大いに自慢の息子であった。しかし、その彼に悲劇が襲う。彼の母、築山殿は今川家の縁者、そして彼の妻は織田信長の娘。かつて織田家に滅ぼされた今川家に連なる姑が、その仇である織田家から来た嫁と仲良くできる筈もない。二人の対立は深刻化し、信康はその板挟みとなった。そして遂に彼の妻は父、信長に「信康と築山殿が共謀し、武田に寝返ろうとしてしている」と報告。激怒した信長は信康と築山殿の死を求め、家康はそれに従うしかなかった。当時の織田家と徳川家には、力の差があり過ぎる。家康は信康に自害を命じた。その際に介錯を任されたのは、かの服部半蔵であった。しかし半蔵は手が震えて斬れず、傍にいた天方道綱が介錯した。その天方も後に自責の念に駆られ出家したと伝わる。その介錯に使われた刀もまた、『村正』であった。
そして、徳川家康もまた『村正』によって傷つけられていた。織田家の武将、織田有楽斎が所持していた『村正』の槍を家康が見ていた際、手を滑らせてその指を切ってしまったのだという。
慶長十七年。天下は、徳川家のものとなっていた。豊臣家は未だ存在するものの、最早その威光は衰え、有名無実のものとなっている。天下を差配しているのは徳川家であり、天下の主は将軍徳川秀忠の背後に鎮座する大御所、徳川家康であった。
その徳川家康の下に、一人の老人が現れた。家康の居城である駿府城、その御殿の中に、いつの間にかその老人はいた。余りにも自然にいたので、すれ違う武士達も不思議に思わなかった程であった。どこからか侵入したというでもなく、まるで床板の上に生えてきた様に、彼はそこにいた。老人はつかつかと歩き、家康の目前に迫る。流石に、付近の者が怪しんで彼を止めた。
「何者だ、貴様」
「……大御所様に、お会いしたい」
老人はこともなげに言う。周りの武士達は呆気にとられた。いきなり現れ、その様な事できる筈もない。しかし、老人はまるで意に介さず歩き続けた。武士達は強引に、その体を抱きとめようとする。しかし、無駄だった。その体に手が触れたかと思った瞬間、まるで霞の様にその肉体が虚空に溶けてしまうのである。老人は散歩でもするかのように歩き続け、襖さえもその体を留める事が出来なかった。誰一人、彼を止める事が出来ぬまま、老人は遂に家康のいる部屋の前に立った。老人がやはり、その襖にそのまま体を近づけた、その瞬間である。
「貴様、何をしに参った」
声が、辺りに響いた。武士達が青ざめ、老人はほうと嘆息する。
「お分かりになりますか」
「分かるわ。そんな禍々しい気を出して」
「ならば、遠慮は致しますまい。お久しゅうございます、因心と、今は名乗らせて頂きましょう」
そう言って、老人は襖をすり抜けた。武士達も慌てて部屋に入ろうとするが、それを声が制す。
「良い。下がっておれ」
「し、しかし」
「良い、と言っておるのだ」
そう言われれば、下がるほかなかった。武士達は引き下がり、部屋では二人の老人が向かい合う。一人は、因心と名乗った不可思議な男。そしてもう一人は、天下人たる徳川家康。
「因心、とはな。また因果な名前を名乗ったもの。息災であったか」
「はい。大御所様……いや、某はやはり、こう呼ばせていただきましょう。徳川様」
「いくつになるぞ」
「今年、八十八に」
そう言って、老人はニヤリと笑った。家康はじっと、その老人の顔を見つめる。その顔色からは、何らの感情も読み取れない。
「何をしに参った。かつて信長様や太閤殿下にしたように、儂をからかいに来たか?」
「否。警告に参りました」
老人の言葉を聞いて、家康の眉が僅かに動く。
「警告とな。それはまた、異なことを言う。貴様が何故、儂に警告なぞする」
「乱世に飽きたからに御座る。生まれてこの方、世は乱れに乱れておりました。儂もそれに乗じて、好き放題した事もございます。しかし、飽きました。疲れたと言うても良い」
「それで?」
「徳川様は、いつ、豊家を討たれるおつもりです」
老人がそう言った瞬間、家康は刀を抜いていた。瞬きする間もなく、その切っ先が因心の額、その数寸先に突き付けられる。しかし、因心は平然としていた。
「滅多な事を言うものでは無いぞ。豊家を潰すつもりなど、儂にはない」
「それは、一つの真でありましょう。しかし、豊家は徳川様の下にある今を、良しとは致しておりますまい」
「貴様に何が分かる。奇術を弄ぶことは出来ても、国取りの策謀など持ち合わせてはおるまい」
「その通りにござる。しかし、そんな策謀を持ち合わせずとも、分かる事でございましょう。豊家はまだ、徳川様を家臣であると見ております」
「分からせる。最早豊家は天下の主足り得ぬとな。その上で、秀頼は生かす。命を奪うつもりはない。あれを殺さば、加藤や福島はうるさかろうて」
「そうでござるかな。加藤清正殿は先年亡くなられ、後を継いだ忠広殿は幼年。福島殿も、最早蔵に入れられた弓も同然ではありませぬか」
因心は滔々と述べ立てる。家康は、ゆっくりと刀を下ろした。
「貴様は、儂に豊家を潰せと言いに来たのか?」
「いえいえ。おしゃべりが過ぎましたな。儂が申したかったのは、いずれ徳川様が豊家を討たれるであろう、その時に万が一があってはならぬという事です」
「何が言いたい」
「徳川様、『村正』をお持ちでございますな?」
因心はそう言い、にやりと笑う。家康の表情は、変わらない。
「『村正』は、徳川家に祟る妖刀でございます。それをお伝えしたく」
「ほう? 儂は長年、『村正』を使うてきた。素晴らしい切れ味故な。業物と言うていい、良き刀よ。それが妖刀とな」
「徳川様は御存じないか。清康公は『村正』により斬られ、広忠公も『村正』により刺され、そして信康公の介錯に使われたのも『村正』でござる。まさに徳川に仇なす妖刀、それ程恐るべきものを持たれていては、いずれ徳川様もまた、『村正』が為に命を落とされますぞ。儂には見えるのです。赤い鎧を身にまとった騎馬武者が、『村正』の槍を振るい徳川様の首を刺し貫く様が。陣羽織には、六文銭の紋も見えまする。その災いから逃れる為には、まずは徳川様がお持ちの『村正』を、潰される事に御座います」
そう、因心はまくし立てた。家康は、黙ってそれを聞いていた。そして、不意に呵々と笑った。
「愚か者が。貴様が何の為に、そんな事を言うか知らぬが。全く、よりによって儂にその様な妄言を吐くか」
「妄言ですと。何を仰る」
そう言う因心に、家康は刀を再び向ける。
「まず一つ。我が祖父清康公が手に掛かった刀は、成程『村正』であったと儂も聞いておる。しかし、それは『村正』が桑名の刀工であったが故じゃ。桑名の名工が作りし刀を、三河者が持っていて何の不思議があろう。それだけの事じゃ。次に我が父の死は、『村正』によるものと言うていたな。確かにあまりに急な死であった故、その様に囁かれたのは儂も知っておる。しかし大久保の爺から、あれは急な病であったと聞いておるわ。今更真偽を確かめるすべはないが、風説と大久保の爺の言葉、どちらを信ずるかなど自明の事」
大久保の爺とは、大久保忠俊という武将の事である。清康、広忠に仕えた歴戦の兵で、若き頃の家康にとって頼もしい男の一人であった。
「そして三郎(信康)の死じゃ。天方が介錯に使うた刀が何かなど、儂は知らん。『村正』であっても不思議はあるまいが、しかしそれは呪いなどではない。儂と、三郎の過ちよ。儂は浜松にかかりきりで、岡崎の者達の不満に気が付けなかった。三郎は武辺に優れていたが粗忽者で、不平を持った者達に担ぎ上げられてしまった。儂が気付いた時には、どうしようもなかったのじゃ。儂を討ち三郎が徳川を継ぐ、それに武田が助力するという調略に、担ぎ上げられてしもうた。そこまで言ってしまえば、最早謀反よ。我が嫡男とはいえ、それを許す事はできなんだ。あれは『村正』の祟りなぞではない。当主たる儂の過ちよ」
「しかし、徳川様も『村正』の槍にて指を切ったと」
「あれは、ただ手が滑っただけの事じゃ。有楽は顔を真っ青にしておったがな。悪い事をしたものよ。そもそも儂は今まで戦場に出る事数十年、どれ程の傷を負ったと思うておる。指を切ったのが呪いのせいなら、儂はどれだけの刀工や鉄砲鍛冶どもに呪われておるのじゃ」
それに、と言って、家康は不敵に笑った。
「呪いなぞ、今更恐ろしゅうも無いわ。今まで儂の為に命を落とした者が、どれ程おる事か。寺を焼き、戦場で敵を斬り、必要とあらば妻子さえ手にかけたのじゃ。この身はとうに呪い尽くされておる。今更刀の呪い如き、何を恐れようぞ」
そう聞いて、因心はああ、と呟いた。そして、不意にはらはらと涙を流した。
「徳川様。ありがとうございます」
「何?」
家康が、初めて驚いた顔をした。因心は、深々と首を垂れると、そのまま姿を消した。家康は静かに立ち尽くしていたが、やがて刀を鞘に戻す。それ以来、因心と名乗る老人は、二度と姿を現す事は無かった。
深い、深い山の奥に設けられた祭壇の前で、一人の青年が座していた。彼は目を見開き、そして静かに涙を流す。その前には、一人の老人が立っていた。
「満足したか、青年よ」
「はい。……はっきりと、分かりました」
青年はそう言い、立ち上がる。
「我が祖は、紛れもなく素晴らしき刀工であったと」
「全く。いきなり儂の下に押しかけてきて、過去に飛ばしてくれなどとはな」
「貴方の実在を知り、いてもたってもいられなかったのです。……果心様」
そう言って、青年は跪き、首を垂れた。
「胸を張れます。我が祖、千子村正の刀は、妖刀などでは無かったと。天下人足る徳川家康公に信頼される程の、業物であったと」
「噂というものは、恐ろしい物よな。すぐに広まる。尾鰭が付き、止まらなくなる。……まあ、儂などはそれを分かって、楽しんでいた男ではあるがの」
そう言って、果心はひひひ、と笑った。
「しかし、初めてじゃな。あれこれと奇術を学び、妖術を極め、遂には数百年を生きる長寿を得たが、人に感謝されるとは」
青年は立ち上がり、もう一度深々と頭を下げると、踵を返す。その背に、果心が問うた。
「これから、どうするのじゃ」
青年は応える。
「千子の刀を、もう一度、現世に蘇らせたく思います」
「簡単ではあるまい」
「だから、やるのです。いずれ黄泉の国に参った時、村正に、そして徳川様に褒めて頂けるように」
そう言って、彼は去っていった。果心はまたひひひと笑って、その姿を空に溶かして消えた。
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